柳井さんが「一勝九敗」で商売における運というものの大きさを的確に理解していることや、ナシーム・タレブの「まぐれ」や「ブラック・スワン」での運の論議(彼にかかれば大抵の経営者は運が良いだけであり、かつそれを実力と勘違いしている人たちである)を念頭に置き、また僕自身の分析から出た
「2005年末の時点で成功していたブティック運用会社に共通する、小型株に投資していたという「運」の要素、そしてそれが運であることを十分認識せず運用者・経営者は慢心している傾向がある」という結論などから、
「大抵の成功者は運で成功しているのにそれを実力と勘違いしている」
という論議をある人にしてみた。
上記のような整理がちゃんとできていたわけではないので真意はどこまで伝わったかな、と思うが、その人の反論がなかなか良かった。「柳井さんが成功したのを見て垂直的製販一体化に乗り出すこと自体はマネジメントの結果であり、運に任せたということではないのではないか」ということだった。この、極めて常識的ながら強力な反論を受け、僕も「信念とか好みではなく相場観として小型株投資を2002-3年頃から始めた人はマネジメントにより成功したといえよう」という趣旨の答えをしたように思う。
たしかに、すべてが運と言い切ってしまうと努力あるいは作為あるいはマネジメントというものはすべて無駄ということになってしまうからおかしな話になる。かといってすべてがこれら運以外の要素というのも少々引っかかる。
そこでフト考えたこと。ここでの運と努力の関係はたとえて言えば美術とか音楽とかの世界などにおいてみればわかりやすいかもしれない、と思う。
①才能×努力で見出される「基礎」が出来上がる、あるいは存在する。
②飛びぬけた才能×努力が見出されることもあろうが、多くの場合は、多数の同等に優れたものたちの中から運と人脈で有名になるものが出現、名声を博し収入を得る。
③その名声を維持・向上させることには明白にマネジメントがかかわる。
じゃあ③までは作為・マネジメントはないか、といえばそんなことはなく、才能×努力の、努力の方向を決めるに当たり作為というかマネジメントは重要である。さらに、②の見出される確率を高めるのもマネジメントである。
だからマネジメントはすべてにかかわるのではある。ここまでは大げさにいうこともない常識的な話だろう。
しかし問題は、すべての尊敬すべき才能×努力が世に見出されるわけではない、あるいは成功するわけではない、ということから生じる。そのうちのわずかが名誉を、あるいはお金を稼ぐことにつながり、あとで見ると尊敬すべき才能と努力があったから、という誤った認識が生まれる。多数の、無名に終わった、同じぐらい優れた才能×努力は忘却の彼方である。才能×努力は成功の必要条件だが充分条件ではない。
あるいは、上記に挙げた美術や音楽のような、大変な才能×努力が必要条件として求められる世界ではない場合はもっとひどいことになる。たとえば芸能人とか、もしかしたらサラリーマンの出世などがこれにあたるかもしれない。その場合は、「成功」という結果から、優れた才能×努力という「原因」が捏造される、というひどいことに成っているきらいがある。
と、こんなことになっちゃうから懐疑主義者の僕としては運の要素を強調したかったのかな。とりあえずはこんなところで(笑)。
「2005年末の時点で成功していたブティック運用会社に共通する、小型株に投資していたという「運」の要素、そしてそれが運であることを十分認識せず運用者・経営者は慢心している傾向がある」という結論などから、
「大抵の成功者は運で成功しているのにそれを実力と勘違いしている」
という論議をある人にしてみた。
上記のような整理がちゃんとできていたわけではないので真意はどこまで伝わったかな、と思うが、その人の反論がなかなか良かった。「柳井さんが成功したのを見て垂直的製販一体化に乗り出すこと自体はマネジメントの結果であり、運に任せたということではないのではないか」ということだった。この、極めて常識的ながら強力な反論を受け、僕も「信念とか好みではなく相場観として小型株投資を2002-3年頃から始めた人はマネジメントにより成功したといえよう」という趣旨の答えをしたように思う。
たしかに、すべてが運と言い切ってしまうと努力あるいは作為あるいはマネジメントというものはすべて無駄ということになってしまうからおかしな話になる。かといってすべてがこれら運以外の要素というのも少々引っかかる。
そこでフト考えたこと。ここでの運と努力の関係はたとえて言えば美術とか音楽とかの世界などにおいてみればわかりやすいかもしれない、と思う。
①才能×努力で見出される「基礎」が出来上がる、あるいは存在する。
②飛びぬけた才能×努力が見出されることもあろうが、多くの場合は、多数の同等に優れたものたちの中から運と人脈で有名になるものが出現、名声を博し収入を得る。
③その名声を維持・向上させることには明白にマネジメントがかかわる。
じゃあ③までは作為・マネジメントはないか、といえばそんなことはなく、才能×努力の、努力の方向を決めるに当たり作為というかマネジメントは重要である。さらに、②の見出される確率を高めるのもマネジメントである。
だからマネジメントはすべてにかかわるのではある。ここまでは大げさにいうこともない常識的な話だろう。
しかし問題は、すべての尊敬すべき才能×努力が世に見出されるわけではない、あるいは成功するわけではない、ということから生じる。そのうちのわずかが名誉を、あるいはお金を稼ぐことにつながり、あとで見ると尊敬すべき才能と努力があったから、という誤った認識が生まれる。多数の、無名に終わった、同じぐらい優れた才能×努力は忘却の彼方である。才能×努力は成功の必要条件だが充分条件ではない。
あるいは、上記に挙げた美術や音楽のような、大変な才能×努力が必要条件として求められる世界ではない場合はもっとひどいことになる。たとえば芸能人とか、もしかしたらサラリーマンの出世などがこれにあたるかもしれない。その場合は、「成功」という結果から、優れた才能×努力という「原因」が捏造される、というひどいことに成っているきらいがある。
と、こんなことになっちゃうから懐疑主義者の僕としては運の要素を強調したかったのかな。とりあえずはこんなところで(笑)。