御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

運と努力 (or 作為 or マネジメント)

2009-08-23 21:16:45 | 時評・論評
柳井さんが「一勝九敗」で商売における運というものの大きさを的確に理解していることや、ナシーム・タレブの「まぐれ」や「ブラック・スワン」での運の論議(彼にかかれば大抵の経営者は運が良いだけであり、かつそれを実力と勘違いしている人たちである)を念頭に置き、また僕自身の分析から出た
「2005年末の時点で成功していたブティック運用会社に共通する、小型株に投資していたという「運」の要素、そしてそれが運であることを十分認識せず運用者・経営者は慢心している傾向がある」という結論などから、

「大抵の成功者は運で成功しているのにそれを実力と勘違いしている」

という論議をある人にしてみた。

上記のような整理がちゃんとできていたわけではないので真意はどこまで伝わったかな、と思うが、その人の反論がなかなか良かった。「柳井さんが成功したのを見て垂直的製販一体化に乗り出すこと自体はマネジメントの結果であり、運に任せたということではないのではないか」ということだった。この、極めて常識的ながら強力な反論を受け、僕も「信念とか好みではなく相場観として小型株投資を2002-3年頃から始めた人はマネジメントにより成功したといえよう」という趣旨の答えをしたように思う。

たしかに、すべてが運と言い切ってしまうと努力あるいは作為あるいはマネジメントというものはすべて無駄ということになってしまうからおかしな話になる。かといってすべてがこれら運以外の要素というのも少々引っかかる。

そこでフト考えたこと。ここでの運と努力の関係はたとえて言えば美術とか音楽とかの世界などにおいてみればわかりやすいかもしれない、と思う。
①才能×努力で見出される「基礎」が出来上がる、あるいは存在する。
②飛びぬけた才能×努力が見出されることもあろうが、多くの場合は、多数の同等に優れたものたちの中から運と人脈で有名になるものが出現、名声を博し収入を得る。
③その名声を維持・向上させることには明白にマネジメントがかかわる。

じゃあ③までは作為・マネジメントはないか、といえばそんなことはなく、才能×努力の、努力の方向を決めるに当たり作為というかマネジメントは重要である。さらに、②の見出される確率を高めるのもマネジメントである。

だからマネジメントはすべてにかかわるのではある。ここまでは大げさにいうこともない常識的な話だろう。

しかし問題は、すべての尊敬すべき才能×努力が世に見出されるわけではない、あるいは成功するわけではない、ということから生じる。そのうちのわずかが名誉を、あるいはお金を稼ぐことにつながり、あとで見ると尊敬すべき才能と努力があったから、という誤った認識が生まれる。多数の、無名に終わった、同じぐらい優れた才能×努力は忘却の彼方である。才能×努力は成功の必要条件だが充分条件ではない。
あるいは、上記に挙げた美術や音楽のような、大変な才能×努力が必要条件として求められる世界ではない場合はもっとひどいことになる。たとえば芸能人とか、もしかしたらサラリーマンの出世などがこれにあたるかもしれない。その場合は、「成功」という結果から、優れた才能×努力という「原因」が捏造される、というひどいことに成っているきらいがある。

と、こんなことになっちゃうから懐疑主義者の僕としては運の要素を強調したかったのかな。とりあえずはこんなところで(笑)。

「オウムと「宗教の復讐」」 野田宣雄

2009-08-16 21:58:50 | 書評
文芸春秋編「オウム事件」をどう読むか、に収められた一遍。買った当時は読んでいなかった。最近ひょいと眺めたらなかなか面白かったので要旨を書いておく(小見出しは小生付加)。

(全共闘とオウムの類似と相違)
>オウムは多くの高学歴者を巻き込んだ反体制運動という点で1960年代末の全共闘の運動に似てはいる。
>しかし同じ反体制であっても、オウムは左翼的ではない
>オウムでは大学はあくまで手段を手に入れるところであり、その手段を役立てる目的・価値は大学とは最も遠いところにあった。一方で全共闘運動は大学のあり方自体を気にしていて、大学という舞台から離れては成り立たない運動であった。

(終末史観の一種としての、エネルギーのはけ口としての マルクス主義)
>いつの時代にも若い世代の過激なエネルギーの捌け口となってゆくのは、何らかの形で終末論的な思考構造を秘めた運動である。
>ユダヤ・キリスト教的な終末史観は中世以来たびたび現れて人々の熱狂を誘い弾圧を受けてきた(あるいは終末が実際にはおきないことで衰退した)。
>これらは近代に入り「進歩史観」として生き延びた。自由の普遍化を以って歴史は終末に到達する、というヘーゲルが代表。そのヘーゲルの衣鉢を継いだマルクス主義にも終末史観は刻印されている。
>だから、つまり終末史観を含んでいたからこそ、マルクス主義は大学であんなにはびこり、若い世代のエネルギーに捌け口を与えた。

(終末史観の空白と価値の真空の中で・・)
>しかしベルリンの壁が崩壊し中国も市場経済に移行する中、マルクス主義は明らかに破綻した。これにより日本の熱狂型の若者を支えてきたマルクス主義的終末論は力を失った。ここに終末論的イデオロギーの空白が生じた。
>さらに、学問の細分化で大学は価値とは無縁なデータベースと化していた。価値真空地帯である。
>そうした中、エネルギーのある若者が宗教的終末論に惹かれること、あるいは価値への飢餓感を持つまともな学生が宗教に進もうとすること、はある程度当然であり、オウムもそうした中で影響力を発揮しやすかった。

以上が前半の趣旨。後半は略。
「なぜ優秀な学生がオウムに」という問いには、当時は「学歴エリートは却ってひ弱で洗脳されやすい」といった答ばかりだったような気がするが、上の説明は随分まともである。

「金のゆりかご」 北川歩実

2009-08-16 21:39:28 | 書評
1998年の出版だが最近本屋の店員さんの推奨で人気になったというので買った。
率直に言って僕には時間の無駄だった。仕掛けはそれなりに面白く、視点の違いから来るどんでん返しもパタパタとでてきて、とりわけ後半は「詰め」が進む中での「パタパタ」が面白い。
しかし、能力と生きる資格の問題だとか、なぜ英才教育を受けた主人公がいま凡才なのかだとかといったことへの考察・説明が少ない。主人公は高校生のときに子供を作っているわけだが、それで変化したはずの人生へのこだわりがなさ過ぎる。ともかくあれこれが軽い。
その一方で英才教育をしてきた教授が脳手術で記憶と意志をなくしている、しかし生命はあるので遺産相続の問題が発生してこれがストーリー上の重要なポイントとなっている。あるいは双子のうちの1人の心臓が先天的に致命的に悪いという、物語の都合上良いが実際には眉唾の設定がある。
要は軽々とまた無機質に好都合に仕掛けがばら撒かれてそれがかなり機械的に回収され整合されて行く。些か安手のサスペンスドラマを見ている感覚はまぬかれない。

「終の住拠」 磯崎健一郎

2009-08-16 21:10:31 | 書評
今回の芥川賞。率直に言って良くわからない。

なぜかよくわからぬが結婚した二人、あるときから11年間妻と口を聞かない日々、その間の8人を越える女たちとの関係、サングラスの女、黒いストッキングの女たちとの不可解な交際の始まり方とその持続、異様に長身の老建築家、子供への興味、取引先の係長との腕相撲とその結末、米国の買収相手社長とのこれも奇妙なやり取り、担当役員からの啓示的な、しかし全く具体的でない手紙、いつも満月の月、全編を覆う、淡々としていて不可解な、人生の不条理そのものの体現者であるような妻。などなど断片の印象はごつごつと残る。

しっかし、だからどうしたというのだ。いろんなことを経て終の住拠、終のパートナーの元にかえってきたと言うことか?それがどうしたのだろう。断片断片は啓示に満ちた感じがするが、それを塗りたくっても今ひとつ全体の印象が残らない。ぬいぐるみに2つの硝子球を入れれば目、と認識されるが、たとえば空き缶に2-30個硝子球が入っていたところで何ということはない。そんな風な印象的断片の使い方だ。現代芸術風に、小説を「脱神秘」化させるためにこう言うことをしているのであればその狙いはある程度成功しているかもしれない。しかし、この小説以降であってもしかるべき文脈におかれればしかるべき断片は適切に輝くのであり、「脱神秘」は一人相撲に過ぎない。

今のところはこんな感じ。何かのきっかけでこの小説に何か今の自分が汲み取れていない深さがある、と確信できればもっと読み込みようもあるが、そういう契機がない限りはもう読むことはなかろう。

「ニ・ニ六事件」高橋正衛

2009-08-02 23:31:07 | 書評
手軽な新書なのに今ひとつ理解していないというか付き合いきれていない。が、イデオロギー色の少ない本書のお陰で割と客観的姿が捉えられたと思う。

2・26の連中には、決起したのは「維新」であって反逆・革命ではないという論理というか心情があったことはよくわかるね。で、そういう心情の中で天皇あるいは天皇の「真意」なるものが徒に神聖化・抽象化され、結局我田引水に用いられている。最近の「100年に一度」というやつを別のところで批判したが、やはり、何かありそうな含みの多い言葉というのは危険だねぇ。「昭和維新」のご聖断を仰いで皇軍相撃を避けようなどと戒厳令司令官が言っていたりしてね。アホか、とおもうなあ。ま、このころは時代丸ごとの仕掛けだから仕方がないかもしれないが。

しっかし、反乱側も鎮圧側も皇軍相撃を避けたい、などというとぼけたことを言っている。軍を率いて反乱した側に戦う覚悟がなかったのはどういうことか? 敢えて立った心情が理解されるはずということだったみたいだがどういうことなんだろう。そんな程度の覚悟で軍を私するということを思っていたのか? 僕は学生運動の甘えた心情が大嫌いだが、2・26の連中にもそんな心情があるみたいで残念だね。日本の伝統なんだろうな。
ともかく、戦いを起こしておいて戦いを避けたいなんて言う軍人はアホだ。非武装の大臣を初め文官を虐殺しておいて、軍人同士だとためらうってのは話にならない腰抜けだ。それをすぐに鎮圧しない側はもっと腰抜けだ。

そういう中でまともなのは、石原莞爾を初めとした若手軍人であり、また天皇であった。「本庄日記」によると、山下から反乱軍への勅使の要請があった際
・・陛下に伝奏せし処、陛下には非常なる御不満にて、自殺するならば勝手に為すべく、かくのごときものに勅使など以ての外なりと仰せられ、又師団長が積極的に能はずとするは(積極的に行動にでないのは)自らの責任を解せざるものなりと、未だもって拝せざる御気色にて厳責あらせられ、直ちに鎮定すべく厳達せよと厳命を蒙る。

とおっしゃったそうな。当たり前だよね。

やっぱりこれは、精神的に引きこもりの軍人どもが醗酵あるいは煮詰まりすぎた考えから起したとんでもないことだったんだなあと思う。同志の内部でも決起に驚いたむきもあるようだし、石原や天皇の言い分、海軍の素早い対応(翌日には東京湾に軍隊がずらりと並び艦砲が反乱軍に照準を合わせた)が本来だろう。

革命をするのに革命らしき衝突をする覚悟もなく弱い文官のみを虐殺したような連中の話は、やっぱりかけらでも美化しちゃあいかんよね。感ずるものはあるだろうしそうした中での文学的美しさもあったろう。しっかしそれはマルキド・サドの「美しさ」とかそういったものと同等であって、美学部分があったからといって是認される話じゃあない。美は美として感じてよいが正邪の決断はまったく別の話だ。

「贖罪」 湊かなえ

2009-08-02 23:05:31 | 書評
うーん、これは。ちょっと書くピッチが早すぎたのか。「告白」や「少女」の面白さはないなあ。「告白」も「少女」も、それぞれの独白・告白で明らかになってゆく事態の展開・推理の妙味の一方で、感心させられる考え方や感じかたがその中に含まれており、それが色彩として非常に面白かった。

じゃあ今回はないかというとそういうわけではない。東京から来た同級生の少女の死に立ちあった4人の少女のそれぞれが独自の歪みを抱えており、それが同級生の母親に脅されて、というかやり場のない怒りをぶつけられて、それぞれの歪みがそれぞれに「発達」してゆく。それはそれで興味深い。しかしいかんせん書き込みが十分出来ておらず、歪みのすごさなり実感なりが染み渡らない。もう少し長めにしても良かったのではと思う。

上述の東京から来た少女の死に加え、4人の少女が長ずるにつれそれぞれ事件(と死んだ少女の母親からの脅迫的対応)の傷跡のお陰で人を殺してしまう。それらが絡んでくるから、東京から来た少女の死の真相、それと密接に絡む少女の母親と少女の真の父親との関係などの複雑な謎解きというメインストーリーがややかすんでくる。5人ひとが死んでそれがそれぞれの複雑な歪みと事情の結果であるのだから、おそらくもう少し長く、あるいは2倍ぐらいまでしっかり書いてちょうどよかったのではなかろうか。そうすればドストエフスキーだとか桐野夏生クラスに仕上がったかなあと思う。

骨格はいいのでちょっと残念だったな。

で、思い立って桐野の「グロテスク」チラッと見たが、いやこれはすごい。とくに和恵が娼婦に身をつやし、その中でも更に更に堕ちてゆくところ、本人の心理描写も含めすごいなあ、と思った。

「しあわせと 勘違いしそう に青い空」冨士本由紀

2009-08-02 22:33:10 | 書評
なんとも詩的な題名に惹かれて買った。中身は何と47歳のダメ男の物語。最初っからダメだったわけではなく元は大手建設会社の嘱望される若手であった。それがいつも通うスナックにピンチヒッターに出ていた逸子と知り合い一緒に暮らすようになる。そこまでは良かったが、その後良い縁談が入ってもオーストラリア行きの出世話が入っても逸子がなにやらいとおしく断ってしまい、挙げくにきっぱり会社をやめてしまう。
それからはパチプロとして生計を立ててゆくが、30歳の冬に逸子とは京都で喧嘩別れしてしまう。

ということが若いころにはあったが、今では91歳の老人が経営する、耄碌した老人しかいない警備会社(これがすさまじくまたこっけい)に務めるのがやっとの、関節リュウマチをわずらうしょぼくれた男。でも魅力があるのか、都詩という元ヤンキーの23才の恋人がいる。その恋人と結婚する方向に(しかも都詩のほうの押しで)話は進んでいくか、その一方で都詩の母親にも惚れられ、だらしのない彼はそれにも応じる。更に、前に別れた逸子が入院した病院から連絡が入り、見舞いに行ってよりを戻してしまう。

もてまくってんだかだらしないんだか、その両方が絡み合って進む。惨めな経済・仕事・健康の状態も、妙に醒めたまたユーモラスな状況観察や自己観察のお陰で、大変なんだか面白いんだかよくわからくなる。

母親との情交を都詩に見られ都詩を子供のように悲しませてしまう。それで家をでてゆくことになる。そのときに都詩が愛憎のありったけをぶつける。そのせりふの切実さとかわいらしさ、また男の醒めたようで情のこもった内心の声はとても良く、思わず涙しそうであった。

最後は、途中から出てきたアイドルの兄貴、それが通うライブハウスのオヤジなどが絡み、主人公が川に落ちて死にかけるところをきっかけに丸く収まってゆく。でも都詩のことは知らないそうな。
「都詩? 都詩のことは知らない。まだ充分に若く、魅力的で、いくらだって幸せになれるだろうということしか、知らない。」
なんだってさ。

ダメ男ってのもいいな、と思う。ちょっとインテリでまあまあ女性にもてるダメ男、ってのは理想だなあ。ま、ファイアベントぐらいの永遠のインテリキッドのほうがもちろんいいけどね。