御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

「うそつき病」がはびこるアメリカ David Callam

2006-08-28 12:44:10 | 書評
The Cheating Culsture が原題。前書きの日付は2003年7月、翻訳は2004年8月。
面白くまた重い本であった。インターネット株騒動の詐欺まがい推奨で巨万の富を得たアナリスト、エンロンやワールドコムの粉飾、ボウスキーなどの復活、でっち上げ記事で潤う記者、不正薬物に手を染めるスポーツ選手など。Winners Take Allのルールが強まる中で勝者と敗者の報酬がケタ違いに大きく、その一方で悪事を為した人間が十分に罰せられていないことは、一般の人にまさに悪事を働けと言わんがばかりのメッセージを送っているのであり、実際不正もふえている、というのが著者の指摘として要約できよう。そうした軽い悪事が高校生などにも影響を露骨に与えているのは恐ろしいとはいえ当然のことだ。学校は社会的価値観の縮図を反映する。
社会の設計が大きく間違っているのだろう。「機会均等・結果不平等」な社会ならまだしも、「正直者が馬鹿を見る」のではどうしようもない。それに、著者はそちらの方への触れ方はすくなめだったが、「機会不均等、結果差別的」世界でもある。日本も例外ではない。自由競争には厳格なルールが必要であり、アンパイアがしっかりしていなくてはプレーヤーはどんなことでもやりかねなくなる。

結局はアンパイアだな。事前の機会を均等化するため、相続税は圧倒的に大きくし、その一方で貧困層への学習援助を高める。学校も整備する。 その上で社会では不正に厳罰で臨む。それでこそ能力あるもの・努力したものが報われるという感覚を共有することができよう。なお、そのためには政治的過程にカネが物をいう度合いを極力減らす必要はある。
僕が10年ぐらい前に思っていたことは実はその先であった。上記の世界が実現しても頭の悪い子はのし上がれない。だから差がついていいか、というとそうではない。人間としての価値を尊重すれば、頭の悪い子にもプライドを持って生きる権利はある。であるから、ビジネスエリート以外の多様な価値観があることを示す必要がある。大平光代さんとか浅田次郎さんのような話は勇気付けられる面はあるが所詮かれらは「異界」からセレブに戻ってきた人である。セレブならぬ多様な「居場所」、町の酒屋さん、総菜屋さん、金物屋さんなどがいた時代を別の形で取り戻さなければなるまい。
とはいえ、10年で足元が崩れてしまった。ここから以前より良い土台を作り直さねばなるまい。

中村屋のボース

2006-08-19 17:59:22 | 書評
チャンドラ・ボースというのは知っていたが、この物語の主人公、ラッシュ・ベハリ・ボースというのはしらなかった。日本に寄り沿いつつインド独立の目的を果たそうとし、日本に客死した闘士の物語。
あのころの日本というのは、対華21か条ののちであっても、アジアのリーダーでありアンチ西洋近代の思想的・実態的中心となり得たんだなあ、そうボースや孫文からも期待はあったんだなあ、と認識。でも、著者の言うとおり頭山満などの右翼大立者たちは心情が前面に出てしまい論理・思想・戦略に欠けていた。本当に残念なことである。今ひとつの「スピン」があればうまくめぐったのかもしれない、と思う。
もうひとつ。あとがきを見て著者の若さに驚いた。「私の二〇代は、この本を書くためにあったといっても過言ではない。」なんたる達成感、何たる充実!新たな論客の出現である。その才能と幸運には嫉妬を禁じえなかった。

「心理テストはウソでした」村上宣寛

2006-08-19 17:44:30 | 書評
あらら、やっぱりそうだったの?って感じかなあ。血液型を初めとしてロールシャッハ、矢田部ギルフォード、内田クレペリン、みんなウソでした、ってことですね。
自分にとっては、知能テストも含め、そこで聞かれていること以外のなにものかを測ると称するテストってのは胡散臭さがいつもつきまとっていた。国語や算数のテストは当該科目の能力(というかそこまでの必要履修状況の達成度)を表し、まあストレートなものである。それに比べて知能テストは、確かにパターン認識などの巧拙が反映しそうなテストだけど、「パターン認識の巧拙」と言わず「知能」を測っている、と言われてムッとしつつ釈然とせぬままトシをとった。性格検査になると更にわけがわからない。普通の面接ではわからん何かを検出すると言うのか。

とまあ、目くじらたてても仕方がない。ホーガンのいう「皮肉な科学」というのはこんなものだし、誰かがウソでもいいから壮大な伽藍を作ってくれればそれをめぐって虚妄の、あるいは誠実な論議が起きる。目的がはっきりしない状況下では人々は好きなように論を展開する権利がある、とまあ達観して言ってもいいだろう。もちろん何らかの目的がある人は巻き込まれぬよう用心はせねばなるまいが。暇つぶしと虚名の維持のため論を張る人と、頭が悪くてそれを本気で信じてる人をうまくかわす必要はある。大変そうだが、論証を求めたら大体その対応でわかるというものだから、それほど難しいわけではない。

ふむ。僕も闘士だったのだけど。上も下も等しく論難し、死体にさえ鞭を打つ、とまで言われた激高の士だったのだが。悲しいね。さびしいね。