御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

「桐島、部活やめるってよ」 朝井リョウ

2010-03-14 18:50:44 | 書評
大学生の作品は綿貫リサ以来。綿貫はたいしたことはなかったがこれはなかなかいい話。率直に言って感動した。桐島というバレー部のキャプテンにしてリベロが退部した・することを軽い・浅いキーとしてさまざまな17歳の思いと行動が交錯する。多少ベタな青春ものといっていいかもしれないが、決して青春とか若さに逃げるのではなく、いまや世の中の縮図のようになっている高校の中で、小学生や中学生よりも成熟した自分をもてあまし、またそのような周囲にもまれつつ、よりよき生を求めてもがく人たちの真摯な記録である。

いろいろな17歳の人生が交錯するが、メインテーマ的な部分をまとめると以下のとおり。
かっこいい・かわいい男女とダサい人々がはっきりと分かれてくる高校時代。かっこいい・かわいい連中は自然に仲間を作り、もっとも自然に教室を・グランドを闊歩する。勝組である。一方でダサい側は連帯さえままならずいじけた風に肩身狭く生きてゆく。運動神経が悪いゆえの、あるいは外見・着こなしがダサいがゆえの屈辱も多い。
しかし、かっこいいだのダサいだのは関係ないのだ。問題は本気で物事に取り組んで充足した生き方をしているかどうかなのだ。そうした連中にとっては、たとえ負組であろうと、そのおかげでどのような屈辱を学校で受けようと、そんなことがどうでも良くなるような世界が開けているのだ。そいつらはそういうことに取り組んでいるとき「ひかり」を放つ。
強者である菊池宏樹はそのことに気がついた。ダサい映画部の前田涼也と武文などが放つ「ひかり」に照らされて、そのことに決定的に気がつく。自分の彼女が映画部をあしざまに言ったときに感じたいらだち、ブラバンがカラオケ店にまで道具を持ち込んで練習しようとしたことを聞いたときの苛立ちもすべて同じことだった。すべてを悟った彼は、これまで重い練習道具を持ってきながら、いつもサボっていた野球部の練習に向かう。前田たちのひかりを背に浴びながら。


まあいまどきの高校生は大変だなあ、と思ったけど、まあこれは世の縮図だね。外見とかセンスとか話法などのような話が大事というのは社会人では当たり前のことだ。そういう中で社会性を過度に気にせず、また率直に言えば収入にもこだわらず何事かを全うするのは難しいなあ。自分は無骨に生きてきたつもりだし、若いころの仕事はほんとに本気にやってたけど、最近は何事かに本気で取り組むことができていないのは認めざるを得んよね。なかなかこれというものがない、ってことでもあるんだが。僕の場合はもう日が暮れそうだが、どこかでひかりをもう一度放ってみたいなあ、とは思うね。


思想と瞑想における「型」というもの

2010-03-07 20:45:51 | 書評
昔から自分の傾向として直情に走りがちであり、その直情をもたらす自分の根にある何ものかが本当の自分だと思ってきた。だから直情を抑えるのは社会生活上の必要からやむを得ずするにせよそれは自分に対する裏切りであり妥協であると思ってきた気配がある。

で、実はこの「直情」は「神」でもよいし「イデア」でもよいのだ。なにやらそれにしたがって突っ走ればそれでよし、というものを求めてきた気がする。しかし、幸か不幸か自分の直情を除けば信ずべきもの、それにさえ沿えばよい何ものか、を決めるのにはとても慎重にすごしてきた。学生時代もサラリーマン生活も、直情を交えつつそこそこのポジションは確保する、という案外ふやけたすごし方をしてきたわけだ。というのは、そうした「よりどころ」あるいは「よりどころを唱える人」の「本物性」を吟味せずにはとても身を預ける気にはなれないし、吟味を繰り返すほど懐疑の方法はひどく鋭さを増してくる。なんだか思わぬうちに「積極的懐疑」が自分のポジションになってしまった。いまやよほどのものを持ってこられない限り吟味さえしようという気になるまい。
という軟弱な思想遍歴は、実はモダンからポストモダンへの動きとパラレルだということらしい。とすれば、まあ調べたり考えたりすれば当然着地するところへと自分もようやくたどり着いたということのようだ。いや、ちょっと早かったかなあ。自分の専門分野も同じ眼で見るから、やる気がおきにくいのにははなはだ困っている(笑)。

さてと、さらにここに付け加えたいのは、瞑想の型の話。いままで瞑想とか集中とか言うといわゆる「止」=「サマタ」の方しか知らなかった。これは、ずいぶん乱暴な言い方になるが、実は「イデア」型の思想に対応する瞑想法である。特定の何かに集中する、気が散ったら必ず戻す。 これに対して「観」=「ヴィバッサーナ」の方は今生じている感覚や思念・感情をすべて認識し、それによってそれらの「局外」に自分を置く。すべてに優越する何者をも認めない、きわめてポストモダン的でプラグマティックな瞑想ではなかろうか。また「観」はNLPとも大きく相通じるものがあるような気がする。


「日本力」松岡正剛、エバレットブラウン

2010-03-07 20:34:07 | 書評
松岡さんのウェブ「千夜千冊」にはずいぶんお世話になっているので買ってみた。が、ちょっとがっかりだなあ。こういう対談のせいかもしれないが、どっかの週刊誌でしばしば眼にしそうな俗論の類ばかりじゃなかろうか、こりゃ。
対談相手のブラウン氏が日本の教育は「○×ばかりやっていて本当に考えることを教えていない」といったら「そう、そう、それ、それ。」と応じてその後その線で話が進んでゆく。もちろんそういう批判には一理ある。ブラウン氏の言うように「日本の教育は本当の教育ではなくて、ただの訓練としか呼べないようなものが占めている割合が大きいんです」というのはまあそのとおりだろう。しかし、その反省から訓練を減らしたらどういうことがおきた? 結局は百枡計算だとか素読だとかの重要さ、つまり訓練の重要さが際立ってそっちに回帰したというわけだ。おそらく訓練が多くを占めるというのは恥ずべきことではけっしてない。 
というようなことはここ10年以上の教育論議を普通に聞いていれば当然意識に上ることであって、そうしたことへの配慮や反論もなく論議を進めてしまってはどうしょうもない。こういう章が冒頭に来たのは不幸な話で、その後の話もどうせ浮世離れした人たちのたわごととしか読めなかったね。ほんとはそうじゃあないんじゃないかと思いつつも。
あんまり読者をなめちゃだめだよ、松岡さん、ブラウンさん。

「テレビ局の裏側」中川勇樹

2010-03-07 17:47:16 | 書評
現場のディレクターがテレビ現場の悲惨な現状を語った本。高名な今野勉氏の本と違い世間常識とのずれがなく自己弁護がない分すがすがしい本である。内容はよく言われている話を確認したに過ぎない点も多いが、当事者が言うとなかなか迫力がある。中川氏の今後につきサラリーマンとしては多少心配してしまう。下手に干されるようなことがなければよいのだが。
一点発見だったのは、報道番組向けの取材には大変手間がかかるということ。新聞を読み上げるなんともサボったやり方はその典型だが、ほかにも取材フィルムではなくパネルで司会者に説明させるのも節約だそうだ。
ま、テレビ局はもう終わるなあ。電波利権との絡みがあって死ぬまでには時間がかかろうが、方向は見えたなあ、と思う。

「市場主義のたそがれ」根井雅弘

2010-03-07 17:04:17 | 書評
市場主義の盛衰をフリードマンを中心とした学者の動向・論説を追いつつまとめた本である。新書だが学者さんの本のせいかいささか良心的でその分ずばりとまとめにくい(非難しているわけではない。むしろ褒めている)。が、あえてまとめるといかのとおり。
>1960年代を最盛期として75年ぐらいまで、サムエルソンを中心とする新古典派総合の全盛期であった。フリードマンのマネタリズムはシカゴ近辺で影響力を持つに過ぎなかった。
>フリードマンも最初からマネタリズムだったわけではなく、1963年に完成した米国の長期景気循環に関する研究からマネーの重要性を意識するようになった。
>マネタリストとケインジアンの違いは論争というほど基礎的認識が違うわけではなく、単にLM曲線の位置・局面の認識に過ぎない。
>にもかかわらずマネタリストがマネーを重視し、ケインジアンが重視しないかのごとく認識されたのはフリードマンのレトリックに負うところが大きい。

>1970年代から流れは変わり始めた。インフレ、ベトナム戦争、財政赤字などから「政府の失敗」が「市場の失敗」よりも問題視されるようになった。要は世の右傾化である。その後の社会主義の崩壊もあり、市場主義はより輝かしく正しく見えるものとなった。
>そうした中では、アメリカの偉大な時代も政府の介入の強い修正資本主義のもとで行われていたことは忘れられていった。

などなど。きっちりした本なのでまたこういう論議をするときがあれば引っ張り出すかもしれない。とはいっても、経済学者を含めいまどきの経済論議はほんとに雑だからねえ、こんなレベルにはとてもじゃないけど話を持ってゆけんね。今朝の読売で竹森俊平が米国の医療保険の事かいてたけどああいうのがいまどきの雑な論議の典型。そういう雑な連中に細かいこと言っても聞きゃ足ないんだからねえ。「リーマンショックが市場主義の結末ってことだろ」とでも言って黙らせるのが一番かな。あーあ、大味な世の中で。おかげでこっちも大味になっちゃうぜい。