御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

「時間はどこで生まれるのか」橋本淳一郎

2006-12-31 11:57:43 | 書評
時間論は10年ぐらいまで僕の主要テーマのひとつで、20才頃から関連図書をいろいろと読み漁り、ファインマンの物理の教科書まで買ったりした。どうしてまたそんな興味を持ち始めたかというと、たしか大学時代の先輩に「時間はなぜ逆転しないか」という「サイエンス」にのった論文のコピーをもらってえらく面白く感じたからである。といっても興味が長く続いたのにはわけがあろう。時間への興味は科学哲学への興味と並行していたような気がするので、おそらくそうした科学的な認識の枠組みをしっかり抑えておきたいと思ったからである。じゃあ科学的認識の枠組みはなぜ押さえておきかったかといえば、大げさにいって「生きる意味」を科学的認識から得たいと思っていた。時間論はその関係からいえば自由意志対決定論の問題とも大きく関係する重要な部分である。

とまあえらく大きな課題を背負っていた時間への興味だが、時間とは「認識の形式」のひとつという事に思い当たったところで一旦やむ。時間は生命に先験的に組み込まれている認識の形のひとつであるということ、それは実在するかしないかの問題ではなく、そう認識するかどうかという問題であること、にもかかわらず生命(人間)にとっては匂いや色や温度のように「実在」するものであること、などなどがようやくわかった。なんのことはない、カントの「物自体」の不可知論と「認識の形式」の発想にたどり着いたわけだ。ほんとをいえばマッハの「感覚の分析」あたりで気がつくべき話なんだろう。
ともあれ一旦落ち着いた。振り返って見ると同時期に科学哲学の方も興味を薄れさせているように思う。僕にとっての「認識の形式」、つまりこの世の中であり自分の生き方でありをどう見て認識して、更には行動すべきか、というおおきな問題が一旦片付いたということだろう。もちろん解決したわけではないが、この世に生きるということをあまり重く捉えすぎてもしかたがないことにようやく気がついたってことだろうな。

そんなわけでご無沙汰していた時間論を久々に手にとった。実はこれが非常に面白かった。時間が認識の形式という基本的な考え方は変わらなかったが(というか著者もそういう考えだ)、時間がマクロ的現象、人間的尺度においてこそ意味がある概念(感覚)であることは非常にクリアになった。温度への例えは秀逸である。温度はミクロ的には存在せず粒子運動の活発さのみが観察されるわけだが、マクロとして温度なるものが「感じられる」ということ。実は時間もこれと同じことがいえるということである。また、それと関連して「殆どの物理量はマクロ的値である」そうな。考えて見るとそうだ。結局カントのいうとおり物自体は不可知であり我々は現象界のみに生きているわけだ。

もちろんそのほかにも数多くの興味深くもっともな説明がある。新書版ではあるが、おそらくこれまで読んだ時間論の中では最高の部類の本だろう。時々読み返したいと思う。


「存在の耐えられない軽さ」ミラン・クンデラ

2006-12-28 17:16:10 | 書評
なんなんだろうなあ、この本は。気の効いた警句、深遠な思考、とても微妙なそしてありうべき心理の描写、軽くよぎる思いの的確な把握。そんなことを誉めるのかなあ、人々は。まあそうした誉め言葉は当てはまらないわけではない。エセー的なものと思えばまあまあだ。だけど、小説としては失敗作だと思うなあ。
エセー的な部分にしても気に食わぬところはいくらもある。存在の軽さが耐えられない。永久回帰でないから。繰り返されず歴史にも記憶にも残らないから。っていってるらしいけど、そもそも存在は軽い重いの論議の対象なのかなあ。軽さに耐えられないって正確にはどう言うことよ。哲学的論考ならそんなことを多少は厳格に取り扱うべきだろうな。それを逃れているのは小説という形をとってるから。他にもそれなりの問題提起や思考の描写がちりばめられているけど、率直にいって半端。デカルト的・キリスト教的背景からの(動物に対する)人間の優位性について疑問を投げかけ論議するところがあるけど、これって正直言って噴飯物だよね。東洋思想を知らなくても心身論的にも脳科学的にももう通過しちゃったところじゃないかな、一般常識として。動物と人間の境なんて薄いものってことは。
思いとか感じ方の記述や描写はそれなりに鋭いと思うけど、それで終り。断片的にちりばめられているだけでそれぞれが単発的効果しかもっていない。書き散らかしの週刊誌のエッセイならとも書く小説なんだからねえ。有機的に構築して欲しいもんだね。

主要なテーマのひとつに反俗悪(キッチュ)論があり後半で論じられているけど、この本自体がキッチュのように見えてきた。知識人の知識顕示満載のできそこないの小説だね、これは。ありがたがる人はありがたがればいいんだろう。

竹内洋「丸山眞男の時代」

2006-12-17 23:42:19 | 書評
丸山眞男といえば進歩的文化人の代表で、一見もっともで実はくだらない、欧米から見た日本批判をしている人間、とのぼんやりした認識しかなかった。
読後の認識も一言で言えばそのとおりなんだが、表題のとおり、彼の「時代」がよくわかり、認識を新たにした。
戦後すぐには左翼=共産党以外の図式がありえなかったこと、そのオプションを拡大したのが丸山を初めとする知識人であること、60年安保闘争の「世俗性」、70年大学紛争の背後にあるルサンチマン、更にその背後にある高等教育の大衆化。丸山の法学部で日本社会・政治を論ずるという絶妙のポジショニング、などなど。なぜあの時代にああいうことがおきたのか、こういうことが人気を博したのか、特に学園紛争などは理解しようのない不思議な出来事だったが、ようやく体系的に理解できたように思う。

本題はまとめると長くなるので傍流的感想から少々。大学の闘争は今見てもほんと甘い考えだなあと思う。樺美智子さんの死にしても、あんなものですんだと思う必要がある。機動隊は結局発砲しなかったんだし、戦車も出てこなかったんだから。勝手に国会に乱入しようとしたり教授たちを捕まえてつるし上げたり、どう身たって学生じゃなければすぐ逮捕だよね。戦前の515とかと一緒なのかもしれないけど、とにかく迂闊で甘えている。これは日本人特有なのかなあ。もっと実務的にまた保守的に運動を実施しろよ、って思うな。
もうひとつは、アカデミックの人の寿命の長さ。丸山も含め出てくる人は軒並み80-90ぐらいまで生きている(それがわかったのは竹内氏の丁寧な記録のお陰である)。なんだかんだいって、学者は長生きと言うことのようだ。

生産者の幸福 (傲慢な消費者と卑屈な生産者そのII)

2006-12-13 12:23:05 | 書評
日曜大工、というとオヤジがあれこれと必要でもない家具を作って、犬小屋三棟置き場に困る、などはなはだ迷惑なてイメージがあるが、そういう本格的なものでなくてちょっとした棚をつけたり書見台をありあわせで作ったり、崩れたレンガの修理をするなどは面倒な面もあるがとても楽しい。

考えてみると昔はいろんなことをしなければならなかった。料理は原則全て材料から作っていた。鱗とりからはじめさえしたし、一度は鶏を絞めるところからの料理に参加したことがある。そういえば隣の家は自分で(密造だが)ぶどう酒を大々的に造るのを年中行事としていた。フロを沸かすにも(我が家の場合)五右衛門風呂を薪や木屑で沸かしていた。加工食品の代表の缶詰だって多少の技術を以ってして缶切りであける必要があった。服はさすがに大部分既製品だったが、古着の一部を使って何かのカバーを作るぐらいのことはどこでも行われていたし、ツギあてというのはあちこちでやっていた。2-30年ぐらいまでは衣食住の各方面でやることはたくさんあったわけだ。その只中で暮らしていた父母と自分では技量に雲泥の差がある。今でも包丁使いや大工仕事では父親にはかなわない。

回顧をしているだけではない。目的を持って何かをすることは面白さの本質、満足感の背景にあるのだろう。そうしたことが昔の日常にはごろごろしていた。僕はたまに、生活するだけのために一日を使いたい、という衝動を持つ。どこか多少不便なところに行って、買出しをして料理をして食べて、合間に不具合な家具を直したり季節のしたく(冬用の薪集めなど)をする。できるものなら縄をなうなどもしてみたい。よく考えてみると、これは昭和30年代ぐらいの生活ではなかろうか。

あの頃は生産と消費のバランスがちょうど良かったのだろう。それが当時を懐かしむ空気となっているのかもしれない。全てのことが手作業だと量に圧倒されて苦痛にしか過ぎない。洗濯板で洗濯するとか、水をちょっととおくの井戸から汲んでくるとかはさすがに勘弁願いたい。夜もスイッチを入れれば明かりがともってほしい。でもまだかなり手作業が残されており、ある種の楽しみとしてこれができる。

チクセントミハイの言う「マイクロフロー」が日常の中に多く存在したのではないか。

「運」が取り持つ連帯意識

2006-12-04 10:47:43 | 時評・論評
昔々、バブルの前に僕が大手金融機関に入社した頃。保険会社なので有価証券部門はもちろん、融資も含む「財務部門」への配属は少なく、多くが支社または本部でも保険営業がらみの部門に配属された。
そのなかで僕は新入社員の憧れのポジションの一つ、株式部に配属となった。研修所の先輩から「あんまり表立って嬉しそうにするなよ」といわれた。それからしばらくして同期と話していても「株式はどうだい、1カイ2ヤリの世界か」と聞かれ返答に困ったことがある。1カイ2ヤリなんて板の状況を告げるだけの話しだし、株価を見てすばやく売買するのとは程遠い、政策投資と半ば自己満足の「長期投資」をやっている部門にいることをどう説明すればよいのかよくわからなかった。それ以上に、その同期生の物言いや表情にこめられた羨望と切望にどう対処するかという悩みがあった。
どう答えたかは忘れた。しかし概ねこの手の質問に対しては「たいしたことはやっていない」というメッセージで答えていたのでおそらくその線でものを言っただろう。半ば本気でそう思っていたし、それ以上に羨望する魂への鎮めが必要であると感じていたと思う。こんな風に、かつては「プロ」の株式運用・資産運用とは普通の人にとってあこがれでありまた容易に到達できない「高級な」何かであったのだ。そうした障壁に守られた先輩たちの無自覚な傲慢、不遜そして不勉強(モジリアーニミラーさえ誰も知らなかった!)に苛立ちつつ、その一方で憧れのポジションを与えられたことを名誉に思い働いていたと思う。その後役所への出向、株式運用、債券運用・分析、投資顧問出向と自分のその会社でのキャリアは最初の配属から系統だっている。その後比較的容易に転職できたのもそのキャリアのおかげである。何の志もなく金融機関に入った人間の初速というか初角が、その後の多くを決めたと言って間違いはなかろう。
でも、同期と一緒なんだ、たまたま僕はこういうことを割り当てられているのだ、という意識は、次第に薄れつつも最後まで残った。自分もそうだがほかの人にも何とか納得してもらわないと困る、という感覚はあった。それから、自分だっていつ畑を移るかわからない感覚も残っていた。
僕に問いかけた同期はどんな気持ちだったのだろう?おそらく、運としてあきらめ自分の分野にまい進していたのだと思う。不本意な結果を運のせいにできることで気分を新たに日常に取り組めたのではと考えたりする。かく言う僕も、振り返れば上司・同僚に恵まれなかったと思う。これは出世という面でもあり、知的な向上という面でもある。だから自分の今の到達を(ポジションも知的水準も)運のせいにできる(笑)。もちろんこれは両方の意味で、もっと悪くならなかったのも運である。

もちろん、運を嘆いたりその中の特定の登場人物をうらんだりということはあるだろうし、僕自身もそういう心境であったことはある。現状の境遇にある程度満足しているので上のような振り返りであり、不満が大きいときは嘆きや恨みが出てくるのであって、実はこういう話の因果の関係は一筋縄ではない。しかし、それでも人のせいにしたり運のせいにしたりできる余地がある。これは幸福なことなのだろう、と思う。

それにしても、こんな風に人生を振り返ることがこれからの人たちにもできるのだろうか?能力であれ実績であれ、本人の力による選別過程がニュアンスとして前面に出てくれば(実態は機会均等からは程遠いのだが)、全ては本人のせいであり功績である。敗者の嘆きも悲しみも前より大きいだろうなあと思うし、勝者の満足と傲慢も大きいのだろうなあ。
格差拡大というのはこういうことなのかもしれないと思ったりする。敗者は嘆き悲しむけれど「自分のせい」だから声を上げない。勝者は自分の功績だから容赦なく分け前を取る。「運」が媒介した、ささやかな連帯意識はもはやどこにもないのである。ならば。「運」とか「縁」とかの復活が「幸福の総量」を増やすだろう。もちろんこれまでの「運」とか「縁」には好ましからぬ不純物がたっぷりあり、ここ10年あまりはそうした不純物の排除が行われてきたともいえる。できれば懐古趣味一辺倒でない、より本質を浮き立たせた「運」や「縁」の復活が望まれるのだろう。


グレート・ギャツビー 

2006-12-03 13:26:43 | 書評
村上春樹訳で読んだ。結論を言うと面白くまた秀逸な部分を含む小説ではあるが大きく印象に残るものではない。

グレート・ギャツビーってモンテクリスト伯みたいなのかと思ったらそうでもなくて、贅沢三昧の屋敷で夜な夜なパーティーを開いていること以外は案外普通の印象だ。デイジーと何年かぶりに会うときの緊張ぶりなどはかわいいといっていいんだろうな。

パーティーにくるような人たちの実態の記述、デイジーの打算に満ちた迷い、上流らしいというべきからしからぬというべきか、ニューヨークへ遊びに行って決定的な論議となる場面、ギャツビーが死んだときのせいいつで示唆的な記述、よく言葉を選んだ最後の記述など、面白く繰り返してみてもよいような場面は多くある。英文も一度見てみたいと思う。

しかしながら、おそらく時代の背景が違い入り込めない。ギャツビーが気にした身分差の問題はそれほど示唆されていないので、結局ギャツビーがデイジーと結ばれなかったのは軍の手違いで戦後オックスフォードに行かされたからジャン、って思っちゃうな。それに、そんなに好きなら除隊してさっさと帰ればいいのに。この二つに説明がないとギャツビーの思慕も陰影のない身勝手で浅いものに見えちゃう。こうしたことは暗黙に共通の背景があったのかなあ、かつては。よくわかんないね。むしろ豊かな生活の中のアンニュイさは共通理解があるので共感もてたかな。


報道2001を見て-論議のレベルの下げ方-

2006-12-03 09:47:54 | 時評・論評
なんだかねえ、改めて僕がいまさら言うこともないんだけどなあ、今日の報道2001を見てがっかりしたねえ。久々に見るので楽しみだったんだけど。見たのは自民復党問題全部と財政政策の最初だけだけど、まあ立派な論客を擁して論議のレベルを下げるのにとっても熱心な司会者たち。「皆さんにわかりやすく」は通じないぞ。何でも1分で理解できると思うのは君らの傲慢ということに過ぎない。

自民党の復党問題では男の司会者が「古い自民党に戻る」というレトリックを使いながら西部等の「常識派」の論議を無力化しようとしていた。「あんた古い古いというけどそれじゃ人が誤解するから「本来の」自民党といおうじゃないか」って誰か突っ込めばよかったのにね。
財政の話は、もうだめ。微妙なこと、たとえば「企業収益と雇用者所得の格差は今後も広がる傾向」といえば「それじゃ給与は下がり続けるということですね」などと、単純でセンセーショナルな話に持ってゆく。論者の言うサイズとニュアンスのままどうして話が受け取れないのか。これじゃあ論者は論敵以上に司会者を敵として話さなきゃいかん。このときは女の司会者の強引さが目立ってたな。ま、財務大臣・野口さんとも負けちゃいなかったが。それにしても司会者は過剰に誘導するなよ。黒子は黒子らしくすっこんでろ!

ま、救いはさすが論客たち、単純化誘導のなすがままというわけではなかったね。それにしても、マスコミの傲慢をどうやって取り締まればいいのかなあ。なかなか手をだしつらい分野だけどね。やはり不当報道への罰則のようなものが必要かなあ。それと、マスコミは取材した相手に「生かして」もらっているという自覚が持てる、なんかの儀式が必要かなあ。

「小学校で英語教育」論議の愚

2006-12-02 19:02:43 | 書評
この話っていつもばかばかしく感じる。小学校から学ぶ是非というより、現状を問題とする論議がいつまでたっても紋切型で、それをろくに自覚せずに論じられているから、全くうんざりする。論議が出るたびに気分がむかむかするのはもう面倒なので、ここに書いて以降関わらないことにしようかと思う。

(中高6年間やってきているのに身につかない)
6年間、のんべんだらりと授業を受けているだけだったらなんだって身につかない。あんた数学はどのくらいできるの?物理は?化学は?憲法29条って何が書いてあるか知ってる?アレキサンダー大王は何で死んだの?それはいつ?
大体あれくらいの勉強時間で身につくと思ってるほうが甘い。英語だけじゃなくてなんだって本格的に身につきはしない。

(読み書きは出来るけど会話は出来ない)
あんたほんとに読み書きできるの?でもしゃべれないの?ふしぎだなあ。。。
英字新聞読んだことある?本一冊読み通したことある?そんなんじゃなくても、たとえば電気製品の説明書って読める?
そもそも英文を試験以外で書いたことある?手紙の最後はなにつけるか知ってる?手紙じゃなくても、知り合いにE-mailとか出したことある?ほんとに英語でしゃべりたいの?
ともかく、自分の読み書き能力をよく振り返ってから出なおしなさい。

まあこの2点かな、ばかどもをギャフンといわせたくなるのは。

かといって反対派に組するわけでもない。

<日本語の能力をつけるのが先決だ>
そのとおり。だけどいまの小学校って「日本語」ちゃんと教えてる? 文学寄りで詩まで書かせたりするんだけど、そういうことじゃあなくてもっと実務的・基礎的な日本語を教えるべきだよね。それから単語と(実用)文法、若干の古語。
「国語」なんていうからふにゃふにゃして実体がないんだよね。たとえば英語の時間を国語から振り替えるとして、週1時間とられるのはなにがどう困るの?物語系をだらだらやってるだけだからどっちでもいいんじゃない?

とまあ、そんなところかな。さてと。僕の意見はNoだね。やったらいいのかもしれないが先生がいない。それを無理して人を揃えてやるほどの価値はないだろう。中学の授業の見学なんかでもいいんじゃないかな。