御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

広瀬 隆 「資本主義崩壊の首謀者たち」

2009-04-29 21:51:56 | 書評
この10年ぐらいグリースパンとルービンを持ち上げる論調にえらく苛立っていた。そもそもFRB議長が金融規制をろくにせずにあんな謎めいたしゃべり方をして金融政策にえらく力があると思わせまた芸人として受けをとっていたのを「マエストロ」と持ち上げるアホどもが多数を占めたのだから仕方がない。その中にはクルーグマンもはいっていたんだからねえ。
グリーンスパンに対する敵意ほどあからさまではなかったが、ルービンもねえ。というかルービンの男前と秀才の雰囲気にひれ伏すマスコミにあきれておったなあ。まあマスコミはあの無能なコリン・ライスでも持ち上げちゃうんだからしょうがないけどね。

リーマンショック以降の大騒ぎでそういう二人の正体が鈍い記者どもの目にもようやく明らかになって少々すっきりした。惜しむらくはフリードマンが生きていてこの混乱を目の当たりにして、自分の過去の主張と業績がすべてむなしいものだったとを思い知ってから死んで欲しかったなあ。2006年に死ぬたあなんとも運の良いやつよ。

さて、この本は、米国人脈調べが行き届いた著者が前から正体をよく知っていただけに鋭く容赦がない。ついでにキッシンジャーとかガイトナーとかサマーズも槍玉に挙がっているね。まあ、僕のような考えの人間がこれを読んでいい気持ちになるのは内輪で怪気炎を上げているようなものではあるが、痛快であることは確かだ。

ただ、大きくしらけてしまったのは69-70ページで、「Outstandingの住宅ローンが全米で14兆ドル」という話のOutstandingを「未決済」と解釈している(だから大変だとしている)点。英語も出来そうな人なのになんでこんなミスするのかね? それに編集部の人とか気が付かなかったのかなあ。お陰であとの部分の信頼性がぐっと落ちてしまった。広瀬さん、集英社さん、早めに直しておいてね。これじゃあ本全体の信用が落ちちゃいますよ。特に、こういう大勢の論調に反する本は誤りに気をつけないとあっという間に足をすくう人がいますからね。ともあれよろしく。

「約束された場所で」村上春樹 (再読)

2009-04-26 18:19:09 | 書評
最近の村上マイブームに乗った再読である。

改めて思ったのは、あれれ、僕も信者になってたかもしれないな、という気分である。僕も1980年代後半の、なんだか皆が一斉に頭がおかしくなって軽薄になってしまった世の中は大きらいだった。僕はそのとき30を越えて世の中の理不尽なども理解しある程度それに染まってさえもいたので耐性はあったが、あの時に20歳前後だったらオウムなりそういう組織に入っていたんじゃなかろうかと思う。じっさい、インタビューされている人たちの生年を列挙すると、65年、60年、56年、69年、73年、65年、65年、67年である。 ひとり年上が居るが概ね僕の10歳ぐらい下の人たちだ。彼らももう40前後だな。うまくやってるんだろうか、とおもう。

そう言えば思い出すのだが、80年代後半に阿佐ヶ谷にすんでいたころ、オウムの若い人たちがオウムといわず良く勧誘に来ていた。女の子2人が来たときがあって、そのとき玄関先で「どういうことに興味があるか、どういうものが欲しいか」と言うような質問をしてきたので、「特に欲しいもんはないけど、まあ40になったときの気の持ちようというか精神状態には興味があるし、今からでもできることがあるならそれを出来るだけいいものにしていきたいと思う」と答えたら、ふっと真顔になって「ちょっとゆっくり話させてもらっていいですか」と言うので上がってもらって茶を飲みながら1時間ぐらい話した。僕の考え方にずいぶん感心してくれて、また適切な質問もでて充実した楽しい会話だった。彼女たちも充たされずオウムにはいったのだろうし、僕自身もそういう話を手加減なく話せる相手に飢えてはいた。最後は一応勧誘になっちまったけど、彼女らもまあ満足そうに話をしてたなあと思う。彼女たちはその後どうしたのかなあ。

89年はやはり狂っていたよね。ある日スーツを買いに新宿に出かけたのだが、まあまちをゆく男どもがガタイのいいのも小さいのもみな黒っぽいダブルのスーツを着てあるいている。なんということだ、まちじゅうディスコの黒服になってるじゃないか! と驚く。 で、デパートにスーツを買いにいくとこれがまた難渋。僕にとってはスーツは今も昔も作業着以上のものではない。安くて丈夫が一番である。ところがこのころはダブルのスーツがやはり全盛。値も張るし意味なく布が多いだけで、小柄な部類の僕には似合わぬことおびただしい。ついでに言わせてもらえば僕より小柄な店員がダブルで決めているつもりなのはこっけい極まりなかった。で、スーツはあきらめてネクタイでも買おうとしたが、またこれもおかしげなことになっていて、売り場の8割方はペイズリー柄で占領されていた。あんな不吉な柄、あるいは毛虫のように気持ち悪い柄をなんであの時代はありがたがっていたのかなあ。 アホか、と思いつつデパートを、そして新宿の街を去ったのだが、そのとき電車から、かの悪趣味新都庁ビルの上の方に雲がかかった不吉な光景を見た。これが89年10月。その2ヵ月後に株価はピークを付ける(今調べると都庁は88年4月着工90年12月竣工。僕が見たのは工事中ということかと思うが、今の高さぐらいまでは出来ていたような気がする)。

もうひとつ思い出すのだが、これは91年か2年のこと。でたらめ特金マネジャーが跋扈する運用会社をやめる若い人が、「相場で遊ぶあなた方は間違っている」といった警句を堂々と残して去っていった。うむ、ごもっとも、とは思ったのだが、彼が行く先が自己啓発・教育関係の会社で、セミナーやったりビデオ売ったりっていう商売だったので今ひとつ趣旨がわからず。どうも社長のカリスマに感動したらしかった。 今どうしてるのかなあ。志の清い人間だからひどい苦労はして欲しくないよなあ。金融機関にとどまるという安易な道が用意されていただけにそう思う。

ということで。村上さんというより、オウムとバブル期の狂った世の中、そして僕のいきづらさとオウムへの親近感、思い出話 てな具合になってしまったな。ま、それでもいいか。

でもあのころ、なんだか自分探しとか世の中との違和感の解消に一生懸命だったんだなあと思う。この20年何してたかって? ただ中断してたかな。世の中が清貧になって落ち着いたせいで気が楽なのもある。車を持たない、100円ショップとユニクロで買い物を済ませる最近の若者、なんて僕そのものだものね。今の若い人たちのそういうところは大好きだ。
とはいえ、そろそろ自分探し、自分表現という贅沢を再度始めても良いかな、と思う。どっちかというと頑固オヤジになる道ではあるんだが。赤瀬川源平翁 とか山頭火みたいに、ぐれて生きてもいいかな、と思う。


「千利休 無言の前衛」 赤瀬川源平

2009-04-25 18:07:00 | 書評
正直言って利休の本としての出来は良くないのではないか。僕に判断するだけの歴史的知識はないが、利休論としては些か雑然としている感は免れない。
しかし、利休をとりあえずの足がかりにした前衛論としては大変率直でわかりやすく力があると思う。とりわけ、「I. 楕円の茶室-1.利休へのルート」はすばらしい。これほどわかりやすくコンパクトで力のある芸術論・前衛論はなかろう。簡単にまとめて見ると次のようなことだ。

>今日芸術と呼ばれるような要素はその昔日常の中のモノやコトの中に、摘出されない状態で存在してきた。
>そのうち「腕自慢」や「時間つぶし」が究められると、それらのモノやコトの中に埋まった芸術要素が遠心分離機にかけられたように抽出され、何か異様な刺激を人間に与え始める。
>これに並ぶ分離物は哲学や宗教などを含む。こうして芸術は人々の頭上にのぼった。日常の原始スープから芸術という概念で分離独立した。
>するとそれに反する動きがおき、日常への下降の力が働いた。19世紀の印象派はその力である。日常の風景・光景を描くことで、それまでの、「偉大なもの」を描くべきはずの絵からその「偉大なるもの」を消し去った。
>以後前衛芸術はさまざまな形で変化しつつ、常に日常感覚への(再)接近を試みる。ダリ、キリコ、マグリットなどは人間の意識の深部の覚醒を意識した試みである。
>ダダにおいては、ほっておけば上昇して尊大になる芸術を日常のところで見つけるため、たとえば便器そのものを展示するようなことをした。シュールレアリズムは暗喩による日常への回帰を狙ったが、ダダは直喩である。
>このあとハプニングのような、日常行為そのもののようなところまで前衛は進んだ。
>しかし、日常への接近を繰り返し過ぎてしまった前衛芸術は、日常の無数のミクロの中に失われてしまった。そうして前衛は消えた。
>世の中の動きと合わせて見ると、前衛は実は工業デザインを初めとする世の中の全域での創作活動の乱舞に追い越されてしまった。実業・日常が虚業・芸術を超えてしまった。であれば、もはや何ものかを作るより世の中を見ていたほうがはるかに面白い。
>そう思って路上観察を始め、トマソン集めをした。路上のちょっとずれたもの、かけたもの、はみ出したもの意味のないものなどをみて、先入観が打ち壊されて中から全く新しい、それを見る自分が飛び出してくる経験を重ねてきた。
>その中で、ふと、「これは、むかし利休たちがゆがんだりかけたりした茶碗を「いい」と言い出した気持ちと変わらないのではないか」という発想が生まれた。侘びとか寂びとか言われる日本古来からの美意識への先入観がぺろりとむけた瞬間である。

なんともすごいよね。芸術起源論から始まり前衛の進行爆発消失を経てトマソンにきたら利休と隣りあわせだった、というのだから。

さて、実はそのあとはまとまりが悪い。利休論や日本の風土論や歴史的事実などがあれこれとまとまりなく並んでいる。しかしIII.利休の沈黙 あたりからぐっと良くなる。

ここではいろいろなことが語られているが、主たるは以下の三点。

>一つの行いが、その本来の目的としたところを超えて独立した美意識に到達したものとして茶の湯がある。宗教ヌキにこの類のことをあれこれやってのけるのは日本人の特徴である。
←これは同意するね。これをビジネスでやっちゃうからよわっちいんだけど。生活としてはたのしいね。
>「つまり芸術本来の姿、前衛芸術への煽動である。そのような、人の後をなぞらず、繰り返さず、常に新しく、一回性の輝きを求めてゆく作業を、別の言葉では「一期一会」とも言うわけである。」
←これはまさに閃光少女
>「他力思想とは、そうやって自分を自然の中に預けて自然大に拡大しながら人間を越えようとすることではないかと思う」
←まさになるほど。他力、への先入観が解消した。マズローが後に唱えた、自己実現の後の「自己超越」が他力なんだ。お、ちょっと乱暴かぁ?

以上。良い本であった。赤瀬川氏は目標になるじいさんだな。

2009年5月13日付記
本日の日経朝刊磯崎新の「私の履歴書」に、美術評論家の宮川淳の面白い論議が掲載されていた。以下は引用。
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東野の司会で開かれたシンポジュウム「反芸術 是か非か」の結果を受けて、宮川が、「反芸術と言えども芸術のひとつにすぎない」と批評。廃品を並べたり、性器を大写しにしたりした「反芸術」は、しょせんコップの中の嵐だと喝破した。
芸術の精度や枠組みをその成立の段階から問い直さない限り、芸術の革命は起せない。宮川の批評は鮮やかなレトリックとともに私の記憶に刻まれた。
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コップの中の嵐、というのは同感だな。源平翁の言う前衛芸術論は良くわかったのだが、よくわかったその意味は、それがしょせん芸術というコップの中の嵐、ということだ。そもそもウォーホールのキャンベルスープからしてそうだよね。正統があってこそそのアンチが(アンチであるだけで)輝く世界の中があるわけで、その背景が見えなければキャンベルスープだってマリリンモンローだって単なるスケッチだし、廃物はただの廃物、いわゆる「ハプニング」はアホのばか騒ぎである。アンチはちゃんとコップの中に、つまり正統と対置去れる場所に収まらなければならない。そう考えると前衛は、結果として正統という背景がいかに力強いかを引き立たせる役割をしているのかもしれない。
あるいは、アンチとは別の正統を立てようとする動きの前哨戦であり、その、別の正統がなければ意味がないのかもしれない。赤瀬川翁が言うように工業デザインなど実業の世界がやったように、アンチの戦いをパスして事実上の正統として隆盛する方法だってあるのだ。ふむ、こう考えてみると前衛というのはやはり非常に特殊で難しい世界だな。表面的な反抗なんてつまらん話でただの甘えだ。まさに磯崎氏のつぶやきのとおりなんだろう。
うん、おかげさまで僕の前衛観にヒットしたね。源平翁、磯崎さん、ありがとう!

「神の子どもたちはみな踊る」 村上春樹

2009-04-19 23:03:21 | 書評
阪神大震災に啓示を受けた6つの短編とのこと。実際啓示となぞに満ちている。

-UFOが釧路に降りる-
阪神大震災の報道に見入り続け、ふっと里にかえってそのままの奥さん、釧路に運んだなぞの荷物。「圧倒的な暴力の瀬戸際」というなぞめいた言い方、シマオさんの「でも、まだ始まったばかりなのよ」というせりふ。

-アイロンのある風景-
からっぽ、ってどういうことなんだ? ジャックロンドンの小説を手がかりに進めているが、このからっぽ、の物言いの重さがちゃんとうけとれないなあ。

-神の子どもたちはみな踊る-
美しい母親に劣情を抱く僕と田端さん、それを分かち合い理解し呼びかけることで何が変わるのだろうか?「ぼくらの心は石ではないのです・・・石はいつか崩れ落ちるかもしれない・・・でも心は崩れません・・・」このあたりきめぜりふなんだけど、率直に言って陳腐なんだよねえ。他の部分の面白い言い方などに比べて、なんでなんだろう、って思う。
かえるくん、というあだ名はあとの作品と関連する? 「おちんちんがおおきい」ことは何かを象徴するのかしないのか?

-タイランド-
「石」をもたらした男は?義父なのか? 白熊の話は何の隠喩?

-かえるくん、東京を救う-
これは全体の象徴として純粋に読めたと思う。恐らく締めにふさわしい。「「機関車」と片桐はもつれる舌で言った、「誰よりも」。」はちょっと感動したな。

-蜂蜜パイ-
これは不要だったのでは?ノルウェーのやり直しのような?


村上春樹「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」

2009-04-19 21:36:10 | 書評
先週は「ノルウェー・・」を読み直し、今週は「神の子ども・・」「世界の・・」を読み直し、と村上春樹が続いている。まえからまあ好きだが腑に落ち切らない作家、ということで少々引っかかっていたのだが、これを機に少しでも片付けようという魂胆。

さて、「世界の終りと・・」。読み直して思うに、前回は全然読めていなかったことを改めて理解。小松左京とかがまあ典型だけど、SF的・ファンタジー的構図については案外作家は一生懸命読者にわからせようとするわけだし、ネタばれにならないよう隠すにせよどの辺が隠れているか、わからないようにしているかは、わかる。しかし村上氏の説明というか文章は、ファンタジックでない部分であっても何か唐突だったりさらりと異物が飛び出して、そしてそれらがさして発展性や関連性もなくそれで終りだったりすることも多いため、細部をいちいち「相手に」していられない要素がある。なもんで、さらりと読んで良くわからなくなってしまっていたのだろう、前回は。

で、今回はまあ筋は良くわかった。それに、ちょっとした観察や物言いがかなり面白いことがよくわかる。たとえば、
-「包丁をうまく研げる女性は少ない」と唐突に出て発展性なく終わる
-「カタツムリや爪切りや・・のことを考えてみた。」と些細なものを次々と挙げた上で「世界はあらゆる形の啓示に満ちている。」と、真顔で落とす。
とかね。ところで次の一節は完全に西脇順三郎の「女神」だな。
-「そしてそれはカタツムリを濡らし、垣根を濡らし、牛を濡らすのだ。」
カタツムリは話題に出ていたけど、なんで牛なんだ?

「私」が意識を失う前の行動と思いにかなりの文が割かれている。でもやっていることは結構普通で、そして恐らく実質的な死期の迫る人間としては結構当を得ているのかなあと思う。生きてきたように死ぬのだ、とは時々聞くが、それはホント具体的にそうなのだろう。

しかしやっぱり腑に落ちないことは多いなあ。
-結局「影」とはなんだったのか? 心そのもののようなそうでないような・・
-なぜ自分の作った世界で自分の思うように行かないことがかくも多いのか?
-自分の作った世界に責任を持つため残るとはいうが、居たからって何ができるというのか? 「僕」は妙に「真っ当」すぎないか?それは「心」云々言っている場面でもそう感じられる。
-ハードボイルドの最後で「公正」ということばが唐突に何度かでてくるが、なんでこの間際でそれまでかけらもでてこなかった「公正」が問題となるのだ?
-なんで第3回路に入ることで「私の失った物を取り戻すことができる」のだ?

「南のたまり」を抜けた影はどうしたのかなあ。溺れて死んじゃったかなあ。無事現実に戻っても主人と別れてしまったので生きていけなくなってるかなあ。それとも、影は現実的配慮の象徴とすれば、それがなくなって「僕」=「私」はユートピアである自分の脳内環境に生きるってことでいいのかな。つまり「私」が意識を失うことは「僕」が森で暮らすことと同値なのか。それだとハッピーエンドって考えてよいのだろうか?

文学的余白も多いだろうからわからんわからんいうのも不粋だが、うーん、だれかたすけてくれぃ!。


西木正明「極楽谷に死す」

2009-04-12 11:37:48 | 書評
熱き60年代、70年代初めに青春時代を過ごした人々の今。主人公たちは概ね不器用で「逃げ遅れて」、世界のいろんなところで良くも悪くも生き延びている。語り手はどちらかというと傍観者的にその時代を生きた人であり、恐らく語るにふさわしい人なんだろう。
この人たちはよき人々で、青春時代の思想と思いに準じたんだから、「大変でしたねえ」という思いが大きいかな。でもねえ、そののちのしらけ世代と呼ばれた我々から見ると、むしろ、熱き時代を熱く過ごし、ストやデモを組織し煽動し、反対者や消極者を吊るし上げ、なのに潮が引くとちゃんと単位をとりに授業に出て、それでちゃっかり大企業にもぐりこんでえらくなった連中の話を聞きたいね。で、思い切って批判もしたい。

浜井浩一 芹沢一也 「犯罪不安社会」

2009-04-12 11:08:43 | 書評
多面にわたる話が参考になるが、一点強く印象に残った話を。

1988年から9年にかけて発生した宮崎勤の事件は、饒舌な好奇の対象となり、宮崎が裁判で言った「醒めない夢」に言論人は引き込まれ、さまざまな解釈と見解が繰り広げられてかえって事件は不可解な出来事として認識された。
実は、時代は不可解さを求めていた。言論人はこのような「異常で不可解な事件こそが、私たちが生きる時代の現代性を象徴している」として、むしろ事件の出現をことほいだ。
そのことは、1998年の「サカキバラ」による神戸事件でも続いた。宮台新司を初めとする言論人は社会批判・学校制度批判のダシとして神戸事件を最大限に利用した。

ところが神戸事件の直後あたりから、言論のトーンが、社会の一種の犠牲者としての「少年A」から、理解不能な怪物としての「少年A」に急速に変化した。2000年のバスジャック事件、2001年の池田小事件などとともに、被害者の声の高まりもその大きな要素となった。ありていに言えば、猟奇的犯罪者の心理を面白げに探ること、そして特にその理由を社会・環境にもとめてしまうことは、とてもじゃないが被害者の心理には沿わない所業である、ということである。

「当時の社会は宮崎の猟奇的な犯罪を娯楽として楽しんでいた。ところが現在は、・・・娯楽であるどころか今や犯罪は他人事ではなくなった。・・・・そして社会は、「醒めない悪夢」に引きずり込まれていった。」(132ページ)

「歪んだ正義」宮本雅史

2009-04-12 10:48:42 | 書評
宮本さん、ここまでわかっててこの記述はないでしょう、といいたいね。序章の佐川急便創始者の独白の迫力ある記述を初め、その後の各章で詳細かつ恐らく正確な記述が続く。で、結局は検察は造船疑獄あたりからおかしいのであってその後ロッキードとか佐川急便事件でその歪みを維持・拡張しただけのことである。はなっからおかしな組織であり人々である。
それをなんで
転換期III:止まらない暴走 (佐川)
転換期II: 疑惑の捜査 (ロッキード)
転換期I: 誤った出発点 (造船疑獄)
と並べて敢えて最近からさかのぼるのか?だいたい転換点もくそもありはしない。特捜なんて最初っからひどい捜査で正義ヅラするならず者のような組織であり官僚のくずなんだ、って宮本さんわかってるんだから、こんな並べ方はないよね。ご本人の心理的転換が十分ではないかもしれないけどね。
誤った出発点と暴走、とはっきり記述してしまえば、じゃあなぜそんな下郎どもが生き残りかつ正義の味方とさえ思われるのかに目が行き、マスコミの責任や裁判所の問題点に話が行くだろう。是非そこまで攻めて欲しいもんだ。特に裁判官の罪は大きいよね。あいつらほんとになにしてんのか? 大変な高給と身分保障のもとで? いやそれゆえに検察寄りが得策なのか?
宮本さん、お願いしますよ。一発大きいのぶちあげてくださいよ!

舞城王太郎「世界は密室で出来ている」「熊の場所」

2009-04-12 10:25:36 | 書評
入間人間の「嘘つきミーくんと壊れたマーちゃん」にインスパイアされて、というか主人公の語り口が「熊の場所」に収められている「バット男」と良く似ていたので「世界は・・」を買って読んで見た。
しっかし、うーん、ちょっと無理ありかなあ。ホッパーの絵をまねて死体を並べたがる美大生の殺人鬼とか、都庁に務める美人で強いツバキさんの、ひどく趣味の悪い死体ペコラとかなんだかちょっと無理ありそうな設定に見える。死体を使ったストーリー化作り、あるいは立体漫画作りはこのストーリーを貫く一貫した傾向である。そこに妙な軽さと気味悪さを感じ、他の作品でも死体の扱いが軽いというか無残というか、たとえば熊の場所では首がサッカーボールに入れてけられていたし体は野犬に食わせていた、そういうところが舞城の個性か、とも思うのだがどうなんだろうね。
とはいえ、けっこうストーリーは面白い。僕とルンババの友情の話はなかなか良いし、ツバキさんの妹エノキと二人が案外淡々と地元の大学に進みそしてなじんでゆく姿もまたいい感じだ。こいつら若くして人生悟ってるなあ、なんてね。 気になったのはツバキさんの不倫相手の都庁のさえない管理職。どんな魅力で彼女が惚れたのか、どんな人だったか、とかもっと知りたかったかな。
ま、他の読んでみよっと。