御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

「約束された場所で」ほか 村上春樹

2007-09-29 21:52:24 | 書評
オウム取材の「約束された場所で」を読んだ。
これはなかなかたいしたインタビュー集である。そして正直僕はオウムの人々に親近感を感じたといえる。村上は聴取が巧みである。それぞれの人がかたくなにならずできるだけ心を開き、うまくいえないが思いはある部分へのまどろっこしい言及まで引き出しているように思う。

ただ、インタビューのあとの河合隼雄との2つの対談は面白い部分もあれば常識的でもあり、また林郁夫の「オウムと私」をめぐる書評エッセイをベースとしたあとがきは些か常識的な大人すぎる印象は免れない。林郁夫も他の多くのまともなオウムの人々も、ある種整合的に物を考えそこから世の中の矛盾と悪をけしからぬと思い自らと世を変える思いを持ったのだと思うが、それに対して「現実というものは、もともとが混乱や矛盾を含んで成立しているものであるのだし、混乱や矛盾を排除してしまえば、それはもはや現実ではないのです。」というのでは、いかがなものか。思考とか理想とか正義の類をやすやすと否定するかに聞こえるこうした言い草は、「そりゃそーだけど」という品のない言い方で、多くの俗物から聞かされてきた。改めて氏に言われると些か調子が狂うが、彼はそれは承知で敢えて言っているわけで、そこには村上氏が割り切れていない、突破できていない要素を反映しているように思われた。

そのほか「風邪の歌を聞け」を読んだ。これはさすがに若書き。他短編集。ともあれ「約束・・」でとりあえず村上作品への憑き物は一旦落ちた気がする。彼に隠れた大きなイメージの体系があるとは思いにくくなった。むしろ氏はおそらく優れた散文詩人である。たとえば西脇順三郎の散文版なのだと思う。

法曹関係者よ危機感を持て

2007-09-26 08:18:35 | 時評・論評
犯罪者が受ける刑と犯罪被害(=罪)の不均衡(刑が軽すぎる)が長年続き、それが蓄積してきた巨大な怨念がここに来て爆発しつつあるように思われる。

光市の母子殺人、最近のネットで知り合った3人による強盗目的の女性殺人を始め、被害者遺族の声が声高に言われ、それがマスコミを動かし、世論を動かし、おそらく裁判にも影響を与えているかもしれない。実はこんなことはつい10年前までなかったとおもう。少なくともマスコミは十分には取り上げなかった。

ここに来るまでにさまざまな助走があったが、遂に不均衡の是正に手がかかったのである。大変喜ばしい。さまざまな刑罰関係の法律および運用を見直し、しかるべき罪と罰の秩序を成立させて欲しいものだ。その間マスコミは飽きないでまた扇情的にもならずにしつこく追求を続けて欲しいと思う。

さて、危機というのは他でもない、これらは個別の事態の表れではなく、長年不均衡を放置した法曹関係者への抗議の声なのである。法曹関係者がちゃんとした罪と罰の均衡を作らない限り、おそらくはあだ討ち、復讐、私刑の跋扈する世の中になりかねない。実際、今の法体系だと、たとえば親族を殺されたりした者は警察に先駆けて加害者を捕らえて殺したほうがよほどすっきりする。それで死刑にならない。

そういう世を生んでしまわぬのが法律関係者の、とくに法務省・裁判所の役割である。

安倍さんの辞任に思う

2007-09-13 10:01:46 | 時評・論評
昨日(11日)自宅で昼食を摂っていたらこの知らせに接した。最近ものの言い方を知らん人も多いからなんかの誤報だと思っていたら本当だったのでびっくりした。個人的にはお疲れさんという気分は強いね。将の将たる器ではなかった人間が大役を引き受けた悲劇だろうなあ、と思う。

ただ、内閣改造-Apec出席-所信表明と進みここでやめるとはかなりひどい話だ。まあいまはてんやわんやなんですぐにとは言わないが、これだけ迷惑をかけ無責任に放り投げたことの罪は大きい。一国の首相の地位と責任をなんと思っているのか。非常に重い涜職罪である。このことを自民党なり国会なりは明確に処罰すべきであろう。党の除名、あるいは議員辞職勧告をすべきだろう。

こういうことがきっちりと問われぬまま進むのであれば、怠慢・過失による多くの罪は同義的には許されることになってしまうだろう。一旦議員辞職し自民党を離れて、政治家を出直していただきたい。
次の選挙でやすやすと勝ったりすると? 仕方がないね、それが民主主義というものだ。民意にも知性と記憶とモラルの限界というものがある。それと心中するのも民主主義だ。

「スプートニクの恋人」村上春樹

2007-09-12 11:49:24 | 書評
ノルウェイの森を終えた日の帰り本屋で買って昨夜今朝で読了。やっぱり達人なのかな、適度に興味が続き、その一方で(これは大事だが)だるいとか面倒とか、反発を感じさせたりする部分がなく素直であるので結局続く。

誰かが書評で言っていたが、確かに14章で自分たちを「衛星」に乗った生き物と捉え時々すれ違い同行したり分かれたり果たせぬ約束を交わしたりするのだ、と主人公が感慨するところで終りかな、本筋部分は。しかし15章で彼は「下界」に帰る。そして万引きしたガールフレンドの息子を引き取り、言葉を交わし、その息子に「赦される」。そしてガールフレンドと別れることにする。失踪したすみれを思い。だが15章を合わせて考えるとこの世にけりをつけ、生きて者に教訓を残したのかもしれない。

15章はどう理解すればよいのか。すみれから遂に連絡がはいった。その電話は一旦切れて再度のコールを彼が待っているところで終わる。次の電話はなかなかかかってこない。しかし「もうとくに急ぐ必要はないのだ。僕には準備ができている。僕はどこにでも行くことができる。」そして最後に「・・両方の手のひらをじっと眺める。僕はそこに血のあとを探す。でも血のあとはない。血の匂いもなく、こわばりもない。それはもうたぶんどこかすでに、しずかにしみこんでしまったのだ。」

このコールは実は帰ってきたのではなく「僕」がすみれが連絡を取れる場所に来たため入ったのではないのか。迎えに行くことで境目にいる彼は決定的にあちらがわに行くことになる。そして彼はそのつもりである。最後に手に血の跡を探しているのは、この世で行なった闘いの痕跡、自らの罪を眺めているのだろう。それがしみこんで浄化されたところで小説は終わる、と理解した。

と、このあといろいろ検索してみたが終章が何を意味するかは議論の分かれるところのようだ。現実派が多いが、その一方でぼくとみどりが同一人物で人格分裂しており、最後に統合されるというそれはそれで尤もな解釈があった。




「ノルウェイの森」村上春樹

2007-09-11 11:21:30 | 書評
たまたま図書館で村上春樹を取り上げた一角があった。「世界の終わりと・・」「海辺の・・」「ねじ巻き鳥・・」などを読みはしたものの、この世界的人気を誇る作家の魅力は理解できていないことを思い出し、解説本を借りた。村上作品の翻訳者のシンポジュームのようなものの記録で、要は村上オタクが世界から集まってきて盛り上がっている様子を書いた本である。それを借りつつ、手元にある村上作品が「ねじ巻き・・」しかないので、「参考文献」として借りた。

ということなのだが、これが大変面白かった。日曜の夜に読み始め、月曜の朝の電車で上巻を終え昼休みに下巻に入って同夜読了した。すごく単純に言っちゃうと語りが素直なんだなあ、と思う。

まとめてどうのというのは難しいが2点ほど。

性的な要素が小さくない。あのトシゴロの人々を語る話としては自然であろうともいえよう。性を特殊扱いしない江戸の伝統のようなものを感じなくもない。性の語られ方もおおらかで力みも恐れも何もない。女子大生の緑が「ヤリまくる」などというのはどう見ても江戸の井戸端のおばはんである。同じく緑が「自分を想像してマスターベーションしろ」と言ったり自分の性的妄想を喜々と語ったりして主人公をうんざりさせたりする。
そうすることで、男女の間の性欲を超えた連帯であり気持ちのやり取りが生まれているように見られた。性欲を超えることで、おそらく性的魅力を超えたところまでコミュニケーションを進めることができているのではなかろうか。

もう一点は、淡白なことかな。淡白といっていいのかどうか。主人公はそれなりに人と接しており人並みのさびしがりやでありながら、なんとはない「離人感」を漂わせている。世界の意味を実感できない精神分裂気味である。そこを好く人たちに囲まれているので、青年期に良くある世間の基準とか他者との競り合いに巻き込まれず済んでいるように見える。
主人公だけではない、筋立てもずいぶん淡白だ。なぜキズキが、直子が自殺したのか、ほとんど追求されることなく終わっている。敢て読者に考えさせる余白、というよりも、むしろ登場人物たちは、出来事を受け取ってそういうものとして消化したり将来別の気付きが生じるのを待つ、という感じである。

本田直之「レバレッジ時間術」

2007-09-03 13:14:58 | 書評
前の記事で「自己啓発の本」とあるのはこの本のことである。久々にこの類を読んだせいか結構刺激されるところもあり、とりあえずそれなりに文具を揃えた(笑)。大学受験から現在まで退路のない生活をしてきたであろう本田氏の迫力はなかなかのものであり、その迫力は技術論を超えて評価できる部分である。

ただ、ふと思い立って野口ユキオさんの超整理法も読み直してみると、本田氏のアイデアはずいぶんざくざくっとしたものに見えた。長期単位で予定を見渡すという技術論は両者に共通しているが、野口氏の発想は早くも10年前にアスキー社の超整理手帳の蛇腹式予定表として結実しているのに対し、本田氏はそれも知らずカレンダーを持ち歩いているということであるから少しびっくりする。ま、親切なというかしゃらくさい読者が指摘はしているであろうが。

しかしなあ、このあたりどうなのかなあ、と思う。というのは、本田氏はこうしたことを指導したりして収入を得ている。時間にレバレッジをかけてこうしたこと自体を教えるということなのか。速読のセンセイが速読で何かの分野で業をなすのではなく速読指導ばかりしているのと一緒で、どうも得心が行かない部分である。そういう気分を胸にして本屋に行ったら、タイムマネジメント屋さんがタイムマネジメントを広めるためにタイムマネジメントをしている類の本ばかりのように見えた。昔は野口さんや梅棹さんのように強い本業があってそれを行なううえでのおすそ分けのような様相があったような気がするのだが。それとも、自己啓発の分野にそれ自体で生業が可能な結界が形成されつつあるのだろうか?




モラトリアムおやじ

2007-09-01 23:03:32 | 書評
これは書評というより全くの独り言である。
珍しく自己啓発本を読んでいてふと思った。その本は目標を設定してそれを達成するために時間をどうマネージするかをしっかり見るよういっている本である。ある意味当たり前のことを言っているわけだが、小生にとっては新鮮であった。
何しろ、いいトシなのにこれまでまともにそういう発想をしたことがなかった。あ、そうか、というような具合である。むしろ僕にはやりたいことなどなく、できるだけオプションが多いポジションに居たい、というだけの発想しかなかった。欲がないみたいだけどつまりそれはできるだけ高いポジションでありできるだけ多いお金、ということだ。なりたい者があるわけでもなく買いたい物があるわけでもないが、結果妙に欲張りである。あ、それとその一方で無駄骨をひどく警戒する。
そうなるとあまり没入ということがなくなる。集中が弱り、他のオプションに目が行くことになる。これは得策ではないのかな、とちょっと思った次第。なんだかんだ一時はやった「モラトリアム」ってやつを中年ど真ん中になっても引きずっているみたいだ。ま、無理やり決まらないものを決めるほうが法外という物だから決まらなきゃそれはそれでもよいのだが、これからはオプションの選択の機会があれば損得や無駄骨を恐れずやってもよいかな、と思うこのごろである。

渡辺京二特集

2007-09-01 22:43:29 | 書評
「逝きし世の面影」のあと、渡辺京二氏の本を3冊ほど続けて読んだ。「江戸という幻景」「なぜいま人類史か」「近代をどう超えるか」
「逝きし世の面影」で新鮮な衝撃があったので自分の生き方に何らかの再考のヒントを得たいと思ったためだが、正直それほどダイレクトに結びつくものを見つけることはできなかったという気がする。

ぜんぶでたった4冊のみで、それらもそれほど読み込んだともいえないのでえらそうなことはいえないが、おそらく問題意識がシンクロしなかった、ということだろう。「一つひとつ具体性を持った生々しい生命活動をグローバリズムは単純化し、抽象化してしまう。その結果、生きていることの内容が貧しくなってしまう。」と渡辺氏はいっている(9.11とグローバリズム)が、これは、神々がつかさどると考えられていた天候や星の動きが科学によって人々の現実認識から追放されたように、ある意味必然ではなかろうか。
そういったことに反抗するため人々は古き神を復古させたり(イスラム原理主義)自らの神秘認識=意味認識を構成していてその最先端が東京の秋葉原である、と思うのだが。この後者の動きがある意味大きくは閉塞していた、というか包まれ守られていた江戸の中で醸成された文化に似た物をもたらすのかなあ、とは思う。あまり筆者の好む方向ではなさそうだが、是非そのうち触れてもらいたい話題である。