あーあ、これを最後に大航海は休刊となった。思想なき時代に羅針盤も探検もないぞ、ということなのかな。
それにふさわしく最後の特集は「ニヒリズムの現在」である。面白かったのは現代芸術特集の前号と何やら通底するものが感じられたことである。現代芸術も思想も、はたまた我々の日常も大きな価値・外から与えられる価値なしの中でのもがきなのか。これをまとめるのはかなりしんどい。とりあえず半分ぐらいの論考に言及しておく。
(佐伯、松原)
経済学者2人の話はともに面白くない。思想的パースペクティブが短くなるし、ほかの思想の世界ではあんまり面白くもないナイトの不確実性なんて話が有難く語られたりするわけだしね。
それと、最近の金融危機を何らかの象徴にしようとする、というか象徴にせよという期待に応えようとするところも無理があるかなあ。むかしっからブームとバーストは資本主義の運命だからね、今回に限ったことでなく以前からあるわけで。むしろどういう経済体制を選ぶか、社会主義の実験に失敗したいま、ニヒリズム・価値多様化の現在に適応する経済体制とはなにか、あるいは現在の体制が人々の倫理観や知性・認識にどう影響しているかを論じたほうが面白いと思うがなあ。しょせん思想・歴史の分野では経済学者は素人ってことのように見えたなあ、僕には。
(ザ・スタティーズ・オブ・ザ・グローバルニヒリズム: 古田博司)
「ありもしない理想主義がその価値を喪失することという、ごく一般的なニヒリズム解釈をもってすれば、現在の先進国において、人々のニヒリズムへの覚醒の広がりには日々目を見張るものがある」
うん、いいまとめだ。簡単なようでいて鋭い。特に「ありもしない理想主義」という言い方。この部分で普通は些かの躊躇いがあるのが普通だがここではばっさり。それは、
「経験科学・実証研究の進歩→冷戦構造の崩壊→インターネットの拡大→グローバリゼーションの進展」
でおきた。要はキリスト教と同じで、知識の蓄積が知識を笠の下に収めていたメタ概念を破壊したということだ。 ま、作業仮説が壊れるようなものである。ところで日本では科学・研究の結果は2000年になってからだって。そういえば知識人がペシミズム・ニヒリズムを語り始めたのはかなり遅い印象があるね。
古田氏によると、メタ物語がなくなると実証のための事実収集に恐ろしく手間がかかるそうな。まあ権威ある話がなくなったからねえ。そうやってメタ物語がない中で実証主義をこつこつとやるのだがそれも大変なばかり。それに実証過程での思い込みは不可避で、けっきょく思い込みが残存する。
さて、そのあとのグローバリゼーションだが、要は資本主義が各国に広がった。でも民主主義はやってる国があったりやっていない国があったりする。民主主義をやっていない資本主義国の元気が良い(ロシア、中国、インド)。もちろん資本主義もうまく行かない国だってある。
こうして世界は資本の論理も貫徹しないし、民主主義も中途半端にしか広がらないだらりとした世界になった。アメリカの衰退は多極化ではなく無極化をもたらした。「いい加減な資本主義」がはびこった。
インターネットの広がりは悪意なき誤記・誤謬の情報を増幅、悪意ある嫉妬や憎悪を広めた。便利にして有害な情報の氾濫である。こうした中で人々の道徳を論じる気力は磨耗して行く。また既存メディアはネット上の言説に対し差別化を図るべく、傲慢にも精度の低い奇麗事を流す。そうしてゆっくり落ちぶれてゆく。
このような中、旧倫理にかわり有用性が新道徳として登場して来ている。
「もしかすると、哲学や倫理学、それ自体がいまや残照となっているかもしれない。今を生きるのに、哲学や倫理学がいるだろうか。恐らくは、要るまい。」
(栗原裕一郎「ゼロ年代の想像力・・・」)
これは宇野某などの言説に対する反論のようであまり感心なし。
(「ポストモダン・ニヒリズムとは何か」仲正昌樹
ボートりヤール「近代性という19世紀の真の革命、それは、仮象=見せ掛けのラディカルな破壊であり、世界を脱呪術化し、解釈と歴史の暴力にゆだねることなのだ。」「第二の革命、つまり20世紀の革命である脱・近代性の革命は、意味の破壊の巨大なプロセスであり、それ以前の仮象=外観の破壊に匹敵する。」
ということで19世紀に神から自由になった人間は自らが依拠する価値を見出さねばならず、それが重荷となり、あるいは何もないことがわかり、第二の革命が生じた。自由意志も突き詰めれば何のことやら輪郭がわからなくなる。自らの意思によって諸価値を創造しているつもりでも、その"私の意志"自体は"私の意志"によって生み出されたわけではない。ニーチェは、それがたとえ物理的因果によりプログラム的に「意志」させられられているだけであっても、その矛盾に耐えて現在のあるがままの自分を肯定しようとして「永久回帰」を持ち出した。しかし客観的にはこれは負け惜しみである。
第二の革命は「人間」を価値の源泉として浮上させたことにより、人間自身の中心にブラックホールのような(空虚な)深遠が開いているかもしれないことがわかった、ということである。ニーチェはこのことの哲学的表現者だが、
「二十世紀の芸術や美学、あるいはそれらと結びついた政治は、「意味」の根源が実は空洞になっていることを暗示する、自己暴露=意味破壊的な表象形式を志向する様になった。シュルレアリスムやダダイズムに見られるそうした・・・」
論議は転じてニヒリズムの変質に行き着く。論議を簡略して言うと、次のボードリヤールのまとめで象徴される。
「ニヒリズムは歴史的にみても、かつては活動的で暴力的な幻、神話と光景だったが、いまや諸事物の透明な機能性の中に移行したのである。」
で、そういうニヒリズムをどうするか、ということだが、まあ見つめ続けよう、強引に新たな価値の源泉を探すのではなく、ということだそうだ。ま、妥当なところかな。かなり勉強になる論考である。
(「ニヒリズムという前提」貫 成人)
いろいろ勉強になるのだが、ざくっと最後のところでまとまっている。
「ニヒリズムは、現行の「価値」「真理」「実態」がいかなる事実的諸構造から生まれたか、そのメカニズム、「原因」を明らかにし、「自然史」における諸価値の実体化や神話化、あるいは「本質主義」を防止する。「人格」「自我」「自由」といった語によって陥りがちな思考停止を回避し、偽りの実態を形成する流動的構造を直視するための装置がニヒリズムなのであり、それは、既存の視線とは異なる焦点深度、異なる思考回路を見出すための前提なのである。」
と書いてみると、なんだこれって健全なダダじゃん、僕の基本的方向性じゃん、尊敬するファイヤベントそのものじゃん、って思うね。僕はこれからニヒリストを名乗ろうw。
(「夭逝者たちのニヒリズム」石井洋二郎)
人生不可解、と華厳の滝から飛び降りた藤村操、「20才のエチュード」を残した原口統三、並びに才女長沢延子の3名が語られている。
藤村に関しては世界の意味を理解することが人生の意味を理解することと同義である、との観念に縛られ、世界不可解ならば生きる価値なし、といってしまっている。実はこれは僕にもおぼえのある世界。30ぐらいまでは世界の意味と自分の存在の意味は結びついていた。徐々にわかるのは、意味が分んなくても生きていくぶんには支障がない、ということw。そうなんだよなあ。
原口はニーチェに心酔しつつ「こいつ威張りすぎ、強がっている」「永久回帰で宿命を受け入れるとかがたがたいってないではよ死ね」と、本質的にはいっているようだね。これは実に尤も。で、彼は死んだ。
長沢は「ニヒルの明るさ」を語る。光の不在ではなく「世界を分節するもろもろの差異を見えなくさせてしまうまでに拡散した光の過剰」。これは実は僕は見たことがある心象風景だ。それも確かに「ニヒル」として。なにやら空しい気分とともにイメージした記憶がある。なお、このイメージは上で仲正が引用するボードリヤールの(ポスト・モダン)ニヒリズムと似たイメージをもつ。
それにふさわしく最後の特集は「ニヒリズムの現在」である。面白かったのは現代芸術特集の前号と何やら通底するものが感じられたことである。現代芸術も思想も、はたまた我々の日常も大きな価値・外から与えられる価値なしの中でのもがきなのか。これをまとめるのはかなりしんどい。とりあえず半分ぐらいの論考に言及しておく。
(佐伯、松原)
経済学者2人の話はともに面白くない。思想的パースペクティブが短くなるし、ほかの思想の世界ではあんまり面白くもないナイトの不確実性なんて話が有難く語られたりするわけだしね。
それと、最近の金融危機を何らかの象徴にしようとする、というか象徴にせよという期待に応えようとするところも無理があるかなあ。むかしっからブームとバーストは資本主義の運命だからね、今回に限ったことでなく以前からあるわけで。むしろどういう経済体制を選ぶか、社会主義の実験に失敗したいま、ニヒリズム・価値多様化の現在に適応する経済体制とはなにか、あるいは現在の体制が人々の倫理観や知性・認識にどう影響しているかを論じたほうが面白いと思うがなあ。しょせん思想・歴史の分野では経済学者は素人ってことのように見えたなあ、僕には。
(ザ・スタティーズ・オブ・ザ・グローバルニヒリズム: 古田博司)
「ありもしない理想主義がその価値を喪失することという、ごく一般的なニヒリズム解釈をもってすれば、現在の先進国において、人々のニヒリズムへの覚醒の広がりには日々目を見張るものがある」
うん、いいまとめだ。簡単なようでいて鋭い。特に「ありもしない理想主義」という言い方。この部分で普通は些かの躊躇いがあるのが普通だがここではばっさり。それは、
「経験科学・実証研究の進歩→冷戦構造の崩壊→インターネットの拡大→グローバリゼーションの進展」
でおきた。要はキリスト教と同じで、知識の蓄積が知識を笠の下に収めていたメタ概念を破壊したということだ。 ま、作業仮説が壊れるようなものである。ところで日本では科学・研究の結果は2000年になってからだって。そういえば知識人がペシミズム・ニヒリズムを語り始めたのはかなり遅い印象があるね。
古田氏によると、メタ物語がなくなると実証のための事実収集に恐ろしく手間がかかるそうな。まあ権威ある話がなくなったからねえ。そうやってメタ物語がない中で実証主義をこつこつとやるのだがそれも大変なばかり。それに実証過程での思い込みは不可避で、けっきょく思い込みが残存する。
さて、そのあとのグローバリゼーションだが、要は資本主義が各国に広がった。でも民主主義はやってる国があったりやっていない国があったりする。民主主義をやっていない資本主義国の元気が良い(ロシア、中国、インド)。もちろん資本主義もうまく行かない国だってある。
こうして世界は資本の論理も貫徹しないし、民主主義も中途半端にしか広がらないだらりとした世界になった。アメリカの衰退は多極化ではなく無極化をもたらした。「いい加減な資本主義」がはびこった。
インターネットの広がりは悪意なき誤記・誤謬の情報を増幅、悪意ある嫉妬や憎悪を広めた。便利にして有害な情報の氾濫である。こうした中で人々の道徳を論じる気力は磨耗して行く。また既存メディアはネット上の言説に対し差別化を図るべく、傲慢にも精度の低い奇麗事を流す。そうしてゆっくり落ちぶれてゆく。
このような中、旧倫理にかわり有用性が新道徳として登場して来ている。
「もしかすると、哲学や倫理学、それ自体がいまや残照となっているかもしれない。今を生きるのに、哲学や倫理学がいるだろうか。恐らくは、要るまい。」
(栗原裕一郎「ゼロ年代の想像力・・・」)
これは宇野某などの言説に対する反論のようであまり感心なし。
(「ポストモダン・ニヒリズムとは何か」仲正昌樹
ボートりヤール「近代性という19世紀の真の革命、それは、仮象=見せ掛けのラディカルな破壊であり、世界を脱呪術化し、解釈と歴史の暴力にゆだねることなのだ。」「第二の革命、つまり20世紀の革命である脱・近代性の革命は、意味の破壊の巨大なプロセスであり、それ以前の仮象=外観の破壊に匹敵する。」
ということで19世紀に神から自由になった人間は自らが依拠する価値を見出さねばならず、それが重荷となり、あるいは何もないことがわかり、第二の革命が生じた。自由意志も突き詰めれば何のことやら輪郭がわからなくなる。自らの意思によって諸価値を創造しているつもりでも、その"私の意志"自体は"私の意志"によって生み出されたわけではない。ニーチェは、それがたとえ物理的因果によりプログラム的に「意志」させられられているだけであっても、その矛盾に耐えて現在のあるがままの自分を肯定しようとして「永久回帰」を持ち出した。しかし客観的にはこれは負け惜しみである。
第二の革命は「人間」を価値の源泉として浮上させたことにより、人間自身の中心にブラックホールのような(空虚な)深遠が開いているかもしれないことがわかった、ということである。ニーチェはこのことの哲学的表現者だが、
「二十世紀の芸術や美学、あるいはそれらと結びついた政治は、「意味」の根源が実は空洞になっていることを暗示する、自己暴露=意味破壊的な表象形式を志向する様になった。シュルレアリスムやダダイズムに見られるそうした・・・」
論議は転じてニヒリズムの変質に行き着く。論議を簡略して言うと、次のボードリヤールのまとめで象徴される。
「ニヒリズムは歴史的にみても、かつては活動的で暴力的な幻、神話と光景だったが、いまや諸事物の透明な機能性の中に移行したのである。」
で、そういうニヒリズムをどうするか、ということだが、まあ見つめ続けよう、強引に新たな価値の源泉を探すのではなく、ということだそうだ。ま、妥当なところかな。かなり勉強になる論考である。
(「ニヒリズムという前提」貫 成人)
いろいろ勉強になるのだが、ざくっと最後のところでまとまっている。
「ニヒリズムは、現行の「価値」「真理」「実態」がいかなる事実的諸構造から生まれたか、そのメカニズム、「原因」を明らかにし、「自然史」における諸価値の実体化や神話化、あるいは「本質主義」を防止する。「人格」「自我」「自由」といった語によって陥りがちな思考停止を回避し、偽りの実態を形成する流動的構造を直視するための装置がニヒリズムなのであり、それは、既存の視線とは異なる焦点深度、異なる思考回路を見出すための前提なのである。」
と書いてみると、なんだこれって健全なダダじゃん、僕の基本的方向性じゃん、尊敬するファイヤベントそのものじゃん、って思うね。僕はこれからニヒリストを名乗ろうw。
(「夭逝者たちのニヒリズム」石井洋二郎)
人生不可解、と華厳の滝から飛び降りた藤村操、「20才のエチュード」を残した原口統三、並びに才女長沢延子の3名が語られている。
藤村に関しては世界の意味を理解することが人生の意味を理解することと同義である、との観念に縛られ、世界不可解ならば生きる価値なし、といってしまっている。実はこれは僕にもおぼえのある世界。30ぐらいまでは世界の意味と自分の存在の意味は結びついていた。徐々にわかるのは、意味が分んなくても生きていくぶんには支障がない、ということw。そうなんだよなあ。
原口はニーチェに心酔しつつ「こいつ威張りすぎ、強がっている」「永久回帰で宿命を受け入れるとかがたがたいってないではよ死ね」と、本質的にはいっているようだね。これは実に尤も。で、彼は死んだ。
長沢は「ニヒルの明るさ」を語る。光の不在ではなく「世界を分節するもろもろの差異を見えなくさせてしまうまでに拡散した光の過剰」。これは実は僕は見たことがある心象風景だ。それも確かに「ニヒル」として。なにやら空しい気分とともにイメージした記憶がある。なお、このイメージは上で仲正が引用するボードリヤールの(ポスト・モダン)ニヒリズムと似たイメージをもつ。