4月ぐらいから「村上春樹マイブーム」があった。今度こそは何とか、と思い「世界の終りと・・」などをかなりじっくり読んだ。以前に集中して読んだときよりはかなり理解や納得も進んだようには思う。しかし最後まで肉薄できなかったかなあ。残念ながら。
それを説明するのに加藤弘一氏の下の解説をベースに論じてみよう。加藤氏の解説は思想とかほかの小説家や評論などの引用を振り回したりすることなく、村上の小説そのものをじっくり読みこれを解題している。その意味でわかりやすくまた素直な論議であり、腑に落ちる点も多い。
http://www.horagai.com/www/txt/haruki2.htm
http://www.horagai.com/www/txt/haruki1.htm
ただ、悲しいことにこれを見て再び小説を読むと、加藤氏の描くようなコントラストがはっきりした造形が決して僕には読み取れない。「ノルウェイ」の場合で言えば、こんな具合(><は加藤氏の論)。
>永沢の高いプライド、克己心、漁色は現実への過剰適応であり、内部は荒涼としている。<
なるほど。そう言われると永沢みたいな嫌味なやつが登場している意味がよくわかる。でもですね、加藤氏はこれを、人生すべてをゲームとみなすがごとき永沢の発言から導出している。しかし、そりゃ乗りでそう言うこともあろうし、その時点で永沢が自分のことをどこまでわかっているのかもいかがなものか。学生の自己規定なんてろくにアテに出来ない、とおもうけどなあ。
>ワタナベの直子に対する加害性。緑とのデートを逐一報告することで致命的に加害的<
それで直子は悪化していったというのだが、これはそう読めるのかなあ? 直子だってワタナベと友達でいたいのか恋人になりたいのかはっきりしてないしなあ。そもそも離れているからそのへんの機微はわかりにくい。たまに行ったとき手でワタナベを慰めてくれるということが彼女の愛の表現? いや死んだキズキの友達であるほうがよい? でも直子はもともと異界の住人だったしなあ。何が出来るってんだ?
>それでレイコを形代に和解の儀式を演ずる<
これは加藤さん以外の人もそういう指摘をしている人は多い。しかし僕は納得しないなあ。直子が死ぬ前に服はレイコさんに、と書き残したことと、レイコがワタナベを訪ねてきて結果として性交したことが繫がって、これが和解の儀式、って言うことらしいけど、それじゃあ安手の刑事ドラマみたいだよね。あるいは生じてしまった偶然の出来事にあと付けで解釈を加えているというべきか。
えっと、まだ何点かあるがここまで書いてきてわかったことがある。加藤氏のようなしっかりした読み方をする人は、村上の発する微弱なシグナルをある種増幅してコントラストの強い像に焼きなおす。で、僕が乗り切れないのは、そうした増幅がやや安っぽいことに思われ、判断留保をしてしまうのだろう。
微弱なシグナルややさしいヒネリから、独断と偏見と割り切りでどう解釈を立ちあげるのか、ということが村上世界を理解するコツなんだろうなあ(その意味では「世界の終り・・」はわりと陽表的要素が多いかな)。そういうのって、現代美術を見ているような話で、興味をもって、あるいは理解しようとして眺めているときは作品ごとの微差やヒネリに興味そそられるが、一歩建物をでてしまうと微差は微差、多くはさして印象を残すほどのものでなし。僕にとっては、あるいは僕は、まだその程度だな。とりわけノルウェイは。ともあれ、まもなく届く「蛍」(ノルウェイの元となった短編)を含む短編集で今回は締め。次のマイブームはいつのことになりますやら(笑)。
それを説明するのに加藤弘一氏の下の解説をベースに論じてみよう。加藤氏の解説は思想とかほかの小説家や評論などの引用を振り回したりすることなく、村上の小説そのものをじっくり読みこれを解題している。その意味でわかりやすくまた素直な論議であり、腑に落ちる点も多い。
http://www.horagai.com/www/txt/haruki2.htm
http://www.horagai.com/www/txt/haruki1.htm
ただ、悲しいことにこれを見て再び小説を読むと、加藤氏の描くようなコントラストがはっきりした造形が決して僕には読み取れない。「ノルウェイ」の場合で言えば、こんな具合(><は加藤氏の論)。
>永沢の高いプライド、克己心、漁色は現実への過剰適応であり、内部は荒涼としている。<
なるほど。そう言われると永沢みたいな嫌味なやつが登場している意味がよくわかる。でもですね、加藤氏はこれを、人生すべてをゲームとみなすがごとき永沢の発言から導出している。しかし、そりゃ乗りでそう言うこともあろうし、その時点で永沢が自分のことをどこまでわかっているのかもいかがなものか。学生の自己規定なんてろくにアテに出来ない、とおもうけどなあ。
>ワタナベの直子に対する加害性。緑とのデートを逐一報告することで致命的に加害的<
それで直子は悪化していったというのだが、これはそう読めるのかなあ? 直子だってワタナベと友達でいたいのか恋人になりたいのかはっきりしてないしなあ。そもそも離れているからそのへんの機微はわかりにくい。たまに行ったとき手でワタナベを慰めてくれるということが彼女の愛の表現? いや死んだキズキの友達であるほうがよい? でも直子はもともと異界の住人だったしなあ。何が出来るってんだ?
>それでレイコを形代に和解の儀式を演ずる<
これは加藤さん以外の人もそういう指摘をしている人は多い。しかし僕は納得しないなあ。直子が死ぬ前に服はレイコさんに、と書き残したことと、レイコがワタナベを訪ねてきて結果として性交したことが繫がって、これが和解の儀式、って言うことらしいけど、それじゃあ安手の刑事ドラマみたいだよね。あるいは生じてしまった偶然の出来事にあと付けで解釈を加えているというべきか。
えっと、まだ何点かあるがここまで書いてきてわかったことがある。加藤氏のようなしっかりした読み方をする人は、村上の発する微弱なシグナルをある種増幅してコントラストの強い像に焼きなおす。で、僕が乗り切れないのは、そうした増幅がやや安っぽいことに思われ、判断留保をしてしまうのだろう。
微弱なシグナルややさしいヒネリから、独断と偏見と割り切りでどう解釈を立ちあげるのか、ということが村上世界を理解するコツなんだろうなあ(その意味では「世界の終り・・」はわりと陽表的要素が多いかな)。そういうのって、現代美術を見ているような話で、興味をもって、あるいは理解しようとして眺めているときは作品ごとの微差やヒネリに興味そそられるが、一歩建物をでてしまうと微差は微差、多くはさして印象を残すほどのものでなし。僕にとっては、あるいは僕は、まだその程度だな。とりわけノルウェイは。ともあれ、まもなく届く「蛍」(ノルウェイの元となった短編)を含む短編集で今回は締め。次のマイブームはいつのことになりますやら(笑)。