御託専科

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「いきなりはじめる仏教生活」 釈徹宗

2019-01-27 17:32:41 | 書評

前に一度読んだことがあり、確かに一部線が引いてあったりしていた。ただその時はあまり印象に残ってなかった。改めて読み直して、今回はちと衝撃を受けました。

最初の2章では、現代が「自我を煽る」構造であるということを言っていて非常に興味深い。池田小学校の宅間の話から始め、まあこれは極端にせよ煽られた自我と現実のギャップを作りそれに苦しむ人びとを生むのが近代である、としている。このへん、「多くの人は親からちやほやされて可能性を信じるとか言われて自己評価が高すぎるまま社会に出る」「そして成功できないことを他人のせいと社会のせいにする」「自己評価を下げろ、絶望から出発しろ」と常々言っているZvezda氏とパラレルな主張だね。

で、もう一つ言っているのは(作者はダイレクトにはそういう言い方はしてないが)、近代というのはキリスト教の骨格の中に啓蒙が乗り移ってせいりつした。もともとキリスト教は直線的な進歩史観を持っていて、現在を耐えて将来の(天国での)幸福を願い、また信仰の単位は神対個々人である。特にプロテスタンティズムになると個人対神という側面がさらに強くなる。それが啓蒙の個人主義と非常にマッチして、直線的な史観は進歩史観と同類であり、理想を目指して精進する制振(ウェーバー)もあわさり近代というのが発生し成長した。すごく面白い見方で自分としてはウェーバーの言ってることがようやく分かったような気がする。
イスラム教はこれに対して根っこが違うって言うか、政治・生活・信仰すべてがイスラム教に覆われている。なので信仰が個人化して見えなくなって社会は脱宗教化していくというプロセスは取れなかった。

それ以降は仏教の実践について語るが、正直言ってちょっとじれったかった。日々の習慣とか具体的な修行とかそういったものがどんどん出てくるかと思ったけどそうではなく。二河白道や十牛図修行みたいなのでゆっくりと仏教徒はなにかみたいな話をじわりじわりとする。なんだ詰まんねえ、と思ったがようやく終りの6-7章ぐらいからまた面白くなる。「あなたは仏教を知っている」「日本人の生活の中には結構入ってる」などという。
あの世のことはまあよく聞かれるんだけども、「実は大きな声では言えないですけど私もよく知らないんですよ行ったことないんですよ」なんてとぼけたことを言う。そんな具合でこれさえあればいい、とかあーだとかこうだとか、そういう決めつけられるものでは何もない、すべてが幻である、幻であるけど幻じゃないかもしれない、というような、ある意味わけわからん話をじわじわとしてゆく。あの世というものを固いものにしてそこから見下して考える セム系の宗教ではありえん曖昧さであり柔軟さである。

んで、終章の7章から若干抜粋。

>あらゆるものは様々な要素が関係しあって、一時的に成立している、というのは仏教の基本的立場です 。

>恒常的個人などないが、また逢う世界は間違いなくある、仏教ではそのように考えます。

>この世もあの世も全ては虚構と感じつつ、虚構だからこそなおさら常にケアし続けていなければ簡単に崩壊するものだと理解して、生と死の物語を大切にしようじゃないですか

>外部への回路を開きつつ今ここに生きる

また読むだろう。


ダグラス・マレー「西洋の自死」

2019-01-14 11:19:04 | 書評
ヨーロッパが難民の受け入れにより変質し、自死ともいえる変化を始めており、それはおそらく不可逆というお話。難民による社会の変質は結構以前から続いており、それに対してヨーロッパは驚くほど無防備だったようだ。
それでも最近の難民の量は圧倒的である。僕でも覚えている例の子供の溺死体のセンセーショナルな報道は受入増加という意味ではやはり決定打であったようだ。国内を締め付け辛うじて秩序を保っていたアラブの独裁政権たちがアラブの春で倒れ、その結果として国内が乱れて難民が流出する。これらは既にギリシャやイタリアをひどく疲弊させていた。メルケルは移民について2014年末に既に前向きの(あるいは反対派をたしなめる)メッセージを発していた。ただここまではある意味理性的な両派の論議が可能な状況だった。
しかし7月ごろからドイツではメディアでの移民・難民の取り上げられ方がセンセーショナルなものになる。7月には難民の少女がメルケル臨席の生番組で泣き出すということがあった。8月にはメルケルは難民問題へのより積極的な関与を表明、「欧州の門戸を開いた」形となり、多くのマスコミが賛意を示した。この時点ではまだ反対論は表明されていたが、メルケルの声明の2日後、シリアの少年アライン・クルディの溺死体の写真がでかでかと報道される。これ以降難民に関する論議はすべて感情的要素が支配的となり、難民への障壁は次々と崩れていった。
なんというか、平和ボケ、じゃないが善人ボケだね。いいひとごっこというか。白豪主義の裏返しの慈善主義というべきものか? 日本だとここまで感情的に崩れるとは思いにくい。

昔にユーロが発足しようとした時、僕は「固定交換レート下では人の移動で経済格差の調整が行われる(労働の限界生産性の高いところに労働者が移動)はずだが、ヨーロッパといってもさすがに言語・文化の違いはあり、それほど進まないかもしれない」「となると、日本の大都市集中のように(日本国内は単一通貨)、地方の貧困化と資本・人材の東京等大都市集中が生じる。それを緩和するため地方交付税交付金があるが、ユーロではそういうやり方は政治的に困難なのでは?」などと思い、また人にも言っていた。
その後ユーロが発足してしばらくしてから南欧の困難とドイツの一人勝ちが定着した。ドイツはマルク高に悩まされず自国にとっては割安なユーロのレートのおかげでごっそり儲かっており、南欧は逆に自国にとって割高なユーロのレートで困難が生じているのに、ドイツは南欧の困難は自業自得と言って援助に渋面を見せる。ここは明治以来人材を地方から吸い上げてきて、実際吸い上げられてきた人間かその子孫で構成される東京の政治経済のエリートたちとはずいぶん認識が違う。まあ国が違えば仕方がないかもしれないとは思うが。
ということで後者の予言というか懸念は正しかったのだが、前者の方はさすがに言語・文化の壁が少なからずあったようで目立たなかった(ゆえに南欧の失業率は高かった)。ところがここでついに、押し寄せる難民がドイツ・スウェーデンを目指して、労働市場の調整に動く、という皮肉な結果が生まれているようだ。難民の動きは経済合理的であって、失業率の低い国に押し寄せるのは当然のことである。ドイツはより難民に悩まされ、その結果競争力が低下して他の地域との均質化が図られる、ということなのだろうか?

まあ、著者の言う通りヨーロッパは死ぬのだろう。それも自らの態度が招いた結果として。特に、非寛容なイスラム教徒を、特にスンニ派を無警戒に過度に寛容に招き入れるのはあまりに無警戒だったとしか言いようがない。この先ヨーロッパが「守られる」とすれば、いささか暴力的なものも含む強度の移民排斥の動きがある、と想定せざるを得ない。もしそれが起こるなら早い方がいい。少しでも犠牲は少なくなるように思う。