御託専科

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椹木野依「反アート入門」再読

2019-11-13 15:16:20 | 書評
なんと椹木氏の本はこの本だけではなく他に2冊2011年に読んでいるようだ。書庫に見当たらないので他の2冊は図書館ものだろうな、たぶん。

さて、「反アート入門」再読の感想・まとめ。いやこんなに内容の濃い本だったけ、と自分の記憶力のなさにあきれる(笑)。

そうはいっても2章まではそれなりに消化できているようだ。あいトレをきっかけに、考えたというか思い出した見方が、
①現代美術は多言を要するものでありまた背景を必要とするもので、作品自体はその全体の文脈の中の挿絵に過ぎない。
②その意味において現代美術は骨董趣味と酷似する。だからある意味内輪でああでもないこうでもないとやっていればよろしい。
であったが、2章までを読むとほゞこれに沿っている。
もちろん美術史の中ではミニマリズムとそれへの反撃、更にスミッッソンの「全体主義」(というべき?)、頭でっかちで手技なしの究極であるコンセプチュアルアートなどなど当事者としてはまた美術史的には大きな事件があるわけではあるが、次第に外の人間にはどうでもよい世界になってきていたといっていい。
なおコンセプチュアルアーティストに日本で最も近いのがコピーライターあるいは電通のディレクター・プロデューサー、というのは秀逸な説明だ。

しかし3章からは僕は消化できていなかったようだ。2章までで戦後のアメリカの東海岸を舞台としたアートの流れが精緻化をきわめてある意味行き詰まったことを述べているが、これに対し西海岸ではヘルターケスター的グロテスクで無意識的でエネルギーにあふれた美術が勃興した。加えてその後冷戦が終了しグローバル化が進んだことで旧共産圏や発展途上国の豊饒なアートが欧州・米西海岸を中心としてきた美術界にあふれるように流れ込んできた。
新しい勢力は従来の批評家や美術史家の影響をあまり受けず、コマーシャルギャラリーや大規模オークション、新興コレクターによって支えられた、証券市場と見まがうような市場で成功を重ねていった。抑制なき市場では新人の青田刈りが盛んにおこなわれ、そういう中ではおとなしく美術史の文脈の中での価値を尊重するものよりも「価値の破壊者」が歓迎された。ダミアンハーストはその典型である。批評家や美術史家の定める「価値」は遠い過去となり、市場参加者の思惑と気まぐれが支配する投機市場のごとくになった。そのような市場で最も活躍するのが中国人である。文革で歴史的更地に一旦なったことがむしろ有利に働いているのかもしれない、とは著者の見立て。
日本では美術からそして日常の文脈から「もの」を引きはがして素で見せる「もの派」へと純化が進んだが、これはやはり社会から乖離したある意味行き詰まった、マニアックな世界となっていた。これは70年代の芸術全般に見られる傾向であった。これを打破したのが「関西ニューウェーブ」である。もはや「現代美術」とはいいがたい横尾、日比野などのイラスト、蛭子の漫画などなどがあった。この流れは現代美術の枠内にとどまるものではなかったが、その現代美術部分の「断面」が90年代の村上、会田の登場を用意した。世界の流れ同様、彼らはそれまでの歴史(もの派)とはいったん切断している。

こうして美術市場は美術史を背景とした「価値」が支配する世界から、歴史から分断された金持ちとディーラーたちが「価格」を支配する世界となった。それで4章からは貨幣とアートの類似性について語られる。ここの部分の論議は経済系の人間である小生にはその通りと思われる論議(むしろ株式市場、仮想通貨市場とか言った方がよりぴったりくるかもしれないが)。いくつか面白い論議を紹介。
①油絵は画家が美術史の後任のもと発行する一点物の紙幣。紙幣は国家の国力のもと、多数のエディションを持つ版画作品。
②紙幣同様、絵画も内実より真贋が大事。
③イコンや日本画は金貨銀貨に相当、近代画は紙幣に相当
なおマークシェルとハイデッガーに依った最後のほうの論議はいまいち未消化の印象。

第4章は日本的・東洋的なものを手掛かりとすることによる現状からの脱出を語っているように見える。割と気軽に書いたゆえか骨格がしっかりしていない感じがするが、論議自体は結構エキサイティングである。「絵は有難く見る」という「学び」を捨て、「あらわれ」と「消え去り」を軸とした日本的感性の中で「対象を「有難く押し頂く」のではなく、ある境地へ達するための契機とする」「経験・境地を重視する」「岡本太郎の呪術、柳の民藝の考え方が導きとなる」というようなことを言っている。未整理だが非常に面白い論議。僕としてはざっくりと「完成品とその背景にある美術市場の位置づけや考え方」ではなく「それを契機として到達される境地や経験」を重視すべきである、ということと理解した。
終章ではこの要素がさらに強調され「生の経験か遺物の遵守か」において現状は後者が重視されすぎている、前者を取り戻すべき、というようなこと言っていた。

とりあえず以上。後半は赤線だらけになってまとめにくかったが、なかなかいい本であった。再読前の僕の理解はどうも2章ぐらいまでしかなかったようだね。市場原理が支配するカオスのごとき現状はその後の展開であり村上もそこの住人であるようだ。

Timothy Snyder「Bloodland Europe between Hitlar and Starlin」、大木毅「独ソ戦」

2019-11-09 13:08:14 | 書評
Bloodlandは英文ペーパーバックで544ページもある本。日本語だと上下二巻でそれぞれ三千円。英語のキンドルだと800円だったので昔に買っていて、日本語版の存在を知らなかったので読んだのだが、まあよくぞ英語で最後まで読んだものだ。英語だし内容もきついんで休み休み半年ぐらいかかったがw

内容はただただ陰鬱。ドイツとソ連に囲まれたポーランド、バルト3国及びソ連西部のウクライナ、ベラルーシあたりの悲惨な運命が語られる。この地域は独ソ各勢力に交代交代に占領され、それぞれが虐殺を行った。スターリンとヒットラーの狂気もさることながら、結果非戦闘員を1400万人を殺しそれ以上を労働キャンプに送り込んだそれぞれの国の「装置」があったわけだから、個人的狂気じゃすまないよね、これ。そのあたりはヒットラーやスターリンだけではなく幹部連中の思想や反応の仕方も書いてあり、まあ納得できる話だ。大量餓死を招いたウクライナ農民からの穀物の徴発やユダヤ人の殺戮などが(営業成績を争うような)組織間競争になって振り返る間もない、振り返ってみてもそれぞれのイデオロギーが一定の枠となる様子はなどがよく描かれている。

それにしてもドイツの罪はひどいもんだ。ユダヤ人を、戦闘目的の巻き添えなどではなく殺害を目的として600万も殺し、ソ連兵の捕虜も意図的に飢えさせて300万人殺したっていうんだからね。あとポーランドの非ユダヤ人なども多数。まあ抹殺されてもおかしくない国だな、ドイツは。僕が当時のロシア人ならそう思うだろう。ドイツ国内でのソ連の進軍路の悲惨、被占領のベルリンの無秩序も自業自得と思えばまあそんなものか。ポーランドへの国土一部割譲もまあ、あれくらいは仕方がないかなあ、と認識するね。
ところでドイツ人、ロシア人はこれをどのくらい知っているんだろうか?

上記に続いて「独ソ戦」読了。Bloodlandの補完と思い読んだが思いのほか勉強になった。戦域の詳しい図表が多く非常にわかりやすい。キンドル化を待っていたが紙の本で買ってよかった。図のみやすさはやはり紙が上だね。

41年6月のバルバロッサ作戦がバルト海~黒海にかけての3000キロメートルの広大な前線に渡り300万人以上を投入した作戦だったとは驚くね。恥ずかしながら今まで知らなかった。それで補給も途中からかなわずまた赤軍がフランス軍と違い意に反して頑強だったということで、実は41年8月、作戦開始2か月で、まあそれまで快進撃と勝利を重ねてきたのだが、すでにボロボロになっていたようだ(例えば装甲車両の稼働数は3分の一)。よく言われる日本軍の大風呂敷とか補給軽視以上にこれはひどいね。それからフランスを中国、ソ連をアメリカに置き換えると、弱い軍を相手に快勝して錯覚した軍が無謀にも強い相手に大風呂敷の戦いを挑む、という点でこれまた日本軍とも似ているね。さらに言えばコンティンジェンシープランの欠如も。ちょっと話がそれたが、赤軍もダメージは大きく、10月の時点では、あたかも「殴り合ってフラフラになった巨体ボクサーが2人、かろうじて立っている」状態だったようだ。
日本の開戦がこの何ヶ月後かであった、と言うのは実に悔やまれる話だね。三国同盟解消と連合国への加担だって考えてもいい話だよ。少なくとも開戦はないよね。ドイツのモスクワ進行作戦中止が12月5日ということも考え合わせると、「アホとちゃうかこいつら?」と当時の意思決定者連中には言いたくなるよね。天皇だって立憲君主制下での自制なんて言っている場合じゃなかろうて。そういう視点でまた勉強してみよう。

蹂躙された地域の悲惨さはブラッドランドと矛盾はないが本の重心が戦況推移解説なので相対的には簡単である。「絶滅戦争の惨禍」という副題はちと大げさでは、と思う。まあ類書の中では惨禍の部分に焦点を当てている方かもしれないし、また僕の感じ方がブラッドランドを読んだあとのせいで「惨禍慣れ」しちゃってるかもしれないね。
あと、ドイツ国防軍、国民もヒトラーの「共犯者」であって罪を免れないことは明言しているね。そういうことをしっかり言える時代になっているわけだ。

現代美術、骨董、「啓蒙」の不可能性

2019-11-06 09:35:20 | 書評
(現代美術の「素」での魅力のなさ)
あいちトリエンナーレの揉め事を見て現代美術に関して考えることがいくつかあった。まあ僕は素人で現代美術の愛好家でもないのであんまりいうこともないのだが、やっぱり強く気になったのは現代美術の「素」での競争力・訴求力のなさである。政治性が強いとかいろいろあるにしても、その作品が「オーラ」をもち、見る人を説明なしに文句なく惹きつけるのであれば、今回のことももっと柔らかな方向に収まったような気がする。一般の人(≒納税者)が、問題とされる作品を見て「いろいろあるにせよまあきれいな絵じゃないか、さすがだね」と思うのと、「なんだこの汚いがらくたは?」と思うのでは話の方向は全く違っていたのではないかと思う。現実は後者だったんでもめた。
とはいえ、現代美術は多くの場合「なんだこれ?」みたいなもののことが多いので、「素」での魅力がないことはほとんど宿命である。美しいものは大概描かれてしまったあとの宿命というべきか。(なおこれは現代音楽にも大いに通じる話である)

(現代美術は饒舌に解説されなければ理解されない)
ということで現代美術は、予備知識なしにただ見たり聞いたりして「素敵」「ほほう」と思うことはほぼないといっていい。文脈なり意図なりが理解されなければ鑑賞もできない代物である (誰がデュシャンの「泉」を解説なしに理解できるというのだ?) では現代「以前の」、例えば西洋絵画はどうか、というと、実はそれらも文脈が必要である。ミケランジェロの「最後の審判」はキリスト教を、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」はギリシャ神話を知っておく必要があるだろう。ただ、それらの文脈は一般的なものであり、一応皆に共有されていた(ギリシャ神話は教養人士の間だけだったかもしれないが、それでもまあ広めである)。つまり見る人と作る人に共通の文脈があった。
文脈を知らない人が見るとただ裸の人たちがうようよいる絵に違いないが、そうは言いながらも絵としてはきれいであり、背景の文脈を抜きにして描かれた人々の姿かたちや表情を楽しむことはできるものである。
要約すると、以前の絵画と比較して現代美術は①文脈が一般の人と共有されていない②パッと見できれいでない という2つのハンディを有する。それを超えて作品を見させるためには、文脈についての言語的解説は不可欠である。ただ、最近の作品においては文脈はとても個人的に込み入った考えを背景にしている場合があり、その解説は饒舌なものにならざるを得ない(それをしないのは作家であり批評家の怠惰であると僕は思う)。むしろ言語的解説の「挿絵」として作品がある、というぐらいの考え方でよいのではないかと思う。いや、もちろんピカソの「ゲルニカ」ぐらい文脈がわかりやすければ、多言を聞かずしてみる気にはなるわけだが、デュシャン前後以降の美術の文脈は(おそらく仲間内でのやり取りの末の過剰醗酵によるものだろうが)結構複雑化し個人化しまた難解になっていて、多言を弄してもらわなければわかるはずもない。

(現代美術と骨董品の世界は似ている)
そんなことを考えていて最近思いついたのだが、これって骨董品とかビンテージ物のワインの類と似ているよね。骨董品でいえばその品がどういう人が作らせて・作って、どういう人の手を経て現代にいたっているかということを知らなければ有難味をフルに味わうことができない。習近平がイギリスに訪問した時イギリスは大胆にも天安門事件の年にボトリングされたワインを出したが、これもその文脈を知らなければ当てこすりは空振りとなり、ワインはおいしいかどうかだけで判断される。
古ぼけた陶器や古いしかしありがちの掛け軸がどのくらい価値があるかは、作品自体の「素」の力も否定できないものの、それ以上にその作品が生まれて現代にいたるまでの歴史的文脈が決めるのである、ということだ。(まあ故宮博物館の「翠玉白菜」みたいな、「素」での強さがすごいものは別なような気がするが、その「翠玉白菜」であっても現在の技術を以ってすれば硝子工芸として同等の美しさのものは作れるように思う)。

(現代美術、骨董などの「金持ちの文脈語り趣味」は大衆に押し付けられない)
それで思うのだが、現代芸術はこういう骨董品と同じ扱いでいいんじゃなかろうかと思うのだ。その造形が純粋にいいとかそういうことでなく判断しなければならないのだから文脈は示してもらわないといけないし、できればそういうことを語り合えるサロンとセットで存在するべきであるといってよいと思う。そのサロンでは現代芸術や古ぼけた陶器みたいなわけのわからんものを、主に金持ちの趣味人がああでもないこうでもないと文脈を語りながら鑑賞し売買するわけだ。サロンを脱してこれを大衆化しようとしたりするといろんな無理が出る。あいトレの混乱は実は現代美術と大衆、というかサロンとマスの間の相性の悪さがデフォルメされて表出したんじゃないかなあ。骨董鑑賞を大衆化しようとしたってできない。骨董趣味のない人は実用性とデザイン性で陶器を買うだろう。その由来に金は出さない。ワインだって値段に比して味のいいものを探してくる。歴史の文脈にカネは出さない。現代美術は大衆にはまず売れない。ラッセンや(笑)ヤマガタの後塵を拝する。漫画やアニメにははるか彼方において行かれた。まあそういうことだろう。それは骨董や現代美術が負けたわけではなく、セグメントが違うということなのだ。
 そういう「自然の流れ」であり「素の魅力」の違いを作為的に「あるべき方向」に修正しようとしても難しい。例えば学校教育や公的補助でクラシック音楽は盛んにサポートされているといえようが、ポップスをひっくり返す勢いなど全くない。骨董や現代美術よりはるかに「素」の訴求力が相対的には高いと思われるクラシック音楽でさえもだ。現代美術や骨董なんて普及させるのはまず無理と言っていいだろう。文化権威主義的なやり方がある程度通用した岩波朝日文化華やかなりしころは多少は違っていたかもしれないが、いまやネットで情報が行き渡りアカデミアやマスコミが権威を以って情報をコントロールし色付けして「大衆」を「啓蒙」できるような時代ではなくなった。現代の「大衆」はみんな賢明で正直で、またしたたかである(^^)

ー次は「現代美術、ポストモダン、ソーカル・モブリン」と題して「現代美術の「芸術性」への疑問」を語る予定ー