御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

「現代アートの舞台裏」 サラ・ソーントン

2009-09-27 21:23:43 | 書評
長々と書いた書評を操作ミスで消してしまった。ショックは大きいが気を取り直して、ただし楽にコンパクトに書く。
オークション、カルフォルニア芸大の批評会、バーゼルのアートフェア、ターナー賞、アートフォーラム誌、村上のスタジオ、ベネチアビエンナーレをそれぞれ1章ずつにまとめアートの世界の仕組や関係者や彼らの考え方などを紹介している。あまりに包括的であるためにわかには消化しきれず。章によっては情報量が多すぎるせいか消化不良となったものもある。また読む価値はあろう。ただし焦点を絞るとより面白さがわかるだろう。

焦点を絞る、という意味ではやはり村上のスタジオの章はよく理解できたし感動もした。村上スタジオの8時50分のラジオ体操と人のこき使いぶりにはちょっと笑った。いい方の話。村上が製作スタッフのキャリア形成を積極的に支援しており、カイカイキキで支援している7名のほかにも、作品の制作スタッフには自分の名前をカンバスの裏にかかせているそうな。これは世界的にもこの世界では珍しいそうな。引抜を恐れるのと、「孤高の作家」のイメージを保ちたいのとでみんなこういうことは嫌がるそうな。
また、村上の章の最後ではOvalBuddhaを富山まで見に行く。そこでキュレーターたちが示した感動や村上が古参職人たちから誉められ感謝されたことの嬉しさを素直に述懐する場面などは印象的であった。アートと職人技の美しい交点が日本の富山に生まれた瞬間を見ているようだった。Oval Buddha はいつか皆けれh場。

なお、番外の「あとがきに代えて」は全体のまとめが凝縮されているので、アートとは何ぞやと思ったときは参照すべき章である。

あと、全体的感想をひとこと。案外アートというのは普通の仕事と大きく変わるものではないような気がした。もし仕事もアートも、個性と誠意と能力・技能の発露が文脈との交点でいかに輝くか、ということであるならば。また、アートの世界に「巣食う」連中、批評家やディーラーやキュレーターなど、また「キャラ」で稼ぐアーティストなど が、案外まともな考え方の連中らしい、とは意外な印象であった。もっとも、これは聞いた相手次第の面はあろうが。

現代美術、村上隆、GEISAI#13 などにつきひとこと

2009-09-23 15:37:57 | 書評
未完のメモ・雑記。
原美術館以降、Art it を眺めたり GEISAI の賑わいをHPで見たりしているのだが、どうもよくわからんというか、やがて悲しき気分になってくる。今の気分をまとめると次のようなことになる。

結論:現在のArtのクライアントはエンターテイメント産業であり、そこでの大立者(率直に言って私が最も嫌う人種)がクライアントの代表者であり、権威付けの文脈構成を担う評論家である。

解説:あれこれあるが、決定的だったのはGEISAI#12で秋元康や中村あゆみが会田誠などと並んで個人賞をもっていたのをしったこと。秋元康が「自分はどんなのが受けるかという基準で創作するが、ここにいる人たちは自分の伝えたいメッセージがさきにありきでそれに感動した」と言っている。それは正直なことでありぼくらも同じことがいえるわけだが、だからこそエンターテイナーは芸術家よりも下なんじゃないのか。カネに膝を屈した堕天使なんじゃないのか?何で賞なんか渡してンだよ!!! と、恥を知らぬ様子に大いに腹が立った。

付記:「巷の栄華、下に見て」の魂はもはや共有されなくなったのだろうか?それとも村上さんは、それを取り戻す試みとしてGEISI#13を敢えて郊外で低予算で審査員なしでやるんだろうか?下の村上氏のメッセージからはちょっとそれが感じられる。すばらしいじゃないかい!やるね村上さん!! 是非いこう!!!

GEISAIのHPより:
今回は審査員、いません。そして、出展ブース数は約200ブースのみ。だから、ここからのデヴューはあくまでも本人達の発信力。どうですか?全く違ったGEISAI。「死ぬまで芸術やりますか?」=「Yes we can ! もちろん!!」
どんな境遇でもやり続ける事。人間の表現の根源を問う、今回のGEISAI。あえて、ナンバーズとしてみました!
みなさん、いかがでしょうか???ちあまん-村上隆

加藤陽子「それでも、日本人は「戦争」を選んだ」

2009-09-22 17:28:32 | 書評
加藤さんの論議はいつもいい感じだなあと思っていたので迷わず買った。一時期八重洲ブックセンターの週間ベスト1を占めていたらしいが、ちょっと意外。案外日本人もたししたもんだ。
栄光学園の歴史クラブの生徒への講義という形をとり日清戦争から第二次大戦までを俯瞰している。それぞれの時期をまともに丁寧に掘り起こしているだけに簡単にまとめるのは難しいが、それぞれの掘り起こしや集成は大変貴重である。

最近はよく言われているのかもしれないが松岡洋右がいかにまともな人物であったか、などを初めとして、
ロシア革命をになった人々がフランス革命の帰結としてのナポレオンの登場を反面教師として、トロツキーではなく田舎モノのスターリンをレーニンの後継に選んだこと、
普通選挙運動は三国干渉で遼東半島を返還させられた情けない政府への民意反映運動だったこと、
山縣は日露戦争に反対だったこと、
日露戦争では戦場における中国人民の協力があったこと、
日露戦争後増税が実施され国税10円以上を払う選挙民が2倍に増えたこと、その中に商工業者・実業者が多く含まれていたこと、
アメリカ議会がウィルソン批判の一環として3.1運動を利用して日本を強く批判したこと、
リットン調査団の報告書が出されたあとに陸軍の熱河作戦という閣議決定を経た正当なまた尤もな戦闘により国際連盟の解釈上除名もありうる事態となったが、天皇裁可の取り消しは政治上難しく、除名される前に脱退することにしたこと、
アメリカが日本南進(仏印進駐)に報復したのは、モスクワへ向かってドイツ軍が進行する中、苦戦のソ連を側面援助するためであったこと、
蒋介石はチャーチルにインド人にインド解放を約束せよといい、チャーチルは干渉するなとすごんだことなどなど。

上は小生は初耳だったものを並べているがそのほかにもいっぱいあるのでまた時々見るべし。

さて、序章のところで面白い論議とそれに対する小生の異論があるのでここに記す。
ベトナム戦争の失敗を分析したハーバードのメイ教授はその原因を次の三原則にまとめている。
①外交政策の形成者は、歴史が教えたり予告したりしていると自ら信じているものの影響をよく受けるということ。
②政策形成者は通常、歴史を誤用するということ。
③政策形成者は、そのつもりになれば、歴史を選択して用いることが出来る。
で、加藤さんは「メイ先生の言いたいことをはっきり言ってしまえば、政府を引っ張るような政策形成者は、歴史をたくさん勉強しなさいね、ということです。」とまとめている。
しっかしねえ、誤用だとか偏った適用だとかを事前に論議するのは至難のわざだよねえ。メイが挙げる歴史の誤用の例として「中国の共産化による喪失」というトラウマがベトナムへの介入をさせた、と言っているが、それもどうかなあ。そのトラウマがなくても全ベトナムの共産化を座視するということはありえなかったようにも思うが。
ここはやはり、「大賢は大愚に似たり」だな。歴史とか経験は、知り尽くして超越するか、知らずに正しいことをすれば良い。適用するとか教訓を用いる、といった小ざかしい利用は一番危険なのじゃなかろうか。

原 美術館訪問記

2009-09-21 19:25:53 | 書評
小西真奈の絵に引っかかって、絵に「開眼」したかな、と思ったところで、人から紹介されて前から気になっていた原美術館に本日行ってきた。所蔵のコレクション展をたまたまやっていたのでちょうど良かったかな、と思い入場。

後述するが美術館自体はなかなか良いたたずまい。だが、えっと、こんなど素人にいわれるのはほんと不本意だろうが、コレクション自体は率直に行ってつまらなかった。僕はど素人と認めはするが、それでも面白がるぐらいのことはできると思ったのだ。が、さっぱりだった。最初は美術館の選択眼のせいかとも思ったが、前出の小西のような具象物がない中では現代美術がはらむ一般的問題がより明らかになったということなのかな、と、ど素人ながら考えた。以下はその考察。

現代においてはもう「美術」という枠組み自体が、「素」で提示されるものとしては時代遅れになっているのではないか、というのがひとつの仮説だ。たとえば大島紬のようなものになっているのかもしれない。かつては高度な技術でありほかでありえない美を作り出していたものが今や他のものに負けてしまっている。これを明確に思ったのは曹斐の「RMB City セカンドライフでの都市計画」を見たときだ。6分程度のDVDでこれ自体はそれなりに面白いが、押尾守の「攻殻機動隊」やその続編の「イノセンス」を見た目からはまだまだ習作レベルとしか思われない。ジャパニメーションで培われた強烈なオタク的熱狂とこだわりが巨大なリソース投入でバックアップされれば、個人や小チームの作品を芸術的感興を含むあらゆる面で軽くしのいでしまう。

これに関連する第二の論議。素で立てない「美術」には強力な文脈が必要でありこれに依存する、ということだ。大島紬の和服が茶会など和の儀式を行なう人々の間で着用されまた取引されてかろうじて「正当な価格」を保つように、現代美術もそうした文脈により支えられようやく価値であり価格を永らえることが出来る。じゃあ、その文脈なるもの。村上隆の言う西洋美術の文脈というのは具体的にはまだ理解していないのだが、ともあれ題名を含む「語り」に注目してみる。たとえばカレル・アベルの「広島の子供」という作品があったが、これは題名を見なければ単なる乱雑な色の並びに過ぎない。題名を見たからこそ乱雑な色彩で表現されているはずの原爆の炎の下の子供を捜す。1958年の作品だから、当時は左翼的空気の中で反核気運は盛り上がっており、現在よりもこの作品を支える「文脈」は濃かったろう。とはいえとはいえ、である。結局この作品を見て受ける感興は原爆の悲劇からのものであり率直に言って作品そのものではない。文脈が与える感興、と言えばそれまでだが作品はどこ行ったのだ?

米田知子「フロイトの眼鏡ーユングのテキストを見るー」。フロイトのほかガンジー、ヘッセを使った題名のついた、写真風のものが3つならんでいた。老眼のレンズを通してテキストを見ているだけの写真らしきもの。視点の位置がフロイト自身、見ているモノがユングの文章である。フロイトとユングの関係、とりわけその愛憎を知る人にはある程度の感興が湧こうが、一般的にはどうなのかなあ。フロイトとユングが同時代人でそれなりの愛憎が(特にフロイト側に)あったということは心理系以外の人にどのくらい知られているのかなあ?その文脈にぐっと依存してるから知らない人には意味ないよねえ。そういうひねった文脈を知らなければ分らないんじゃあ、多少手の込んだクイズみたいなもんだよね、ちょっとスノッブ趣味の。
2つほど例を挙げたが、感興を文脈に依存し過ぎているし、その割には文脈を充分語っていない。そのへんが妙に不満だなあ。村上隆の言う文脈を理解しろ、文脈に切り込めって言うのはそういうことを含むのかもね。つまり、初歩的に言えば「文脈を語れ!」ということ。

ということで展示物への満足感はいまいち。正直言うと、来る途中で大事な手帳を紛失して機嫌が悪かったので作品に八つ当りしてしまったかも(笑)。
しかし、美術館自体はよろしかったですな。とくに中庭に面したカフェは何かの撮影に使えそう。また客層は画学生、若いカップル、中高年カップルが主かな、あと女性2人組も。子供とか男の集団といった、何かとうるさい連中のいない落ち着いた空気でした。ひとりで食事をしたがなにやら海外の、日本語以外のざわめきの聞こえるレストランにいる感じでとてもよかった。



小西真奈 「私の馬」 (絵画)

2009-09-19 06:58:45 | 書評
昨日、勤め先のあるビルの併設美術館で美術展があったのでチケットをもらって行った。本命の企画展は今ひとつ(後述)だったのだが、所蔵品展示がとてもよく、とりわけ小西真奈の3点にぐっと捕まえられてしまった。その中でも「私の馬」という、一見さして変哲のない絵はずいぶんひきつけられた。画面左寄り(高さは真ん中)あたりに、右を向いた馬がいる。画面右にはそれと向かい合う「私」が紫のワンピースを着ている。顔は遠くから見ると違和感はないが、近くでよく見るとかなり曖昧というかぼんやりと描かれている。全体に遠くからは写真風だが近くでは簡素な書き方がされて入ることがわかる。「私の」両手は胸と顔の中間あたりの前方に上げられている。空は7分の雲に3分の青空。雲は左手は弱い雨雲風、青空と混じったところは秋の雲、「私」の背景にはちょっと力が弱い積乱雲。 画面の下3分の1近くを草地が占める。手前に向かって傾斜が強くなり下っている。良く見ると明暗がわりとはっきりあり、草地の上の真ん中あたりに明るさが集中しているような。そのあたりは傾斜が小さいところだから当然といえば当然だが些か妙な感じあり。雲を見ると光は左手から来ていることになっているのだが、その左手には弱い雨雲がある。右端の下4分の1ぐらいのところに小さく草地の遠景が見えるが、これがやけに明るい色調。これも不思議。そういう光の具合の不思議さへの注目から始まって、何の変哲もない画面全体に不思議さ、味わい深さを感じてしまい引き込まれた。残念ながらというか当然というか、まだ充分にその面白さを言語化出来ない。
ああ、もってかえりたいなあ、と絵を見て思ったのは初めてのこと。いいなあ、という以上の別の感覚があるような。よくわからないけど多分、描いた人の出した謎が充分に解けていないからだろう。あるいはもっと謎を味わいたいからだろう。なあるほど、こうやって人は作者と共振し、そして絵を買うんだなあ、と納得した。
←ふと思ったがダリの絵を見た時に受けた印象に似ているかな。とくに背景の奥行きから受ける感じ。あと、「千と千尋の神隠し」のテーマを歌った木村弓の、きれいな、しかしうつろな感じのする歌声はマッチしそうだ。(19日17:41追記)

なお、本命の鴻池朋子。ま、絵はうまいしそれなりの怪奇イメージは悪くはないがそれまでのこと。「インタートラベラー」という造語にも少々鼻白む。奇怪イメージも人体の一部と他の動物や山などが合体したりしただけのものと言えばそれだけのもの。彼女の夢魔のイメージなのかな。それはそれで意匠としては面白いが、そういう普通でないものを描く、描かなければならない、描かざるを得ない切実さとか病とか怒りが自分には見えなかったね。思いつきで面白い、って具合で描いてるだけで、ディズニーキャラクターを描くのなどとたいした差はない。アート版お化け屋敷、ってところじゃないかなあ、せいぜい。
あとで気がついたんだが、鴻池ってニッセイと付き合いがある財閥だったし、僕の入っているのはニッセイ系のビルだから、「鴻池の絵の好きなお嬢さんにニッセイが貸してあげたんだろう、あまり批判を経た出来上がりでもなさそうだし」と思ったが、ご本人案外普通の履歴だったのでびっくり。血縁はあるんだろうけどね。ギャラリーの最後で子供に感想を書かせるコーナーをみてえらくいやらしいなあ、とこれも鼻白んだが、玩具デザイン出ということならまあよしか。

1960年秋田県秋田市生まれ。
1985年に東京芸術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業後、玩具と雑貨の企画デザインの仕事に長年携わり1997年より作品制作を開始。

山田詠美「無銭優雅」

2009-09-13 17:20:45 | 書評
たまたま、朝東京駅の本屋にふらりと立ち寄って「心中する前の心持で、つき合っていかないか?」という帯の言葉にすっと惹かれて買った。残念ながら僕には心中してくれる人はいないが、最近はなにやら死のことをちょくちょく考えるので、そのことが惹かれた根底にあったのかと思う。まあ、死を考えるといってもあんまり深刻なもんでもなく、あーあ、もう夏休みも終りだなあ、ってな感じに過ぎないんだけどね。
買って見て、あ、これは自分にとって山田詠美最初の本だ、と思い、これから入っていいのかなあ、と多少ためらいがあったが、ずいぶん面白く読んだ。

予備校講師の40男と花屋で親元でパラサイトしている40女の恋の話。大人の恋愛なんだが、それでも何というかな、セックスはあるのだけど性的な香りはあまり強くなくて子供や子犬がじゃれあっているみたいな感じが憶面もなく描写される。世間から離れたバカップルといえばそのとおりなんだが、そのことを誇示するわけでもなくかといって世間に対していじけているわけでもなく、なにやらとてもよい加減である。じゃれ方は触ったりなどの肉体的なものももちろんあるが言葉でもお互いを誉めあったり手をかえ品を変えて「すきすき」と言い合ったりしてばかりいて実に能天気。最後の方で女性の父親が死に、また男の家族のことがばれてひと悶着あるが結局もとの鞘にさっさと納まる。単なるバカップルではないのは、男は予備校の国語の教師であり、女は東京女子大の哲学出身だから、案外考えていることや会話が高度だったりする瞬間がある。下は女の独白。
「・・二人の嗜好の味方にあってくれた物理法則よ、感謝する。 うーん、物理法則って、十七世紀の科学革命期に生まれた概念よね、確か。でも知ったことじゃない。ご都合主義を極めながら、私たちはいろんな言葉を支配下に置くの。立証して行く。」
うん、これってポストモダン哲学の現代物理概念の濫用を皮肉っている話かいな、なんて思うね。

ホントに好きって感覚に従ってお互いをいたわり、あした死ぬかもと思って日々を過ごしていたらおじいちゃんおばあちゃんになっちゃった、なんていいよね、みたいな言い方を男がしているが、まあそのとおりだなあ、と思ったねえ。世間的義務とか立場を忘れてお互いを肯定できるパートナーとの世界さえあればそれでいいんだろうな。それがホント、恋愛のコアなんだろう。
そう思ってくると、より劇的な恋愛の話というのは世間的動きに(世間が強いのかあるいは本人たちが気にして)当事者が振り回されすぎるとか、あるいは当事者たちの心の病があってそれが(この小説のカップルのような平和な恋愛ではなく)激しさを高めているのかなあ、などと思う。

男女どちらも成功者ではないが、変な大人になっていないという意味において健全に育った子供。ほかの人たちも世間の背負い方でさまざま違うが皆健全な人たち。健全な人たちだけで成立している、とてもいい話であった。

追伸:ところどころ挟まれている古今東西の恋愛小説からの引用の意図はよくわからず。健全で平和な「睦みあい」の記述の中にこれらが置かれると、これらの病的な感じが際立つ気もせんでもないが・・・

追伸2:山田詠美の分はコンマが多くて息が短い。意図的? 最初は無駄に息苦しく感じた。


手塚貞治「戦略フレームワークの思考法」

2009-09-10 09:34:07 | 書評
SWOTだのファイブフォースだのボスコンの「花形ー負け犬」分析だの、戦略フレームワークについてはまあ紙芝居の道具であり、こんなツールで分析する人の気が知れない、と言うのが僕の偏見だ。整理が必要、とはいっても、実務を知っている人がこんな単純な構図に満足できるはずはないし、哲学・思想を少しでもかじった人なら、あるいは自然科学でも社会科学でも理論とか分析を多少ともしっかりやった人なら、こんな知的に物足りないもので、しかもアプリオリに定義されてしまう分析の枠組みで、何事かがわかるはずはないしわかった気になるのは危険だ、ということ位はわかるだろうに。
もっともらしい枠組みの中に適当に思いつくことを入れてしまえばそれで分析らしきものが完成する。目になじみがなければおー、となる。だから紙芝居。でも、案外話を詰めていくと難しい点が出てくるしその場にいる人たちだけでは解決できない問題も多く生じることに気がつく。そうこうするうちに枠組みへの疑問が生じてくるが、走り出した組織は正面切ってそれをとめられず、結局過激で合理的だが有害性の高い提案は現場の抵抗で無害化されて実施される。企画部門の面子は保たれ、現場はブーブー言いながらも無害化されたことをまあ喜ぶ。てなかんじだったなあ、前の会社にマッキンゼーが入ったときは。戦略コンサルなんてちょっと頭のいい紙芝居屋で、それに対して実績報酬でもないのに莫大なFeeを出すのもバカだし、それを本気で実行するのはもっとバカだ。

とまあ、戦略コンサルへの不満を吐き出したが、この本を読んでもその考えは変わるものではない。

しかし得るものはあった。まずフレームワークが並列化、時系列化、二次元化の3っつに整理できると言うこと。これはまじめな意味で理解の向上に役立った。フレームワークをメタレベルで見ることが出来たわけだ。ま、これも諸々のフレームワークと一緒で「だから?」感はあるがね。ただ、この三っつのメタフレームに沿って自分なりのフレームワークを考案することは出来るかも。

もう一点。発想の転換をした。結論を先に言うなら、「紙芝居の道具に過ぎない」と切り捨てるのではなく「紙芝居の道具だ」として理解すればよいということ。
フレームワーク一般を「シンキングツールであるだけでなくコミュニケーションツールでもある」とした上で著者は、並列化フレームワークの要件として以下の5点を挙げている。
①有用性がある
②図示が出来る
③語呂合わせができる
④権威付けができる
⑤認知限界の範囲で収まる
まず驚いたのは、「え?①と、若干⑤以外はシンキングとはほとんど関係がないじゃん」ということ。若い時代なら自分の読む本ではないと考えてここで放り出していたかな。でも解釈しなおしてみると、②、③、④の、「図示できて、語呂が良くて権威付けできる」ということが如何に重要かということは別の視点を与える。この3要件は紙芝居の要件とほぼ同じである。そういうことだ!

そうか、と。そういうことなら、思考・問題分析のツールと言うよりも紙芝居、つまり戦略コンサルのマーケティング・デリバリー用のコミュニケーションツールと割り切ろう。したがって、クライアントの性質や予算や保ちたい関係、つまり営業目的に応じてフレームワークを選ぶべきである。フレームワークからまじめに分析して行動あるいは行動推奨をするなどという愚直なことをしてはいけない。

なるほどね。こういうことは毛嫌いするんじゃなくて、もっと早く気づき悟っておいたほうが良かったね。幼い自分であったことを痛く反省するw

村上春樹「海辺のカフカ」

2009-09-06 22:36:55 | 書評
もう少し読み込んでからと思っていたのだが段々執着が薄れてゆくので感じを忘れぬうちに書いておく。
最近、隠喩に溢れる「世界の終り・・・」を舐めるように繰り返し読んでいた。しかし「限界生産性」が落ちてきて、そろそろ抜け出したいと思ったこともあって、「世界の終り・・」の続編とされる「カフカ」を買いなおし、読み直した次第。
「世界の終り・・」を読みすぎたせいか、「カフカ」は相対的に筋がすっきりし過ぎている感じがした。また、繰り返しの読み込みに足るほど隅々に気の効いた言い回しや警句があるとも思われず。これほんとに「世界の終り・・」の姉妹編なんだよなあ・・てなことを思いながらささっと読んでしまった。
いや、面白いことは面白いし、「すっきり」とはいったが奇妙にわからぬまま取り残される部分も多くある。だが、今ひとつそれらが探究心を誘わない。たとえばホシノさんが戦う白い蛇の様な生き物、兵隊二人に案内されたあの世らしきところ、カーネルサンダースとその配下の娼婦、戦前の、子供たちが次々気絶した時の直前に現れた光る物体、引率の女教師が見た極めて性的な夢などなど、面白いというか奇妙な仕掛けは数あるんだが、それほど意識に引っかかり続けない。「世界の終り・・」の、影だとか一角獣だとかのような多義性を含んだ象徴的要素とも思われず。案外簡単にストーリーの都合上のもの、あるいは彩りをそえるものとして受け止めてしまった。

「世界の終り・・」とか「神の子供・・」よりは落ちているのではないだろうか? まあタイプがそれまでと違う、といってうやむやにする人が多いけどね。今のところは「世界の終り・・」こだわりで決まりだね。ああ、また抜け出せないことになってしまったw。

美術本三冊 村上隆「芸術起業論」 吉井仁美「現代アートバブル」 大野左紀子「アーティスト症候群」

2009-09-05 20:08:41 | 書評
現代美術を知るための研究として先週からこの3冊を読む。ランダムに図書館で借りてきたのだが、それぞれ立場がはっきり違う人たちなので面白い。村上隆は言わずとしれた日本現代美術のトップランナーでありプロデューサー、またオタク文化の伝道者である。吉井仁美は父親の代(それ以前から?)の画商。大野はある意味とてもお気楽な立場である。彫刻系のアーティストをやっていて最近それをやめた主
婦、というある意味得難く達観した立場から批評をしている。

一番お気楽な(が見方によっては深刻な)大野の話からする。彼女はさまざまなアーティストあるいはアーティストを名乗りたい人々を評して、その心理と真情を突いている。真情といっても案外当たり前のことで、芸能人の絵からさまざまな流派のアーティストまで、アートあるいはアーティストと呼ばれて矜持を持ちたいという欲求があるということ。その症状のさまざまな現れを診断している。強烈な病を
持ち、それを鎮めるために創作せざるをえない本物たちを除くと、概ね当てはまりそうな診断である。


さて、村上。これは強烈だった。美が云々とか感性が云々という前に欧米の美術の文脈を理解し、そこに切り込め、文脈を理解することはスポーツのルールを理解することと同じだ、その欧米の美術の文脈は、見方によっては大変いやらしく俗物的な、社交界特有の知的自慢や競争といった雰囲気と切り離せない、などなどと、どれをとっても目からうろこの話。
いや、前から現代美術は(あるいは近代以前の美術も)ある種訓練された、型がある感性の中でなければ理解できないと思っていた。それを「解釈や好みはさまざま」といわれると(もちろんその部分はあるが)、悪しき相対主義、悪ずれした多様性の容認と感じられていやだった。「それでも良い趣味と悪い趣味は厳然としてあるだろう」と言いたい気分がいつもあった。それをはっきりさせてくれた。

村上の趣旨は、「売れる趣味」を狙え、ということである。そして、「売れる趣味」は概ね良い趣味である、ということのようだ。あるいは、クライアントのために働くアーティストとしては、そう受け入れざるを得ない、ということ。うーん、まさに「仕事」だねえ。
1章2章それから3章においてもある程度、この、欧米が主導する世界の美術の文脈と趣味を理解し、そこに「マーケティング」として挑んでゆけといっている。技術優位の日本は発想に力を注げ(これは産業界へのものとそっくりのメッセージ)、個人をブランド化せよ、才能よりサブタイトルが価値を生む(ゴッホの、絵より耳切り事件)、製作の集団化の提唱 などなどと、現実を切り開いたものならではの卓見が並ぶ。ブランドビジネスと思えば何の違和感もないが、美術界の内部からの発言としては相当思い切った発言だったんだろう。ともあれ、すごいプロデューサーでありマーケッターである。
3,4章は一転、意外にも芸術家であり職人としての自己を晒す。海洋堂にフィギアを作ってもらうために苦労した話、朝から晩までスケッチをしていたこと、才能の磨き方とか、いかに自らをあるいは他人を追い詰めていくか、そのさきでどう変わるか、といった芸術家らしい記述が並ぶ。ここもすばらしい。村上は世評のイメージのような、オタク文化をうまく利用してのしあがったマーケッターがアー
ティストを自称している、といった存在ではないのだ。血を吐くような自分の病を抱えつつ、アートに救いを見出した病人であり偉人なのだ。

「ぎゅうぎゅう締め上げていると、締め上げているだけあって、やっぱり最低でも一回は、光が見えるかのような瞬間がやってきます。・・・・死ぬまで光が見えないよりは、苦しくてもつらくてもたまらなくても光を見たほうが絶対にいいのだと僕は思います。」

いやはや、僕もそう思います。かく言う村上が(そんなに言葉が派手ではないが)ピカソなどと比べてマチスを絶賛していたのは非常に面白い。

吉井の本は村上の言うマーケットの状況の確認に役に立った。

村上は偉大だな。借りた本では不十分なのでこの本は買って何度か読み直すことにする。実は僕の仕事などにも当てはめられる部分があるような気がする。真剣に仕事に取り組む人、完全燃焼と自己実現をするために仕事をしようとする人、あるいは、仕事で病を癒やそうとする(病をつきぬけようとする)人 には恐らく必読書じゃないだろうか。