御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

西脇順三郎「天気」とキーツ「エンディミオン」

2009-07-28 12:34:58 | 書評
先日図書館でついにキーツの「エンディミオン」(翻訳)を発見、もちろん借りてきた。これはこれですごい詩だ。おっそろしく長いけど。それでネットもあわせてみていたらなんとEndymion原詩全文がアップされているページを発見! いや、すごい時代である。

さて、"upturn'd gem" だ。ここは次のような記述。

Endymion from Glaucus stood apart,
And scatter'd in his face some fragments light.
How lightning-swift the change! a youthful wight
Smiling beneath a coral diamdem,
Out-sparkling sudden like an upturn'd gem,
Appear'd, and stepping to a beauteous corse,
Kneeled down beside it, and with tenderest force
Press'd its cold hand and wept - and Scylla sigh'd!

1000年エンディミオンの到来を待った老人Glaucusに、エンディミオンは魔法の巻物を千切った紙片を投げかけ、Glaucusは突如"upern'd gem"のごとく輝く若者に姿を変える。若返ったGlaucusは死ののろいをかけられた恋人Scyllaの手をやさしく握り、そうしたら彼女は何と息を吹き返した。
で、このあと、多数の死の呪いをかけられた恋人たちが横たわるなか、Endymionはfragmentsを撒き続け、次々と彼らが復活する。復活した人々の歓喜が渦巻く中、Endymionは叫ぶのだ

- "Away!"
Shouted the new-born god;"Follow, and pay
Our piety to Neptunus spreme"-

「起て!」新たに生まれた神は叫んだ。
「続け、そして至高のネプチューンに我らが祈りをささげよう!」

おお。長詩Endymionのクライマックスのひとつである。まさに神の生誕だ。

ということで。こうみると西脇の「天気」は、Endymionのクライマックスを優れてコンパクトに要約し、かつ多様な霊感が入る余地を空けておいた詩、ということだろうか。Endymionの存在抜きにはありえなかった詩である。

「カラマーゾフの兄弟」ドストエフスキー

2009-07-20 12:52:16 | 書評
2年前入院中に読んだ際の感想はけっこう辛いもんで、「大審問官のところなんて世間で騒ぐほどのもんかい」というような感想を持ったりしている。そうね、でもこれらは結局のところ、作者への反発じゃあなくて作者をありがたがりそれによって自分の価値も(それを理解しているということで)引き揚げようとする俗物知識人への反発だったな、確かに。 ただ、それを除いても話題が多岐にわたりすぎるしみんながおしゃべりすぎて、散漫な印象を与える作品ではあろうと思う。たとえていえば大審問官なんて本筋とどう関係するんだ?哲学的断章の連鎖というのならわかるが、エセーではないのであるから筋の面白さと運びの快適さというのは小説には求められることであるには違いない。

と、批判的まえおきが長くなったが、気になることがあって今回エピローグを読み直し、少々感動してしまった。ちょっとおかしな元大佐の息子イリューシャの葬式の前後での父親の大佐の独りよがりでピントが外れているが実に息子への哀惜に溢れたうろたえぶりの描写と、カラマーゾフの3男アリョーシャの、子供たちへの語りはすばらしい。

「たとえ僕たちがどんな大切な用事で忙しくても、どんなに偉くなっても、あるいはどれほど大きな不幸におちいっても、同じように、かつてここでみんなが心を合わせ、美しい善良な感情に結ばれて、実にすばらしかったときがあったことを、そしてその感情が、あのかわいそうな少年に愛情を寄せている間、ことによると僕たちを実際以上に立派な人間にしたかもしれぬことを、決して忘れてはなりません。」
「あの子の顔も、服も、貧しい長靴も、不幸な罪深い父親も、そしてあの子が父親のためにクラス全体を敵にまわして、たった一人で立ち上がったことも、おぼえていようではありませんか!」

まだまだ沢山あるが感動する。上の二つ目を書いてるときは涙が出そうになった。奇麗ごとに聞こえないのは物語を覆う暗さゆえか。

大審問官とおんなじだがこのエピローグのためにはカラマーゾフ父と長男を初めとする4人の息子たちのさまざまな確執という本筋は実はほとんど関係がない。細部に物語の神は宿るのだ、と改めて発見した。三島で十分わかっていることなのにね。ま、これからも再発見・再再発見は続くのだろう。

「一勝九敗」柳井正

2009-07-18 18:44:45 | 書評
ユニクロ社長の2003年ぐらいまでの回顧録。
いや、この人まともだしバランス感覚あるし感覚が若いね。昔、氏の「起業家十戒」の第一戒「ハードワーク、一日二十四時間仕事に集中する」を引用している記事を読んでその「知性無きやる気」オーラふんぷんたる香りに辟易したことがあるが、どうやら記者の誤解あるいはきめ付けだったのではなかろうか。

社内の人々の動き方とか部署の名前のつけかたとか、気に食わんとか平気でいっているし、自分の創業した会社に対し大企業病になっているかも、見たいな批判も平然とする。サラリーマン経営者で、自分の支配力のなさと無責任さに無自覚にそういうことを言う人はいないわけではないが、この人の場合はそうではないからすごい。その気になれば何でもできる伝家の宝刀を持ちつつ、そういう批判をすっと力も入れず言っている様子は、なんか学生のリーダーのようで若々しくてよい。かといって遠慮はないわけで、「挨拶しない人が増えている」なんていうIT企業の社長の話を聞くと「そりゃ挨拶しないやつに挨拶させないリーダーが悪い」と正論を堂々と、しかし力みなく言う。たいしたもので。女性への視線も現実的で、尊大さもなければ追従もない、とてもまともである。

細かく上げればきりがないが、ああこの人よくわかっている、という一節。フリースを桁外れの2600万枚売った2000年の成功原因を振り返ったあと、
「商売というのはなんでも結果論で、「勝てば官軍」なのだ。成功原因は先ほど触れたものだけではなく、偶然も含めいろんな要素が積み重なっていると思う」
うーん、ナシーム・タレブに英訳して送ってあげたい一節である。

「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」村上春樹

2009-07-18 16:06:07 | 書評
再再読。さて、どこから書いたものか。

正直、今回は腑に落ちた。感動したと言っても良い。それには個人的事情が大きく影響している。
最近ある女性に難事が降りかかり、その難事にたいして多少のアドバイスめいたことを、差し出がましいと思いつつしたら、彼女にとっては大変時を得た適切なアドバイスだったようで、実際にも役立ったようだ。それで大変心のこもった感謝をしてもらった。その人とは少し前から文学的・美的感想を交換し始めており、相性がいいんじゃないかなあ、と思っていた矢先のことでもあり、役に立てたこと、また感謝された嬉しさはひとしおであった。
そんな浮き足立った気持ちの中に、ふと「世界の終り・・」の女性たちの場面がフラッシュして来た。ひとつはレンタカーを借りるときに女の子と話す場面、もうひとつは「世界の終り」の側の図書館の女の子との場面。

まずはレンタカーの女の子。
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「一度君とゆっくり話したいな」と私は言った。
彼女はにっこり笑ってほんの少し首を傾けた。気の利いた女の子というのは三百種類くらいの返事のしかたを知っているのだ。そして離婚経験のある三十五歳の疲れた男に対しても平等にそれを与えてくれるのだ。
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さらにそして、死にかけた五十過ぎの男にもね。

そして、「世界の終り」の側の図書館の女の子。彼女の「心」を読み出す「夢読み」を徹夜でしたあとの会話。
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「食べたくないんだ。それよりは今すぐぐっすりと眠りたい。二時半になったら起してくれないか。それまでは僕のそばに座って、僕が眠っているのを見ていて欲しいんだ。かまわないかな?」
「あなたがそう求めるのならね」と彼女は微笑を顔に浮かべたまま言った。
「何よりもそうもとめているよ」と僕は言った。
・・このあと彼女の指が僕の肩に触れ、僕は手を伸ばして指の先を彼女の手に当てて彼女の光のぬくもりを伝える。彼女は手のひらを僕の目に当て「お眠りなさい」といい、僕は眠る。
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「寝ているのを見ていてくれ」などとちょいとあつかましいことを言うのだが「かまわないかな?」と付け加える距離感は持ち合わせている。だがそこで「あなたがそう求めるのならね」との答えをもらい、それに力を得て「何よりも・・・」といい、軽いふれあいをして「僕」は眠る。よく読むと微妙に距離が縮まり関係が深化した場面である。
こんなデリケートで、微かでしかし満ち足りた触れ合いを彼女としてみたい、と思ったし、いや僕と彼女はしつつあった(ある?)のではないか、と思うと涙が出そうになった。

このあたりをきっかけに読み直して見ると、面と裏の世界の連携はますます明らかになっており、また隠喩もさまざまにとれることがわかる。たとえば、読みようによれば、俗世であり濁世で身につけた世間的自己が第一回路であり影であり、それに決別することで本来の自己を生きるのである。そのためには歌を思い出すことと、図書館の女の子に象徴される、他者の心(自己の反映?) が必要であり、超自我である(?)壁の及ばない森の中で暮らすことになるのかな。いや隠喩関係は複雑なのでこれも今のところの解釈である。

しかしそんなことはまあどっちでもよい。漠としてわからぬことがあったって、指し示すものを見逃したって、確かに僕はこの小説の中に自己を投影して感動した。まずはそれが大いなる成果であり、また自分の村上理解上の金字塔である。

「生命保険の罠」後田 亨

2009-07-01 06:45:05 | 書評
知り合いの若い女性が語ったこと。彼女も友人たちも就職氷河期に学校を出て、就職にえらく苦労した。それで生命保険営業の職を得た人も2-3人いた。しかし、案の定というか何というか、親戚・友人+αに入ってもらったところで行き詰って辞めたそうな。せっかく氷河期に手にした仕事だというのに。
業界出身者としては、お決まりのパターンが今でも変わっていないんだなあ、今でもやっているのかい、との感慨を持ったのだが、そのとき彼女が発した「なんであんな仕事があるんですか」という、疑問のような静かな憤りのような言葉はずしんと響いた。
ほんと、なんであんな仕事があるんだろう。保険を売るのは良いとしても、品物の良し悪しを論じさせるすきも与えず、傾斜の強いヒエラルキーの中、末端へ末端へとプレッシャーをしわ寄せして行くえげつなさ。その先でどのようなゆがんだことが生じているかを知りつつもやり方を変えない会社。かつてのサラ金とさして変わりはない。それが放置されるどころか強化されている。そして、思えば僕はその土壌の提供する栄養吸って育ったのだ。なんということか....

さて、書評である。著者は長らく日本生命で保険を売り、のちに複数会社の保険を扱う代理店を知り合いとともにおこしている。ミリオンダラークラブに入ったりしているようなので繁盛しているようだ。保険を製造する側が売る側と一体だと上記のようなことが起きるわけだが、こういう代理店が増えるとかなり健全なプレッシャーが保険会社にかかるので大変良いことだ。あとは消費者の方が知識をつけて、代理店・販売者への正当な圧力を正当な選好を通じてかけてゆくということかな。もしかしたら保険販売文明開化は目前かもしれない。
保険業界を告発する口調のバランスのよさは秀逸である。感情的に攻撃するだけの悪しき告発本ではないし、もちろんべた褒めする御用本ではない。保険を扱って売る人間として保険会社に対等の立場で要望を言えばこのようになるのだろうな、と思わせる、実務的で冷静な内容である。ご本人の立場(代理店)がそうさせる面もあろうが、ご人徳かなあとも思う。

なお、著者の言っていること、薦めていることは保険出身者にはまったく同意できることばかりである。最後の方にあった著者の会社の若い同僚の保険選択はさすがとうならされた。皆さん是非参考にするべきだと思う。それから、著者がいう良い保険の見分け方(販売員に「貴方はどんな保険に入っています?」)は、卓見といえよう。