御託専科

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現代美術、骨董、「啓蒙」の不可能性

2019-11-06 09:35:20 | 書評
(現代美術の「素」での魅力のなさ)
あいちトリエンナーレの揉め事を見て現代美術に関して考えることがいくつかあった。まあ僕は素人で現代美術の愛好家でもないのであんまりいうこともないのだが、やっぱり強く気になったのは現代美術の「素」での競争力・訴求力のなさである。政治性が強いとかいろいろあるにしても、その作品が「オーラ」をもち、見る人を説明なしに文句なく惹きつけるのであれば、今回のことももっと柔らかな方向に収まったような気がする。一般の人(≒納税者)が、問題とされる作品を見て「いろいろあるにせよまあきれいな絵じゃないか、さすがだね」と思うのと、「なんだこの汚いがらくたは?」と思うのでは話の方向は全く違っていたのではないかと思う。現実は後者だったんでもめた。
とはいえ、現代美術は多くの場合「なんだこれ?」みたいなもののことが多いので、「素」での魅力がないことはほとんど宿命である。美しいものは大概描かれてしまったあとの宿命というべきか。(なおこれは現代音楽にも大いに通じる話である)

(現代美術は饒舌に解説されなければ理解されない)
ということで現代美術は、予備知識なしにただ見たり聞いたりして「素敵」「ほほう」と思うことはほぼないといっていい。文脈なり意図なりが理解されなければ鑑賞もできない代物である (誰がデュシャンの「泉」を解説なしに理解できるというのだ?) では現代「以前の」、例えば西洋絵画はどうか、というと、実はそれらも文脈が必要である。ミケランジェロの「最後の審判」はキリスト教を、ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」はギリシャ神話を知っておく必要があるだろう。ただ、それらの文脈は一般的なものであり、一応皆に共有されていた(ギリシャ神話は教養人士の間だけだったかもしれないが、それでもまあ広めである)。つまり見る人と作る人に共通の文脈があった。
文脈を知らない人が見るとただ裸の人たちがうようよいる絵に違いないが、そうは言いながらも絵としてはきれいであり、背景の文脈を抜きにして描かれた人々の姿かたちや表情を楽しむことはできるものである。
要約すると、以前の絵画と比較して現代美術は①文脈が一般の人と共有されていない②パッと見できれいでない という2つのハンディを有する。それを超えて作品を見させるためには、文脈についての言語的解説は不可欠である。ただ、最近の作品においては文脈はとても個人的に込み入った考えを背景にしている場合があり、その解説は饒舌なものにならざるを得ない(それをしないのは作家であり批評家の怠惰であると僕は思う)。むしろ言語的解説の「挿絵」として作品がある、というぐらいの考え方でよいのではないかと思う。いや、もちろんピカソの「ゲルニカ」ぐらい文脈がわかりやすければ、多言を聞かずしてみる気にはなるわけだが、デュシャン前後以降の美術の文脈は(おそらく仲間内でのやり取りの末の過剰醗酵によるものだろうが)結構複雑化し個人化しまた難解になっていて、多言を弄してもらわなければわかるはずもない。

(現代美術と骨董品の世界は似ている)
そんなことを考えていて最近思いついたのだが、これって骨董品とかビンテージ物のワインの類と似ているよね。骨董品でいえばその品がどういう人が作らせて・作って、どういう人の手を経て現代にいたっているかということを知らなければ有難味をフルに味わうことができない。習近平がイギリスに訪問した時イギリスは大胆にも天安門事件の年にボトリングされたワインを出したが、これもその文脈を知らなければ当てこすりは空振りとなり、ワインはおいしいかどうかだけで判断される。
古ぼけた陶器や古いしかしありがちの掛け軸がどのくらい価値があるかは、作品自体の「素」の力も否定できないものの、それ以上にその作品が生まれて現代にいたるまでの歴史的文脈が決めるのである、ということだ。(まあ故宮博物館の「翠玉白菜」みたいな、「素」での強さがすごいものは別なような気がするが、その「翠玉白菜」であっても現在の技術を以ってすれば硝子工芸として同等の美しさのものは作れるように思う)。

(現代美術、骨董などの「金持ちの文脈語り趣味」は大衆に押し付けられない)
それで思うのだが、現代芸術はこういう骨董品と同じ扱いでいいんじゃなかろうかと思うのだ。その造形が純粋にいいとかそういうことでなく判断しなければならないのだから文脈は示してもらわないといけないし、できればそういうことを語り合えるサロンとセットで存在するべきであるといってよいと思う。そのサロンでは現代芸術や古ぼけた陶器みたいなわけのわからんものを、主に金持ちの趣味人がああでもないこうでもないと文脈を語りながら鑑賞し売買するわけだ。サロンを脱してこれを大衆化しようとしたりするといろんな無理が出る。あいトレの混乱は実は現代美術と大衆、というかサロンとマスの間の相性の悪さがデフォルメされて表出したんじゃないかなあ。骨董鑑賞を大衆化しようとしたってできない。骨董趣味のない人は実用性とデザイン性で陶器を買うだろう。その由来に金は出さない。ワインだって値段に比して味のいいものを探してくる。歴史の文脈にカネは出さない。現代美術は大衆にはまず売れない。ラッセンや(笑)ヤマガタの後塵を拝する。漫画やアニメにははるか彼方において行かれた。まあそういうことだろう。それは骨董や現代美術が負けたわけではなく、セグメントが違うということなのだ。
 そういう「自然の流れ」であり「素の魅力」の違いを作為的に「あるべき方向」に修正しようとしても難しい。例えば学校教育や公的補助でクラシック音楽は盛んにサポートされているといえようが、ポップスをひっくり返す勢いなど全くない。骨董や現代美術よりはるかに「素」の訴求力が相対的には高いと思われるクラシック音楽でさえもだ。現代美術や骨董なんて普及させるのはまず無理と言っていいだろう。文化権威主義的なやり方がある程度通用した岩波朝日文化華やかなりしころは多少は違っていたかもしれないが、いまやネットで情報が行き渡りアカデミアやマスコミが権威を以って情報をコントロールし色付けして「大衆」を「啓蒙」できるような時代ではなくなった。現代の「大衆」はみんな賢明で正直で、またしたたかである(^^)

ー次は「現代美術、ポストモダン、ソーカル・モブリン」と題して「現代美術の「芸術性」への疑問」を語る予定ー






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