御託専科

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小谷野 敦 「反=文藝評論」

2009-12-20 15:38:10 | 書評
えーと、毎度おなじみ小谷野氏の評論集。一番最後の章が「『ノルウェイの森』を徹底批判する」である。
「私が春樹を容認できない理由はたった一つ。美人ばかり、あるいは主人公好みの女ばかり出てきて、それが簡単に主人公と「寝て」くれて、かつ二十代の間に「何人かの女の子と寝た」なぞと言うやつに、どうして感情移入ができるか、という、これに尽きるのである。」
という一節がよく引用される。まあいかにも「もてない男」の著者らしいといえばそのとおりだが、安易と言えば安易な連想で、小谷野は「ただ」のもてない男ではないという思いもあり買ってみた。

そしたら、まあ驚き。前に書いたとおり、氏のひねくれ方と言うか方向性が自分のそれとかなり似ているのだが、今回もそういう点が多くあった。極めつけは、僕が昨日「蛍」について、
「なんだが漱石以来の高等遊民(=生活が楽なので悩みでもないことを悩みにする人たち)の系列だねえ、こりゃあ。「ノルウェイ」が自伝的、ということはもしかしたら春樹氏は死んだ親友の恋人と寝たのかもしれない。そのことへの反省・反芻がこういう作品になったのか。かっこつけてるが自己弁護臭は強いなあ。」

と書いたが、なんと非常に趣旨が似たことが書いてあった。もちろん文脈は厚く射程ははるかに遠い。

「だが、真に村上春樹を「否定」するためには、近代文学のキャノンを否定しなければならないのだ。例えば森鴎外の「舞姫」や夏目漱石の「それから」「こころ」は、春樹の先祖たちである。女を妊娠させて捨てて狂気させた、ああ俺は罪深い、とか、親友の恋する女を奪ったために親友は自殺した、だから親の遺産があるのをいいことに働きもせず罪悪感を抱えて生きています、勝手に死にます、とかいう小説どもだ。」

こういわれちゃうと喪失も孤独もあったもんじゃあないなあ。暇人のメランコリー、ってところか。でも、これは正しい見方だろう。まあ舞姫では男は女ゆえに恋ゆえにかなりつらい立場になっていたし、その立場から救われるとしても女を捨てなければならないことに大いに悩み、悩みと己の気持ちの醜さへの反省から雪中をさまよい死にかけてはいる。要はかなり良心的で泥臭いので多少は共感は持てぬわけではない。その一方で漱石の方はここにあるとおりだな。反省しているんだったら、なびいた女と一緒に親友の墓の前で心中でもしろよ、と読んでていいたくなるようなところは何度もあったね。

ということで。そのほかにも面白い論議多数。ただし村上論も含め作品論であると同時に評論論でもあり、その点では文藝評論家を初めとする評論家の動きを知らねば十分消化はできない。