久々に小池真理子でも読んでみようと思い標記2冊を買い求めた。どちらも短編集である。
それで、とりあえず「妻の女友達」は全部読み、「夜の寝覚め」は2つ読んだところである。
で、びっくりしたのだが、小池真理子はこんなのも書いていたのか、と「妻の女友達」を読んで思った。どれも2時間サスペンスとかの台本になりそうな、ちょうどいいなぞとちょうどいい人々の心の闇と、人々の思惑のすれ違いなどが描かれている。要はよくできたサスペンスの台本である。これはこれで面白かった。しかし、長編や短編でも「天の刻」や「雪ひらく」にあるような素敵な女性の情感のようなものはほとんど描かれていない。少々怪訝に思い発行時期を見ると1989年だった。ああ、この人もいろいろ変わったのだなあ、と改めて思ったしだいである。解説によればもともとはエッセイストとして世に出た、ということで、なんとも器用で賢い人である。
「夜の寝覚め」は期待通りである。素敵な中年女性たちの、エロスとタナトスと人生への感慨が交差する情感をうまく上品に描いている。これは「天の刻」とか「雪ひらく」とかあるいは長編なら「浪漫的恋愛」と同じテーマとテイストを持っている。「恋」「無伴奏」「欲望」などは若いときの話が主体だし「冬の伽藍」も半分はそうだが、いずれも後日談というべきか、その後何年も経って登場人物が中年あるいは老年になり振り返るところで若いときの出来事が色彩を変えてよみがえるところがもっとも美しい。
なんてことを書くのに書棚から拾い読みをしていたら、「恋」の文庫版の著者あとがきに、心理サスペンスの作家として(売れ行きということではなく創作上の)行き詰まり感を感じ精神的に「どん底」にあったときに、バッハのマタイを聞いていると突然「神が降りてきて」創作されたのが「恋」である、とあった。ふうん、そうなんだ。と妙に感心。「神が降りてきた」のは1994年12月だそうだから、おそらく僕の思う小池真理子はそれ以降の小池真理子、ということだな。
ともあれ小池真理子さんは美しい小説を書く人だ。できれば誰かと、贅沢を言えば成熟した中年女性と、小池さんの小説について語り合いたいものである。
それで、とりあえず「妻の女友達」は全部読み、「夜の寝覚め」は2つ読んだところである。
で、びっくりしたのだが、小池真理子はこんなのも書いていたのか、と「妻の女友達」を読んで思った。どれも2時間サスペンスとかの台本になりそうな、ちょうどいいなぞとちょうどいい人々の心の闇と、人々の思惑のすれ違いなどが描かれている。要はよくできたサスペンスの台本である。これはこれで面白かった。しかし、長編や短編でも「天の刻」や「雪ひらく」にあるような素敵な女性の情感のようなものはほとんど描かれていない。少々怪訝に思い発行時期を見ると1989年だった。ああ、この人もいろいろ変わったのだなあ、と改めて思ったしだいである。解説によればもともとはエッセイストとして世に出た、ということで、なんとも器用で賢い人である。
「夜の寝覚め」は期待通りである。素敵な中年女性たちの、エロスとタナトスと人生への感慨が交差する情感をうまく上品に描いている。これは「天の刻」とか「雪ひらく」とかあるいは長編なら「浪漫的恋愛」と同じテーマとテイストを持っている。「恋」「無伴奏」「欲望」などは若いときの話が主体だし「冬の伽藍」も半分はそうだが、いずれも後日談というべきか、その後何年も経って登場人物が中年あるいは老年になり振り返るところで若いときの出来事が色彩を変えてよみがえるところがもっとも美しい。
なんてことを書くのに書棚から拾い読みをしていたら、「恋」の文庫版の著者あとがきに、心理サスペンスの作家として(売れ行きということではなく創作上の)行き詰まり感を感じ精神的に「どん底」にあったときに、バッハのマタイを聞いていると突然「神が降りてきて」創作されたのが「恋」である、とあった。ふうん、そうなんだ。と妙に感心。「神が降りてきた」のは1994年12月だそうだから、おそらく僕の思う小池真理子はそれ以降の小池真理子、ということだな。
ともあれ小池真理子さんは美しい小説を書く人だ。できれば誰かと、贅沢を言えば成熟した中年女性と、小池さんの小説について語り合いたいものである。