御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

「機会均等」は残酷みたいだね

2006-11-28 14:18:06 | 時評・論評
下流社会、不平等社会に関連した本を何冊か読み頭の中が煮詰まってきた。論点があまりに多いこれらの問題は容易に整理できないのでのちほど。そうした中で一点とんでもないことに思い至った。

「機会均等社会」は残酷である。

あたりまえじゃん、という人も多くいると思うし、僕にとっても全く新しい考えというわけではない。が、改めてこういうとなんとも残酷だ。

「それぞれの人の潜在力を、差別なくそれぞれ十分に開花させる」ことが機会均等の理想であるとするならば、その結果発生する不均等は天与の才の不均等である。(なお、この世界では不運というものはないから結果の差に運の要素はない)

なんだ。結局決まってるんじゃない。あれあれ、こんな世界っていいのかなあ。それぞれの人が「自己実現」なる「高貴」な人生の課題を果たし、また果たせる環境がある。それは何のため? それぞれの資質の差を「はっきりさせるため」。

ふむ。なんか妙だな。これから僕は「結果の平等・公正」に転じよう。それから、ゲームのルールは曖昧なほうがいいね。せめて敗者が愚痴をいえるぐらいにはしておこう。

それとも「機会均等」の意味が不適切かしら?

それぞれの潜在能力をそれなりに発揮させるものの、打ちのめされるほどあからさまに結果の差を出させないように「機会」を与える

という定義ではどうだろうか。マジなんだけど冗談くさいなあ(笑)。イートンの校長やってたアーノルド氏の言うように自由が至高の価値なんていうのはとんでもないんだろうな。だから自己実現ってやつは輪をかけてとんでもない。そんなこというからできの悪いやつはぐれるしかないよね。

「勝手に自己を実現すんなよ!」っていってよし!

要は自由とか自己実現とか潜在能力の発揮というのが冗談くさい話だったのか。わかったわかった。

いじめのこと

2006-11-21 00:03:56 | 時評・論評
いまさらなにを、の感も些かあるが、ちょいといじめについて。
少し思うのだが、いまよく言われているようないじめが社会人の間でおきたらどうなるのかな。きっとそれぞれの事件・行為がそれなりに問題として取り上げられるのでは?
たとえば、かわいい部類の、よってたかって取り囲んで大声をだしたり、ズボンを脱がせたりすると、これって警察に連絡してもいいんじゃないだろうか?金をゆすられたら警察に届ければよいのでは?もちろんそれ以上の暴力的な行為は傷害罪で告訴すればいい。もちろんそれでも問題がないわけではないが、ひねくれて陰湿な問題性は薄れる。
ならば。なんで学校でそれをしない?それが出来ない?おそらく、学校を通すからじゃあないだろうか。学校は擬似家族のようなところがある。身内の恥を何とかしようと思ったりする。保身からかもしれないが。そういうところに訴え出てもダメなのである。しかし普通は頼りにしてしまう。そしたら頼りがいがない。それどころかもみ消す。そして怒り心頭に達する。
最近の一連の事件と報道で大分わかってきたので「普通は頼りにする」の「普通」も変わってきているだろう。でもなあ。警察はどうなんだろうなあ。

桐野夏生「グロテスク」

2006-11-09 07:59:22 | 書評
かなり面白かったな。慶応と学習院を混ぜたような坊ちゃん・お嬢ちゃん学校での女子高校生たちの隠微な、また露骨な張り合いを出発点とした彼女たちのその後の人生。ぜんぜん似ていないハーフの姉妹ってちょっと無理に見える設定だけど、まあそういうこともあろうということで。情念のどろどろ感からすると現代のドストエフスキーか。あるいは、見るものの視点により事件や人物の認識が様々にゆれているのは、現代版の「藪の中」とも言えるかな。

絶世の美少女ユリコ、語り手であるその姉、吝嗇のスイス人の父、弱い母、不器用なガリ勉和恵、木っ端役人的その父、リスのように愛らしく優秀なミツル、カオリを「実験的意図」を持って入学させた生物の先生、ユリコに売春させるその息子、水商売をしているミツルの母とそれに惚れる語り手「姉」の祖父、日本に渡ってきてカオリを殺害することになるチャン、その仲間、その妹、田舎から出てくるときの様々な邂逅、ユリコの息子である盲目の美青年百合雄。いろいろな人物の造形が際立っていて印象深く、かといって突飛ではなくありうべき人物として納得できる。これだけ多数の人が印象に残った小説はあまり経験していないと思う。

ストーリーは東電OL殺人事件、オウム事件などに中国からの不法入国者の話などがミックスされていて、作者はこれらの読者にとって既知のコンテクストをうまく利用しているように見える。ただし中心はあくまで女性同士の人間関係(及びその記憶)を軸としたそれぞれの人物の人生であり運命である。女の子たちの、一瞬にして相手を値踏みし、序列の中で自分を同ポジショニングしてゆくかそれぞれが考えてゆく姿はずいぶんとリアリティがあった。勉強もおしゃれも趣味も、すべてがポジショニングのためなのかな。女性読者に是非感想を聞きたいと思う。

なにせ「藪の中」なのでまとめて語るのは難しいが、2点ほど。
当初上から高踏的ともいえる語り口で一連の事件を語っていた「姉」の虚勢が次第にはがれてゆき、最後には40歳の処女の娼婦として売春をはじめることを語ると頃で終わる。虚勢が次第にはがれてゆく持ってゆき方はうまいな。
もう一つ面白いのは、和恵の売春日記。一番不器用でかわいそうな人物に見えていたが、実はかなり達観してそれなりに楽しく生きていたことが描かれていて秀逸。ホームレス相手に身を売ったり中国人複数を相手にしたり。自分の姿が次第に化け物じみてゆくことを醒めた目で見ており、会社の同僚や売春の客たちに次第に敬遠されてゆく状況を嫌うでもなくむしろ楽しんでいるようであった。あそこまであっけらかんと語られると性交と排泄がさしてかわらないことに思われてしまう。確かにさしてかわらないのかも。和恵は生物的なところまで堕した荒涼とした精神生活をしていたともいえるし、人間の虚飾をできる限り取り払ったともいえるんだろうな。

とまあ、印象深いのではあるが、OUTと同様最後は安易かなあ。百合雄と「姉」が渋谷で売春をはじめたところで終わるんだけど、ほかに終わりようはなかったかなあ、と思ってしまった。ま、いいか。「藪の中」なんだから。

水谷 修 氏 夜回り先生のこと

2006-11-04 09:09:19 | 時評・論評
昨夜というか本日未明に半ば眠りながら1時間半の再放送を2本見た。
いやしかし、知らない世界だった。こんなことが今でもあるのだ。

水谷氏が「夜回り」の世界に入ったきっかけとなった少年。ヤクザを父にもち、その父はけんかかなにかで死に、母にほんとに苦労して育てられた。6畳一間トイレ共同風呂なしのところに母子で暮らした。そこで母が倒れた。たちまちお金に窮する。ガスも水道も止まった。その中で食事は、コンビニの弁当を(店が)捨てるのを話をつけてもらいに行くことにした。いいおじさんだった。午前2時にいただきに参上し、何度も頭を下げて包んでくれていた弁当を受け取った。 給食のおばさんにも「犬にやる」として、話をつけた。パンと牛乳ののこりをもらうことにした。しかし、悪ガキが真相を感づいた。公園で囲まれ、「犬にやるならこれでいいだろう」と、パンを踏みにじられた。それでも彼はめげず、集めて持ち帰った。隣の人にコンロとフライパンと砂糖を借りて、フレンチトーストもどきにして母親に食べさせた。「家庭科の実習で習った」と。ああ、すごいことだ。小学5-6年にしてこの根性、行動力そして心遣い。
最悪の状態は8ヵ月後、状態に気づいた教師が生活保護の手続きをとって脱することは出来たようだ。しかしその子は、同じアパートに住む暴走族の世話になった。悪がきどもを絞めてもらった。そしてシンナーを吸うようになったのだ。
シンナーをやめるよう水谷先生のところに寝泊りして、それで帰ってはまたぶり返すということを繰り返していた。そこで彼は薬物中毒の病院の紹介を新聞かなにかで発見し、水谷先生に紹介依頼をした。
水谷氏は自分のこれまでの対応を否定されたかに感じ、彼に冷たい対応をした。その夜、シンナーでラリッた彼は何かと思ったのかトラックのランプに飛び込み、即死した。火葬した骨はグズグズになって原型をとどめていなかったそうな。
後日死んだ彼が言っていた病院に事情を話すと歓迎とのことで訪ねた。2時間にわたり事情を話し、思いを語った。医者はこういったそうな。「先生、それはあんたが殺したんだ」と。そのこころは、愛情で病気や怪我が治らないように、薬物中毒も治らない。明らかに医者の助けが必要、ということだそうな。

水谷氏はこうして薬物中毒を中心に夜の若者の世界に入って行く。しかしその活動はいまや孤独に悩み続けるリストカッター・自殺予備軍まで広がってきた。本当に沢山いるのだ、ちょっと間違うと自分で死んでしまう子供たちが。。。。
自殺した引きこもりの話は本当にかわいそうだった。彼は小学校三年生の時にデブと言うことでいじめられていた。登校拒否をしようとするが親が許さず学校にひきずってつれてゆかれた。4年のとき新しい担任に意を決して話して見た。担任は全員集会のような話し合いを開いてくれ、いじめはいかんぞ、といってくれた。その帰り、悪がきにぼこぼこにされた。それ以来引きこもった。学校へつれて行こうとする親には今度は刃物さえ持って抵抗し、意志を貫いた。
精神科などにもいっていたようだ。水谷氏にはメールで接触してきた。まずは「死にたい」と。そしてやり取りをするうち、水谷氏の指示に応じて向かいのばあちゃんがごみ捨てをするのを手伝った。「ありがとうね」と言われた。これが立ち直りのきっかけとなった。毎朝おばあちゃんを手伝うほか、お父さんの靴を磨いたりもした。しかしである。ある日おばあちゃんを手伝いにいこうとしたら、昔自分をいじめた悪がきにあった。「お前、まだいきてたのかよ?」と言われたそうな。それから彼はおかしくなった。死への意志がどこまであったかはわからないが、医師から処方された薬を大量に飲み、再び目覚めなかった。彼は水谷氏の助けを求めてメールを42通出していたそうな。水谷氏はあいにく出張していた。帰ってメールを開くと新しい方から7番目に彼のお母さんから彼の死が伝えられていたそうだ。
こういうのを聞くとほんとに悔しい。彼はなぜ水谷氏の返事を待てなかったのか。それほどまでに悪がきのトラウマは大きかったのか。どうして人はしかるべきときにしかるべき強さをもてないんだろう。はあ、ほんとにかわいそう。

こんな話が山のようにある水谷氏。もちろん大変多くの救った命がある。活動には頭が下がる。殆ど宗教的情熱ともいえよう。ただし、ただしである。「おまえたち」「せんせいは」「やめろ、○○しなさい」といった言葉遣いには大変違和感があった。僕だったら反発したかもなあ、そういう上からの言い方をされたら。いまどきはああいういいんだろうか? むしろあれくらいの言葉遣いで迫ったほうがいいということなのか?ちょっと理解し切れなかった一面である。

11月5日 追記
・本の「夜回り先生」を読んだ。この人もかつて夜を徘徊した人であることを知った。そして大人となり、自らの救いを求めて夜回りをしていることを公言していた。世間的見方からすると「施す側」である氏の、「施される側」である子供たちへの依存がなんとも率直に述べられていた。テレビだけでなく本も読んでよかったな、と思う。
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私にとっては「夜回り」が生きがいだ。「夜回り」しないと、私は生きていけない。
理由を聞かれると、口ではいつもこう答える。
「子供たちが心配だから」
でも本当は違う。私はいつも子供との出会いを求めている。私も寂しいからだ。
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ところで、施す側の、施される側への依存というのは、本当にあると思う。むしろ、その依存がない慈善は本物としての迫力を持ち得ない気がする。中村哲氏のアフガンもそうだろうと思う。そのことが水谷氏や中村氏の偉大さを減ずることはいささかもない。むしろそのような依存を見せない慈善者の心情を疑う。