御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

傲慢な消費者と卑屈な生産者

2006-10-31 10:32:24 | 時評・論評
もしかしたら現在の問題はこの2つに全て収斂するのかも知れないとふと考えた。

(傲慢な消費者)
我々は消費者としては傲慢である。いまやたいていの商品・サービスは比較可能であり、コストパフォーマンスは明瞭である。良くない商品・サービスにそっと背を向けることだけで当該生産者に大きなダメージを与える。そして一部の人は背を向けるだけでなく罵声を浴びせたりする。本来罵声は権力者の発するものではないのに。ともあれ、そっと背を向けるのが一番優しい対応である。間違っても生産者の苦労をしのび、他者なり他社なりとの比較をせずに押し頂く、ということはしない。あるいは、もっと卑屈に、意に沿わぬものを押し付けられても仕方がない上京にあり涙を呑んでありがたく受け取る、ということももちろんない。そっと背をむけ、よいものを選ぶだけでよい。なんと贅沢で気ままなことよ。

(「センセイ」の凋落)
これまではそうした傲慢な消費者にさらされていなかった医療や教育についてもついにその波が押し寄せてきた。少なくとも「センセイ」人種の一部は罵倒するに値する人々であることが明らかになり、この場合は「センセイ」側が権力者と思われているため、当然ながら罵倒される。それとともに比較という行為がセンセイ仕事の中でも当然となってきた。
請われて教えを請いあるいは診療を行い、その対価として「寸志」を受け取るという古いしきたりに擬したやり取りを行う精神的背景はもはや崩壊しつつある。センセイといえども労働者でありサービスの提供者である。支払いは業者へのサービス対価に過ぎない。(そういえば大学教授からカルチャーセンターの講師ってのもそういうことかな。)

(誇りなき生産者)
しかしその一方で、生産者としての我々は大変卑屈である。上で言うセンセイの崩壊は一つの象徴的な例であるが、普通の労働者にしても、率直に言って、どうしても必要なものを供給している、あるいはどうしても必要な役割を(世の中で、組織内で)果たしているとは言いにくい。そういえる人が何人いるだろう。いえるとしても、周囲の人が本音でそれを認めるような人はおそらく皆無である。
常に他者や他社と比較されている状況の中で覚悟して、あるいはおびえて日々仕事に励んでいる。成功とはビジネスの成功に過ぎない。かけがえのないものを素晴らしい形で提供できたことの喜びを味わう瞬間があっても、すぐに現実的な採算への配慮に意識は覆われてしまう。自動車でも服でもアルコールでもタバコでも、なんなら麻薬や臓器売買でも、お金を稼いでくればよいのだ。そこに大きな誇りなんぞ存在しない。誇りなき労働の代償は仕事外の時間に求められる。趣味でありオタク的凝り性であったり、お金を使う消費生活そのものである。

(誇りなき「生産する反面」)
こういうことは生産力の過剰からもたらされた。供給が希少な時代から消費が相対的に希少な時代に移ったのであり、当然のことながら主導権は消費者に移った。改めて言うまでもない。もはや言い尽くされていることだ。
しかし、実は単なる主導権の転換ではなかったのではなかろうか。人間は誰しも消費者と生産者の側面を有するのであり、消費者主権といってもそれは消費者という人種ではなく個々人の「消費する反面」が主権を得たということだ。
ならば「生産する反面」者は?
当然、より卑屈になった。もはや自分の仕事の社会的意義などを声高に論じるのはほんの一部の感受性の弱い人々でしかない。もちろん全ての仕事に意味がないというつもりはない。多くの人はそれなりの意味を感じ、ささやかな誇りさえ抱いているであろう。しかし、個々人は多くの場合いつでも誰かに、あるいは機械に取って代わられる。その人でないと困ることはもはや非常にまれである。

おそらく、「生産する反面」の卑屈が問題なのである。誇り高き「生産する反面」と不自由で時に卑屈な「消費する反面」の組み合わせと、自信がなく卑屈な「生産する反面」と傲慢な「消費する反面」の組み合わせとでは、どちらがよりよい生なのか。答は、少なくとも理念的には自明と思われる。

(誇りある生を取り戻す道は?)

しかしながら当然、生産者優位の過去に戻るのはナンセンスである。生産力の向上により飢えや過酷な労働、若年労働、一家離散などの不幸は以前より相当少なくなっている。これを手放すわけにはゆかない。豊かな生活の中で、できればささやかな誇りあるいは幸福感を取り戻したいという贅沢な願望ではあるのだ。

一つには生産力の向上分だけ生産活動を落とすことだ。卑屈な時間は短くすれば良い。というものの、なかなか難しい。政策的なワークシェアリングを導入するしかなかろうが、世界レベルで行わない限り海外との競争をどうするかという問題は常に残る。それにしてもいまの先進国の生産性であり生産力はかつての社会計画者たちが夢に見た水準ではなかろうか。しかし問題はそのことが人々を労働から解放する方向に向かわず、人々の生産者としてのプライドを大きく傷つけ、却って恐怖からの労働に駆り立てるとは彼らは夢想だにしなかったろう。

もう一つは消費を傲慢な消費にとどめず、よりコミットの高い、かつて生産において感じた誇りをもてるものとすることである。スポーツを見るのではなくスポーツをする、家の改装工事を頼むのではなく自分で作る、豪華な料理を自分で作ってみる、といったことかなあ。消費と生産が融合するイメージである。スウェーデンなどを典型に他国では比較的行われているらしいが。日本人の完璧主義がこれを難しくしているのかもしれない。消費は好みの要素が強いのでなかなか難しいとは思うが、ファッションなども含めプロの誘導や評価に任せないことが大事だろうなあ。そういうサークルの活動を盛り上げる制度も必要かもしれない。こちらは労働時間の短縮と違って取り組みやすいかもしれないし、昂じれば労働時間も減ってくるかもしれないな。

ちょっと中途半端な論考になってしまった。再論を期す。

2 コメント

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疑問 (varcoup)
2010-05-12 02:19:40
面白い論考です。ドゥルーズとガタリの「欲望する生産」の話を聞いたことがあります。欲望と関係のある、傲慢、卑屈、優越、劣等などがどのように生産と関係しているのか、もう少し知りたい所です。
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varcoupさん、ありがとうございます (Circusmanx)
2010-05-24 11:11:15
しばらく前に書いた論考なので忘れておりました。でもコメントを頂き再読すると案外面白いこと考えていたんだなあ、と感心(笑)。ドゥルーズ・ガタリを引き合いに出していただけるとは光栄の限りです。
励ましていただいた気分です。ありがとうございます。もうひと考え、して見ますね。
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