御託専科

時評、書評、そしてちょっとだけビジネス

観光立県、観光立国のあり方

2007-03-30 12:27:04 | 時評・論評
沖縄に旅する機会があった。空港から離れたところにある高級リゾートに宿を構え、あまり動かずにすごした。実に快適であった。広々とした部屋と庭、余裕たっぷりの建物全体の作り、案外リーズナブルで多様な選択が可能な食事、それからなんと言っても素晴らしいホスピタリティ。これで部屋の中から海が見えたら最高であったのだが残念ながら生垣が少々高かった。ま、1階ゆえの庭付きの贅沢の代償であり、まあやむを得まい。

ところで、そこで沖縄の経済状況の厳しさや問題を垣間見た。琉球新報が部屋に配られるのだが、見ると結構県内経済の問題を論じるものが多い。あるコラムによれば年収200万円以下の世帯が全国平均で7%、沖縄は22%だそうな。その一方で八重山諸島を初めとした地域では本土からの移住ブームで地価が高騰している。これでは植民地と変わらない、というのがコラムの趣旨であった。そういえばくる途中人材斡旋会社の広告で「県外」という言葉をしょっちゅう見た。テレビのコマーシャルでもやっていた。うーん、貧しいのか、と気分が重くなった。そうなると一流のホテルでも今ひとつ落ち着かなくなる。

どうすれば豊かになるか。まずは観光か。沖縄は確かに独特の文化があり、それは観光資源である。沖縄村なるところへいったが、意外に見世物小屋に堕していない運営だったのでほっとした。こういうことならプライドを持って売れる。しかし、きれいな海と言う沖縄の最高の観光資源はどう売るのだろう?ホテル作って観光客を接待する。いろんなレジャーに付き合ってあげてカネをとる。自然自体を売るというのは、結局下働きの雇用機会しか発生しないのだろうか。僕が泊まったところみたいにオペレーション丸ごと開発して本土進出というのもありえないことではなかろうが、稀有な例だろうな。
ここが奈良や京都と大きく違うところだ。文化を観光にすると住人は文化の守護者や伝達者のポジションを取れる。自然だとそうは行かない。山ならまだガイドとか山小屋といった伝達者・守護者のポジションがあるが、海は難しい。基本的に裸で寝そべったりじゃれたりしている連中に飲み物を運ぶことになる。海はとりわけ「リラックス」という観光目的を持たれるため、伝道することは何もない。

観光により豊かで誇り高い沖縄を生み出すことはずいぶん難しそうだ。と思ったのだが、なにか方法もありうるかな、と考え直した。京都・奈良は社会的なまた政策的な文化財保護により厚く守られている。如何に金持ちでも、金閣寺を借りて紅葉の秋にステイしたい、などとほざくことはまかりならん。しかし、海に関しては当然のごとく可能だ。この要素が「自然」による観光立地を「卑しく」してしまう要素なのかもしれない。ならば。海岸は売らないことだ。大幅に開発を制限し、渇望される場所としての立場を保とう。それだけで京都や奈良の誇り高きポジションになれるわけではないが、いまよりはずっとましだろう。自然系の観光立地がある程度カルテルを組む必要があるかもしれないが。



沖縄密約訴訟判決、栃木コンクリート詰め事件判決に思う

2007-03-29 13:51:51 | 時評・論評
元毎日新聞記者の西山氏の損害賠償請求が地裁で棄却された。栃木コンクリ事件の賠償額が「生存確率」を理由に大幅に値切られてしまった。
こういうのってあいた口がふさがらない。最近ちょくちょく書いているが、裁判官のおつむのわるさと胆のなさにほとほとあきれる。高給を渡している甲斐がないよね。もうちょっとまともな人々をもっと安く雇えるよ、まったく。人選が絶対間違っているよな。やはり社会人経験は必須だな。勉強ももっとケーススタディ型にするべきだ。最高裁を頂点としたガバナンスもまた再考の余地ありだ。

息巻くと長くなるので(笑)、具体論に入る。まずは西山事件。あからさまな門前払い。報道でも論じられている通り、確かに国家機密につき触れるのはむつかしさがあろう。秘密がばれるならば秘密交渉は為しえない。秘密を共有できない国家間では親密さが大きく減ずる。アメリカと疎遠になるのは困る。ということ。
しかし、これはいくらでもやりようがある。第一に政府自身ではなく裁判所が認定者である。しかも、第一の証拠は米国で開示された公文書である。秘密は「この程度」(=30年守る程度)でよい、と相手の国が言ってるのだ。それに乗ればよいではないか。あるいは、日本国でなく米国のお陰でばれたといえばいい。賠償の額はともかくとして、司法らしい事実認定を、(関係する役人・政治家の利益ではなく)国益を損なうことなく示すことは十分できたはずだ。ほんと、頭が悪いか政府に買収されているとしか思われない。この加藤謙一という裁判長は。

次に栃木コンクリ事件。ちゃんと捜査していても生存確率が3割程度だったから値切るんだって。アホくさい理屈だ。「期待値」というものを初めて知った中学生あたりが興に乗ってなかばふざけて出すかもしれない案。それがそのまま判決になるとはねえ。。。真剣な論議をするのがほんとばかばかしいが、それを噛み殺して少し論じよう。
この訴訟は、①警察が単なる過失ではなく悪意による怠慢ともいえる極めていい加減なことをした、なんなら警察がなく私刑が認められていたほうがまだ有効な動きができたぐらいひどかった ②その結果「救われたかもしれない」命が失われた。のである。①と②を切り離すのは実際の論議上容易ではないが、論点の中心は①にあるのであり、(名目はどうであれ)遺族への慰謝と謝罪は①を中心に行われるべきである。「ごめんなさい、ちゃんとやんなかったんです」と。つまり、事実認定が変わらぬ限り、慰謝料の値切り余地は殆どない。値切るとすれば②の結果論の部分で、ざっくり言って全体の2-3割程度にしかならん。生存確率はこの部分のみで通用する値切り論理だ。つまり2-3割×3割=6-10%なら値切れる。しっかしそれにしても「3割程度」ってどっから出してきたんだ?テキトーな数字としか思えない。曖昧なのは仕方ないがちゃんと思考の跡をみせるべきだよな。

とはいえ、以上は確率論に譲歩して論議を組み立てた場合である。警察への当然の期待をむごい形で裏切ったという一点だけでも十分に多額の慰謝料に値する。値切る問題ではなかろう。これは西山事件よりもアホ。この裁判長は

富越和厚

という。悪質な分だけ余計に晒した。高給とってふんぞり返ってるんだろうなあ。警察や検察に賄賂もらいながら。馬鹿者が。結論自体がどうのこうのというのじゃあないんだ。ちゃんと相応の論理を示せよ。まったく。それのために高い給料もらってんだろう!

うー。。。ほんと裁判所をいじりたくなるね。まずは自分の過去の判決につき説明責任を果たしてもらおう。全員だよ。それで「常識的に」まともでないやつはクビだ。富越は確実だな。加藤は微妙。御殿場事件の情勢裁判官なんかは確実にクビ。やめさせて民事訴訟に晒してもいい。あ、これは裁判員制度でやろうね、職業裁判官だと仲間をかばうから。
それじゃあ裁判官はやってられない?ならやめてもらおうよ。たしかに産婦人科医の出産時事故みたいに、「表面的常識」よりも立ち入って事例を考察する必要があるだろう。だけどそこまでやるなら常識判断は確かなものであり、これに反したことをやっても許されたい、とほざくプロはいないはずだよ。
文句のあるやつはやめろやめろ。そんな難しいことをいってるのじゃない。少なくともばかと非常識人、加えて警察検察に実際のあるいは精神的な賄賂をもらっているやつ、脅迫に屈しているやつを排除したいだけなんだよ。ところで三井環の事件の裁判官は明らかにそうだな。ああ、言い出すときりがない。どぶさらいは早目がいいね。


今野勉「テレビの嘘を見破る」

2007-03-21 22:47:31 | 書評
あるあるの問題で最近出た本かと思ったら2004年に出た本だ。それでも、あ、そう言えばそんなのあった、という類の捏造スキャンダルがけっこう出てきていた。
思いは複雑だがそれはあとで言うとして面白い。いろいろな現場の例を出してドキュメンタリーが再現・誇張・捏造などをいかなる形で含むか、それを開示したりしなかったりするかなどにつきよくわからせてくれる。複雑な思い、の一部になってしまうが、筆者は話をある種偽造することをそこまで悪いことだと思っていないフシがあり、お陰で軽いあるいは仕方がない、場合によってはあったほうがよいウソから言語道断の捏造まで網羅的に語られる。これはメディアリテラシーという点では必ず読んでおいた方がよいと思う。
さて、複雑な思いのほうである。やはり一言で言ってテレビ人は甘い、あるいは驕っている、と言わざるを得ない。ドキュメンタリーでやらせは常識だということだが、それについて反省や弁明がとても軽いと思う。筆者は確かに立場に揺らぎがあり、一方で開示主義を唱えながら一方で見てるほうもだまされて感動したいのだから、風のことを平気で言う。田原総一郎のやらせ当然論は言語道断だ。官公受注で談合が常識だ、と言っているに等しい。業界の中では当然でも世間から見て非常識であり不公正であることは多々あるのだ。
著者が思考の末たどり着いた結論も本当に甘い。「伝えたいことがあれば、そのために考えられるありとあらゆる最善の方法を考える、というのが作り手の原点です」だそうだ。この論議は自分が炭鉱夫たちの慫慂と死に向かう場面を再現してやりすぎと批判されたことを出発点としている。心意気やよし。これはしかし、あきれてしまう。上海の反日デモの「愛国無罪」じゃないか。自爆テロも911も許されてしまうよね。動機と思いさえあれば人を殺してもよいと言うわけじゃあない。そんなことをのたまうのだ。70代後半にもなって。そのすぐあとで「塀の上のランナーたち」という他のプロデューサーの言葉を引用していきがっている。ばかが。テレビ人は塀の向こうには行かないんだよ。圧倒的に守られた立場にある。痴漢やセクハラでもすれば別だが、まともな行き過ぎで向こうに落ちることはない。それを知ってるくせにこんなことを言うのは亀田のイキがりにも劣るよなあ。

あーあ、なんかいやになってきた。今野氏がテレビの中ではかなり良心的な人であることは認めるが、それって平均値がすさまじくひどいってことじゃないだろうか。テレビはいつか成敗しなきゃいかんなあ。とおもう。

ホリエモン実刑判決に思う

2007-03-19 14:42:11 | 時評・論評
なんだかこういうのを見ると裁判所の情けなさを思うよね。

確かに冤罪事件、あるいは恣意的な国策捜査というのはあり、警察も検察も行き過ぎた面を抱える。いや、ひどいといってもいいくらいだ。ただ、警察も検察も悪いやつらを捕まえるわけだから、いまの状況が大幅にまともになったとしても、勇み足は残るだろう。

となると、それを質しまともにするのは裁判所しかありえない。なのに99.9%の有罪率。要は警察・検察のいいなりだ。勝手な拘留延長申請の即承認とかもひどいよね。その一方で取材を受けた側には「期待権」があるなどと危険なことを嘯き、「あなたの人生を全否定したわけではない」とこれは全くのたわごとを語る。まるで社会党全盛期のサヨク教師ではないか。閉鎖され守られた世界で、実は自分はとんでもない害悪を無作為により垂れ流しているのに、いっぱしの人物と思い込んでえらそうな説教を垂れ、変に「独創的な」アイデアをたまに編み出す。愚か者ばかりとは言わないが結構たくさんアホが紛れ込んでいるようだ。

個別論でゆくと、証拠・証言採用の根拠は明示すべきだよね。御殿場事件判決みたいなトンでもないことがあって、弁明しなくても良いとはどういうことなんだろうね?これじゃ、世の中で一番説明責任がないのは裁判所で、だから一番のアホでもできる、ってことになるよね。事実そういうことなのかもしれない。

こうしたこと対するマスコミ、特にテレビの言い方の優しいこと。ホリエモンの場合、判決の論理やつまらぬ説教にかなり違和感を持っている様子なのだが、優しく多少の違和感を伝えるにとどまってるよね。これだけいい加減な話なら普通はギャアギャア噛み付く連中がね。なんかおかしいよね。検察と裁判所はどういう形でテレビの首根っこを押さえてるのかな?

なんにせよ、法治国家にしようね。ほんとに。裁判官のみなさん!

日興の上場維持決定: 今回が正しい。これまでが間違っていた。 ライブドア、西武、カネボウ

2007-03-13 09:50:17 | 時評・論評
今朝の日本経済新聞で日興の上場維持が報じられていた。少し笑ったのは1面の真ん中で2月28日の上場廃止報道についての言い訳を重ねていたことである。かわいいことで、と茶化したい気持ちはあるが、まあ、立派なことではあるのでまぜっかえすのはよしておこう。

ところで、カネボウや西武のことで論じたように、経営者の不正な行為を罰するために、不正の被害者でもある株主にさらに被害を与える上場廃止は、最悪の選択である。西武やカネボウの時はそのことが全く忘れ去られており、経営者を罰するために、実は株主に対して「厳正に処すべし」なる珍論が横行していた。このときこういうコメントをした評論家や記者は一応アホ印をつけておいたほうがいいね。僕は上場廃止論者じゃないので執筆禁止は唱えないが、まあ「取引注意銘柄」だね。

ところが、今回は少し論調が違う。悪名高いシティに日本に再参入させるのはいかがなものか、証券会社という東証の身内だし、などのいかがわしさも漂う理由や、不正の程度がかなり低い、といった違いもあろうが、さすがにマスコミは目覚めたのかな。「投資家配慮を東証優先」という尤もな3面の見出し、専門家の見方の見出しも「投資家保護の面で妥当」「株主利益が最も大切」と全くの正論、その他の今回の決定を疑問とする声も、これまでとの整合性を問うているわけであり今回の決定を非とするものではなかった。

ということで、世論は正しい方向に行きそうだ。昔の中国じゃあるまいし、旦那が失脚したら一族郎党殺されてしまうような処罰はありえないと思う。東証も昔の決定を非として今回のような判例を重ねるべし。西武とカネボウの株主には謝罪が必要だと思うな。一部補償的処置も含め。

それにしても日経では海外の例を持ち出して「過去の(不正)行為を罰するため上場廃止が検討される日本は異例との指摘もある」などとあほなことを言っている。情けない。海外の指摘を待つまでもなく自分の頭で考えてほしいね。だいたい西武やカネボウの時はどう考えたのだか。そもそも、「過去を上場廃止で罰する」のがおかしいんじゃなくて、「経営者の行為を株主の負担で罰する」のがおかしいのだ。しっかり考えてくれよ、まったく。

こんな記者に「もっと合理的な制度に改めることを考えてもいい」などと説教じみたことを言われるのはほんと腹立つね。あ、署名があった。「編集委員 前田昌孝」さんだそうだ。一応取引注意銘柄に登録。2-3回だめが続いたら整理ポスト入り(笑)。



竹内洋「教養主義の没落」

2007-03-10 08:37:24 | 書評
「丸山眞男の時代」同様、大変面白かった。漠然としていた教養主義なるものの歴史と実態をさらうことができ、また概念的な総括もできた。時間論や遺伝子論など、いい本に出会って「なるほど」と合点し、てとりあえず憑き物が落ちた分野がいくつかあるが、これもそうだな。

じゃ、分野は何かというとこれがまた定義しにくい。左翼とか知識人とか(両者は重なるが同じではない)に対して感じてきたどうしょうもない胡散臭さ、というべきかな。第一に彼らが言っていることに意味があるのか、ということ。第二に、彼らは本心を語っているのか、ということ。世代的には一応僕からは団塊の世代。自分の学生運動を総括もせずのうのうと大会社のサラリーマンに収まっている偽善者たち。そのくせ「若いときは左翼でないのは人格的欠陥がある」と、社会公正について考え抜いてきた右翼思想者の僕に平気で言う迂闊さ、面の皮の厚さ。そうした左翼や元左翼のいい加減さ、いかがわしさを何も指摘しない(と思われた)当時のマスコミや世の論調。そんなことかな。
それだけではない。公平に言って僕自身も教養主義には巻き込まれてきた。ここ10年程度はぐっと楽になったが、それまでは大なり小なりあせりを感じつつ、些かの背伸びを交えて本を読んでいたように思う。それなりに仕事が忙しくまたケチであった(ある)ため、とりあえずプラトン全集とアリストテレス全集を揃えておこう、といった愚は幸いにも実行はしていない。が、本棚の片隅を30年にわたり飾るプルーストの第一巻とか(笑)、10年で3-4回しか開いていない「字通」といった背伸びの痕跡はある。ま、本棚群まるごと、教養≒読書を通じて他者と差別化して行きたかった(そして他の手段を思いつかなかった)若者の苦闘の跡、ともいえる。もちろんその戦略はある程度成功していると思う。科学哲学・科学史はそこらのビジネス書よりよほど高度な思考の整理方法を教えてくれたし、現代外交史は交渉術の教科書である。そんな実用性を語らなくとも、ちょっとした日常の出来事やニュースを、率直に言って凡庸に過ごした人々よりははるかに興味深い文脈で解釈できるし、そのこと自体が面白く、次の疑問を楽しんで解決しようとすることも多い。(こういうまわりかたが多くなったのが10年ぐらい前で、少し楽になった。山崎さんがよく引用する「チャンク」が整ったのかもしれない)。でも、今にして思う。ほかの方向の努力ってなかったのかよ!とね。もう50も近いので社会的ポジショニングのために何かをするには遅いが、生きる楽しみとしてはちょっとあがいて見たいな、と思う。

さてはて、「分野」ということで長くなりすぎたが、要はむつかしい本をよみむつかしい言辞を弄して論議することになんの意味があるんだ、特に左翼系のそれは、というのが「分野」。そして竹内氏の答えは、田舎者であり成り上がり者の文化戦略であった、ということである。

-教養知は友人に差をつけるファッションだった。何と言っても学のあるほうが女子大生に持てた。また女子学生も教養があるほうが魅力的だった。また教養崇拝は、学歴エリートという「成り上がり」(マックス・ウェーバー)が「教養」というメッキによって「インテリ」や「知識人」という身分文化を獲得する手段であったことも否めない。-

感性を武器とする洗練された町人や貴族は、それぞれ「江戸趣味」や「ハイカラ文化」を持っていた。そこはヤボとイキが支配する世界であり、生まれながらに文化の中で暮らしていなければ入りこめない世界である。つまりなりあがれない。両者の違いは洋風か和風かということである。
勤勉とまじめをモットーとする武士・農民側は、和の側に修養主義、洋の側に教養主義を置いた。この背景からは教養主義における勉強が永遠の修行であるのは当然のことである。

幸いなことに教養主義は洋物という点において華族のハイカラ文化と近縁にあった。そして華族の西洋風俗の取り入れは明治日本の国策であった。これにより教養主義は町人の江戸趣味に文化的勝利を収め、華族というブルジョアへの憧れを充たす、いつかは華族に、あるいはそれに近い生活をという気持ちを反映する生活のあり方となった。

とはいえ生まれの違いは否めない。教養主義は重く暗く、ハイカラ文化は軽く明るい。カントだのベートーベンだのに逆上している高校生より、遊び慣れした慶応の学生の軽やかさが上流の女子には好まれる。ではブルジョアに対抗できる教養主義の武器はなにか。それはマルクス主義である。地方インテリの都市ブルジョアに対する劣等感はこうして克服される。都市ブルジョアに属しながらそのことを恥じる若者も戦列に加わる。こうして教養主義は左翼との親近性を覆いに高める。戦後もしばらくはこの構図が続く。

しかし、社会の変化は教養主義の崩壊をもたらした。戦後進学率が向上、大学生がエリートから転落し単なるサラリーマン予備軍となって行く過程で、「栄華の巷 低く見て」と嘯く教養主義の心情は、個人的呟きを超える居場所を得ない。階層社会の崩壊もこれを促進した。文化水準、政治力、経済力の3つの力がきれいに分かれていた(と感じられる)時代があった。大蔵省の事務次官はそれなりに立派な収入を得て本人は大変な教養人だ、というきれいな理解が出来ていたが、それは崩れた。下品な金持ち、貧乏な知識人が例外でない世界に入った。
もう何のための教養かわからない。ブルジョアの洗練への信仰告白として、のちにはそれを(心理的に)超克する手段として教養主義があったのなら、もうお役ご免である。

「昔の学生はなぜそんなむつかしい本を読まねばならないと思ったのか?それに、読書で人格形成するという考え方がわかりつらい」 と著者は遂に聞かれている。こんなばかなことを最近の学生は言う、と言ってしまう内田樹と違い、著者の対応は誠実である。それへ答えようとする努力が終章の後半を際立たせたものにしている。
しかし、結局学生の言い分は肯定されたようなものである。著者は前尾繁三郎などの例を挙げたあと、殆ど結論として次のように言っている。

-大正教養主義はたしかに書籍や総合雑誌などの印刷媒体とともに花開いたが、それとともに忘れてはならないのは、前尾や木川田に見ることができるように、教師や友人などの人的媒体を介しながら培われたものであったことである。・・・・教養の培われる場としての対面的人格関係は、これからの教養を考えるうえで大事にしたい視点である。-


なるほど。である。要は教養主義は、むつかしい本を題材とした修行であった。本そのものより修行の経験を通して触れた師や友の魂を畏敬する。その畏敬は普遍的な存在への畏敬にも通じ、人の人生によき神秘と規律と高潔さをもたらす。
ということのようだ。どうやら、教養主義の一番良質な部分に近いのは剣道とかそろばんとかの習い事、修行ごとのようだ。確かに同じ武士・農民文化から生じたのだからそうだよなあ。あと足りないのは「栄華の巷 低く見て」ゆけるような「むつかしさ」「特権性」から生じる高揚感だな。





Ane Can 広告の押切もえのメイク

2007-03-08 09:49:53 | 時評・論評
今朝中吊りでAne Can の創刊号の広告をみた。非常にたまげたのだが、なんだあの押切もえの目のメイクは? いつもああだったっけ?
顔の下半分がやや弱めのセンである彼女が、もともと大きな目を必要以上に強調すると程度を超えてアンバランスになる感じがする。なんかイタイね、おじさんから見ると。割と好きな子だけにかわいそうだなあ。もっといい写真使ってあげればいいのに。

「『丸山眞男』をひっぱたきたい」への応答 -論座2007年4月号-

2007-03-05 23:30:47 | 書評
論座などという雑誌は朝日新聞社というだけで前々から毛嫌いしていたが、最近話題の「『丸山眞男』をひっぱたきたい」を掲載した雑誌だし、今度はそれへの応答を特集しているというから買った。

まずは「応答」から。こりゃだめだ、と言うのが最初の感想。「丸山眞男をひっぱたく」とは階層の逆転の実現であり、「戦争」とはそれを可能にする現秩序の崩壊の契機である。丸山眞男と肩を組みたいのではない、丸山が私をひっぱたいたように、私も丸山をひっぱたきたい、そんな秩序の逆転を希求する、そこで左翼はアテにならない、既存秩序の擁護者だから。そんなことを赤木氏は言っている。

それなのに、「フリーターが戦争に行かされる」だの(福島みずほ)、戦時にも金持ちは得をした(斎藤貴男)、だの、なんだそれは?赤木氏は秩序の抜本的見直しを望んでいるのであって戦争を望んでいるのではないぐらいのことはわからんのか?
森達也は「30代の健康な男なら、少なくとも東京でアパートを借りて暮らせるだけの仕事を見つけることは不可能じゃない。いやそれほどむつかしくはない。」と言った時点でアウト。そのあともなんだか説教じみている。そういうのならちゃんと紹介しろよ、仕事を。そのあとでなら説教は少しはつきあってやるさ。若松孝二。「長い人生、1回や2回刑務所に入ったってどうってことはない」。あーあ、学生運動世代の典型的甘えだなあ。いまから国会でもどこでもけしからんと思うところに乱入してつかまって見たら? 奥田紀晴。赤旗編集局長。「君」と呼びかけた時点でもうだめ。ばかもの。佐高信。論旨が飛びすぎてるので一言で言いにくいな。ま、ピンボケ。

さて、あとは爺さん2人。鶴見俊輔。もうろく?「情報技術を学べばよかった、今頃よのなかは自由自在だよ」と言っているのは支離滅裂。冗談なら大外れ。そのあと共産党がどうのこうのは論旨とは関係ない。これももうろくか?最後の「ハケンの品格」のファンというところはぐっと共感が持てた。また、ずっと「赤木氏」と読んでいることには少し見直した。が、結局ストレートには答えていないなあ。
吉本隆明。これも話し飛ぶんだよね。結局自分の土俵の話になっている。

まあまともに思えたのは鎌田慧だけ。低賃金労働の現場を知るだけあって正面から受け止めている。得意分野が噛み合った、という面もあるが、誠実な回答だな。

赤木氏の論説は、実は古典的階級闘争の主張である。ブルジョアは打倒されなければならない、無産階級よ、立ち上がれ! 秩序よ、逆転せよ! という咆哮である。左翼言論人にとってはキリストのような人(マルクスはパウロってことにしよう)が再来している。「戦争」という表現をとったからと言ってそこにちまちまこだわるのは、キリストのレトリックの細部を云々しているのと一緒だ。ばかなことを言ってはいけない。
左翼言論人よ、あなたがたのキリストがやってきたのだ。原点を唱える人だ。だから尋常ならざる覚悟と緊張感を持って論議するべきである。あなたがワイドショーのコメンテイターよりはましな存在であるというのなら。もしあなたが「左翼教」でないことを自覚したなら弾圧に回るもよし。ただし事前に立場を鮮明にしてからである。「私は赤木氏のような立場の人を救うべきだというつもりは全くありません」とね。それが恥を知るということだ。

それにしても、労働関係法規の改正が保護のない無産階級的階層を生み出してしまったのだ。それなら、また革命を起こすしかないよね。派遣労働者とフリーターは団結してね。左翼の人たちにとっては絶好の活躍の場なんだけどなあ。総御用組合化してんのかい?論座の言論は圧倒的に第二組合つぶしって感じだったよなあ。少しは頑張らないかい?って言いたくなる。ていうか、頑張って欲しいのだがなあ。


さてさて、論座の他の記事。特集は「グッとくる左翼」だってさ。うん、面白い。「素人の乱」、いいよね。法政大学出身の松本さんという人が主催する、「抗議する無産者」ではなく「勝手に楽しむ貧乏人」なわけだ。雨宮処凛の記事とそのあとのルポはすごく面白かった。でもそのあとの論考と合わせて考えるとやっぱりこれは左翼としては失敗。「グッとくる貧乏人」はいたんだけど、それは左翼と関係ないことが確認されたし、そのあとの論者たちの主張は従来型左翼の行き詰まりと新時代への混迷を印象付けるだけだ。まるで諸君!の「左翼は死んだ」特集かい、と思ってしまうぐらいである。

ところが、である。赤木氏を引っ張り出してきた論座のことだ、こういう特集を組むことで主要読者である左翼言論人にある種強烈なメッセージを送っているのかもしれない。先ほどの「応答」にしても、主要な言論人がいちフリーターの主張にこんなへなちょこな反論しか出来ない、というのをあからさまにさせている。また、同じ号では麻生外務大臣にインタビューしているが、記者が大臣に軽妙に手玉にとられている様子をがそのまま載っている。
トータルすると、左翼言論人の情けなさが露骨に見えてしまう。それが何を目指しているのかはわからないが、どうも左翼のばかさを曝す、という意図は鮮明な気がする。

3/9/07
・2-3の誤字脱字手直し