イタリアまるかじり

料理を通じてイタリア文化探検する。

歩天組が行く・武蔵嵐山探鳥会(5月23日)

2013-05-25 12:58:10 | その他
5月23日歩天組3名が探鳥会に参加、50名近いバーダーが東武東上線・武蔵嵐山駅に集合していた。
小生は始めて降りた町でした。



28度C微風初夏の新緑が目にしみ、散策10KM大いに堪能しましたが、暑くて少々くたびれました。









川が流れていて、アオイトトンボがたくさん見られた。
カジカガエルが美しく鳴いていた。夏の季語との事。
キイチゴ、ヘビイチゴをたくさん見つけ、キイチゴは甘く旨かった。




トラストで武蔵嵐山は守られている。





これから弁当を食べるところです。

K隊長後記 ;

深緑の中、武蔵嵐山探鳥会に参加した。コースは菅谷遺跡から深緑の嵐山渓谷を往復した。
気温28℃の中、10kmほどの行程であった。渓谷に入る前のアシハラで大きな声で鳴くオオヨシキリ
や草地で鳴くセッカを楽しみ渓谷に入った。渓谷では、キビタキが良く囀り、アオゲラも良く鳴き、
遠くからホトトギスの声も聞こえた。また、巣立ちしたばかりの幼鳥にエサを与えるホオジロや
、木立を飛び回るエナガの幼鳥も良く観察できた。結局、28種の野鳥が観察できた。
残念ながら期待のサンコウチョウは観察出来なかった。


佐渡にルーツを求めて。(5月20~22日)

2013-05-25 11:13:42 | その他
5月20~22日佐渡へ女房と女房の弟3名で中山家のルーツ求めて旅行。
2年前の6月には法要で10年ぶりに訪れたが、今回はルーツ探し中心と墓参り。

今回は;
1.「河崎屋物語」中山徳太郎著)私本のコピー


河原田図書館で司書の方が約400ページのコピーをしてくれた。

2.鶴子銀山 --河崎家(中山)が経営に参画していた。現在佐渡4大鉱山の世界遺産に登録準備中。



中山家の歴史(「河崎屋物語」より
武田勝頼のお納戸役(財務担当文官)で勝頼の敗北で、河崎新吾元康が佐渡に渡り、その後一族が中山と言う
地名に住み、「鶴子銀山」の経営に携わりし財を成した様である。「鶴子銀山」は「相川金山」が発見(1600年)より約50年前に見つかり当時日本最大級の鉱山であった。
河原田に3代目宗佑が名字帯刀を捨て郷士となった。
名を居住していた中山にちなみ苗字を「中山」屋号を「河崎屋」とし、中山7軒を形成現在の河原田商店街
の礎を作った.
中山七軒「河崎屋七軒」 :
中山新佐衛門(大屋ーおうや)
新兵衛   (本屋ーおもや)
儀江門   (隋屋?)
五右衛門  (酒屋)
八兵衛    (無し)
六兵衛    (中元または中)
七兵衛    (新居屋)

「曼荼羅寺」現在で47代目とのことですが、1397年建立され、2回火事に遭遇
江戸初期1615年の火災の時には田畑と小作人もつけ曼荼羅寺再建した。
又明治中期に又火災にあったが中山家が再建した。

上記は「河崎屋物語に出てきて、中山徳太郎(産婦人科)が執念で調べ上げていて
「おうや」の直系らしく自宅にあった「かこちょう」や佐渡の歴史書をもとに調べた。
漠然と武田家家臣であったことと、中山7軒が河原田に移り住んだ事は聞いていたが、
「川崎」と言う名前がルーツであったこと初めて知りました。

  

1.「川崎屋物語」中山徳太郎(なかやまとくたろう)私本
【生没】一八七五ー一九五一

 河原田の町づくりの初期の頃からの旧家で、河崎屋こと中山一族のうち、「主屋」と呼ばれる新兵衛家に、明治八年十一月十六日に生まれた徳太郎は、同二十一年上京して萩野由之家から、慶応の中等科・千葉医専に学び、三十七年河原田本町で産婦人科を開業した。萩野の影響のためか、郷土研究に早くから関心をもち、とくに古い習俗を来院の患者などから聞いたものを、昭和十一年(一九三六)に『民俗聞書帳』として、お産のこと、山の神のこと、八百比丘尼のことなどを世に紹介した。同十三年には青木重孝と共著『佐渡年中行事』を、ひきつづき『河崎屋物語』を出版した。その後は刊行書はないが、中央の「旅と伝説」誌や、地方の民俗研究雑誌「高志路」「ひだびと」などには精力的に投稿し、その状態は昭和十七年(一九四二)までつづいて、そのあと広域の出版物への寄稿は途絶えた。中山徳太郎は、「烏賊」の筆名をもつ文人でもあった。俳句の歳時記が、民俗への橋渡しとなる例は珍らしくないが、中山の文章から、詩的雰囲気を感じる個所は少なくない。「ひだびと」誌に掲載された「売られゆく牛」の記事を、多くの民俗誌が引用しているのも、その詩的な感銘度の高さによるものと思われる。中山は昭和二十六年二月二十日七五歳で歿した。遺族はその後島を離れ、オモヤの家はすでにない。

私の本籍は佐渡郡河原田で、父が15歳の時(大正9年)に小樽へ移り住み始めた後も土地家屋は残していた。
現在中山七軒で土地が残っているのは私達だけである。

2.鶴子銀山
 佐渡の4大鉱山;「西三川砂金山」「新穂銀山」「鶴子銀山」「相川金銀山」は現在世界遺産に登録準備中である。



鶴子銀山(つるし ぎんざん)


海上の舟から陸を見ると、山が輝いていた…。 その発見伝説は、石見銀山(島根県)のものと似ており、当時の石見と佐渡の深い交流を示唆しています。
山中に残された、おびただしい数の「露頭掘り」の痕跡。そして、眼下の港に整備された街並み。ここで蓄積された鉱山技術と経営の方法は、のちの相川金銀山の開発へと引き継がれていきます。
.
日本海を渡ってきた鉱山技術

発見の伝説

鶴子銀山は1542年、越後国(新潟県)の商人によって発見されたと伝えられています。沖合から見ると山が光っており、上陸して調べたら銀が出た。そこで、その商人は許可を得て銀を採掘し、税として1か月に銀100枚を領主へ納めたと言われています。今でも現地には「百枚平」という地名が残り、地表から銀を採掘した無数の露頭掘りの跡を見ることができます。間歩の跡も含めると、600か所を超える採掘跡が確認されています。

石見からの技術移転

発見伝説の相似性からわかるように、佐渡は石見国(島根県)と深い交流がありました。はるばる日本海を渡って、鶴子にも「横相(よこあい)」と呼ばれる坑道掘りの技術が伝えられました。これによって、複数鉱脈の同時採掘や排水が可能になり、さらに灰吹法という最新の製錬技術も導入されて、産出量は飛躍的に増大しました。

都市と港湾の整備

空前のシルバーラッシュに沸く鶴子。一攫千金を夢見る人々が全国から集まり、「鶴子千軒」と呼ばれる繁栄期を迎えました。銀山の消費する物資(炭やろうそくなど)を島外から移入するために、眼下の海沿いには港が整備され、商人が集まって街もできました。このようにして、鉱山技術だけでなく、都市・港湾整備の技術も蓄積されていったのです。
銀山の足もとに広がる沢根(さわね)の街並み。銀山の港として発展しました。

そして相川へ

鶴子の奥山にあたる相川で鉱脈が発見されたのは、1601年。のちに世界有数の産出量を誇ることになる相川金銀山の誕生です。
佐渡の金銀山の中心は相川へと移っていきました。しかし、鶴子で培われた技術と経験があってこそ、相川の繁栄が生まれたと言っていいでしょう。
シルバーラッシュを支えた鶴子銀山は、相川金銀山の開発が本格化するにつれて、徐々にさびれていき、1946年(昭和21年)に閉山しました。

3.曼荼羅寺
 


写真は中山家の菩提寺「曼荼羅寺」の門、全盛期には正月だけ、中山家の為にだけ空けられるというが、使用されているか不明。○に三が入っているのが中山家家紋が屋根上に見える。