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まったりもったり~自閉症息子のいる暮らし@ちびくまママ

障碍名を消化する(その1)

2007年06月14日 | 「発達障碍」を見つめる眼
ちょっとリクエストを頂いたので、息子の障碍名を私がどのように
自分の中で消化していったのか、というくだりを振り返ってみようかと
思います。

私にとって最初に出会った障碍名は「ハイパーレクシア(Hyperlexia)」でした。
注)当時はまだ「自閉症スペクトラム」という考え方があまり一般に
  浸透していない時期だったこともあり、「Hyperlexiaと(狭義の)自閉症は
  いずれもPDD(広汎性発達障碍)圏に属する別々の障碍」という考え方が
  最も有力という感じでした。

1998年の9月に息子はアメリカで生まれて初めて正式で詳細な発達検査を受けて
確かにPDD圏であり、「Hyperlexiaだと考えられる」という判定をもらい
養護幼稚園への編入が決まったわけですが、その時の私の心境としては
障碍があることがわかってショックだったというよりも、当時も書いているように
「どうしてもできなかったパズルがやっとできたような」喜びに近い
気持ちを抱いたのを覚えています。

それまでずっと「育て方が悪い」「子どもの性格が悪い」と言われ続けて
きたなかで、やっと「自分たちが悪かったのではない」と認めてもらえた
喜び、やっと自分たちを認め、受け入れてくれる人・場所が見つかった
喜びと言ったらいいでしょうか。

次いで、その年の12月に、息子は大学病院で正式に「自閉症スペクトラム」の
診断を受けます。「おそらくは高機能かアスペルガータイプ」ということも
同時に言われました。
このサイトでも「はじめてのおかあさん」や「12月が来るたびに」などで
書いていますが、実は私にとっては、この診断のときが一番辛く、
それを受け入れるのに時間がかかりました。

それから1年2ヶ月が経ち、日本に帰国する直前に、息子はもう一度
大学病院でフォローアップの検査を受けました。このときに、「初回の
検査では高機能かもしれないと言ったが、少なくとも現段階では
知的障碍を伴うと言っていいレベルにある」という説明がありました。
また、帰国して2ヶ月後に受けた療育手帳の判定でも、A(重度)判定でした。
ですから、このあたりで、息子は「知的障碍を伴うタイプの自閉っ子」
である、という評価を受け始めたことになりますが、このときは私は
やはりほとんどショックを受けたという記憶がありません。

むしろ、療育手帳の判定結果を私に告げた児相のケースワーカーさんが、
さも申し訳なさそうに、
「お母さん、がっかりしないでね。言葉が通じない分、低く出ている
 可能性もあるのよ。ただ、今の判定基準では、どうしても中度という
 判定にすることには無理があるの」
と説明してくれるのが、なんだか可笑しくて、
「そんなに申し訳なさそうに言ってくれなくても・・・」と思ったのは
よく覚えています。
アメリカを発つ前に、周りから
「日本は自閉症についての理解が遅れているから、こんなタイプの子の
 障碍の重さ、難しさがちゃんと評価してもらえないかもしれない」と
さんざん聞かされていたのが良かったのかもしれません。
文句なく「重度」判定をもらえたことで、むしろ「わかってもらえて
良かった」という気持ちのほうが強かったのでしょう。

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