F老人の気ままな島暮らし日記

尾道市生口島で気ままな島暮らしの日々。

氷紋の駅・紋別市立博物館・鴻之舞金山・クリオネ

2018年08月08日 06時39分02秒 | 旅行記
道の駅「おんねゆ温泉」で起床。もう一度、湧別まで行って、それから北上することにしました。

242号線、一休み。JR生田原駅。図書館とオホーツク文学館が一体になっています。残念ながら、開館まで30分以上あるので外観だけ。





氷紋の駅に到着。旧紋別駅。スーパー、土産物売り場、レストラン、温浴施設が同じ建物に入っています。









ここで昼食。なぜか辛味噌ラーメン。



隣に、紋別市立博物館。入場無料。



ここにも深い歴史がありました。









そして、ここに来た目的。鴻之舞金山、なぜか、気になっていました。

紋別市鴻之舞にある。鴻之舞は、紋別市の中心市街地であるオホーツク海側から約25キロ程度、遠軽町の旧丸瀬布町方面に南下した地点である。明治30年代頃に砂金が発見され、砂金掘りたちが集まり、「ゴールドラッシュ」となった。 紋別の鴻之舞・藻鼈川沿いの元山付近で、1915年(大正4年)に鉱床が発見されると、鉱区設定を巡る紛争が起きた。結果的に有志による組合により鉱区設定が許され操業が開始されるが、1917年(大正6年)に住友(のちの住友金属鉱山)が90万円で経営権を得て、以降1973年(昭和48年)に至るまで操業を続けた。 金・銀・銅などを産出したが、中でも金の埋蔵量は佐渡金山・菱刈金山に次ぐ日本で第三位の産金の実績であり、1940年(昭和15年)には年間金2.5トン、銀46トンを産出。1955年(昭和30年)には金年間2.98トンの最高産出量を記録した。操業開始から1973年の閉山まで、金72.6トンと銀1,234トンを産出した。 最盛期(1942年頃)には人口14,640人を数えるまでになった。 しかし、1943年(昭和18年)には戦争の激化による産業統制の一環として金は不要不急の鉱物とされたため、産金部門で働く労働者の多くが産銅部門や住友系列の他の事業所に配置替えとなった。第二次世界大戦後、1948年に操業を再開したが金価格が下落し、資源も涸渇したことから、1973年に住友金属鉱山は鴻之舞鉱山の閉山を決めた。閉山後も沈殿池のみ稼働している。(wiki)









22キロほど離れたところに「上藻別駅逓」があり、そこに関連資料があるので行ってみることにしました。







中には、貴重な資料が「雑多」に陳列されていました。





鉱山で使用されたものだそうです。



街がありました。



人が働いていました。



学校がありました。



鉱石。



現地に行きました。さすが住友という感じで慰霊碑がありました。





開山100周年記念碑。



鴻紋軌道記念碑。銀色の道。

作曲者の宮川泰は後年、小学生の一時期在住した北海道紋別市の住友金属鉱山鴻之舞鉱山で、土木技術者の父親が建設に携わった専用軌道「鴻紋軌道」(鴻之舞元山 - 紋別間)のレール跡の水たまりに月の光が映る姿を見て、「これこそ銀色の道だと確信した」という。また同時に、「この歌詞を彼(作詞家・塚田茂氏)から渡されたとき、どことなく懐かしさを覚えました。"遠い遠い遙かな道は冬の嵐が吹いているが谷間の春は花が咲いている-"。少年期を過ごした鴻之舞に重なる内容です。正直なところ、曲をつける時点では、それほど意識はしていなかったと思います。でも父が亡くなり、その後、何度か紋別を訪れて、父の無念の思いや自分の望郷の念が重なりあって自分自身、この曲の原点が鴻之舞にあると確信するようになったのです。」と言及している。(wiki)



かっては、大きな町がありましたが



今は、すべてが植物に覆われて、かっての栄華はありません。













道の駅「オホーツク紋別」。流氷科学センターと一体化しています。



クリオネ。軟体動物門腹足綱裸殻翼足類、ハダカカメガイ科、ハダカカメガイ属。殻のない貝だったのですね。





紋別名物。





記念撮影。





「紋太の湯」で入浴。道の駅に引き返して停泊。