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はぢをすて人に物とひ習ふべし これぞ上手の基なりける

2014-12-29 | ◆日記・エッセイ・コラム
以前、お茶を習っていた頃は、お稽古の前に必ず唱和していた利休道歌に一部です。特に、下記の三つはどんな場面でも通用しますね。

コーヒーでも同じように思います。反対に少しだけ焙煎などを皆様に教える機会がある立場で言うと、「教える側が、職人ワザだ、難しい、日々の天候によってダンパーを微妙に変化させる」なんていう独りよがりで数字にも表せないことを言う人はニセ者だと思います。茶道ではそういう作法上のことで順序や場所や決まりとこは多いですが、どっかの先生だけが独りよがりの事をいうことは絶対にないと思います。
そして、もし人に教える機会があれば「難しいことほど、判り易く教える」ことこそ眼目だと思います。

私は今、仏像彫刻を仏師の先生に習ってますが、先生は同じ年なんです。そうすると三十数年の毎日十時間以上を木と向かい合っているわけで、最近、入門した私が追いつけるわけがない。それでもなんとかしようとするならば、仕事の都合や個人の事情、お付き合いなんてしていたら、とてもじゃないが時間的に上達出来ないわけです。

仏像彫刻の本は沢山出て「順序」も掲載されていますが、これは「技術」の世界、仏師という職人の世界(大工さんの世界もおなじで)は本では無理なんです。微妙なところが・・・そこを見て、見せて頂いて学んでいます。(刃の入れ方、角度)そして練習を重ねる。

そういう世界と【珈琲焙煎】とは全く違うということです。珈琲焙煎はただの誰にでも出来る作業なのです。

同じ状態の焙煎機を2台置いて、先生と同じ操作をマネすれば、必ず同じ豆が焙煎出来るのです。
みなさんのお近くの自家焙煎のお店で聞いて下さい。

「長年の経験が必要だ」という店はインチキ野郎です。

【技術】とは習得に精進して何年もかかるものです。【作業】は手順を覚えれば出来ます。ダンパーを操作するなら、何時、どの範囲で、何故? その結果を全て明らかにしなければ嘘になります。STEP細胞と同じです。


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【以下、よそさんからのコピペ】
その道に入らんと思ふ心こそ 我が身ながらの師匠なりけれ
利休百首のへき頭に、この歌が出てくる。道歌百種の序論とでも言うべき歌だが、茶道全般を学ぶ者の心構えを、まず教えているのである。
何事でも、その道に入り、その道を学ばんとするには、まず志を立てねばならない。
志を立てずに、その道に入るのは、目的なしに道を歩き、目的なしに旅を続けるようなものである。
このごろはお茶が流行するから、自分の娘にも習わしておこうと、本人が、お茶を好きであろうが、なかろうが、おかまいなしに、稽古に通わせている親がずいぶんあるようである。
芸道は、自ら進んで習うようでなければ、上達しないものである。自発的に、習ってみようという気持ちがあれば、それはその人自身の心に、もうすでに立派な師匠ができているのである。これは茶道だけではない。学問にしても、他の芸道にしても、その道に入るに当たり、よくよく味わうべき言葉である。


習いつつ見てこそ習へ習はずに よしあしいふは愚かなりけり
食わず嫌いということがある。茶道を批判する人の中には、この食わず嫌いが多いようである。
文学評論家、劇評家などは、自分の思うところを、時には対象となった相手を、再起不能におとしいれるような峻烈な批評をする。しかし批評はできても、自分でじっさいにやってみると、な
かなかできるものではない。私は年に1回、素人歌舞伎に出演するのだが、その出演者の中に有名な劇評家がいる。稽古になると、日頃批評の相手にしている俳優から、いろいろ教えてもらうのだが、そのときばかりは、汗をびっしょりかいている。そして「自分では、こうだとわかっているのだが、手足が思うように動いてくれない」といいながら頭をかくのである。批評するなら、まずその対象となるものに、自らがはいりこまなければ、本当の批評はできない。口先だけの批評では人が納得してくれないだろう。
志深き人にはいくたびも あはれみ深く奥ぞ教ふる


伊勢松坂の本居宣長は、古学の研究を志したのであるが、賀茂真淵の「冠辞考」を読んでその見識の大なるものをかんじ、真淵の門人になりたいと思って江戸に上がり、真淵の門人となった。宣長は古事記の注釈をしてみたいことを語ると、真淵はその熱心さに感じ「学問の道は低いところから段々高いところへあがって行くようにしなければならない。低いところが分からないのに、高いところにあがりだすのは危いことだ。即ち万葉を調べてから古言を知り、古言を知ってから、その後に神典を説くという順を踏まなくてはならない」と諭し教えた。その後真淵は、松坂に帰った宣長の質問に答えて7年間、手紙で種々教えた。その教え方は、利休のこの歌のように実の子に教えるが如く、あわれみ深く、こまごまと教えたということである。
熱心な弟子には、親切な師匠であるべきことは、この真淵と宣長の話によっても、明らかであろう

はぢをすて人に物とひ習ふべし これぞ上手の基なりける


昔の言葉に 「知らぬ事は知りたる人に問うを恥じず」 というのがある。知らぬことは恥かしいと思わず、師匠や先輩に質問すればよい。
「ここのところがわからない。次の稽古日には、先生に聞いてみよう」 とおもっていながら、さて師匠の前に出ると、「このくらいのことがわからないのか、と笑われないだろうか。他の稽古の人たちもおられることだし」 と、口まで出かけていた質問も、そのまま聞かずにほっておく。
なるほど、恥かしいと思うかもしれない。しかし機会を逃がしてしまうと、知りたいことも、そのままになってしまう。これは大きな損失である。その反対に一時の恥ずかしささえ忍べば、それが一生の得になるのである。 このことと逆に、知ったかぶりの顔をしている人がある。
中には、知っているような顔をして、他人から探り聞きをしようとする人があるが、これはもっとも卑しい心である。

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