児童文学において、主人公が努力する姿はよく描かれてきました。
努力が報われて何事かが成し遂げられる過程を通して、主人公の成長する姿を描く、いわゆる「成長物語」は、児童文学における一つのパターンと言ってもいいかもしれません。
もともと「成長物語」は、現代児童文学が1950年代に掲げた理念のひとつである「変革の意志」を、本来の意味である「社会の変革」だけでなく、「個人の成長(変革)」にも適用したものです。
それは、1950年代から1960年代には信じられていた「社会の変革」(多くの場合は社会主義型の社会への変革を意味していました)が、70年安保の敗北、その後の革新勢力の低迷、ソ連などにおける共産主義国家の崩壊などを通して、書き手の多くが変革後のあるべき社会を、読者である子どもに提示できなくなったことが、変革の対象が社会から個人へ変化した理由のひとつでしょう。
また、現代児童文学がスタートしたころには克服しなければならなかった近代的不幸(飢餓、貧困、戦争など)の多くが、1970年代までの高度成長時代に克服され、多くの若い世代にとって新たな現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きていることのリアリティの希薄さなど)の方が問題になり、変革の対象が社会から個人に変化したことも、その理由に挙げられるます。
しかし、現在では、変革の対象があまりに個人に偏りすぎて、努力する目標も個人的な成功(優れたスポーツ選手や芸術家になる、お金持ちになる、名声を得るなど)に限定されすぎています。
現代の若い世代を取り巻いている新たな問題(格差社会、世代間格差、ネグレクト、ハラスメント、DVなど)を、克服するための「努力」ももっと描かれるべきでしょう。
努力が報われて何事かが成し遂げられる過程を通して、主人公の成長する姿を描く、いわゆる「成長物語」は、児童文学における一つのパターンと言ってもいいかもしれません。
もともと「成長物語」は、現代児童文学が1950年代に掲げた理念のひとつである「変革の意志」を、本来の意味である「社会の変革」だけでなく、「個人の成長(変革)」にも適用したものです。
それは、1950年代から1960年代には信じられていた「社会の変革」(多くの場合は社会主義型の社会への変革を意味していました)が、70年安保の敗北、その後の革新勢力の低迷、ソ連などにおける共産主義国家の崩壊などを通して、書き手の多くが変革後のあるべき社会を、読者である子どもに提示できなくなったことが、変革の対象が社会から個人へ変化した理由のひとつでしょう。
また、現代児童文学がスタートしたころには克服しなければならなかった近代的不幸(飢餓、貧困、戦争など)の多くが、1970年代までの高度成長時代に克服され、多くの若い世代にとって新たな現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きていることのリアリティの希薄さなど)の方が問題になり、変革の対象が社会から個人に変化したことも、その理由に挙げられるます。
しかし、現在では、変革の対象があまりに個人に偏りすぎて、努力する目標も個人的な成功(優れたスポーツ選手や芸術家になる、お金持ちになる、名声を得るなど)に限定されすぎています。
現代の若い世代を取り巻いている新たな問題(格差社会、世代間格差、ネグレクト、ハラスメント、DVなど)を、克服するための「努力」ももっと描かれるべきでしょう。
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