現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

いぬいとみこ「小川未明」子どもと文学所収

2020-04-11 16:37:31 | 参考文献
 児童文学研究者の石井直人よると「戦後児童文学の批評における最大の書物(「現代児童文学の条件」、その記事を参照してください)」である「子どもと文学」において、「日本の児童文学をふりかえって」に収められた文章です。
 「子どもと文学」のこの章では、小川未明、浜田広介、坪田譲治、宮沢賢治、千葉省三、新見南吉の六人の児童文学作家について、メンバー(石井桃子、いぬいとみこ、鈴木晋一、瀬田貞二、松井直、渡辺茂男)で討議した後で、分担して書いています。
 未明、広介、譲治についてはおおむね否定的に、賢治、省三、南吉については肯定的に評価しています。
 これは、私が子ども時代にこれらの作家を読んだ時の感想と、南吉を除いては一致しています。
 もっとも、私の当時の児童文学の読書体験は、ほぼ講談社の少年少女世界文学全集に限定されていますので、第49巻「現代日本童話集」に入っていた彼らの作品を読んだだけの印象にすぎません。
 17才(高校二年の夏休み)の時に、「子どもと文学」を読んで感銘を受けて児童文学を研究しようと思ったことは他の記事にも書きましたが、それは自分自身の子どものときの読書体験(外国児童文学に偏っていました)と非常にマッチしたせいだと思われます。
 私が児童文学を熱心に読んでいたのは小学生(特に低学年)の時で、中学生になってからは公立図書館で借りる一般文学(梶山李之などのかなりきわどい物も含まれていました)に関心が移っていたので、この本で触れた児童文学の世界はとても懐かしいものでした。
 著者はこの文章の中で、未明の代表作と言われている「赤いろうそくと人魚」を取り上げて、アンデルセンの「人魚姫」やエリナ・ファージョンの「ムギと王さま」と比較して、その文章やストーリーのあいまいさを強く批判しています。
 高校二年生の初読時には著者の意見にほぼ同感だったのですが、今読み直してみると、未明はもともと「わが特異な詩形」としてこの作品を書いたわけで、それを具体性がないと非難するのは、「詩」を「散文的でない」と言っているようなもので、あまりフェアな批評ではなかったと思います。
 また、「子どもと文学」のグループがリリアン・H・スミスの「児童文学論」の影響下にあったことは他の記事で書きましたが、著者のこの文章の書き方は外国児童文学(特に英米児童文学)を基準(彼らの言葉を借りれば、「子どもの文学はおもしろく、はっきりわかりやすく」)に照らして評価しています。
 一応、未明の文学歴をレビューして一定の評価をしながらも、未明や日本の児童文学の歴史的、文化的、社会的背景をあまり考慮しないで、海外の作品を基準として評価しているのは、彼らのグループの限界を示しているようです。
 また、未明のいわゆる「童心」をただの観念だと断罪していますが、著者が繰り返し述べている「真の子ども」「現実の子ども」「生きた子ども」もまた別の観念にすぎないということは、1980年代に入って柄谷行人の「児童の発見」(「日本近代文学の起源」所収、その記事を参照してください)において批判されました。
 たしかに、彼らの「子ども」のイメージは、英米の児童文学に描かれた中流家庭の子ども像に強く影響を受けていると思われます。
 1960年当時の日本の子ども、ましてや未明が代表作を書いた大正期の子どもとは、かなり違っていたように思われます。
 前述の石井直人は1985年に、「児童文学における<成長物語>と<遍歴物語>の二つのタイプについて」(その記事を参照してください)という論文の中で、「遍歴物語の語りに属する<小川未明>のいくつかの作品も、本質的に再評価されていく必然にあるのではないか。」と予言していましたが、「現代児童文学」が終焉して、<児童文学>は、大人にも子どもにも共有される、広義のエンターテインメントの一ジャンルになりつつある」(雑誌「日本児童文学2013年5-6月号」所収の児童文学研究者の佐藤宗子の「一つの終焉、そのあとに」(その記事を参照してください))現在において、未明作品の再評価は現実化しています。


子どもと文学
クリエーター情報なし
福音館書店

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 事故 | トップ | 大石真「風信器」大石真児童... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

参考文献」カテゴリの最新記事