現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

村中季衣「たまごやきとウインナーと」児童文学 新しい潮流所収

2017-09-15 12:21:11 | 作品論
 1992年に刊行された同名の短編集から、編者の宮川健郎が転載しています。
 主人公の三年生の男の子は、なぜか保育園に通う妹の面倒を一人で見ています。
 朝食を作り、おべんとうを持たせます。
 朝食のおかずはちょっぴりの海苔の佃煮だけだし、おべんとうのたまごやきはこげたり生だったりします。
 でも、主人公はいろいろと工夫して(自分の貯金箱からお金を出しておべんとう用の赤いウィンナーを買ったり、レンジ台が高いので踏み台をおいたり背伸びしたり)、少しでもましなおべんとうを妹に持たせられるように頑張ります。
 はじめはそうしたおべんとうに不満だった妹も、だんだん二人での生活になじんできます。
 しだいにわかってくるのですが、二人の父親は長距離トラックの運転手で、仕事が立て込んでいて予定通りに水曜日に帰れなくなったのです(その代りに、同僚に母親あてのお金を届けさせます)。
 母親は、父親が水曜日には帰ってきていたと思い込んでどこかへ遊びに行っていたようで、金曜日の夜にやっと帰ってきます。
 そして、両親が不仲だということも、母親のセリフからわかります。
 主人公は、母親のみやげの極上のにぎりのすしおりを力いっぱい払いのけて、
「ハンバーグをつくれ! 
 カレーライスをつくれ! 
 サラダをつくれ! 
 みそ汁をつくれ! 
 野菜いため! 
 おでん! 
 てんぷら! 
 ロールキャベツ! 
 すぶた! 
 マーボードウフ! 
 つくれ! つくれ! 今すぐつくれ!」
と、叫びます。
 母親が帰ってきてはしゃいでいた妹も、主人公のそばに行って手を握って連帯をしめします。
 無責任な両親や無関心な(あるいはとおりいっぺんの関心しか持てない)大人たちに対して、二人だけで月曜日から金曜日までを懸命に生き抜いた二人には確かなきずなが出来上がっていたのです。
 全体を通して、主人公が口にする「にんじゃとっとりくん」(その頃人気のあったアニメの「忍者ハットリくん」のパロディでしょう)の歌やセリフが、作品が過度に深刻になることを救っています。
 編者は、この作品と、1986年に雑誌へ発表された初期形との違いを分析しています。
 初期形では、オーソドックスな「現代児童文学」(定義などは関連する記事を参照してください)の作品らしく、もっと状況(日曜日に両親が大げんかをして、家を飛び出していた)を説明し、ラストに土曜の朝のシーンがあって母親がやり直そうとする姿を描いて、物語は明るい方向付けを得て終わっていると紹介しています。
 そして、それ以外の部分でも余計な説明は省いて文章を簡潔にしようとしていると指摘しています。
 そして、完成形で生まれた余白が読者の想像力を強く刺激して、物語と読者の強い結びつきを求めていると、ヴォルフガング・イーザー「行為としての読書」(1982年)や単行本のカバーの袖に書かれた作者自身のことばや作者の「おねいちゃん」(1989年)を引用して解説しています。
 こうした物語と読者を強く結びつけて、主人公たちの思い(決意)を読者と共有できるのが村中作品の特長(今までの「現代児童文学」にない)であるが、読み終えた後でもその決意は生きつづけられるだろうかが、私たちの課題になるとしています。
 編者の指摘は、それはそれでその通りなのですが、思わず「そこかよ!」とつっこみをいれたくなりました。
 この作品の本当の新しさと歴史的価値は、そうした創作技術的に優れた点(それはそれですごいのですが)とは、全く違うところにあるように思われます。
 ここに書かれた編者の読みは、あまりに児童文学の世界だけに閉じていて、社会的な視点が欠けているように思いました。
 この作品は、ネグレクトの問題を、当事者である子どもの視点で描いた先駆的な作品です。
 編者が指摘しているように、1986年の初期形よりも1992年の完成形の方がはるかに優れています。
 それは、たんに作者が指摘しているような技術的に作品の完成度があがったことだけでなく、ネグレクトに対する作者の考えがその6年の間に深化しているからです。
 ネグレクトが発生したのは、初期形では偶発的(両親の大ゲンカが理由であることが明記されています)であったのに対して、完成形では恒常的(両親が不仲で、少なくとも母親側は父親をまったく信頼していません(父親側は母親あてにお金をおくる程度の信頼は残っているようです)し、母親は水曜日には父親が帰ってくることを承知(だから子どもの面倒は見てもらえるだろう)で金曜日まで遊びにいっていました)であることが疑われます。
 また、初期形では主人公の叫びと妹の連帯で母親は一応改心するのですが、完成形では二人の必死の訴えが母親に届いたかどうかは留保されています。
 1986年から1992年の間に、世の中では何が起こったでしょうか?
 1988年に有名な巣鴨子供置き去り事件(母親に一年近くネグレクトされた四人の子どもたちのうち、一番幼い女の子が、コンビニ弁当などでみんなの面倒を見ていた長男の、友人たちに暴行されて死亡し、その後も白骨になって発見されるまで放置されていました)(カンヌ映画祭で、主役の男の子が最年少で主演男優賞を獲得して、一躍有名になった映画「誰も知らない」(その記事を参照してください)のモデルになったと言われています)が起きて、ネグレクトの深刻さが一般社会でも広く認知されるようになっていました。
 病気などで体や心が傷ついた子どもたちを治療する現場にいた作者が、こうした問題に人一倍敏感であったことは容易に想像されます。
 常に子どもを取り巻く今日的な問題を扱った作品を書き続けている作者に敬意を表したいと思います。


たまごやきとウインナーと (偕成社コレクション)
クリエーター情報なし
偕成社







 

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