1999年に出版された幼年文学のブックガイドに、「幼年文学とは何か」を示すために書かれた論文です。
ジャンル、グレード、<子ども>、表現、内容、物語の受容について、先行の書籍や論文を引用してうまくまとめられています。
ここでいう幼年童話は、三歳ぐらいから小学校二年生ぐらいまでを対象としています。
ただ、この本の出版時から子ども読者が本を受容する力がさらに落ちている現状を考えると、三年生ぐらいまで含めてもいいかもしれません。
「幼年文学」の特徴として、「児童文学」がかかえている大人である作者と子どもである読者という関係が、よけいに顕在化する点があげられます。
児童文学者のケストナーは、自分の作品を「八歳から八十歳」の子どものために書いていると述べましたが、「幼年童話」の場合は読者の受容力の問題があるのでそう単純にはいきません。
ただ、あまりに「幼い子にもわかるもの」と意識すると、世の中にあふれている安直な幼年ものに堕する恐れがあります。
その兼ね合いをどうつけるかが、一般の「児童文学」よりも難しい分野です。
また、「幼年童話」は一般の「児童文学」よりも媒介者(両親、教師、図書館の司書など)の存在が明確です。
それには、読み聞かせをする場合も、たんに子どもに本を手渡す場合もあるでしょう。
どちらにしろ、子どもが本に出会うまでに大人が介在する余地が、一般の「児童文学」より大きいのです。
そのため、「幼年文学」を出版する側は、「文字教育」を意識する度合いが大きいと思われます。
それはまた、文字を覚える年齢の子どもたちの親や教師たちの要望でもあります。
そのため、内容よりは読みやすさ、わかりやすさが優先されがちになっているようです。
また、「幼年文学」は、「児童文学作家」にとって、残された聖地でもあります。
かつて八十年代に「現代児童文学」を書いていた人たちのその後の方向は、大きく四通りに別れます。
まず第一に、そのまま「現代児童文学」を書き続けて、本が売れなくて最後は自費出版までして頑張り続けている人たちです(丘修三、皿海達哉など)。
次は、エンターテインメントの書き手になった人たちです(那須正幹、あさのあつこ、後藤竜二など。ただし、彼らはブランド力も出版社に対する影響力もあるので、いわゆる「現代児童文学」の出版も続けられます)
次は、一般文学(L文学(女性を主人公にした女性作家と女性編集者による女性読者のための文学)が多いです)へ越境していった人たちです(江國香織、森絵都、上橋菜穂子など)
そして、第四の方向が、「幼年童話」や「絵本の文章」の書き手になることなのです。
「幼年童話」や「絵本」は「児童文学」の中において、出版点数も多くマーケットとして大きい(単価も高い)のです。
しかも、前述したように媒介者の「教育的配慮」により、エンターテインメントの世界からもある程度守られています(ディズニー絵本やテレビ絵本などに一部は浸食されていますが)。
こうして、現在でも「幼年童話」は量産されています。
しかし、エンターテインメント作品と同様に、「幼年童話」も正しく評価されていない(批評の方法が確立していませんし、児童文学の賞の対象にもなりにくいです)ために、玉石混交でその大半は短期間に消費されるだけで、一般の「児童文学」以上に古典として残りにくい分野になっています。
ジャンル、グレード、<子ども>、表現、内容、物語の受容について、先行の書籍や論文を引用してうまくまとめられています。
ここでいう幼年童話は、三歳ぐらいから小学校二年生ぐらいまでを対象としています。
ただ、この本の出版時から子ども読者が本を受容する力がさらに落ちている現状を考えると、三年生ぐらいまで含めてもいいかもしれません。
「幼年文学」の特徴として、「児童文学」がかかえている大人である作者と子どもである読者という関係が、よけいに顕在化する点があげられます。
児童文学者のケストナーは、自分の作品を「八歳から八十歳」の子どものために書いていると述べましたが、「幼年童話」の場合は読者の受容力の問題があるのでそう単純にはいきません。
ただ、あまりに「幼い子にもわかるもの」と意識すると、世の中にあふれている安直な幼年ものに堕する恐れがあります。
その兼ね合いをどうつけるかが、一般の「児童文学」よりも難しい分野です。
また、「幼年童話」は一般の「児童文学」よりも媒介者(両親、教師、図書館の司書など)の存在が明確です。
それには、読み聞かせをする場合も、たんに子どもに本を手渡す場合もあるでしょう。
どちらにしろ、子どもが本に出会うまでに大人が介在する余地が、一般の「児童文学」より大きいのです。
そのため、「幼年文学」を出版する側は、「文字教育」を意識する度合いが大きいと思われます。
それはまた、文字を覚える年齢の子どもたちの親や教師たちの要望でもあります。
そのため、内容よりは読みやすさ、わかりやすさが優先されがちになっているようです。
また、「幼年文学」は、「児童文学作家」にとって、残された聖地でもあります。
かつて八十年代に「現代児童文学」を書いていた人たちのその後の方向は、大きく四通りに別れます。
まず第一に、そのまま「現代児童文学」を書き続けて、本が売れなくて最後は自費出版までして頑張り続けている人たちです(丘修三、皿海達哉など)。
次は、エンターテインメントの書き手になった人たちです(那須正幹、あさのあつこ、後藤竜二など。ただし、彼らはブランド力も出版社に対する影響力もあるので、いわゆる「現代児童文学」の出版も続けられます)
次は、一般文学(L文学(女性を主人公にした女性作家と女性編集者による女性読者のための文学)が多いです)へ越境していった人たちです(江國香織、森絵都、上橋菜穂子など)
そして、第四の方向が、「幼年童話」や「絵本の文章」の書き手になることなのです。
「幼年童話」や「絵本」は「児童文学」の中において、出版点数も多くマーケットとして大きい(単価も高い)のです。
しかも、前述したように媒介者の「教育的配慮」により、エンターテインメントの世界からもある程度守られています(ディズニー絵本やテレビ絵本などに一部は浸食されていますが)。
こうして、現在でも「幼年童話」は量産されています。
しかし、エンターテインメント作品と同様に、「幼年童話」も正しく評価されていない(批評の方法が確立していませんし、児童文学の賞の対象にもなりにくいです)ために、玉石混交でその大半は短期間に消費されるだけで、一般の「児童文学」以上に古典として残りにくい分野になっています。
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