ほとんどの子どもたちが持つ、この古典的な疑問について、作者は自分自身の子どもの時の体験と自分が親になった時の体験をもとに答えています。
前者は、戦争直後の10歳の時に、今でいう不登校になったことです。
不登校の理由は、教師たちへの不信感です。
ご存じのように、戦中は、「天皇は神」「鬼畜米英」と、子どもたちに教えていた教師たちが、戦後は手のひらを返したように、「天皇は人間」「アメリカ人は友だち」と教えるようになったからです。
10歳の時の作者は、その変化自体を問題にしていたのではなく(戦争が終わったことは人を殺さなくてすむことであり、みんなが同じ権利を持つ民主主義はいいことだと認識していました)、「これまでの考え方、教え方は間違いだった、そのことを反省する」と、子どもたちに言わないで平気で反対のことを言う教師たちが信じられなかったのです。
学校へ行くよりは、森へ行って家業に必要な樹木の知識を得た方がいいと考えていました。
その後、森で嵐にあって雨に打たれて高熱を出して死線をさまよった時に、母と交わした不思議な(夢か現実か、はっきりしません)会話(たとえ彼が死んでも、母がもう一度新しい子を産み直して、今までのことをすべて話して同じ子にしてくれる)をきっかけに、容体も持ち直して再び学校へ通えるようになります。
そして、次第に、自分自身も、学校の他の子どもたちも、みんな誰かの生まれ変わりであり、その新しい子どもたちになるために、「僕らは、このように学校に来て、みんなで一緒に勉強したり遊んだりしているのだ。」と考えるようになります。
ここには、すでに国で決められたことを画一的に教える教師たちの姿はなく、「言葉」を媒介にして主体的に勉強したり遊んだりする子供たちが学校の主人公であることが明確に語られています。
これらのことは、教育界に限ったことではなく、児童文学の世界でもまったく同様です。
戦中は子どもたちを戦場へおくるのに積極的に手を貸すような作品を書きながら、戦後は何の反省の弁もないまま、手のひら返しで平和主義の作品を出版した児童文学者たちも存在します。
後者は、作者が障碍者の親になって、子どもが「特殊学級」や「養護学校」に通うようになった時に、環境になじめない自分の子どもを見ながら、「三人で村に帰って、森のなかの高いところの草原に建てた家で暮らすことにしたらどうだろうか?」と夢想する時です。
もちろん、高名な文学者(当時は今とは全く比べにならないほど純文学の本は売れていましたし、作者はその中でもナンバーワンの人気作家でしたから、経済的にかなりゆとりがあったことでしょう)である作者でなければそんなことは実現はできないわけですが、学校に苦しむ子どもたちの親ならば同様の思いを抱いたことがあると思います。
しかし、その後、作者の子どもは、学校に自分自身の居場所(ここでも、それは教師との関係ではなく、自分と似たような仲のいい友だちの存在であったことは、象徴的です)を見つけます。
そして、作者は「自分をしっかり理解し、他の人たちとつながっていく言葉(国語だけでなく、理科も算数も、体操も音楽も、外国語も)を習うために、いつの世の中でも、子供は学校へ行くのだ」と主張しています。
私は、作者ほど学校という制度(教師だけでなく)に信頼をおいていないので、学校は楽しければ通えばいいし、楽しくなければ通わなければいいと思っています。
自分自身を振り返ってみても、小学校から大学までズル休みばかり(ひどいときには一学期の間に数週間分も)していたのですが、小学五年生、中学三年生、高校二年生、高校三年生、大学二年生の時だけは、全出席(もともと病気は全くしなかったので)だったと思います。
そんな時は、いつも仲の良い友だちや好きな女の子が学校にいました。
そういった意味では、作者の主張も、ある程度はあてはまるのかなとも思っています。
「自分の木」の下で (朝日文庫) | |
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