現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

長谷川 潮「子ども読者は何を受容するか(上)」日本児童文学2016年1-2月号所収

2020-12-18 13:42:59 | 参考文献

 子ども読者は、日本の児童文学だけでなく以下のような多様な文学を受容しているので、何を受容しているかについてはその総体として論じる必要があることを述べています。
1.日本の児童文学(絵本も含む)
2.外国の児童文学(絵本も含む)
3.日本の古典や一般文学の児童版
4.外国の古典や一般文学の児童版
5.日本の古典や一般文学(児童版化されていない)
6.外国の古典や一般文学(児童版化されていない)
 ただし、5と6は一般論として論じるのは不可能として除外しています。
 私自身の読書体験でも中学生の時は5や6の本をかなり読んでいましたが、具体的にどんな本が子どもたちに読まれていたかを調べるのは困難なので、筆者の意見に同意します。
 まず、2002年に出版された「子どもの本・翻訳の歩み辞典」を、日本の子ども読者が何を受容してきたかを知るために有益であることを紹介しています。
 この本には、翻訳書だけでなく、全962項目中72項目も日本の本が含まれているそうです。
 筆者は、大石真の「教室205号」(その記事を参照してください)とカニグズバーグの「クローディアの秘密」の翻訳が、同じ1969年に出版されていることに、「なるほどと思わせられた」と述べていますが、まったく同感です。
 「教室205号」の学校で疎外された子どもたちの悲劇的な結末に心を痛めた子ども読者たちが、「クローディアの秘密」も読んだら、家庭で疎外されていたクローディアのその後の生き方にどんなに励まされたことでしょう。
 同様に、「子どもの本・翻訳の歩み辞典」には、古典や一般文学も190(ただし同じ作品の翻訳が複数含まれています。例えば、「ロビンソン・クルーソー」は8回、「ガリヴァ―旅行記」は4回など)も入っています。
 次に、いわゆる「童話伝統批判」について、筆者の体験的な評価が述べられています。
 まず、佐藤忠雄の「少年の理想主義について - 「少年倶楽部」の再評価」(その記事を参照してください)については、読者の立場からの意見として紹介するにとどめています(児童文学史的には、他の研究者たちも同様の立場です)。
 石井桃子たちの「子どもと文学」(その記事を参照してください)の「おもしろく、はっきりわかりやすく」という主張に対しては、「読んだ時のおもしろさだけで歴史的評価を無視している。最大公約数的な読者像で、個性的な読者は見落とされている。主に幼児、幼年向きの者にしかあてはまらない。機能面、形式面に傾きがちである」と批判しています。
 早大童話会の「少年文学宣言」派の鳥越信の「子どもの論理、子どもの価値観にのっとったもの」「内包するエネルギーがアクティブなものが望ましい」という主張に対しては、「現実の子どもと作品の中の子どもを単純に結び付けている。現実の子どもはもっと複雑多様だと思う」と、やや控えめに批判しています(「少年文学宣言」派について論じるときには、理論の中心的な役割を果たした古田足日の主張(例えば「現代児童文学論」(その記事を参照してください)を紹介するのが一般的ですが、筆者は古田の論は難解すぎるとして、より分かりやすい鳥越信の主張を紹介しています)。
 日本の児童文学界においては、日本児童文学だけを個別に取り上げて議論することが多かったのですが、筆者が述べているように外国の児童文学や内外の古典や一般文学の影響を含めて総体的に検討する必要があるでしょう。
 例えば、他の記事にも書きましたが、ピアスの「トムは真夜中の庭で」が翻訳された後に日本でもタイムスリップ物がたくさん書かれるようになったり、トールキンの「ホビットの冒険」や「指輪物語」が斎藤敦夫の「冒険者たち」などに影響したり、サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」の若者の話し言葉を使った文体が日本の児童文学に影響を与えたりなど、興味深いテーマがたくさん見つかりそうです。

戦争児童文学は真実をつたえてきたか―長谷川潮・評論集 (教科書に書かれなかった戦争)
クリエーター情報なし
梨の木舎

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