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現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

小倉豊文「新しい古典復刻の弁」角川文庫版「注文の多い料理店」所収

2020-07-06 14:53:40 | 参考文献
 1924年に出版された賢治の生前唯一の童話集(他に詩集「春と修羅」があります)を、三十年の時を経て(その間には、賢治の死、アジア太平洋戦争などの大きな事件がありました)復刻させた編者(広島大学名誉教授で日本文学研究者。この本が出版された1954年当時の賢治研究の第一人者です)が、復刻に至った経緯や意義について語った文章です。
 賢治は1933年に亡くなったのですが、その時期はアジア太平洋戦争(1931年9月18日の満州事変から1945年8月15日の敗戦まで)の期間であったために、本格的な賢治研究は戦後スタートしたと考えてもいいと思われます。
 そういった意味でも、この復刻は「新しい古典復刻」と銘打たれています。
 賢治の作品が、古典としての価値を十分に備えていること、文庫本と言う制約のためになされたいろいろな工夫や限界について、当時は存命中であった関係者(挿絵画家、発行者など)の協力への感謝などが、情熱あふれる文章で語られています。
 編者の予言通りに、賢治の作品(特に童話)が古典としての地位をその後揺らぎのないものにしたことは、ご存じのとおりです。
 賢治研究もその後急速に進み、1990年には宮沢賢治学会(その記事を参照してください)も設立されています。
 このブログのテーマである「現代児童文学」(定義などについては、それに関する記事を参照してください)との関わりで言うと、特に1960年に出版された「子どもと文学」(その記事を参照してください)で、それまでの日本の児童文学の主流派であった小川未明、浜田広介、坪田譲治(この三人は俗に「三種の神器」と呼ばれていました)が強く批判され、その一方で傍流であった賢治が、新見南吉や千葉省三と並んで肯定的に評価されたこともあり、賢治作品やその研究はその後の児童文学に大きな影響を与えました。

注文の多い料理店 (新潮文庫)
クリエーター情報なし
新潮社
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及川四郎「『注文の多い料理店』私記」「注文の多い料理店」研究1所収

2020-07-06 10:08:12 | 参考文献
 1968年3月に発行された宮澤賢治全集月報8に掲載された、「注文の多い料理店」発行人の光原社社主による発行当時の追想です。
 著者は、盛岡高等農林における賢治の一年後輩で、一緒にこの本を引き受けた近森善一氏とは同級生でした。
 近森氏が途中で郷里の高知(当時の感覚で言えば、岩手からは遠い外国のようなものでしたでしょう)に帰ってしまったために、最終的には彼一人でが出版のために奔走したようです。
 けっこう凝った作りの本にしたために最終的に1000部で1500円(人によって金額が違うのですが、1100円という説が有力のようです)もかかってしまい、あてにしていた彼らが先行して出版していた農業の専門書の売上金だけでは間に合わずに、恩師に300円(当時家が一軒建つくらいということですから、建築費だけにして少なく見積もっても600万円ぐらいではないでしょうか)も借金したそうです。
 ただし、この借金は、賢治が200部(一冊1円60銭なので320円)買い上げたので、返済できたそうです。
 賢治も含めて、当時二十代だった地方の名家の若者たちの、世間知らずとも言える決断があったからこそ、この本が世の中に出たのです。
 それは、編者の続橋達夫があとがきで指摘しているように、「盛岡高等農林の絆(この学校は現在の岩手大学農学部に当たるのですが、今では想像できないほどのエリート集団で、全国に卒業生のネットワークがありました)」、「事業を新しく切り開いていきたいという野心(特に岩手という地方(ここもまた、東京から見れば未開の外国のようなものだったことでしょう)から全国(特に東京)へ発信して行きたかったのでしょう)」、「賢治さんに対する信頼(文学的才能だけでなく、農業など理系の分野においても賢治の才能も周囲に一目置かれていたことでしょう)」が、この決断の背景にはあると思われます。
 先行して出版された詩集「春と修羅」に対する社会の反響に賢治が失望していたことを考えると、もしこの本が出版されていなかったら、はたして賢治は今日のような評価を得られただろうかと考えると、三人(挿絵装幀の菊池武雄氏も含めると四人)の大胆な挑戦は結果として大成功だったと言えます(みんなが口を揃えて「注文の少ない童話集」と呼ぶこの本の出版自体は、経済的には大失敗でしたが)。
 さて、この文章を読むと、及川氏自身にも文学的センス(賢治が上げた候補から光原社を選び、本の題名の「注文の多い料理店」も彼が選んだそうです)があり、それを少し誇らしく思っている様子が微笑ましいです。
 特に、賢治の記念碑を光原社(現在は出版社ではなく民芸店)の裏庭に建てた際に、碑文として「烏の北斗七星」のこの文章を採録した事には、賢治ファンとしては思わずホロリとさせられます。
(ああ、マヂエル様、どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますやうに、そのためならば、わたくしのからだなどは、何べん引き裂かれてもかまひません。)




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堀尾青史「『注文の多い料理店』刊行顛末記」「注文の多い料理店」研究1所収

2020-07-06 08:52:38 | 参考文献
 刊行の経緯に関しては、森氏の論文(その記事を参照してください)とほぼ同じですが、赤い鳥に掲載された広告に関しては、副題に「附、『赤い鳥』広告の事」とあるだけに、そのコピーとともに詳しい経緯が書かれています。
 特に、「赤い鳥」を主宰していた鈴木三重吉も含めた当時の童話界の人々の結びつき、良く言えば懐の深い、悪く言えば大雑把な、人間関係が伺い知れて興味深いです。



 
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森荘已池「『注文の多い料理店』」「注文の多い料理店」研究1所収

2020-07-06 08:51:43 | 参考文献
 1954年11月から1955年8月にかけて、「復刊イーハトーヴオ」の一号から六号に連載された、宮沢賢治の生前出版された唯一の童話集である「注文の多い料理店」(その記事を参照してください)刊行の周辺の事情をていねいに調べたものです。
 この時点で、1924年の「注文の多い料理店」刊行から30年、賢治が亡くなってからでも20年以上が経過していましたが、1933年に亡くなったとき賢治は37歳でしたので、多くの関係者がまだ存命で、多くの貴重な証言が得られています。
 各号のサブタイトルと内容は以下の通りです。
「刊行者たちに就いて]
 「注文の多い料理店にリアルタイムで書店において遭遇した著者の想い出、当時の児童文学界における賢治のエピソード(「赤い鳥」にトランクいっぱいの原稿を持ち込んだという有名な伝説も書かれていますが、これが文字通りの「伝説」であることは、この本が出版された1975年時点でも通説になっていることを編者である続橋達夫があとがきで述べています)、刊行者である光原社主及川四郎氏と発行署名人である近森善一氏などについてです。
「刊行以前のこと」
 及川氏と近森氏の交流と、「注文の多い料理店」刊行の費用に大きな寄与をした彼らの出版物などについてです。
「原稿を書いた時代」
 賢治と刊行者たちとの交流、出版の経緯などについてです。
「宣伝印刷物のこと」
 有名な新刊案内(その記事を参照してください)などの「注文の多い料理店」を売り込むための宣伝用の印刷物について詳述しています。
「山口徳次郎氏の話」
 「注文の多い料理店」を印刷した山口活版所の主人への聞き書きです。
「藤原嘉藤治氏に聴く」
 専門教育を受けた音楽家で詩人や音楽教師でもあり、賢治に音楽の世界を開かせた人への聞き書きです。中でも、「注文の多い料理店」の挿絵と装幀を担当した菊池武雄氏を、彼が賢治に紹介したことは重要でしょう。

 総じて、「注文の多い料理店」刊行は、「自費出版」という言葉から想起されるようなささやかな個人的なものではなく、それに先行して刊行された詩集「春と修羅」とともに、花巻ないしは岩手(イーハトーヴですね)の文化人たちが、その代表選手として賢治の作品を世に送り出そうとした、非常に気概が感じられる一大イベントだったことが分かります。
 結果として、賢治が亡くなる前までには脚光を浴びることはありませんでしたが、関係者の努力もあって次第に世の中に知られるようになっていったわけで、そういった意味でもこの本の刊行は大きな意味があったものなのです。



 
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