地下鉄の駅を出ると、地上はムッとするほどの暑さだった。梅雨明けの太陽は、今までのうっぷんをはらすのように、ギラギラと光っている。
表通りから二本裏道に入った所に、おねえちゃんが今月から勤め始めた会社はあった。
ぼくとおかあちゃんは、会社の入ったビルの前で、もう一度ハンカチで汗をぬぐった。
そのビルは、八階建てぐらいの古い灰色の建物だった。壁の所々に、ひび割れを補修した跡がミミズのようにはっている。
重いドアを開けて中に入ると、嬉しいことに冷房がよくきいていた。一階は、右手がロマンドという名の喫茶店で、左手は花屋になっている。正面のエレベーターの横には、二階から八階までに、どんな会社が入っているかを示す掲示版がはめ込まれていた。
おねえちゃんの勤める会社は、他の不動産会社や警備会社と一緒に六階にあった。
壁の時計は、十二時五分前を示している。おねえちゃんとの約束の時刻は、十二時五分過ぎだ。まだ十分もある。
ぼくは狭いロビーをぶらぶら歩きながら、喫茶店のショーケースに並べられたケーキを眺めたり、花屋の店先の色とりどりの花束に付けられた名札を読んだりしていた。
おかあちゃんは、今にもおねえちゃんがそこから出てくるかのように、エレベーターの入り口をジーッとにらんでいる。
(あれ?)
五分ほどたったとき、思いがけずにビルの外からおねえちゃんが入ってきた。小走りにこちらの方に駆け寄ってくる。
「真由美、どうしたの?」
おかあちゃんがたずねると、
「ごめん、ごめん。ぎりぎりになって、小包で送る物があってね。急に、郵便局へ行かなきゃならなくなっちゃって」
急いで来たらしく、まだ息をはずませている。おねえちゃんの額にも、鼻の頭にも、小さな汗がびっしりとついていた。この暑い中を走って行って来たのかもしれない。
「すぐに着替えてくるから」
そういえば、会社の制服なのか、見慣れない水色のワンピースを着ている。なんだか、急に大人になったようで、ぼくには少しまぶしかった。
「じゃあ、行ってくるね」
おねえちゃんは、こちらに向かって小さく手を振りながら、エレベーターに飛び乗った。
「急がなくてもいいよ。きちんと仕事を済ませてからでいいからね」
おかあちゃんが、あわてたようにおねえちゃんにいっていた。
壁にかけられた大きな時計が、十二時をすぎた。
土曜日の退社時刻になったのか、エレベーターからは勤め帰りの人たちがどんどんと降りてくるようになった。
みんなはぼくたちの前を通って、足早にビルの外に向かっていく。
おかあちゃんは、そんな一人ひとりに、ペコペコと頭を下げ出した。
気づかずに、そのまま通り過ぎていく中年の男の人たち。びっくりした後で、クスクス笑い出した若い女の人たち。
でも、中には、ていねいにあいさつを返していく人たちもいる。
「お世話様です」
そんな時は、おかあちゃんはもう一度ていねいにあいさつしていた。
「今の人たち、おねえちゃんの会社の人?」
エレベーターの扉が閉まって人がとぎれたとき、ぼくはそっとおかあちゃんにたずねた。
「ううん。でも、中に真由美の会社の人たちもいたらいけないと思ってさ」
おかあちゃんは、いつになく緊張した顔付きで答えた。
その後も、エレベーターが停まって人が出てくるたびに、おかあちゃんは頭を下げ続けた。
ぽくは、そんなおかあちゃんを、少し離れた所から見ていた。
チン。
また、エレベーターが停まった。
いっせいに、たくさんの人たちがはき出されてくる。おかあちゃんは、また一人ひとりに頭を下げ始めた。
そのときだ。ようやくおねえちゃんが出てきた。
「おかあさん。何ペコペコしてるの?」
頭を下げ続けているおかあちゃんを見て、不思議そうな顔をしていた。
「いえね。お前の会社の人がいたらと思ってさ」
おかあさんが説明すると、
「嫌ねえ。そんなことする必要ないのに。それよりお待たせ。おなかすいたでしょ。早く行こう」
と、おねえちゃんは笑いながらいった。
「ちゃんと仕事は終わったのかい?」
おかあちゃんが、心配そうにたずねた。
「大丈夫よ。もうやることはないから」
おねえちゃんが、安心させるように元気にいった。
「さよならあ」
おねえちゃんは、入り口に立っていたビルの警備員の人に、大きな声であいさつした。
「さよなら、山口さん」
警備員のおじさんは、きちんと敬礼しておねえちゃんにあいさつを返した。おねえちゃんの名前を、ちゃんと覚えているようだ。おかあちゃんが、少し安心したような表情になった。
おねえちゃんは、今年の春に高校を卒業したばかりだ。小学校四年生のぼくよりは、九才も年上になる。
うちのおとうちゃんは、ぼくが赤ちゃんの時に死んでしまっていた。それで、仕事の忙しいおかあちゃんの代わりに、おねえちゃんがぼくの面倒を見てくれていた。
小学校の保護者会や運動会にも、いつもおかあちゃんの代わりに来てくれていた。
だから、そそっかしい友だちに、
「おまえんちのおかあさんって、すげえ若いなあ」
って、間違えられたこともある。
本当は、おねえちゃんは四月から社会人になるはずだった。それが、七月から勤めるようになったのには訳がある。
救急病院から電話があったのは、去年のクリスマスイブのことだった。
「はい、山口ですが、……」
電話に出たおかあちゃんの顔が、みるみるこわばったのを今でも覚えている。
友だちの家でのクリスマスパーティーの帰りに、おねえちゃんは自転車に乗っていて車にはねられてしまったのだ。
おかあちゃんは、電話を切るとすぐに出かける支度を始めた。
「おかあちゃん、ぼくも行く」
ぼくがそういうと、おかあちゃんは黙ってうなずいた。
ぼくたちはバス通りまで出て、タクシーをひろった。
「協同病院まで、急いでお願いします」
おかあちゃんは、必死の形相で運転手に頼んだ。
ぼくたちが病院に着いたとき、おねえちゃんの手術はまだ続いていた。
古くてクッションがペチャンコになったソファーに腰を下ろして、ぼくはじっと下を見ていた。廊下のリノリウムの床は、傷で所々タイルが欠けている。
「ううう、……。」
隣から、低く押し殺したうめき声が聞こえた。
おかあちゃんだ。
おかあちゃんは泣きながら、ぼくの左手をギューッとつかんだ。
ぼくは、両手でしっかりとおかあちゃんの手を握りながら、
(しっかりしなくちゃ、ぼくがしっかりしなくちゃ)
って、心の中でつぶやいていた。
「おとうさん、真由美を助けて、……、真由美を、……」
おかあちゃんは大粒の涙をポロポロこぼしながら、天国のおとうちゃんに、おねえちゃんのことを何度もお願いしている。
ぼくはギュッとつぶったおかあちゃんの目じりに、深いしわが何本もあることに初めて気がついた。
夜中近くになって、ようやく手術室からおねえちゃんが出てきた。移動ベッドに寝かされて、静かに眠っている。白い包帯を、頭にぐるぐる巻きにされていた。
「真由美っ!」
おかあちゃんが叫んだ。
「大丈夫ですよ。麻酔で眠っているだけですから」
ベッドを押してきた看護師さんが、優しくいってくれた。
ぼくはそのうしろで、ぼうぜんとして立ちつくしていた。九才も年下のぼくにとっては、いつも絶対的に強く頼りがいがあったおねえちゃん。そのおねえちゃんが、今は力なくベッドに横たわっている。その事が、どうしても信じられなかった。
看護師さんたちは、移動ベッドを押して突き当りのエレベーターに向かった。ぼくは、おかあちゃんと一緒にその後を追っていった。
「それでは、これから集中治療室にまいりますので、ご家族の方はここまでにお願いします」
看護師さんは、やってきたエレベーターの中に、移動ベッドを入れた。
「どうぞ、よろしくお願いします」
おかあちゃんは、深々と頭を下げていた。エレベーターのドアが閉まって、おねえちゃんの姿が見えなくなった。
全身打撲と頭部裂傷と右足の複雑骨折で、全治六か月の重傷。それが診断結果だった。
幸い、麻酔から覚めると意識ははっきりしていたので、すぐに集中治療室から一般の病室に移ることができた。
その後は、若さとバトミントン部で鍛えた体力のおかげか、担当のお医者さんもびっくりするくらいに、おねえちゃんは順調に回復していった。
入院して四ヶ月足らずの、ゴールデンウィーク前には退院することになった。
出席日数不足で心配していた高校の卒業も、担任の先生たちが努力してくれたおかげで、なんとか病室で卒業証書を受け取ることができていた。
でも、せっかく内定をもらっていた銀行への就職は、パーになってしまった。
その事が決まったときも、おかあちゃんがいる間は、おねえちゃんは明るくふるまっていた。
でも、後でぼくと二人きりになったときには、
(おかあちゃんにすまない)
って、けがをしてから初めて涙を見せていた。
退院後のおねえちゃんは、家事をやりながら通院して、毎日リハビリの訓練を受けていた。
初めは松葉杖を、少し良くなってからはステッキをついて、複雑骨折だった右足を引きずりながら、朝早くでかけていく。
そんなおねえちゃんのうしろ姿を、ぼくは黙って見送っていた。
先月になって、おねえちゃんの勤め先が、ようやく見つかった。保険の外交をやっているおかあちゃんが、知り合いの社長さんに頼んでやっと決めてきたのだ。
会社の名前は吉野ワールドインポート。住所は東京のど真ん中の日本橋。
名前も住所もすごいけれど、本当はぜんぶで二十人ぐらいの小さな会社だ。給料も、内定していた銀行よりは、ずっと少ないらしい。
それでも、おねえちゃんは、
「おかあさん、ありがとう」
って、とっても喜んでいた。
「七月からで、本当に大丈夫?」
おかあちゃんは、まだ心配そうだった。
「大丈夫、大丈夫。それまでに、しっかりリハビリするから」
おねえちゃんは、張り切って七月から勤めることになった。
七月一日、初出勤の朝。おねえちゃんは、玄関の鏡の前で、頭の手術で刈られてしまい、ようやくまた伸びてきた前髪を何度も何度もブラシでとかしていた。前髪の陰には、手術で縫い合わせた傷跡がまだくっきりと残っている。
「それじゃあ、行ってきまーす。」
おねえちゃんは大きな声でぼくたちにいうと、元気よく会社へ出かけていった。
外はますます暑くなっている。
ビルを出て五分もたたないうちに、またびっしょりと汗をかいてしまった。
先にたって歩いていくおねえちゃんは、まだ少し右足を引きずっている。
『天丼の店、村井』
ここが、おねえちゃんが今日、ぼくたちにお昼ごはんをごちそうしてくれるお店だ。会社よりさらに裏通りにあって、すごく小さかった。
「いらっしゃい」
中に入ると、元気のいい声が迎えてくれた。十人ぐらいがすわれるカウンターと、四人がけのテーブル席が三つ。奥には、小さなお座敷もあるようだ。
カウンター席は、お客さんでいっぱいだった。
でも、テーブルの方はひとつ空いていた。
「良かったあ。今日は土曜日だからまだましだけど、いつもは満員なのよ」
おねえちゃんは、先にたってテーブル席に腰を下ろした。
ぼくとおかあちゃんは、反対側に並んで座った。
「ここの天丼。すごーくおいしいんだよ」
入社した日に、社長さんが、
「体に気を付けてがんばりなさい」
って、ここでごちそうしてくれたんだそうだ。
「何にする?」
テーブルの端に置かれた『御品書き』を、おねえちゃんはこちら向きに開いた。
天丼を売り物にしている店らしく、いちばん最初に、並天丼 千円、上天丼 千八百円と、大きく出ている。うしろの方には、てんぷら盛り合せやてんぷらごはんものっていた。
壁には、お昼どきだけのランチメニューもはってある。ランチ天丼 六百円、ランチてんぷら定食 八百円。こちらの方がずっと安い。
「ランチでいいよ」
『御品書き』を閉じて、おかあちゃんがいった。テーブルの下でひざをつつかれて、ぼくもあわてて大きくうなずいた。
「何いってんのよ。わざわざ来てもらったのに」
おねえちゃんは、おこったように大きな声を出した。
「じゃあ、あたしが決めるわよ。二人とも、上天丼でいいわよね」
「散財させちゃって、悪いねえ」
おかあちゃんが、すまなそうにいった。
「お願いしまーす」
おねえちゃんは、右手を上げてお店の人に合図をした。
「お決まりですか?」
眼鏡をかけた女の人が、そばにきてたずねると、
「上天丼ふたつ」
おねえちゃんは、「御品書き」を指差して元気よくいった。
(えっ、ふたつ?)
「わたしは並でいいわ」
おねえちゃんは、少し小さな声で続けた。
お店の人が持ってきた冷たい麦茶をごくごくとおいしそうに飲み干すと、おねえちゃんは元気よく話し出した。
「プレゼントを買うのは、高島屋がいい? それとも三越?」
初月給で、家族みんなにプレゼントする。この一週間、おねえちゃんはこの事をずっと繰り返しいっていた。
おかあちゃんには財布。おばあちゃんには肩こりに効くという磁気ネックレス。入院中のおじいちゃんには好きな小説の朗読のCD。
「いいよ、いいよ。おまえがまた元気になってくれただけで、みんなは嬉しいんだから」
おかあちゃんがそういっても、おねえちゃんはがんとしてプレゼントすると言い張っていた。
ぼくにも万年筆を買ってくれるそうだ。
おねえちゃんにいわせると、
「あたしはルックスがいいから勉強しなくてもいいけど、おまえは顔が悪いから頭で勝負しなくちゃだめ。だから、万年筆でしっかり勉強して」
とのことだ。
パソコンやインターネットの時代に、万年筆と勉強とはまったく関係ないような気もしたが、せっかくだからもらっておくことにしていた。
ひとしきり話してから、おねえちゃんはハンドバックの中をごそごそと捜し出した。
「はい、これが、あたしの初めてのお給料よ」
おねえちゃんは、茶色い紙封筒をおかあちゃんに差し出した。封はまだ切られていない。会社でもらったままのようだ。
「ごくろうさま」
おかあちゃんは、額の上で押し戴くような仕草をして受け取った。
「おかあちゃん、開けてみて。今月だけ現金でもらったの。ちゃんと入っているかなあ。銀行振り込みは、来月からなんだって」
おねえちゃんは、待ちきれないように身を乗り出している。ずっと、中を見たくて、うずうずしていたのかもしれない。
「ううん。せっかくだから、このまま仏壇のおとうちゃんに見せようよ」
おかあちゃんは、大事そうに給料袋を持っている。
「でも、そしたら、プレゼント買えなくなっちゃうよ」
おねえちゃんが文句をいった。
「うん。それは、おかあちゃんが、立て替えておくからさ」
おかあちゃんは、あくまでも封を開けるつもりはないようだ。
給料袋には、クリップで小さな白い紙がとめてある。
「これ、なあに?」
ぼくは、おねえちゃんにたずねた。
「あっ、それ、給与の明細だって。見てもいいよ」
おかあちゃんは明細を受け取ると、真剣な表情で見ていた。
ぼくは、その横からそっとのぞきこんだ。
「所得税」、「健康保険」、「社会保険」など、たくさんの欄がある。細かな数字が、びっしりと書きこまれていた。
七万八千四百六十二円。
いろいろ差し引かれて、けっきょくこれだけが、記念すべきおねえちゃんの初給料だった。
「へへっ。一ヵ月分まるまる貰えるのかなと思ったら、今月は二十三日分だけなんだって。それにいろいろ引かれちゃうのね。少し当てがはずれちゃった」
そういって、ニコッと笑って見せた。
おねえちゃんは、今月から家に食費も入れるっていっていた。ここのお金を払って、みんなのプレゼントを買ったら、ぜんぶなくなってしまうかもしれない。楽しみにしていた自分の洋服までは、とてもまわりそうになかった。
「おまちどうさまでした」
天丼が運ばれてきた。
「上天丼の方は?」
お店の人がたずねた。
「そちら側の二人」
おねえちゃんが答えた。
ぼくとおかあちゃんの前におかれた上天丼は、ふたの下から大きな海老のしっぽが二つもはみ出している。
少し遅れてやってきたおねえちゃんの並天丼は、ふたがピッタリ閉まっていた。
「早く食べて、食べて」
おねえちゃんは、ぼくたちをせかせるように、自分のふたをすぐに取った。
続いて、おかあちゃんとぼくがふたを取った。
ファーッと、うまそうな湯気が立ち上った。
中には、丼からはみ出している大きな海老が二本と、かき揚げ、野菜、魚などのてんぷらが、押し合いへし合いしている。
すごくおいしそうだ。
チラッとおねえちゃんの丼の中をのぞくと、海老は一本だけで、かき揚げもぼくたちのよりずっと小さかった。
それでも、おねえちゃんは、満足そうにニコニコしていた。
「おいしそうねえ」
おかあちゃんは嬉しそうにいいながら、自分の丼から海老を一匹つまみあげた。
「でも、わたしにはちょっと多いから」
おかあちゃんは、その海老をおねえちゃんの丼に載せようとした。
「だめだめ。おかあちゃん、食べて」
おねえちゃんは、怒ったような声でいった。そして、両手で丼にふたをするようにおおって、海老が置かれるのを防いだ。
「……、そうお」
おかあちゃんは、しばらく海老を宙に浮かしたままだった。
でも、やがて自分の丼の端にそれを下ろした。
「いっただきまーす」
おねえちゃんは大きな声を出すと、真っ先に天丼を食べ始めた。
「いただきます」
ぼくは、おかあちゃんと声を合わせていいながら、大きな海老のてんぷらをガブッとかじった。
てんぷらは、おねえちゃんが自慢したとおりにおいしかった。
でも、続いてかきこんだごはんは、ちょっとだけしょっぱい味がした。
表通りから二本裏道に入った所に、おねえちゃんが今月から勤め始めた会社はあった。
ぼくとおかあちゃんは、会社の入ったビルの前で、もう一度ハンカチで汗をぬぐった。
そのビルは、八階建てぐらいの古い灰色の建物だった。壁の所々に、ひび割れを補修した跡がミミズのようにはっている。
重いドアを開けて中に入ると、嬉しいことに冷房がよくきいていた。一階は、右手がロマンドという名の喫茶店で、左手は花屋になっている。正面のエレベーターの横には、二階から八階までに、どんな会社が入っているかを示す掲示版がはめ込まれていた。
おねえちゃんの勤める会社は、他の不動産会社や警備会社と一緒に六階にあった。
壁の時計は、十二時五分前を示している。おねえちゃんとの約束の時刻は、十二時五分過ぎだ。まだ十分もある。
ぼくは狭いロビーをぶらぶら歩きながら、喫茶店のショーケースに並べられたケーキを眺めたり、花屋の店先の色とりどりの花束に付けられた名札を読んだりしていた。
おかあちゃんは、今にもおねえちゃんがそこから出てくるかのように、エレベーターの入り口をジーッとにらんでいる。
(あれ?)
五分ほどたったとき、思いがけずにビルの外からおねえちゃんが入ってきた。小走りにこちらの方に駆け寄ってくる。
「真由美、どうしたの?」
おかあちゃんがたずねると、
「ごめん、ごめん。ぎりぎりになって、小包で送る物があってね。急に、郵便局へ行かなきゃならなくなっちゃって」
急いで来たらしく、まだ息をはずませている。おねえちゃんの額にも、鼻の頭にも、小さな汗がびっしりとついていた。この暑い中を走って行って来たのかもしれない。
「すぐに着替えてくるから」
そういえば、会社の制服なのか、見慣れない水色のワンピースを着ている。なんだか、急に大人になったようで、ぼくには少しまぶしかった。
「じゃあ、行ってくるね」
おねえちゃんは、こちらに向かって小さく手を振りながら、エレベーターに飛び乗った。
「急がなくてもいいよ。きちんと仕事を済ませてからでいいからね」
おかあちゃんが、あわてたようにおねえちゃんにいっていた。
壁にかけられた大きな時計が、十二時をすぎた。
土曜日の退社時刻になったのか、エレベーターからは勤め帰りの人たちがどんどんと降りてくるようになった。
みんなはぼくたちの前を通って、足早にビルの外に向かっていく。
おかあちゃんは、そんな一人ひとりに、ペコペコと頭を下げ出した。
気づかずに、そのまま通り過ぎていく中年の男の人たち。びっくりした後で、クスクス笑い出した若い女の人たち。
でも、中には、ていねいにあいさつを返していく人たちもいる。
「お世話様です」
そんな時は、おかあちゃんはもう一度ていねいにあいさつしていた。
「今の人たち、おねえちゃんの会社の人?」
エレベーターの扉が閉まって人がとぎれたとき、ぼくはそっとおかあちゃんにたずねた。
「ううん。でも、中に真由美の会社の人たちもいたらいけないと思ってさ」
おかあちゃんは、いつになく緊張した顔付きで答えた。
その後も、エレベーターが停まって人が出てくるたびに、おかあちゃんは頭を下げ続けた。
ぽくは、そんなおかあちゃんを、少し離れた所から見ていた。
チン。
また、エレベーターが停まった。
いっせいに、たくさんの人たちがはき出されてくる。おかあちゃんは、また一人ひとりに頭を下げ始めた。
そのときだ。ようやくおねえちゃんが出てきた。
「おかあさん。何ペコペコしてるの?」
頭を下げ続けているおかあちゃんを見て、不思議そうな顔をしていた。
「いえね。お前の会社の人がいたらと思ってさ」
おかあさんが説明すると、
「嫌ねえ。そんなことする必要ないのに。それよりお待たせ。おなかすいたでしょ。早く行こう」
と、おねえちゃんは笑いながらいった。
「ちゃんと仕事は終わったのかい?」
おかあちゃんが、心配そうにたずねた。
「大丈夫よ。もうやることはないから」
おねえちゃんが、安心させるように元気にいった。
「さよならあ」
おねえちゃんは、入り口に立っていたビルの警備員の人に、大きな声であいさつした。
「さよなら、山口さん」
警備員のおじさんは、きちんと敬礼しておねえちゃんにあいさつを返した。おねえちゃんの名前を、ちゃんと覚えているようだ。おかあちゃんが、少し安心したような表情になった。
おねえちゃんは、今年の春に高校を卒業したばかりだ。小学校四年生のぼくよりは、九才も年上になる。
うちのおとうちゃんは、ぼくが赤ちゃんの時に死んでしまっていた。それで、仕事の忙しいおかあちゃんの代わりに、おねえちゃんがぼくの面倒を見てくれていた。
小学校の保護者会や運動会にも、いつもおかあちゃんの代わりに来てくれていた。
だから、そそっかしい友だちに、
「おまえんちのおかあさんって、すげえ若いなあ」
って、間違えられたこともある。
本当は、おねえちゃんは四月から社会人になるはずだった。それが、七月から勤めるようになったのには訳がある。
救急病院から電話があったのは、去年のクリスマスイブのことだった。
「はい、山口ですが、……」
電話に出たおかあちゃんの顔が、みるみるこわばったのを今でも覚えている。
友だちの家でのクリスマスパーティーの帰りに、おねえちゃんは自転車に乗っていて車にはねられてしまったのだ。
おかあちゃんは、電話を切るとすぐに出かける支度を始めた。
「おかあちゃん、ぼくも行く」
ぼくがそういうと、おかあちゃんは黙ってうなずいた。
ぼくたちはバス通りまで出て、タクシーをひろった。
「協同病院まで、急いでお願いします」
おかあちゃんは、必死の形相で運転手に頼んだ。
ぼくたちが病院に着いたとき、おねえちゃんの手術はまだ続いていた。
古くてクッションがペチャンコになったソファーに腰を下ろして、ぼくはじっと下を見ていた。廊下のリノリウムの床は、傷で所々タイルが欠けている。
「ううう、……。」
隣から、低く押し殺したうめき声が聞こえた。
おかあちゃんだ。
おかあちゃんは泣きながら、ぼくの左手をギューッとつかんだ。
ぼくは、両手でしっかりとおかあちゃんの手を握りながら、
(しっかりしなくちゃ、ぼくがしっかりしなくちゃ)
って、心の中でつぶやいていた。
「おとうさん、真由美を助けて、……、真由美を、……」
おかあちゃんは大粒の涙をポロポロこぼしながら、天国のおとうちゃんに、おねえちゃんのことを何度もお願いしている。
ぼくはギュッとつぶったおかあちゃんの目じりに、深いしわが何本もあることに初めて気がついた。
夜中近くになって、ようやく手術室からおねえちゃんが出てきた。移動ベッドに寝かされて、静かに眠っている。白い包帯を、頭にぐるぐる巻きにされていた。
「真由美っ!」
おかあちゃんが叫んだ。
「大丈夫ですよ。麻酔で眠っているだけですから」
ベッドを押してきた看護師さんが、優しくいってくれた。
ぼくはそのうしろで、ぼうぜんとして立ちつくしていた。九才も年下のぼくにとっては、いつも絶対的に強く頼りがいがあったおねえちゃん。そのおねえちゃんが、今は力なくベッドに横たわっている。その事が、どうしても信じられなかった。
看護師さんたちは、移動ベッドを押して突き当りのエレベーターに向かった。ぼくは、おかあちゃんと一緒にその後を追っていった。
「それでは、これから集中治療室にまいりますので、ご家族の方はここまでにお願いします」
看護師さんは、やってきたエレベーターの中に、移動ベッドを入れた。
「どうぞ、よろしくお願いします」
おかあちゃんは、深々と頭を下げていた。エレベーターのドアが閉まって、おねえちゃんの姿が見えなくなった。
全身打撲と頭部裂傷と右足の複雑骨折で、全治六か月の重傷。それが診断結果だった。
幸い、麻酔から覚めると意識ははっきりしていたので、すぐに集中治療室から一般の病室に移ることができた。
その後は、若さとバトミントン部で鍛えた体力のおかげか、担当のお医者さんもびっくりするくらいに、おねえちゃんは順調に回復していった。
入院して四ヶ月足らずの、ゴールデンウィーク前には退院することになった。
出席日数不足で心配していた高校の卒業も、担任の先生たちが努力してくれたおかげで、なんとか病室で卒業証書を受け取ることができていた。
でも、せっかく内定をもらっていた銀行への就職は、パーになってしまった。
その事が決まったときも、おかあちゃんがいる間は、おねえちゃんは明るくふるまっていた。
でも、後でぼくと二人きりになったときには、
(おかあちゃんにすまない)
って、けがをしてから初めて涙を見せていた。
退院後のおねえちゃんは、家事をやりながら通院して、毎日リハビリの訓練を受けていた。
初めは松葉杖を、少し良くなってからはステッキをついて、複雑骨折だった右足を引きずりながら、朝早くでかけていく。
そんなおねえちゃんのうしろ姿を、ぼくは黙って見送っていた。
先月になって、おねえちゃんの勤め先が、ようやく見つかった。保険の外交をやっているおかあちゃんが、知り合いの社長さんに頼んでやっと決めてきたのだ。
会社の名前は吉野ワールドインポート。住所は東京のど真ん中の日本橋。
名前も住所もすごいけれど、本当はぜんぶで二十人ぐらいの小さな会社だ。給料も、内定していた銀行よりは、ずっと少ないらしい。
それでも、おねえちゃんは、
「おかあさん、ありがとう」
って、とっても喜んでいた。
「七月からで、本当に大丈夫?」
おかあちゃんは、まだ心配そうだった。
「大丈夫、大丈夫。それまでに、しっかりリハビリするから」
おねえちゃんは、張り切って七月から勤めることになった。
七月一日、初出勤の朝。おねえちゃんは、玄関の鏡の前で、頭の手術で刈られてしまい、ようやくまた伸びてきた前髪を何度も何度もブラシでとかしていた。前髪の陰には、手術で縫い合わせた傷跡がまだくっきりと残っている。
「それじゃあ、行ってきまーす。」
おねえちゃんは大きな声でぼくたちにいうと、元気よく会社へ出かけていった。
外はますます暑くなっている。
ビルを出て五分もたたないうちに、またびっしょりと汗をかいてしまった。
先にたって歩いていくおねえちゃんは、まだ少し右足を引きずっている。
『天丼の店、村井』
ここが、おねえちゃんが今日、ぼくたちにお昼ごはんをごちそうしてくれるお店だ。会社よりさらに裏通りにあって、すごく小さかった。
「いらっしゃい」
中に入ると、元気のいい声が迎えてくれた。十人ぐらいがすわれるカウンターと、四人がけのテーブル席が三つ。奥には、小さなお座敷もあるようだ。
カウンター席は、お客さんでいっぱいだった。
でも、テーブルの方はひとつ空いていた。
「良かったあ。今日は土曜日だからまだましだけど、いつもは満員なのよ」
おねえちゃんは、先にたってテーブル席に腰を下ろした。
ぼくとおかあちゃんは、反対側に並んで座った。
「ここの天丼。すごーくおいしいんだよ」
入社した日に、社長さんが、
「体に気を付けてがんばりなさい」
って、ここでごちそうしてくれたんだそうだ。
「何にする?」
テーブルの端に置かれた『御品書き』を、おねえちゃんはこちら向きに開いた。
天丼を売り物にしている店らしく、いちばん最初に、並天丼 千円、上天丼 千八百円と、大きく出ている。うしろの方には、てんぷら盛り合せやてんぷらごはんものっていた。
壁には、お昼どきだけのランチメニューもはってある。ランチ天丼 六百円、ランチてんぷら定食 八百円。こちらの方がずっと安い。
「ランチでいいよ」
『御品書き』を閉じて、おかあちゃんがいった。テーブルの下でひざをつつかれて、ぼくもあわてて大きくうなずいた。
「何いってんのよ。わざわざ来てもらったのに」
おねえちゃんは、おこったように大きな声を出した。
「じゃあ、あたしが決めるわよ。二人とも、上天丼でいいわよね」
「散財させちゃって、悪いねえ」
おかあちゃんが、すまなそうにいった。
「お願いしまーす」
おねえちゃんは、右手を上げてお店の人に合図をした。
「お決まりですか?」
眼鏡をかけた女の人が、そばにきてたずねると、
「上天丼ふたつ」
おねえちゃんは、「御品書き」を指差して元気よくいった。
(えっ、ふたつ?)
「わたしは並でいいわ」
おねえちゃんは、少し小さな声で続けた。
お店の人が持ってきた冷たい麦茶をごくごくとおいしそうに飲み干すと、おねえちゃんは元気よく話し出した。
「プレゼントを買うのは、高島屋がいい? それとも三越?」
初月給で、家族みんなにプレゼントする。この一週間、おねえちゃんはこの事をずっと繰り返しいっていた。
おかあちゃんには財布。おばあちゃんには肩こりに効くという磁気ネックレス。入院中のおじいちゃんには好きな小説の朗読のCD。
「いいよ、いいよ。おまえがまた元気になってくれただけで、みんなは嬉しいんだから」
おかあちゃんがそういっても、おねえちゃんはがんとしてプレゼントすると言い張っていた。
ぼくにも万年筆を買ってくれるそうだ。
おねえちゃんにいわせると、
「あたしはルックスがいいから勉強しなくてもいいけど、おまえは顔が悪いから頭で勝負しなくちゃだめ。だから、万年筆でしっかり勉強して」
とのことだ。
パソコンやインターネットの時代に、万年筆と勉強とはまったく関係ないような気もしたが、せっかくだからもらっておくことにしていた。
ひとしきり話してから、おねえちゃんはハンドバックの中をごそごそと捜し出した。
「はい、これが、あたしの初めてのお給料よ」
おねえちゃんは、茶色い紙封筒をおかあちゃんに差し出した。封はまだ切られていない。会社でもらったままのようだ。
「ごくろうさま」
おかあちゃんは、額の上で押し戴くような仕草をして受け取った。
「おかあちゃん、開けてみて。今月だけ現金でもらったの。ちゃんと入っているかなあ。銀行振り込みは、来月からなんだって」
おねえちゃんは、待ちきれないように身を乗り出している。ずっと、中を見たくて、うずうずしていたのかもしれない。
「ううん。せっかくだから、このまま仏壇のおとうちゃんに見せようよ」
おかあちゃんは、大事そうに給料袋を持っている。
「でも、そしたら、プレゼント買えなくなっちゃうよ」
おねえちゃんが文句をいった。
「うん。それは、おかあちゃんが、立て替えておくからさ」
おかあちゃんは、あくまでも封を開けるつもりはないようだ。
給料袋には、クリップで小さな白い紙がとめてある。
「これ、なあに?」
ぼくは、おねえちゃんにたずねた。
「あっ、それ、給与の明細だって。見てもいいよ」
おかあちゃんは明細を受け取ると、真剣な表情で見ていた。
ぼくは、その横からそっとのぞきこんだ。
「所得税」、「健康保険」、「社会保険」など、たくさんの欄がある。細かな数字が、びっしりと書きこまれていた。
七万八千四百六十二円。
いろいろ差し引かれて、けっきょくこれだけが、記念すべきおねえちゃんの初給料だった。
「へへっ。一ヵ月分まるまる貰えるのかなと思ったら、今月は二十三日分だけなんだって。それにいろいろ引かれちゃうのね。少し当てがはずれちゃった」
そういって、ニコッと笑って見せた。
おねえちゃんは、今月から家に食費も入れるっていっていた。ここのお金を払って、みんなのプレゼントを買ったら、ぜんぶなくなってしまうかもしれない。楽しみにしていた自分の洋服までは、とてもまわりそうになかった。
「おまちどうさまでした」
天丼が運ばれてきた。
「上天丼の方は?」
お店の人がたずねた。
「そちら側の二人」
おねえちゃんが答えた。
ぼくとおかあちゃんの前におかれた上天丼は、ふたの下から大きな海老のしっぽが二つもはみ出している。
少し遅れてやってきたおねえちゃんの並天丼は、ふたがピッタリ閉まっていた。
「早く食べて、食べて」
おねえちゃんは、ぼくたちをせかせるように、自分のふたをすぐに取った。
続いて、おかあちゃんとぼくがふたを取った。
ファーッと、うまそうな湯気が立ち上った。
中には、丼からはみ出している大きな海老が二本と、かき揚げ、野菜、魚などのてんぷらが、押し合いへし合いしている。
すごくおいしそうだ。
チラッとおねえちゃんの丼の中をのぞくと、海老は一本だけで、かき揚げもぼくたちのよりずっと小さかった。
それでも、おねえちゃんは、満足そうにニコニコしていた。
「おいしそうねえ」
おかあちゃんは嬉しそうにいいながら、自分の丼から海老を一匹つまみあげた。
「でも、わたしにはちょっと多いから」
おかあちゃんは、その海老をおねえちゃんの丼に載せようとした。
「だめだめ。おかあちゃん、食べて」
おねえちゃんは、怒ったような声でいった。そして、両手で丼にふたをするようにおおって、海老が置かれるのを防いだ。
「……、そうお」
おかあちゃんは、しばらく海老を宙に浮かしたままだった。
でも、やがて自分の丼の端にそれを下ろした。
「いっただきまーす」
おねえちゃんは大きな声を出すと、真っ先に天丼を食べ始めた。
「いただきます」
ぼくは、おかあちゃんと声を合わせていいながら、大きな海老のてんぷらをガブッとかじった。
てんぷらは、おねえちゃんが自慢したとおりにおいしかった。
でも、続いてかきこんだごはんは、ちょっとだけしょっぱい味がした。