現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

主人公の視点と作者の視点

2019-11-15 17:52:13 | 考察
 一般の文学と違って児童文学の場合は、例え一人称を使ったとしても、作者(大人)と主人公(子ども)は完全に一体にはなり得ません。
 そのため、作品世界を眺めている視点が、主人公の場合と作者自身の場合とが混在してしまいます。
 書き手側はほとんど意識していない事が多いのですが、読者に「大人の視点を感じる」という印象を与えてしまった場合は、多くは作者自身の視点が主人公の視点を上回って作品の中に登場してしまっているのでしょう。
 読者が主人公に寄り添って(共感して)読み進めていくためには、書き手は自分自身の視点をより自覚して抑制していかなければなりません。

小説の技法―視点・物語・文体
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旺史社
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動物ファンタジーの擬人化度

2019-11-13 08:50:05 | 考察
 動物ファンタジーにおいて擬人化は重要な問題です。
 それは、人間と動物の関係性を表すだけでなく、作品世界の質まで規定してしまうからです。
 動物ファンタジーにおいては、生態はほぼその動物本来のもので心理だけが擬人化されているもの(リチャード・アダムス「ウォーターシップダウンのうさぎたち」など)から、一応登場人物(?)は動物として設定されているもののその生態は全く人間と変わらないもの(ケネス・グレアム「楽しい川辺」など)まで、さまざまな擬人化度を持った作品があります。
 一つの作品でその擬人化度が統一されているべきことは言うまでもありませんが、短編集ではひとつひとつの短編が異なる擬人化度を持っていても許容されると思われます(あまり極端に違っている場合は違和感が生じますが)。


動物絵本をめぐる冒険―動物‐人間学のレッスン
矢野 智司
勁草書房
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児童文学における子どもの視点

2019-05-20 08:14:52 | 考察
 児童文学においてもっとも大事なものは、子どもの視点かもしれません。
 たとえ、大人が主人公でその視点で書かれた作品でも、その背後に読者である子どもたちに寄り添った作者のまなざしがあれば、十分に優れた児童文学作品でしょう。
 その一方で、たとえ子どもが主人公でその視点で書かれた作品であっても、その裏に大人である作者の視線が見え透いていては優れた児童文学作品とは言えないと思います。
 それは、子どもの論理で書かれているか、大人の論理で書かれているかと、いうこともできます。
 いやしくも児童文学の書き手であるならば、つねに子どもの側に立たなければなりません。

大人の直観vs子どもの論理 (岩波科学ライブラリー)
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岩波書店
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児童文学におけるスポーツ物の書き方

2019-04-09 10:26:40 | 考察
 児童文学のジャンルとして、いろいろなスポーツを題材にした作品群があります。
 そういったものを書こうとするときの、基本的な注意事項をまとめてみます。
 まず、もっとも基本的なことですが、そこに出てくるプロ選手などは架空の名前を使う方が無難でしょう。
 スポーツにおけるスター選手の寿命は長くないことが多く、すぐに陳腐化してしまうからです。
 また、書き手(特に女性の場合)がそのスポーツについてそれほど詳しくない場合は、試合や練習のシーンをあまり具体的に書かない方がいいでしょう。
 作者より詳しい読者に、突っ込まれる恐れがあります。
 書き手がそのスポーツのプレーの経験がない場合は、特に注意が必要です。
 見るとやるとでは、その世界は大きな違いがあるからです。
 あまり、試合などのシーンに突っ込まないで、その他の人間ドラマで勝負すべきです。
 逆に、書き手があるスポーツに精通している場合は、試合や練習シーンなどで、内部の人間にしかわからない世界を書くと、他の書き手との差別化になるかもしれません。
 一般に、児童文学の書き手は、スポーツの世界に疎い人が多いからです。

児童文学のなかにスポーツ文化を読む (スポーツ学選書)
クリエーター情報なし
叢文社
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老人児童文学

2019-01-22 09:27:34 | 考察
 最近の児童文学の同人誌では、老人が出てくる作品が増えています。
 それは、児童文学の書き手が高齢化しているとともに、元気な高齢者が増えてこれから児童文学の創作をやりたいという方が増加しているからでしょう。
 私は、それらの作品を老人児童文学と呼んでいますが、中には子どももまったく出てこないし、子どもの読者を想定して書かれていないものもあり、これらは純粋に老人文学といえるでしょう。
 私はそういった分野には疎いのですが、老人文学を対象とした同人誌はないのでしょうか?
 こういった作品を、真の意味で共感して読めるのは、同じような境遇のお年寄りか、そういった親を持つ子どもたち(四十代、五十代、場合によっては六十代)でしょう。
 ご存知のように、日本では超高齢社会化が進んでいるのですから、そういったお年寄り向けの同人誌や雑誌を作ったら、おそらく成功することでしょう。

絵本・児童文学における老人像―伝えたいもの伝わるもの
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グランまま社
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売れる児童文学の本について

2019-01-19 10:29:35 | 考察
 売れる児童文学の本とは何か?
 一般文学とは違って、児童文学には作者と読者の間に「媒介者」と呼ばれる存在があるので、「売れる本の条件」は少し複雑です。
 媒介者とは、子どもたちに代わって、本を購入したり、本を選んだりして、読書を勧める人たちのことで一般的には大人です。
 主な媒介者には、両親をはじめとする家族、学校の教師、図書館の司書、子ども文庫活動をしている人たち、読書運動の活動家、読み聞かせのボランティア、書店員などがいます。
 これらの媒介者の手を経て、子どもたちが本を手にすることが多いのです。
 売れる本のタイプの一番目は、もちろん子ども自身が選択して本を購入する場合ですが、現在ではコミックスだけでなく、ゲーム、アニメ、ケータイなどの他のエンターテインメント分野と競合して、子どもたちの少ないこずかいからお金を払うわけですから、それに見合うだけ楽しめるものでなくてはなりません。
 このジャンルは、一般にエンターテインメント作品と呼ばれますが、少し上の年齢層向けとしては、ジュニアノベル(女の子向けが中心)、ライトノベル(男の子向けが中心)と呼ばれる作品群が、文庫や新書の形で毎月大量に出版されています。
 これらには、たくさんのレーベルがありますが、最近は小学生向けのレーベルも増えて低年齢層の取り込みを図っています。
 これらの作品群は、ストーリーや文章よりもカバーイラストやキャラクターが重視されていて、その点でも戦前の少年倶楽部の少年小説や吉屋信子などの少女小説の正統な末裔と言えるでしょう。
 次に媒介者が本を選ぶ場合ですが、これらは媒介者自身の読書体験やいろいろなブックリスト(毎年選ばれている読書感想文コンクールの課題図書もここに含まれます)をもとに選択されています。
 そのため、子どもたちが読んで面白いかどうかももちろん大切ですが、教育的な配慮が重視されることが多いと思われます(課題図書の場合は、読書感想文の書きやすさもポイントになるでしょう)。
 このジャンルでは、世界や日本の児童文学の古典的な名作、戦争や障碍者などの社会的な問題を扱った作品の人気が根強いです。
 かつて労働運動や社会運動が活発だった時代には、社会主義リアリズムの作品群もこのジャンルとして人気があり、初期のそれらの作品の出版の背景になりましたが、運動の衰退とともに人気を失いました。
 この分野では識字教育とも結びついていて、現在では高学年向けの作品は低調で、幼年向け(小学校三年生ぐらいまで)が中心になっています。
 最後に、子どもたちと媒介者の間での妥協によって選ばれる作品群があります。
 このジャンルの代表的な作品群としては、媒介者が比較的良心的と認めるエンターテインメント作品(例えば、ズッコケシリーズやゾロリシリーズなど)、偉人やスポーツ選手などの伝記、ノンフィクション、ハウツー物などがあげられます。
 また、児童文学の媒介者と読者は、ともに圧倒的に女性が多いので、媒介者がかつて読んだ(あるいは一緒にこれから読みたい)女性向け(対象年齢は問わない)の作品も選ばれることが多いです。

やさしさと出会う本―「障害」をテーマとする絵本・児童文学のブックガイド
クリエーター情報なし
ぶどう社
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新しい児童文学同人誌のあり方

2018-12-27 09:08:14 | 考察
 かつて1950年代から1960年代にかけての「現代児童文学」の出発期においては、児童文学同人誌の多くは一種の文学運動体で、新しい児童文学を確立するために大きな働きをしました。
 その後、児童文学がビジネスとして成立するようになり、多くの既成作家がその中に取り込まれたとき、商業主義による児童文学の沈滞化を憂えた有志により、いくつかの同人誌が1980年代前半に「新しい児童文学を拓く」ために旗揚げしたことは別の記事で紹介しました。
 しかし、それらの活動もさらに深く商業主義に取り込まれ、児童文学同人誌活動が変質したこともその記事でも述べました。
 児童文学同人誌は、もはや新しい児童文学を開拓しようという運動体ではありません。
 すでに商業出版をしている旧人とこれから商業出版を目指す新人とに二極化していて、旧人にとっては依頼原稿あるいはこれから本にしようと思っている作品のブラッシュアップの場であり、新人にとっては創作教室の役割をはたしています。
 そして、そこには奇妙なギブアンドテイクの関係が生まれていて、一種の調和が取れています。
 こういった現状を認めた上で、その範囲でより良いものにするためには、最低限の暗黙の約束事が必要な気がします。
 まず、合評会に提出する作品は、少なくともその時点ではその書き手のベストの物を出すべきでしょう。
 作品の巧拙を言っているのではありません。
 どんなに拙い作品でも、その書き手が最大限の努力をしたものならば、合評する側でも全力をあげて評するべきでしょう。
 ところが、月例会の作品締切日が来て、「作品を例会に出さないともったいない」という意識で出されている作品も散見されます。
 中には、誤字脱字やワープロの変換ミスがそのままになっている原稿すらあります。
 完成原稿を、本人が読み直して推敲していないのでしょう。
 こういった時は、潔くその月の原稿提出は見送り、次の月にもっと完成度をあげて提出するべきだと思います。
 また、旧人が依頼原稿のブラッシュアップのために作品を出す場合は、合評で指摘された点を反映できるように、依頼原稿の納期までに十分な時間を取るべきです。
 それから、自分の作品がない場合は、例会を欠席する会員も見受けられます。
 また、他人の作品の時は、自分から積極的に発言しない人もいます。
 自分の作品を合評してもらうのと他の人の作品を評するのは、ギブアンドテイクの関係なのですから、こういった態度は現在の同人誌においてもマナー違反だと思います。
 最後に、少数の方向性を同じくするメンバーで構成される文学運動体でなくなった以上は、新しいメンバーの参加にもっとオープンであるべきです。
 現在のメンバーが既得権にしがみついてメンバーが固定化すれば、作品や合評の内容もマンネリ化して、同人誌活動は質的に低下するでしょう。
 どんどん新しい血を入れて、ついていけないメンバーは淘汰されるようにしなければ、活動を活性化することはできないでしょう。
 以上のようなことを復帰直後に思ったのですが、しだいにもっと寛容でもいいかなとも思ってきました。
 完成度の低い作品が提出されても、合評で自分から発言しない人がいても、それはそれとして許容し、多様な関わり方をする多くの人を受け入れれいくのも、これからの同人誌のひとつのあり方なのかもしれません。
 そのためには、自ら合評会の司会を引き受けて、合評会全体を時間配分も含めてうまくコントロールして、会員のいろいろなレベルのニーズを満たすよう努力すればいいのだと思っています。

三振をした日に読む本 (きょうはこの本読みたいな)
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偕成社
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児童文学における現代風俗の取り扱い

2018-12-26 08:35:30 | 考察
 児童文学で、その時代の風俗をどう取り扱うかは、悩ましい問題です。
 同時代性を表したい時にはその時代の最新の風俗を使いたいのですが、そうすると時間がたつと作品が古臭くなる恐れがあります。
 例えば、ある作品の大きなエピソードとして、みんなが持っている携帯ゲーム機を買ってもらえない主人公が、代わりに将棋を持ち出して友だちとする場面がありました。
 この作品は連作短編で、先行する作品では、他の家にあるクーラーが主人公の家にはない設定もありました。
 今回の携帯ゲーム機と重ねあわせて考えると、こういった問題に対する作品の背景ないし作者の考えを、はっきりとさせた方がいいと思いました。
 つまり、主人公の両親は、経済的に余裕がなくてクーラーや携帯ゲーム機が買えないのか、それともポリシーとしてそういったものは買わないのかです。
 こういった問題は、親が隠していても、子どもたちは敏感に察知するものです。
 どちらがいいとか悪いとか言っているのではないのです。
 ただ、どちらが原因(100パーセントではなく混合しているケースもあるでしょう)なのかによって、主人公のこの問題に対する受け止め方が変わってくると思います。
 この作品の場合、携帯ゲームの代わりとして主人公は将棋を持ち出していますが、それが実際の読者(主人公の同年代の子どもたち)に受け入れられるかどうかは、よく検討する必要があります。
 将棋は、私が子どものころは非常に一般的でしたが、今の子どもたちにとってポピュラリティがあるのでしょうか。
 また、作者がこの作品を書くときに将棋をどのくらい調べたかはわかりませんが、今回の書き方ではまるで将棋の魅力が伝わってきません。
 ボードゲーム(将棋もその一つです)の世界では、スキル(技術)とラック(運)のバランスがよく話題になります。
 例えば、おなじ将棋の駒を使ったゲームでも、「まわり将棋」などは、ラックが非常に高いので初心者や子どもでも勝てる可能性がります。
 しかし、本当の将棋は、ほぼ100パーセント、スキルだけの世界なので、初心者が勝てる余地はまったくありません。
 これでは初心者の人がぜんぜん勝てなくてつまらないので、実力が違う同士が対戦するときには駒落ち(例えば、強い方が飛車と角とか、飛車だけをはずすなど、実力差によって細かく調整できます)といううまい方法があって、スキルと戦力のバランスを取ることができます。
 この作品では、片方は駒の動かし方もよく知らないレベルですので、心の優しい主人公が駒落ちをしないのはあまりに不自然です。
 さらに言えば、主人公の父親が、子ども相手に駒落ちをしないのは、この世界の常識としてまったく考えられません。
 おそらく作者は、将棋というゲームをよく知らないのでしょう。
 それに、きちんと調べたとも思えません。
 これでは、読者に将棋の魅力を伝えることはできません。
 また、この作品では、主人公だけでなく友だちも都合のいいことにも携帯ゲーム機を持っていない設定になっていて、作者のご都合主義でリアリティが感じられませんでした。
 現在の子どもたち(この作品の場合は特に男の子たち)の風俗を描くのであれば、それについて頭の中だけで書くのではなく、実際に取材するなり関連の本を読むなりして、リアリティを高めることが必要です。

どんどん強くなる やさしいこども将棋入門
クリエーター情報なし
池田書店
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歴史ファンタジーにおける注意点

2018-12-07 11:21:29 | 考察
 歴史物を書く上でもっとも注意しなければならないのは、その時代や地域の雰囲気です。
 例えば、江戸時代を描くのならば江戸時代らしさ、京都を舞台にするならば京都らしさを出さなければなりません。
 江戸時代の風物を出したり、当時の京都言葉を使うなどして、舞台の雰囲気を出すことが重要です。
 また、安易なファンタジー手法を歴史物で使うのも要注意です。
 例えば、けっきょく「ファンタジー部分は夢でした」という形などで終わるなどは、一番やってはいけない手法だと思います。
 

ゲームシナリオのためのファンタジー事典 知っておきたい歴史・文化・お約束110 (NEXT CREATOR)
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ソフトバンククリエイティブ
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同人誌の合評会に連作短編を提出する場合の注意点

2018-12-03 08:46:56 | 考察
 児童文学の同人誌に参加していると、合評会に連作短編のうちの一編が提出されることがあります。
 第一作目ならば大きな問題はありませんが、二作目以降だとスムーズに合評が行えないことがあります。
 合評会に出席しているメンバー全員が、それまでの短編を読んでいるとは限らないからです。
 また、読んでいても、合評時期が離れていると、よく思い出せないこともあります。
 せっかく合評会に作品を出すのですから、他のメンバーから有益な批評を得るために、連作短編を出す場合には、以下のような注意が必要です。
・各短編に時間的な前後があったり、続き物のような書き方をしている場合は、すべての短編を順序通りに提出する(当たり前のようですが、けっこう守られていません)。
・できれば、すでに合評した作品のシノプシスを示す。それができないなら、それらの短編も同時に再提出する(ほとんどのメンバーは、過去の他人の作品も取っておくほど親切ではありません)。
・各作品が、それ自体独立した短編として成立していること(長編の一部のような作品を連作短編と称して提出されている場合があります)。
 最低限、以上の注意点が守られれば、より効率のよい合評会ができ、作者も有益な批評が得られることでしょう。

野口くんの勉強べや (偕成社の創作)
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偕成社
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男の子向けの児童文学

2018-12-02 09:41:53 | 考察
 児童文学がL文学化(女性作家が女性を主人公にして女性読者のために書く文学)して久しい(さらに女性編集者と女性評論家と女性研究者が加わって、今では完全に女性だけで閉じた世界になっています)ですが、その弊害は年々ひどくなっています。
 例えば、男の子の代表的な遊びは、昔も今もゲーム(現在はスマホゲームと携帯ゲーム機とトレーディングカードが主流でしょう)とスポーツ(昔は草サッカーや草野球ができましたが、現在では正式にチームに入らないと難しいでしょう)ですが、大半の女性作家はそれらの経験に乏しく、さらに女性編集者も間違いをチェックする能力はありません。
 そのため、たまに男の子を主人公にした作品が出版されても、トンチンカンな内容なものが多いです。
 もっとも、それら本の読者も女性(女の子だけでなく大人の女性も含めて)が大半なのですから、大きな問題はないのかもしれません。
 こうして、男の子が読んで楽しい児童文学作品はますます少なくなり、男の子たちはますます図鑑や伝記(戦国武将など)を除いては本を読まなくなっていきます。
 それが、さらに男の子向けの児童文学が出版されなくなるという、負のスパイラルを生み出していきます。
 ある飲み会で、「本を読まない男の子のためにわざわざ出版したりしない」と豪語していたベテラン女性編集者の言葉に驚愕したのはもう十年以上前のことですが、今では状況はさらに悪化しています。
 私の職業的な専門分野であったマーケティングの考え方では、「本を読まない男の子たち」こそ、児童文学に残された数少ないフロンティアであり、新しいビジネスチャンスのはずなのですが、あいにく児童文学業界にはマーケティングセンスのある人材は皆無のようです。

エーミールと探偵たち (岩波少年文庫 (018))
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岩波書店
 
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児童文学と一般文学

2018-11-30 08:24:17 | 考察
 児童文学の商業主義化が進んで、いわゆる「現代児童文学」(1950年代にスタートして1990年代に終焉したと、私は考えています。詳しくは関連する他の記事を参照してください)の時期のようには、まったくと言っていいほど「純文学」的な作品は出版されなくなっています。
 その点では、一般文学の方が、「純文学」的な作品も、まだ出版される機会はあるかもしれません。
 もっとも、大江健三郎に言わせると、一般文学でも「純文学」のマーケットはかつての十分の一以下になっているそうです。
 この発言自体かなり前のことなので、芥川賞受賞作品以外は、今では百分の一以下になっているかもしれません。
 それでも、現在の子どもたちのおかれている過酷な状況(貧困、飢餓、格差社会、ブラック企業(バイト)、学校生活におけるカースト化、核汚染、虐待、ネグレクトなど)を描いた作品を出版するには、児童文学よりも一般文学の方がチャンスはあるでしょう。
 
講座日本児童文学〈5〉現代日本児童文学史 (1974年)
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明治書院




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児童文学作品に子どもたちの好きな素材を使うことの功罪

2018-11-29 10:20:00 | 考察
 児童文学、特に幼年ものでは、子どもたちの好きなものを素材に使うことがよくあります。
 例えば、うんち、おばけ、恐竜、妖怪、お弁当、お菓子、秘密基地、宇宙人、動物などです。
 確かに、これらが登場するだけで、読者の子どもたちは喜ぶかもしれません。
 問題は、素材が、物語にどうからまっているかです。
 また、それらの素材に、どれだけ作者ならではオリジナリティを盛り込めるかも大事です。
 ともすると、素材そのものによりかかりすぎてしまい、肝心のお話がパッとしないことが多いようです。

幼い子の文学 (中公新書 (563))
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中央公論新社
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児童文学で今日的テーマを取り上げる意義

2018-11-27 09:04:12 | 考察
 児童文学の世界が商業主義に席巻されてしまったのはバブル崩壊後ですから、もう二十年以上がたちます。
 それ以前の児童文学、いわゆる「現代児童文学」(スタートは1950年代で、1990年代に終焉したと、私は考えています。詳しくはそれに関連した他の記事を参照してください)では、その時代時代における子どもたちを取り巻く今日的問題が描かれました。
 1950年代から1960年代には、いわゆる近代的不幸(戦争、飢餓、貧困)を取り上げた作品がたくさん出版されていました(例えば、いぬいとみこ「木かげの家の小人たち」、山中恒「赤毛のポチ」、松谷みよ子「龍の子太郎」など)。
 1970年代から1980年代には、いわゆる現代的不幸(アイデンティティの喪失、生きていることのリアリティの希薄さなど)が子どもたちにとって問題になると、それに対応する作品群(岩瀬成子「朝はだんだん見えてくる」、那須正幹「ぼくらは海へ」、森忠明「きみはサヨナラ族か」など)が多く生み出されました。
 そして、現在の子どもたちは、ひとまわりして再び、戦争(テロや原子力発電所の事故なども含めて)、貧困(六人に一人の子どもたちが貧困状態です。さらに1950年代と違って格差社会といった問題もあります)、飢餓(給食や子ども食堂が生命線になっている子どもたちが急増しています)といった「不幸」に直面しています。
 それらに対応した児童文学を生み出しえない現状に、絶望感を禁じえません。

現代児童文学の語るもの (NHKブックス)
クリエーター情報なし
日本放送出版協会
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絵本のプロデュース

2018-11-26 08:39:03 | 考察
 絵本用の原稿を書く場合、たんに文章を書くだけでなく、絵や本の造りなども含めて、全体を考えなければなりません。
 作者が、文も絵も一人で作るのであれば問題はありません。
 でも、普段は文章が主体の児童文学作品を書いている作家が絵本を作るときには、上記のような絵本全体をプロデュースする能力が求められます。
 どのような絵をつけるか、それに適した画家は誰か、表紙や本の大きさをどうするか、そういった大切なことを編集者に任せるのではなく、作者が自分で考えて提案すべきでしょう。
 なぜなら、その作品世界を一番知っているのは作者自身なのですから。
 作者の頭の中にある世界を、文と絵を使って、どのように具現化するかが大切です。
 絵本では、子どもたちの大好きな繰り返しの手法がよく使われますが、読者の興奮をラストに向けて高めていくには、文と絵の役割り分担をどのようにするかの工夫が必要です。
 また、ラストでおちをつけたりどんでん返しを狙う場合には、途中でネタバレしないように絵に制限をかける必要があります。
 こうした全体の目配りをするならば、どんなに文章は少なくても、その絵本の作者は書き手なのです。
 
絵本の書き方―おはなし作りのAからZ教えます (朝日文庫)
クリエーター情報なし
朝日新聞社



鬼の市 (新・わくわく読み物コレクション)
クリエーター情報なし
岩崎書店


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