現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

現代児童文学の書き方

2021-11-18 15:43:02 | 考察

 1950年代に現代児童文学がスタートした時に、「児童文学の書き方」の基準としては次の二つが設定されました。
 ひとつは、早大童話会の「少年文学宣言(正しくは少年文学の旗の下に)」における「近代的な小説精神を持った少年文学(ここにおける少年という用語は、幼年、青年、壮年、老年と同じたんなる年齢区分で男の子だけをさすのではありません)」を目指そうとするものでした。
 もうひとつは、石井桃子たちの「子どもと文学」で示された、世界基準(実際には英米児童文学だけにすぎません)としての「おもしろく、はっきりわかりやすく」でした。
 どちらも抽象的すぎて、実際に創作する上ではいろいろな混乱を引き起こしました。
 前者は、政治的な立場との混同により、より狭い社会主義リアリズムによる書き方のみが過大に評価されていきました。
 後者は、「おもしろくて単純な」お話と曲解されて、特に幼年文学において安直なステレオタイプな作品が量産されるようになりました。
 そんな時に、児童文学者の安藤美紀夫などが、より具体的なガイドラインとして示したのが「アクションとダイアローグで書く文学」です。
 この方法は、1970年代から1980年代までは、かなり有効に働きました。
 登場人物の行動(アクション)と会話(ダイアローグ)で書く方法は、それまでの日本の児童文学に不足していたストーリー性を獲得するのに適していたからだと思われます。
 1980年代(正確には1978年から)に台頭した新しい書き方は、漫画的リアリズムです。
 これは、現実そのものを描写するのではなく、読者たちがすでに共有していた漫画的な世界を描写することで、漫画が広く読まれている日本においては、エンターテインメント作品を書くのには適した方法でした。
 その最初の成功例は、那須正幹の「ズッコケ三人組」シリーズでしょう。
 その一方で、1980年代から1990年代にかけて、児童文学の読者の女性化や高年齢化(大人も含めて)に対応する形で、「描写」を重視した新しい書き方が女性作家を中心に生まれ、一般文学との境界があいまいになってきました。
 最後に21世紀になってからは、ストーリーよりもキャラクターを優先する書き方がライトノベルを中心に台頭して、その低年齢化により従来の児童文学の領域を侵食する形になりました。
 現状は、今まで述べてきたいろいろな書き方に、それ以前の近代童話の詩的な書き方の復権も含めて、混在していると思われます。
 

子どもと文学
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福音館書店
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児童文学的リアリズムについて

2021-10-17 18:03:42 | 考察

 ライトノベルなどを論ずる時に、マンガ的リアリズムという用語が使われることがあります。
 それは、一般社会を描写する自然主義的リアリズムではなく、すでに膨大に蓄積されているマンガやアニメに依拠した世界を描写したリアリズムのことです。
 それと同じように児童文学にも、児童文学的リアリズムがあります。
 数百年に渡って蓄積された膨大な児童文学に依拠した世界を描写したリアリズムです。
 一番分かりやすい例は、民話や伝説を再話して創作された作品(松谷みよ子の「龍の子太郎」(その記事を参照してください)など)でしょう。
 民話や神話以外にも、グリム童話やアンデルセン、イソップなどの古典の作品世界は、多くの児童文学作品で半ば無意識に用いられています(雪の女王のイメージ、狐はずるいといった動物キャラクターなど)。
 最近の魔法ブームの大本は、トールキンの「指輪物語」でしょうが、すでにその原点は知らずに、孫やひ孫のように依拠している作品(児童文学に限らず、ゲームやアニメなども)が夥しい数、存在します。
 もっとも、トールキン自体、神話の世界に依拠しているのですが。
 こういった古典の世界をもとに創作するのは問題ないのですが、最近の作品(特にディズニーなどの世界的にヒットしたもの)に依拠して創作すると、著作権などの問題を引き起こす恐れがあるので注意が必要です。

文庫 新版 指輪物語 全10巻セット (評論社文庫)
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評論社
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現代日本児童文学の始まり

2021-10-15 09:07:37 | 考察

 一般的に、現代日本児童文学が始まったのは、1959年だと言われています。
 なぜなら、この年に、佐藤さとるの「だれも知らない小さな国」(その記事を参照してください)といぬいとみこの「木かげの家の小人たち」といった、今までの日本にはなかったしっかりとした骨格と散文性を備えた長編のファンタジーが出版されたからです。
 しかし、私は現代日本児童文学の始まりを、1953年としたいと考えています。
 なぜなら、この年に現代日本児童文学の成立に大きな影響を与えた二つの論文が発表されているからです。
 ひとつは、早大童話会の「少年文学19号(1953年9月25日発行)」に発表された「「少年文学」の旗の下へ!」(1953年6月4日付け)です(詳しくはその記事を参照してください)。
 これは一般的には「少年文学宣言」として知られている論文で、鳥越信、古田足日、神宮輝夫、山中恒たちによって発表されたものです。
 彼らは、その中で、従来の「童話精神」によって立つ「児童文学」(論中の用語を使えば、メルヘン、生活童話、無国籍童話、少年少女読物のすべて)を批判し、近代的「小説精神」を中核とする「少年文学」の道を選ぶこととその最後の勝利を宣言したものでした。
 この「少年文学」という用語は、すでに彼らの同人誌である「少年文学(1953年から1974年)」もなく、早稲田大学の「少年文学会(1960年から2006年)」もすでになくなっだ現時点では、ボーイズラブの小説と誤解を受けるかもしれませんが、ほぼ「現代児童文学」と理解して構わないと思います(ここで「少年」とは、「幼年」、「青年」、「壮年」、「老年」と同じようにたんなる年齢区分で、男性に限った用語ではないのですが、確かに当時の児童文学界は男性中心の世界でした。現在の女性作家、女性編集者、女性読者、女性評論家、女性研究者中心の児童文学界とは、隔世の感があります)。
 この「少年文学宣言」の理論によった最初の作品は、1960年に出版された山中恒の「赤毛のポチ」ですが、この作品は1954年から早大童話会のOBたちの同人誌「小さな仲間」での連載が始まっています。
 1953年のもうひとつの大きな出来事は、カナダのリリアン・H・スミスが「THE UNRELUCTANT YEARS(心のびやかな時代)」を出版したことです。
 この本は、石井桃子たちによって、1964年に「児童文学論」という書名で日本語に翻訳されています。
 石井たちのグループが1960年に出版した「子どもと文学」(現代児童文学の成立に大きな貢献したと言われています。その記事を参照してください)に大きな影響を与えています。
 私事になりますが、私が児童文学を研究しようと思ったのも、「子どもと文学」を1971年8月の高校2年の夏休みに読んだことがきっかけでした。
 石井たちのグループが「新しい日本児童文学(現代日本児童文学と読み替えてもよいと思います)」のための討議を始めたのは1955年ですが、彼らの中には、石井桃子(ケネス・グレーアムの「楽しい川辺」、A・A・ミルンの「クマのプーさん」などを翻訳)、瀬田貞二(トールキンの「指輪物語」、「ホビットの冒険」などを翻訳)、渡辺茂男(マージェリー・シャープの「ミス・ビアンカ」シリーズなどを翻訳)といった英語に堪能なメンバーがいたので、討議が始まる前には彼らはすでにリリアン・H・スミスの「THE UNRELUCTANT YEARS」を読んでいたと思われます。
 彼らの討議の実作面での最初の大きな成果は、メンバーの一人であるいぬいとみこが1957年3月に出版した「ながいながいペンギンの話」でしょう。
 しかし、この作品が同人誌「麦」五号に連載が開始されたのは1954年11月ですから、「子どもと文学」の討議と並行して試行錯誤しながら書きすすめられていたようです。
 このように、どちらの場合も、現代児童文学が実作よりも理論が先行していたということは、興味深いものがあります。
 ともすれば、評論や児童文学論が作品の後追い的になっている現状を考えると、当時の研究者たちの使命感や先見性に敬意を表したいと思います。

児童文学論
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岩波書店
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マーケット・インとプロダクト・アウト

2021-09-05 09:48:02 | 考察

 マーケティング用語に、マーケット・インとプロダクト・アウトという言葉があります。
 前者は、市場のニーズ(需要)に合わせて製品を開発することです。
 後者は、先に製品のシーズ(種)があり、それに基づいて製品を開発することです。
 マーケティングの世界では、前者は肯定的な、後者は否定的な文脈で使われることが多いです。
 つまり後者は市場のニーズを無視して、独りよがりなものを作るという風にとらえられます。
 今、児童文学の世界でマーケット・インの作品を作るとしたら、小学校中学年以下の女の子を主人公にして肩の凝らないエンターテインメントを書くことでしょう。
 ラブコメや軽いミステリ、お手軽なファンタジー、シリアスでないスポーツ物などがむいています。
 形態は文庫あるいは新書で、値段はお小遣いで買えるように六百円以下にしなければなりません。
 会話と余白が多く、三十分で読み飛ばせるぐらいが適当です。
 こういった作品は売れるので、編集者たちが喜ぶでしょう。
 でも、私はへそ曲がりなので、貴重な時間を使ってそんな作品を書いて、どこが面白いのかなあと思ってしまいます。
 私は本業で、エンジニアのころは電子機器の新製品の企画を、マネージャーになってからはそれらを統合した事業部や会社全体のビジネス・プランの策定を、三十年近くやってきました。
 なんとかプロダクト・アウトな製品を作ろうとする技術部のエンジニアたちをコントロールして、より売れるマーケット・インな製品や分野を開拓してきました。
 もうマーケット・インの世界は飽き飽きです。
 せめて児童文学の世界では、プロダクト・アウトの斬新な作品に出会いたいし、自分でも創造していきたいと思っています。

三振をした日に読む本 (きょうはこの本読みたいな)
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偕成社
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メルフェン的リアリズム

2021-08-23 15:10:42 | 考察

 他の記事にも書きましたが、「マンガ的リアリズム」という言葉があります。
 現実をそのまま描写する「自然主義リアリズム」ではなく、今までに夥しく書かれてきたマンガの作品世界を作者と読者の共通認識として、その世界観に基づいて作品を描く方法のことです。
 日本の児童文学において、「マンガ的リアリズム」で作品を描いて初めて大成功を収めたのは、おそらく那須正幹の「ズッコケ三人組」シリーズでしょう。
 それと同様に、児童文学の世界には、「メルフェン的リアリズム」とでも呼べるような世界観に基づいて書かれた作品群があります。
 グリムやアンデルセンを源流として、日本でも、小川未明、浜田広助、坪田譲治のいわゆる「三種の神器」を初めとして、宮澤賢治、新美南吉、安房直子など、面々と書き綴られてきた夥しいメルフェンの世界を、作者と読者の共通認識として、その世界観に基づいて作品が書かれています。
 そのため、これらの作品の登場人物やエピソードには、どこか既視感があります。
 もっとも、このような作品には、悪い点ばかりではなく利点もあります。
 作品を読んで大きな驚きは得られないものの、読者と共有できる予定調和的な世界なので安心して読めます。
 そのため、特に年少の読者には読みやすいでしょう。

グリム童話―こどもと大人のためのメルヘン
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動物児童文学の分類

2021-06-14 14:04:02 | 考察

 児童文学において、動物文学は一つのジャンルを形成しています。
 それらにはいろいろなタイプがあって、以下のように分類できます。

1.ノンフィクション
 フィクションの部分はなく、動物の生態をそのまま描いています(ファーブル「昆虫記」、伊谷純一郎「高崎山のサル」など)。

2.ノンフィクション風物語
 一見、ノンフィクションのようですが、そこにフィクションを加えています(シートン「動物記」、椋鳩十や戸川幸雄の作品など)

3.動物主人公物語
 動物の生態はそのままですが、動物の視点で描かれています(ジャック・ロンドン「野生の呼び声」、シートンや椋鳩十や戸川幸雄の作品にもあります)。

4.動物の世界をファンタジーで描いた物語
 動物の生態はいかされていますが、様々なレベルの擬人化がなされています(アダムス「ウォーターシップダウンのうさぎたち」、マージェリー・シャープ「ミス・ビアンカ・シリーズ」、斉藤敦夫「冒険者たち」、宮沢賢治「よだかの星」、キップリング「ジャングルブック」、ポッター「ピーター・ラビット」シリーズ、ホワイト「シャーロットの贈り物」、いぬいとみこ「ながいながいペンギンの話」など)

5.動物が主人公のファンタジー
 動物を主人公にしていますが、まるで人間のように生活しています(ケネス・グレアム「たのしい川辺」、ミルン「くまのプーさん」(ぬいぐるみですが)、ボンド「くまのパディントン・シリーズ」、神沢利子「くまの子ウーフ」、ジョージ・オーウェル「動物農場」など)

 以上はかなり大雑把な分類ですが、擬人化度や動物の生態の厳密さなどにより、4や5はさらに細かく分けられます。
 新たに動物児童文学を創作する場合には、以上の先行作品を参考にして、自分の作品の世界観を構築するといいでしょう。


たのしい川べ (岩波少年文庫 (099))
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岩波書店
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児童文学における老人と子ども

2021-06-13 15:44:36 | 考察

 現代の日本では、高齢者社会が進んで、老人世代の人口が増加しています。
 しかし、その一方で核家族化も進んで、子どもと老人たち(ここでは後期高齢者である75歳以上のお年寄りをさしています。現実の子ども世代のおじいちゃんやおばあちゃんにあたる若い高齢者たちは、いろいろな形で子どもたちと交流があるでしょう)
 2010年代に入って、法改正の影響もあり、有料老人ホームなどの新しい老人介護施設が増えています。
 従来の老人ホームといえば、一部の裕福な人たちしか入れない入所に高額な一時金が必要な有料老人ホームか、辺鄙なところに作られる事の多かった特別養護老人ホーム(現在の特養は非常に入所が難しく、介護度の高い人でもなかなか入れません)しかありませんでした。
 しかし、現在ではそれらだけでは収容できない多くの高齢者のために、一時金が少ない(あるいはなしの)有料老人ホームなどが、住宅地と近接する形でたくさんつくられるようになりました。
 これは、介護の人員の確保の容易性と家族の訪問しやすさが必要なために、交通の便の良いところでしか新しい老人ホームが運営できないからです。
 現在では、老人ホームで利用者の脱走(徘徊)が起こるのは大問題なので、出入り口はオートロックになっていて、老人たちは外部から隔離されていることが多いです。
 なぜなら、この業界は慢性的に人手不足なので、いなくなった人をいちいち探していたらペイしないからです。
 しかし、こういった施設が増えるにつれて、周囲の理解をが得るために地域社会との交流を図る所も増えてきました。
 こういった機会を通して、老人たちと交流を持つ子どもたちもこれからはどんどん増えてくるでしょう。
 そして、新しい物語が生み出される土壌になる可能性を秘めていると思います。

死ぬまで安心な有料老人ホームの選び方 子も親も「老活!」時代 (講談社プラスアルファ新書)
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異文化としての老人と子ども

2021-05-28 15:04:04 | 考察

 コロナ・ウィルスの影響で、人々の間で分断化が進んでいます。
 それは、国家、都道府県などといった目に見える形だけでなく、世代間、知識の有無、技能の有無、経済格差などにおいても、すごいスピードで進んでいます。
 特に、人と人との直接的な繋がりが阻害されていることに関して言えば、ディジタル・リタレシーやネット・リタレシーの有無が、人々の大きな分断化をもたらしています。
 従来のLINEやInstagramやFacebookなどに加えて、Zoomなどのミーティング・ツールや、FireTVStickなどによるテレビのインターネット接続や、ミラーリングなどによるスマホとテレビの接続などをできるかどうかによって、人との繋がり方の質や頻度が大きく違ってきています。
 こうした動きに取り残されているのが、ここでも老人たちと子どもたちです。
 どちらも、知識や技能や経済的な理由で、こうした新しい人との繋がり方ができるのは、一部の人たちにとどまるでしょう。
 ましてや、老人たちと子どもたちが、こうした方法を利用して互いに繋がることは非常に困難でしょう。
 従来でも、核家族化や経済格差が進んだ現代では、老人たちと子どもたちの関係はどんどん希薄になっていました。
 ポスト・コロナ(これにははっきりとした終わりはなく、人間は少なからずコロナ・ウィルスと共存することになります)社会では、そうした状況がさらに進むことが予想されます。
 こうした社会によって、互いに疎外される存在である老人たちと子どもたちを結びつけるツールとして、児童文学はその重要性が増大することが予想されます。
 なぜなら、「子ども時代」というのは、両者にとって数少ない共有文化だからです
 その場合は、単なる一方向の関係(老人は子どもに経験を伝える。子どもはその存在で老人たちを癒すなど)ではなく、それぞれの異文化(異なる子ども時代)が互いに刺激しあって、それぞれが豊かになるような提示の仕方が重要になってくることでしょう。
 そうした交流の先駆者として頭に浮かんでくる作品は、カニグズバーグ「クローディアの秘密」やピアス「トムは真夜中の庭で」などです。

 

 

 

 



 


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少年詩と散文

2021-03-25 15:36:56 | 考察

 他の記事でも繰り返し紹介してきましたが、児童文学研究者の宮川健郎氏のまとめ(その記事を参照してください)によると、現代児童文学の特徴として、「変革の意志」、「子どもへの関心」と並んで、「散文性の獲得」があげられています。
 また、現代児童文学の出発に大きな貢献があったとされる早大童話会の「少年文学宣言(正しくは「少年文学の旗の下に」。その記事を参照してください)」においても、彼らが克服すべき対象はすべて散文系の作品群でした。
 このように、少年詩(ここで使っている少年という用語は、幼年、青年、壮年、老年と同様に、たんに年齢区分を意味しているので特に男の子向きという意味ではありません)は、現代児童文学の出発時から継子扱い(すみません。差別用語ですが、時代性を考慮して使わせてください)でした。
 しかし、1970年代までは、児童文学において確固たる地位を占めていたように記憶しています(1978年には、「少年詩・童謡への招待」という分厚い日本児童文学の別冊が発行されています)が、現代ではごく一部の有名詩人(まどみちお、谷川俊太郎など)を除くと一般にはあまり注目されていません。
 少年詩集の出版の困難さは散文の児童文学の本の比ではなく、ほとんどが自費出版や協力出版(発行する経費の一部(大部分?)を負担する)の形でしか発表されないので、一般読者の目に届くことの困難さは想像に難くないです。
 言うまでもなく、少年詩には散文以上に優れた言語感覚が要求されます。
 そういった意味では、散文よりも書き手の資質に負うところが大きいかもしれません。
 私自身の経験でも、大学の児童文学研究会の一年後輩に高校生の時から少年詩誌に参加していた人がいたのですが、彼の研ぎ澄まされた言語感覚と豊かな感受性には、とても努力だけでは補えないものを感じていました。


日本児童文学 2015年 12 月号 [雑誌]
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小峰書店
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少女小説の行方

2021-03-16 16:54:42 | 考察

 女の子たちの感覚(美しい年上の同性への憧れ、イケメンの年上の異性との恋、同性の同年齢の友人たちとの日常など)をビビッドに捉えた作品は、今でも少女小説の王道です。
 他の記事でも書いてきましたが、現在の児童文学の読者の主流は女性です。
 それも、子どもや思春期の女の子たちだけでなく、若い独身女性やママたち、さらには、アラサーは当然として、アラフォー、アラフィフ、アラカンまでの幅広い年代の女性を対象としたL文学(女性作家が女性を主人公にして女性の読者を対象とした文学。最近では、女性編集者、女性児童文学評論家(研究者)、女性書店員、女性司書、女性教員なども含めた完全に女性だけで閉じた世界になっています)へと変貌を遂げています。
 そのため、こうした少女小説は一定のマーケットを維持しています。
 少女小説という戦前の吉屋信子にまで源流を遡れる伝統芸に、どうしたら新しい衣を着させることができるかが、作家の腕の見せ所です。
 文学が古典のような恒久財と、その時代に合った娯楽としての消費財に分けられるならば、少女小説は明らかに消費財でしょう。
 そのために、その時代に女の子たちの間ではやっている風俗を取り入れることは必要です。
 しかし、いくら消費財的文学とはいっても、本あるいは作品よりも短命な風俗、特にディジタル技術や通信技術に関するものを作品に取り込むことにはもう少し慎重になった方がいいと思われます。
 タブレット端末も、スマホも10年と持たないでしょうし、ましてやアプリにすぎないラインなどは、5年後も流行っているかどうかの保証はありません。
 そういったものを安易に作品に取り込むと、すぐに陳腐化して作品の寿命を短くしてしまうことでしょう。

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東京堂出版
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ソリタリー

2020-09-21 11:02:38 | 考察

 「ソリタリー」とは、孤独でもそれを自分で克服できる人のことで、他の人と協調して何かをするよりも、自分一人で工夫して物事をした方が成果が上がることが多いようです。
 私は典型的なソリタリーで、私の本質が「一人遊び」にあることは、今は亡き畏友の廣越たかし(児童文学作家)に出会って早々に看破されてしまいました。
 振り返ってみると、おびただしい数の一人遊び(いくつか例をあげると、自作自演の紙相撲、メンコの一枚一枚を擬人化していろいろな物語やスポーツを空想する遊び、自分でルールを決めて六角鉛筆をサイコロの代わりにしてやる競馬、野球、アメフト、スキージャンプなどのゲーム、授業中にコマや教科書を使ってやる空想ゲーム、まだパソコンやファミコンが実用化してなかった頃に自作したいろいろな電子ゲームなど)を考案し、授業中や通学の車内や自室や会社の就業中などの退屈な時間をやり過ごしていたのですが、創作活動もその延長上にあると思われます。
 このソリタリー性質は生得の要素もあるでしょうが、非常にいびつな生育環境(幼稚園の時から一人で遠くの学校(しかも公立の)に電車に乗って通っていました)によって形成されたものだと推察しています。
 幸い外資系の会社に入ったので、このソリタリーは評価されやすく、居心地も悪くありませんでした。
 マネージャーになって部下を持つようになると、この性質はマイナスに働いたのですが、幸い商品やビジネスをプランニングするのが仕事だったため、プラスに働いたことの方が多くありました。
 しかし、振り返ってみると、大勢部下がいた時よりも、少人数だったり一人もいなかった時の方が、いい仕事ができたようです。
 それでも、会社や家庭などの社会生活を営むようになると、ソリタリーはかなり抑圧されて影をひそめていました(学生時代は、いい成績さえ取っていれば親も教師も文句はないので、ソリタリー全開でした)。
 しかし、会社を離れ子どもたちも巣立つと、ソリタリーはむくむくと頭をもたげてきました。
 そのことは、創作や研究活動にはプラスに働いているのですが、活動範囲はどんどん縮小していって、家族と一緒でない場合は家から車で30分以内の場所で生活しています。

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ポニーキャニオン
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現代児童文学者の経済学

2020-09-18 17:14:45 | 考察

 現代児童文学の世界では、その担い手の中心が女性になって久しいです。
 それは、もちろん児童文学が、文芸評論家の斉藤美奈子がいうところのL文学(女性の作者が女性を主人公にして女性の読者のために書いた文学)化していることが大きな原因でしょう。
 最近は、それに女性編集者、女性評論家、女性研究者も加わり、完全に女性だけの閉じた世界になりつつあります。
 児童文学のL文学化の功罪についての考察は別の記事でも書いているので、ここでは経済的な面でいかに男性が児童文学の作家を仕事にするのが困難かを考えてみたいと思っています。
 私が初めて児童文学の本を出版したのは、1988年の7月でした。
 出版社と契約を交わし、定価920円(本体893円、消費税27円(3%の時代でした))で印税は8%(一般の文学の本では印税は10%ですが、児童書は挿絵がつくので絵描きさんの分が差し引かれます)でした。
 私の編集担当者が「うちは、大家でもあなたのような新人でも8%払う」と、恩着せがましく言っていましたから、もしかするともっと劣悪な条件をのまされている書き手もいたのでしょう。
 その本の初版は八千部(当時は出版バブルだったので私のような新人でもこの部数ですが、今ではせいぜい三千部から五千部あるいはもっと少ない冊数でしょう)だったので、単純に計算すると571520円が私の取り分ですが、宣伝用の100冊だか200冊だかの分の印税が差し引かれたり、私が自分で配る分の本代(著者は八掛けで買えます)が引かれたり、源泉徴収の10%があったりして、実際の手取りは50万円を切っていました。
 当時、会社からもらっている給料より、かなり少ない額だったのに驚いた覚えがあります。
(これでみんなはどうやって生活しているんだろう?)
 そんな素朴な疑問をもったので、生活していくのにどのくらい本を出せばいいのか計算してみました。
 最終的な刷数を四刷として(二刷からはさらに部数が減ることは知っていましたので、刷を重ねるごとに半減すると仮定して)、合計の部数を1万5千部としました(これがいかに甘い仮定であったことは、後でいやというほど思い知らされます)。
 これをもとに印税を計算すると、毎年10冊出しても当時の年収にはるかに及ばないことがわかりました。
 その本は、エンターテインメント性はほとんどなく、もろに「現代児童文学」していたので、あまり売れないだろうなということは、自分が一番知っていました。
 それにもかかわらず編集者に勝手に漫画的な挿絵を付けられましたが、おそらく編集者自身はその方が売れると思ったのでしょう。
 逆に、児童文学の世界の友人たちからは、その本は挿絵でずいぶん損をしていると言われました。
 そのせいかどうか、日本児童文学者協会の新人賞は、最終選考候補どまりでした。
 これでますます売れないことは決定的になり、けっきょくその本は初版どまりで終わってしまいました。
 それならば、エンターテインメントを書いてみたらどうだろう。
 そうすればもっと売れるかもしれないと思って、次の作品はエンターテインメント的なものにしてみました。
 幸いこの作品もすぐに本になりましたが、編集者が同じだったこともあって、前の本と同じシリーズで同じ売り方でした。
 まあ、ようやく本の内容と一致する挿絵になったことがせめてもの救いでしたが。
 私の本業は電子機器のマーケティングでしたので、(エンターテインメントならエンターテインメントらしい売り方をしてくれよな)と内心思っていましたが、そんな発想はその出版社にはないようでした。
 案の定、この本もあまり売れませんでした。
 (よーし、それなら)と、次はもっとエンターテインメント性を強めたマニアックな作品(今だったらライトノベルのようなもの)を書きましたが、これは担当編集者の理解を超えるものだったらしく、些細な事にケチをつけられてその編集者とはけんか別れをしました。
 ここで私のとる道は二つあったのでしょう。
 ひとつは、出版社を変えて、「現代児童文学」ではなく「エンターテインメント」の書き手になることです。
 もうひとつは、出版社との関係は絶って本業に専心して、好きな「現代児童文学」(特に本にはなりにくい短編)を書き続けることです。
 結論から言うと、私は後者を選びました。
 誤解をまねかないために言っておくと、私は「現代児童文学」と「エンターテインメント」を差別するものではありません。
 たんに、ジャンルとして区別しているだけです。
 作家の村松友視が「私、プロレスの味方です」の中で書いたように、「あらゆるジャンルに貴賎はない」のです。
 ただ、それぞれのジャンルの中で一流も三流もあります。
 だから、一流の「エンターテインメント」作品もあれば、三流の「現代児童文学」作品もあるのです。
 ただし、人それぞれにジャンルの好き嫌いはあります。
 私の場合、「現代児童文学」はすごく好きだけれど、「子ども向けエンターテインメント」は好きじゃないだけなのです。
 ここで、「子ども向け」と断っているのは、大人向けのエンターテインメントで好きな作家は、当時何人もいたからです(例えば、「羊たちの沈黙」などのトマス・ハリスや「ジャッカルの日」などのフレデリック・フォーサイスなど)。
 結論から言うと、印税収入だけで暮らしていけている男性の「現代児童文学」の作家は、ほとんどいません。
 「エンターテインメント」の書き手なら、はやみねかおるや松原秀行のように、印税だけで暮らしていける男性作家もいることでしょう。
 私はまったく詳しくありませんが、「ライトノベル」や「絵本」にも、かなりプロの男性作家いることと思います。
 しかし、「現代児童文学」作家は、あの皿海達也でさえ、教師の仕事を辞めて作家に専念できませんでした。
 岡田淳も、長い間、図工の教師を続けていました。
 彼は、最近はかなりエンターテインメント性の強い作品を量産しているので、あるいは今は作家に専念しているかもしれませんが。
 2010年に亡くなった後藤竜二のように、「現代児童文学」と「エンターテインメント」、さらには「絵本」までかき分ける才に恵まれ、作家に専念できたた人はまれでしょう。
 「現代児童文学」の男性作家で、仕事を辞めて創作に専念している場合でも、妻などの収入に頼っている人も多いようです。
 ある著名な「現代児童文学」の男性作家が、「実はおれはヒモなんだよ」と、自嘲的に言っていたのが忘れられません。
 その点では、今までは女性の方が有利だったかもしれません。
 従来の日本社会では、結婚すれば少なくとも経済的な心配はあまりなかったからです。
 これも、児童文学の世界がL文学化した理由の一つかもしれません。
 でも、非婚化や世代間格差の進んだこれからの日本では、女性も男性と条件が変わらなくなってくるとは思います。
 今は作品がエンターテインメントよりになって、本が売れているので作家に専念していますが、荻原規子も長い間中学校の事務の仕事を続けていました。
 2012年にサークルの同窓会で彼女と話した時、「レッド・データ・ガール」シリーズが売れても、まだ不安だと言っていました。
 こういった「現代児童文学」の状況を打破するためには、印税の大幅アップしかありません。
 もともと「現代児童文学」は、大人向けの「純文学」同様に、読者数の多いものではないのです。
 それならば、印税を大幅に上げて、作者の取り分を多くするしかありません。
 印税が10%でなく40%(児童書の場合ならば、8%でなく32%)ならば、純文学(現代児童文学)の書き手でも、生活していけるようになるでしょう。
 あの田中慎哉でも、別に芥川賞を取らなくても、パートのおかあさんの収入に頼らなくてすみます。
 そのためには、出版社、流通、書店といった中間搾取層(言葉が悪くてすみません)をカットできる電子書籍の普及に期待しています。
 アメリカではすでにその動きがかなり出てきているので、日本でもあと10年ぐらいたてば状況がかなり変わる事と思われます。
 2012年の終わりに、アマゾンがキンドル・ダイレクト・パブリッシング(KDP、その記事を参照してください)を日本でも開始しましたが、そこで自己出版(無料なので自費出版ではありません)して、そのロイヤリティ(35%または70%)だけで児童文学作家が生活できるようになるのには、まだまだ時間がかかるでしょう。
 特に、いくらKDPで出版しても、アマゾンはいっさい宣伝してくれませんから、どのように読者に自分の本の存在をを知らせるかが大きなハードルになっています。
 上記の文章を初めて書いてから五年以上たつのですが、状況はさらに悪化しています。
 児童文学の電子化は遅々として進まず、子どもたちのほとんどがスマホを持っているのに、児童文学作品をそれで読むことができません。
 また、宮沢賢治を除くと、古典的な児童文学作品のディジタル化も全く進んでいません。
 そのため、児童文学作品の消費財化がどんどん進んでいます。
 英語圏では、児童文学の新作はもちろん古典的な作品まで、安価に電子書籍で購入して読むことができます。
 また、図書館のディジタル化も進んでいるので、無料で読むこともできます(日本でも、八王子市などでは、電子書籍の貸し出しが始まっています)。
 その一方で、漫画の世界では電子化は進んでいます。
 その業界の友人の話では、紙の本の売り上げの落ち込みを電子書籍で補っていて、主力は電子書籍に移行しているそうです。
 私自身も、コミックスを読む時は、新作(例えば、「BEASTARS」(その記事を参照してください))も、古典(例えば、「火の鳥」や「カムイ伝」(それらの記事を参照してください))も、電子書籍で購入して読んでいます。
 正直言って、児童文学の業界の人たちは、ディジタル化やマーケティングに関して全く疎いので、日本の児童文学の世界はますますガラパゴス化しています。


 

 

インディ?号の栄光
クリエーター情報なし
平野 厚



インディ2号の栄光 (新・子どもの文学)
クリエーター情報なし
偕成社








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絵本と散文

2020-05-09 15:57:39 | 考察
 現代の絵本の出版状況を見ると、かつて主流だった物語絵本は数少なくなり、絵中心で文章の字数が少ない物が主流になっています。
 そうした絵本における文章について考えてみます。
 ただし、詩に絵を付けた詩画集のようなものでなく、散文で書かれているものを想定しています。
 かつて、「児童文学は、アクションとダイアローグで書く文学だ」と、今は亡き安藤美紀夫は言っていました。
 その後、80年代ごろから、「写生」や「描写」といった近代文学、特に小説を形作る要素が児童文学にも取り込まれて、一般文学と児童文学の境界はあいまいになってきました。
 しかし、幼年文学や散文をベースにした絵本では、この「アクションとダイアローグ(モノローグ)で書く」ことに立ち返る必要があるのではないでしょうか。
 「写生」や「描写」は、すでに絵本の主体になっている「絵」にできるだけ任せて、文章の方はなるだけ刈り込んで、アクションとダイアローグ(モノローグ)を簡潔に伝えるようにした方がいいと思われます。
 さらに言えば、文章のテンポの良さや、ひとつひとつの言葉の吟味なども、より重要になってきます。
 特に、最近の子どもたちは、こうした絵本に、読み聞かせなどを通して出会うことが多いと思いますし、自分で声を出して読むこともあるでしょう。
 そうすると、音読した場合の文章のリズムや言葉の響きなども重要になってきます。
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児童文学におけるユートピア小説

2020-04-26 11:35:10 | 考察
 児童文学においていい人ばかりが出てくる作品群があります。
 一種のユートピア小説なのでしょう。
 そういった作品の、せちがらい現実に対するアンチテーゼとしての意味は認めるのですが、ユートピア的な作品世界の中に現実世界を暗示するようなひねりは欲しいものです。

ユートピア (岩波文庫 赤202-1)
クリエーター情報なし
岩波書店
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「佐藤さとるの作品においての考察」ビードロ創刊号所収

2020-03-20 08:31:44 | 考察
 1973年の大学一年の時に書いた私の評論です。
 そのころの読みと、四十年以上たった今の考えとの変化について考察してみたいと思っています。
 最初に表題ですが、佐藤さとると面識がないこととその背景になる環境について調べていないので、このような表題になっていると思われます。
 ただし、手に入る限りの作品とその解説および評論類にはあたってから書いているようです。
 論文の中で、「だれも知らない小さな国」を中心にして書いています。
 その理由として、この作品が「彼の延べたい「だれもが持っている自分自身の心の中の小さな世界=内在的価値」について、いちばん明確に、あるいは唯一かもしれないが、提示されているからである。」としています。
 「だれも知らない小さな国」を評価する場合に中心においているのは、「歴史的価値」だとしています。
 その根拠として、発表から15年近くたっても、「毎年生み出されている作品群に埋もれることなく、戦後の児童文学の指標として、輝きを保っているからである。」としています。
 この評価は、その後五十年近くたっても、いぬいとみこの「木かげの家の小人たち」と並んで現代日本児童文学の出発点として、私の中ではますます堅固になっています。

コロボックル物語(1) だれも知らない小さな国 (児童文学創作シリーズ―コロボックル物語)
クリエーター情報なし
講談社
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