児童文学で、その時代の風俗をどう取り扱うかは、悩ましい問題です。
同時代性を表したい時にはその時代の最新の風俗を使いたいのですが、そうすると時間がたつと作品が古臭くなる恐れがあります。
例えば、ある作品の大きなエピソードとして、みんなが持っている携帯ゲーム機を買ってもらえない主人公が、代わりに将棋を持ち出して友だちとする場面がありました。
この作品は連作短編で、先行する作品では、他の家にあるクーラーが主人公の家にはない設定もありました。
今回の携帯ゲーム機と重ねあわせて考えると、こういった問題に対する作品の背景ないし作者の考えを、はっきりとさせた方がいいと思いました。
つまり、主人公の両親は、経済的に余裕がなくてクーラーや携帯ゲーム機が買えないのか、それともポリシーとしてそういったものは買わないのかです。
こういった問題は、親が隠していても、子どもたちは敏感に察知するものです。
どちらがいいとか悪いとか言っているのではないのです。
ただ、どちらが原因(100パーセントではなく混合しているケースもあるでしょう)なのかによって、主人公のこの問題に対する受け止め方が変わってくると思います。
この作品の場合、携帯ゲームの代わりとして主人公は将棋を持ち出していますが、それが実際の読者(主人公の同年代の子どもたち)に受け入れられるかどうかは、よく検討する必要があります。
将棋は、私が子どものころは非常に一般的でしたが、今の子どもたちにとってポピュラリティがあるのでしょうか。
また、作者がこの作品を書くときに将棋をどのくらい調べたかはわかりませんが、今回の書き方ではまるで将棋の魅力が伝わってきません。
ボードゲーム(将棋もその一つです)の世界では、スキル(技術)とラック(運)のバランスがよく話題になります。
例えば、おなじ将棋の駒を使ったゲームでも、「まわり将棋」などは、ラックが非常に高いので初心者や子どもでも勝てる可能性がります。
しかし、本当の将棋は、ほぼ100パーセント、スキルだけの世界なので、初心者が勝てる余地はまったくありません。
これでは初心者の人がぜんぜん勝てなくてつまらないので、実力が違う同士が対戦するときには駒落ち(例えば、強い方が飛車と角とか、飛車だけをはずすなど、実力差によって細かく調整できます)といううまい方法があって、スキルと戦力のバランスを取ることができます。
この作品では、片方は駒の動かし方もよく知らないレベルですので、心の優しい主人公が駒落ちをしないのはあまりに不自然です。
さらに言えば、主人公の父親が、子ども相手に駒落ちをしないのは、この世界の常識としてまったく考えられません。
おそらく作者は、将棋というゲームをよく知らないのでしょう。
それに、きちんと調べたとも思えません。
これでは、読者に将棋の魅力を伝えることはできません。
また、この作品では、主人公だけでなく友だちも都合のいいことにも携帯ゲーム機を持っていない設定になっていて、作者のご都合主義でリアリティが感じられませんでした。
現在の子どもたち(この作品の場合は特に男の子たち)の風俗を描くのであれば、それについて頭の中だけで書くのではなく、実際に取材するなり関連の本を読むなりして、リアリティを高めることが必要です。
同時代性を表したい時にはその時代の最新の風俗を使いたいのですが、そうすると時間がたつと作品が古臭くなる恐れがあります。
例えば、ある作品の大きなエピソードとして、みんなが持っている携帯ゲーム機を買ってもらえない主人公が、代わりに将棋を持ち出して友だちとする場面がありました。
この作品は連作短編で、先行する作品では、他の家にあるクーラーが主人公の家にはない設定もありました。
今回の携帯ゲーム機と重ねあわせて考えると、こういった問題に対する作品の背景ないし作者の考えを、はっきりとさせた方がいいと思いました。
つまり、主人公の両親は、経済的に余裕がなくてクーラーや携帯ゲーム機が買えないのか、それともポリシーとしてそういったものは買わないのかです。
こういった問題は、親が隠していても、子どもたちは敏感に察知するものです。
どちらがいいとか悪いとか言っているのではないのです。
ただ、どちらが原因(100パーセントではなく混合しているケースもあるでしょう)なのかによって、主人公のこの問題に対する受け止め方が変わってくると思います。
この作品の場合、携帯ゲームの代わりとして主人公は将棋を持ち出していますが、それが実際の読者(主人公の同年代の子どもたち)に受け入れられるかどうかは、よく検討する必要があります。
将棋は、私が子どものころは非常に一般的でしたが、今の子どもたちにとってポピュラリティがあるのでしょうか。
また、作者がこの作品を書くときに将棋をどのくらい調べたかはわかりませんが、今回の書き方ではまるで将棋の魅力が伝わってきません。
ボードゲーム(将棋もその一つです)の世界では、スキル(技術)とラック(運)のバランスがよく話題になります。
例えば、おなじ将棋の駒を使ったゲームでも、「まわり将棋」などは、ラックが非常に高いので初心者や子どもでも勝てる可能性がります。
しかし、本当の将棋は、ほぼ100パーセント、スキルだけの世界なので、初心者が勝てる余地はまったくありません。
これでは初心者の人がぜんぜん勝てなくてつまらないので、実力が違う同士が対戦するときには駒落ち(例えば、強い方が飛車と角とか、飛車だけをはずすなど、実力差によって細かく調整できます)といううまい方法があって、スキルと戦力のバランスを取ることができます。
この作品では、片方は駒の動かし方もよく知らないレベルですので、心の優しい主人公が駒落ちをしないのはあまりに不自然です。
さらに言えば、主人公の父親が、子ども相手に駒落ちをしないのは、この世界の常識としてまったく考えられません。
おそらく作者は、将棋というゲームをよく知らないのでしょう。
それに、きちんと調べたとも思えません。
これでは、読者に将棋の魅力を伝えることはできません。
また、この作品では、主人公だけでなく友だちも都合のいいことにも携帯ゲーム機を持っていない設定になっていて、作者のご都合主義でリアリティが感じられませんでした。
現在の子どもたち(この作品の場合は特に男の子たち)の風俗を描くのであれば、それについて頭の中だけで書くのではなく、実際に取材するなり関連の本を読むなりして、リアリティを高めることが必要です。
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