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とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

三菱UFJ、店舗2割削減を検討 みずほも人員大幅減へ

2017-10-29 09:59:34 | 労働
報道によれば、銀行はIT化のため、人員減の傾向。


三菱UFJ、店舗2割削減を検討 みずほも人員大幅減へ
2017年10月29日05時06分
http://www.asahi.com/articles/ASKBX5JTFKBXULFA00G.html?iref=comtop_8_01

 マイナス金利や人口減で国内の銀行業が厳しい中、メガバンクが事業見直しを進めている。最大手の三菱UFJフィナンシャル・グループ(FG)は、三菱東京UFJ銀行の店舗の最大2割程度の削減を検討。みずほFGはIT化などで今後10年で1万9千人分の業務量を減らす。組織のスリム化で収益力を高める。

 三菱東京UFJ銀は約480店のうち1~2割の統廃合を検討する。今後具体案をまとめ、来年度から3年間で進める。また今後15年で店舗を中核店とその他の店に分ける。多くの店は「軽量化店舗」として人員を減らし、窓口業務を完全にデジタル化した無人店も増える見通しだ。ここ10年で来店者は4割減ってネットバンキングの利用が増えており、地域性を見極めながら店舗配置を見直す。IT化による業務見直しも進めて、国内従業員約3万人の3割にあたる9500人分の業務を削減する。

 みずほFGも店舗の統廃合や業務見直しを進める方針で、近く構造改革案として公表する。全国約800店の機能を見直し、20~30店の統廃合を検討。事業効率化で、今後10年で従業員6万人の3割にあたる1万9千人分の業務を減らす。希望退職の募集などはせず、退職数と採用数の調整で対応する。事務部門を効率化して営業部門に再配置する。みずほ銀行やみずほ信託銀行、みずほ証券の事務作業を別会社に移すことも検討する。三井住友銀行も効率化で、今後3年で4千人分の業務量を減らす。


20歳の自分と50歳の自分は果たして同じ存在か? スワンプマンとテセウスの船、海馬継承

2017-10-29 00:14:09 | 哲学・社会
「20歳の自分と50歳の自分は果たして同じ存在か? 」だなんて言うと、「まあ考え方や捉え方は変わったけれども、本質的な自分は変わってないよね、誰かと取り変わった訳でもないし」と言う回答が返ってくるだろう。

一般的な認識として、自分と言う存在が継続するか否か、と言う点で、変化はしているが、他の存在に完全に取り替わったわけではない、と言う感じだろう。今回はこれを掘り下げていく。

今回の話は若干ややこしいので、平易に説明するために、前提となる思考の材料の紹介をせねばならない。
以前掲載した文章の再掲でもあるが、しかし今回はそれの別途の形での再結合を行う。

ここで前提として必要な知識は、「スワンプマン」「テセウスの船」「海馬継承」の3つである。それでは行こう。


1.スワンプマン

スワンプマン - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%9E%E3%83%B3

スワンプマン(Swampman)とは、1987年にアメリカの哲学者ドナルド・デイヴィッドソンが考案した思考実験。「私とは何か」といった同一性やアイデンティティーの問題を考えるのに使われる。スワンプマンとは沼 (Swamp) の男 (man) という意味の英語。

思考実験の詳細

ある男がハイキングに出かける。道中、この男は不運にも沼のそばで、突然 雷に打たれて死んでしまう。その時、もうひとつ別の雷が、すぐそばの沼へと落ちた。なんという偶然か、この落雷は沼の汚泥と化学反応を引き起こし、死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。

この落雷によって生まれた新しい存在のことを、スワンプマン(沼男)と言う。スワンプマンは原子レベルで、死ぬ直前の男と全く同一の構造を呈しており、見かけも全く同一である。もちろん脳の状態(落雷によって死んだ男の生前の脳の状態)も完全なるコピーであることから、記憶も知識も全く同一であるように見える[1]。沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと街に帰っていく。そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。


問題である。この「スワンプマン」は元の人物と同一であろうか? 
私個人の回答を書けば、この問いに対する主観的な答えは「ノー」である。同一ではない。

なぜかというと、DNAレベルまで全く同一の素体ができたとしても、認識の素体として、認識を結合していないからである。
AがA`と言う素体に継承した時、認識まで継承されれば同一人物であるが、実態としてはそうではない。
元の男が雷に打たれた時には、その男の人生は終了しているのである。新しく出来たスワンプマンは経験から来る認識は元の男と同一のものをたどるだろうが、その線が継続したわけではない。
(但し、社会から見るその男の挙動は継続したものとして扱い、そうみなすだろう。)

主観的な認識論においては断絶しているが、客観的な認識論においては継続している、と言う矛盾した齟齬が、人間が認識しうる現実の内外に存在しうると言うことをまず認識せねばならない。


2.テセウスの船

テセウスの船 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%BB%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%81%AE%E8%88%B9

テセウスの船(テセウスのふね、英: Ship of Theseus)はパラドックスの1つであり、テセウスのパラドックスとも呼ばれる。ある物体(オブジェクト)の全ての構成要素(部品)が置き換えられたとき、基本的に同じである(同一性=アイデンティティ)と言えるのか、という問題である。

リシャ神話

プルタルコスは以下のようなギリシャの伝説を挙げている。

テセウスがアテネの若者と共に(クレタ島から)帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこれをファレロンのデメトリウスの時代にも保存していた。このため、朽ちた木材は徐々に新たな木材に置き換えられていき、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となった。すなわち、ある者はその船はもはや同じものとは言えないとし、別の者はまだ同じものだと主張したのである。

プルタルコスは全部の部品が置き換えられたとき、その船が同じものと言えるのかという疑問を投げかけている。また、ここから派生する問題として置き換えられた古い部品を集めて何とか別の船を組み立てた場合、どちらがテセウスの船なのかという疑問が生じる。


さて、これもスワンプマンと同様だ。
「主観的な認識論においては断絶しているが、客観的な認識論においては継続している」と言うことになる。
テセウスの船自身は自身の部品が新しく交換されたことになるが、外部からの人間はそれが継続しているように見えるのである。

ここで問題になるのは人間の認識そのものに脆弱性があることだ。
とある生物が生きて死ぬ時に、我々は、それを形為す「形質」と、それを構成している具体的な「材料」を同一視する習性がある。「形質」とは設計図から派生する形のことで、「材料」はそのまま「材料」だ。
ちなみにこの「形質」と「材料」の二分法による考察は、私オリジナルのものなので、下手に引用して恥をかかれないようにご注意頂きたい。

さて、しかしこの2つは、通常は同時進行で誕生し消滅するのが一般的な認識だが、実際としては、小さいところに目を向けると、同時進行しないケースがある。
上記で言えば、櫂の本数と形状は変化していない(形質は変化していない)が、材料は具体的に交換されているのである。


3.海馬継承

サンドリン・チュレ: 新しい脳細胞を増やす方法 | TED Talk | TED.com
https://www.ted.com/talks/sandrine_thuret_you_can_grow_new_brain_cells_here_s_how/transcript?language=ja

人間の脳に関して言えば カロリンスカ研究所の同僚 ヨナス・フリセンが 海馬では毎日700個の 新しい神経細胞が作られていると 推定しています 私達の持っている何十億の 神経細胞に比べたら あまり多くないと 思うかもしれません でも 50歳になるまでに 持って生まれた海馬の神経細胞は 成人後にできたものと 全て入れ替わるのです


上記のテセウスの船で、形質が同じでも材料が替わってしまえば、モノは継続していない、と言う方がいらっしゃれば、20歳のあなたと50歳のあなたは違う存在となることになる。しかしそれはそうではない。これはどういうことだろうか。

形質の継承、もっと言えば、海馬による記憶の継承があなたの認識を認識足らしめているのである。
スワンプマンは完全な断絶であったが、人間の脳バージョンにおけるテセウスの船では、同じ形質の中で徐々に細胞が置き換わられていくので、同じ個体で同じ主観、同じ認識を持つ存在でありながら、変化をしていくのである。



同じ存在でありながら、同じ存在ではない。しかしこれは矛盾ではない。
元々、我々が「形質」と「材料」を同一視して混同する本能を、人間として持っているからこそ発生することなのだ。
これは人間ならではの誤認であり、そして人間の認識の脆弱性、人間の認識の限界でもある。

「形質」は継続し、「材料」は変化する。これは長大な人類史や、あるいはそれよりも小さい規模での中長期的社会史においても話は同じだ。登場人物は変化しても、やっていることは大体同じなのである。

この『「形質」は継続し、「材料」は変化する』と言う、二者を分離した考察方法を、我々が何かを理解する上での道具として、考察材料の一つとして我々の社会の中で保持することを、私から提案する。

社会人類史の考察と自分の現況の比較

2017-10-28 22:52:39 | 雑感
サラリーマンとは現代の奴隷である。

そういう文言は聞いたことがあるようなないような、いずれにしてもそういう皮肉が通底するくらいには、現代、特に現代日本とは社会が疲弊している。

ジェリー・トナーの「奴隷のしつけ方」を読んでいるが、最初は一次資料には全く使えないという認識くらいではいたのだが、しかし著者がいくつかの資料を元に合成した話を、分かりやすい形で当時のローマ時代の話として紹介している手法のこの書籍は、当時社会を知るために大変親切な書籍であると思うようになった。

この本を読むに当って思ったのは、やはり「サラリーマンとは現代の奴隷である」と言うことなのである。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

さて、当時のローマの市民と奴隷の違いは何か、と言うと、それは自己所有権の有無の差であると言わざるを得ない。
市民にはあらゆる自由が認められているが、奴隷には自由が認められていない。
具体的に言えば、行動の自由、階級格差による認識によっての制限、命令遂行の義務、労働の義務などがある。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

人間は矛盾する存在である、とはよく言われる話である。
ではどの辺りが矛盾しているのだろうか。
争いごとが好きな割には、平和を希求し、自己が誰にも仕えたくないと思うと同時に他者を従えさせようとしている。
理性を重んずる割には本能のくびきから逃れられず、正義を自認する割には暴力の行使を止めることができていない。

人間の認識的には、自らを「清く、正しく、美しく」と自認する傾向にある。
そういう命令コードが、我々人類のDNAにそう書かれているのであろうから、私達もそうしたなりに生きていきましょう、と言う具合だ。

ただ、私から補足するとそれだけではないように思える。
人間には自然とそう思うようにできているようなDNAが、生命の命令プログラムとして書かれているだろうことは認めるが、その一方で、それとは反する命令プログラムが、前述のプログラムとは別に、かつ、同時進行で書かれているのが問題なのだ。

とあるプログラム群があったとしよう。そのプログラムは自己複製をして、どんどん母数が巨大になっていくが、自己複製するたびに「揺れ」が生じる。そのプログラムの出来合いの良し悪しに差が生じていくのだ。こうしてあらゆる判断尺度の数直線に序列が生じていく。

あるAと言うプログラムは処理が速いが、こちらのBと言うプログラムは遅い、あるいは処理の負荷がコスト的に高い、安い、あるいはプログラムの量自体が大きい、小さい、あるいは・・・あるいは・・・
その全てのプログラムには、そうした揺れが生じているが、しかし共通して書かれている命令もある。
「集団化した時に、序列のトップに立つことを希求せよ」である。

しかしここで矛盾が生じる。そのプログラム群自体の全ての個体が、自らに書かれている命令を実行できるわけではない。
プログラムには良し悪しがあって、下位プログラムは、序列のトップに立つことができない。
よって、自らの序列トップに立てない理由を何らかの形で合理化、あるいは別の尺度でのトップを目指すことによってそれを満たそうとする。

「俺は足が遅いが絵がうまいからそっちでトップに立とう」だとか「二番手でもOK」だとか「世界でオンリーワンであればいい」だとかそういう方向だ。

あるいは、そのプログラムには自らの複製後に、自身が衰弱して自滅するプログラムも組み込まれているが、それと同時に永遠に生きていたいという欲求もある、と言う矛盾した状態も内包している。

この矛盾した心理を妥結し、体系化したのが宗教である。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

奴隷の話に戻ろう。

人間は誰しも奴隷になどなりたくはない。しかし社会集団化した場合、良し悪しの序列から、その格差を生み出すのは人間社会の常であり、帰結すべき本能行動であった。

そこで「俺らはサラリーマンだから」などという具合に、自分の矛盾した心理状態に妥結を試み、大衆の社会文化思想と課している。
しかしこれは欺瞞である。その本質は、下位層における被搾取形態であって、度合いが異なるだけの奴隷と何ら本質的に変わりはない。
サラリーマンとはなんぞやと問うと、自らの人生を犠牲にして資本搾取されている存在であり、本来の人間が理想論としてとりうるべき形態でないことに人間社会は気づくべきなのである。


頭の中での映像加工は一般的ではないのか? 

2017-10-28 13:16:43 | 映像作品

Temple Grandin: テンプル・グランディン: 世界はあらゆる頭脳を必要としている | TED Talk | TED.com
https://www.ted.com/talks/temple_grandin_the_world_needs_all_kinds_of_minds/transcript?language=ja#t-195480

絵で考えるという事は脳内で 映画を観るようなものです 私の脳はGoogle画像検索に近い 子供の頃 自分の思考法は変わっていると知らず みな絵で考えていると思っていました “Thinking in Pictures”という本を書くために 人々に思考方法を尋ねました そこで 自分の考え方が 人と違うことを知り ショックを受けました 「教会の尖塔について考えよう」と言えば 大半の人は一般的なものを想像します この会場では違うかも知れませんが 他の多くの場所では真実です 私の場合はGoogle画像検索のように 具体的な画像が次々と浮かんでくるんです 映画の中でも上手に描かれていて 「靴」という言葉が発せられると 50年代60年代の 靴がたくさん 私の脳内に浮かぶんです

これは私が子供の頃の教会です これくらい具体的です フォートコリンズや 有名な教会なんかですね こんな感じで次々と浮かび上がるんです 画像検索のごとく 即座に現れます 一枚ずつです そこに 雪を降らせてみたり 雷を加えてみたり イメージを保持して 動画に出来るんです


???????

いやこんなの誰でも普通にできるべ。
一般的にこういうことはできないの? 

半額セールになっていないバナナ

2017-10-28 12:06:29 | 最近の出来事
近くのスーパーでは、木曜日の夜21:00くらいにバナナが半額で売っているので、バナナを買うとするならばそれを買っているのだが、昨日は久々に「普通にバナナが食べたい。半額でなくても」と思って、通常価格のバナナを買ったわけなのだが、今これから食べようとしているバナナの袋に半額のシールが貼って無くて、「あれ、こんないいのを食べて良かったんだっけ」とか言う、罪悪感とも贖罪感ともつかない、謎のもやもやに私の心は包まれている。

ですが、せっかく買ってきたものですので、おいしくいただきます。