とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

不都合なDNAの心理コード --返報性

2017-10-07 18:53:08 | 哲学・社会
人間とはかくて不完全である。
例えば平和を希求する割には戦闘をやめない。
隣人との良好な関係を望む割にはケンカを誘発する心理や社会構造を持ってしまう。

これは人類のDNAコードに「平和に生活したいという欲求を持つ」の他に、「戦争をする」「隣人と不和になる」という命令が書かれているからだ。
世の中の人文社会の学問は、その互いに融和しない、求める心理と行動してしまう結果の矛盾した象限の中、同一人類のDNAの発露的行動について、どう妥結すべきかと言う問いの、トライアンドエラーの模索の累積であった。これを歴史という。
これについての詳細については後述するが、まずは別口の話題を取り上げたい。

人間には「戦争をする」「隣人と不和になる」とはまた別に不都合なDNAが書かれている。それは何か。
不都合なDNAの心理コード --返報性についてである。

人間は誰かに恩を受ければ、それを返したくなる習性があり、あるいは何か悪いことを受ければそれをまた返したくなると言う習性がある。
これを返報、あるいは返報性と呼ぶ。
タチの悪いことに、良い返報にしても悪い返報にしても、人類にはどうも、その対象を「返そう」とする時に、どうも「ノシ」(量的な何らかのプラスアルファ)をつけて返そうとしている面がある。
このプラスアルファの返報を互いに続けると、どんどんとそれらが累積的に膨らみ、いつしか破綻するというのはよく知られている。

一つはアメリカ先住民族(インディアン:ネイティブアメリカン)によるポトラッチで、互いに贈り物を+αで贈り合って、最終的に破綻を迎えるものである。
もう一つは核報復だ。一つの国が核を打てば、報復核が撃たれ、互いに全滅をする。

これは日本を限定的に見るとうまく消化されているのが分かる。
日本では破綻を防ぐために、贈り物の「半返し」がルールとして規定されているところがある。
また、日本は二回核が落とされたので、報復核を二回打つ権利があるが、しかし日本人は別にその権利を主張したりはしない。
一回打たれても報復は更なる互いの被害を招くことを知っており、時代も変遷しているので、理性判断によって打たない。

現在の世界では、人類はDNAコードに書かれるまま戦争を行い、制圧的安定を保持する。
それを恨んだ対抗勢力は、そのまま滅んだり、あるいは忘れたりする。
両方膠着している場合は、戦争が長引き、互いに嫌になったところで、休戦を結び、ある一定の機関を置くとまた戦闘に戻る。

さて、その返報性が発揮されることが、まず戦争をなくす第一歩ではあるが、しかし人類史を研究しつくしたロシアとアメリカ、そして中国、及び日本は、当座にある現実的な対処として「戦争と言うものはなくならない。なくすのは理想論であって現実的ではない」と考えているようだ。これは正しい。

だが一方で別の活動はしてもいいはずだ。

ヘロイン中毒になるネズミの実験では、ケージ個室に閉じ込められたネズミは、通常の水とヘロイン入りの水を与えたところ、通常の水には見向きもせず、ヘロイン入りの水のみを飲むことは知られている。

これに条件を付与する。上記のネズミは単にケージに入れられただけであるが、これに十分な滑車と、交配できる異性、社会性を構築できる仲間と一緒に入れる。すると、ヘロイン入りの水を飲まなくなる。

ヘロイン中毒の何が問題かと言うと、人間のDNAに刻まれた「快楽には中毒を」と言うコードが発動されるからだが、このコード発動には条件がある。
「社会関係性や相互認識、運動性、健全生活を保てないと言うストレス環境に置く」である。



おそらく人間と人間社会に残存する問題・課題については、今まで見えなかったその発動の条件がある。
その条件を探り、そして打開策を見出すのだ。

破綻する返報は、将来的な破綻が見越せると、その行為を理性や理解の力で行わなくなったり、あるいはルール決めをしたりするようになる。
隣人と不和になるのも原因や条件があるはずなのだ。それを見つけて対処すればいい。

あるいは完全に対処できなくとも、緩和や病状の先送りができればいいわけだ。
それでは社会を研究する者は、その社会的病理に対してどのような処方箋を書けば良いか? 
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マーケティング原論と用語定義

2017-10-07 16:48:25 | 哲学・社会
1.
「コトラー マーケティングの未来と日本」を読み終わった。
やはりと言うか、私は現在のマーケティング理論と相性が悪い。そもそも私の理解と違う学術体系ができあがっているので、私がマーケティング講義を受けたら、間違いなく理解できず、暗記もできず、テストも落第だろう。「なぜ皆間違ったことを考えて記憶しているのだろう」と言う疑念が頭から離れず、それが元で前に進めない。


さて、そんな御託はいいとして、まずマーケティングとは何か。辞書を引いてみよう。


マーケティング(まーけてぃんぐ)とは - コトバンク
https://kotobank.jp/word/%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%B1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0-8890

ASCII.jpデジタル用語辞典の解説

商品、サービスを生産者から消費者へ円滑に移転するためのビジネス活動を指す。または、消費者側のニーズやウォンツと、サービスや製品を販売する企業の意図(適切な資本投下量で最大の販売・生産効果を目指す)を連関させるための情報収集手段のこと。つまり、情報管理から、顧客ニーズの吸い上げ作業、市場の状況など、企業が直面する外部環境と企業自身との間に、経済的によい関係性を構築するための手段のことをいう。また、そういった活動を総称してマーケティングと呼ぶ場合も多い。


デジタル大辞泉の解説

顧客ニーズを的確につかんで製品計画を立て、最も有利な販売経路を選ぶとともに、販売促進努力により、需要の増加と新たな市場開発を図る企業の諸活動。


マーケティング用語集の解説

日本マーケティング協会では「マーケティングとは、企業および他の組織がグローバルな視野に立ち、顧客との相互理解を得ながら、公正な競争を通じて行う市場創造のための総合活動である。」と定義しています。また、フィリップ・コトラーは「マーケティングとは、個人や集団が、製品および価値の創造と交換を通じて、そのニーズや欲求を満たす社会的・経営的プロセスである。」と定義しています。
単に市場調査や販売促進といった意味ではなく、企業と顧客の間で価値を生み出してゆくコミュニケーション活動全体のことをさします。
マーケティングのプロセスは「情報」を元に「戦略」に基づいて「戦術」を実施する流れを取ります。正確な情報分析とマーケティング・ミックス戦略、そして効果的な施策展開が一つの流れになって初めてマーケティングが成立します。


と言うことで、やっぱり理解できない。残念ながら私には少しも理解できなかった。
この説明で理解できる方が沢山大勢いるから、この説明になっているのだろう。

というのも表層的な意味合いとしてはこれでいいのだろうし、これで経済社会が回っているからこれで過不足ないのだろうが、私はもっと深い意味があるんじゃないのかと思うのだ。この説明では納得できない。

ちょっと脱線して上記のマーケティングの説明がいかに上滑りをしているのかを説明したい。
俗な例えになってしまうが、続けよう。
とある人と会うことになって、いざ対面で会ってみると、その人の鼻毛が幾分か伸びていることに気づいた。
幸いにも自分と相手は「鼻毛伸びてるっすよ」と言いあえる間柄だったので、こちら側はそれを言った。

ここで言いたいのは「あなたの鼻毛が伸びているので、次に人に会うまでに切った方がいい。恥をかくところだったな」と言うことなのであり、「あなたの鼻毛が物理的に2mmほど鼻孔から視覚的に視認できてそれ以上の意味はない」と言うことなのではない。

上記のマーケティングの概説はそういう「鼻から鼻毛が何ミリ伸びている」と言うのを淡々と羅列しているだけなのであって、「鼻毛出てるから切った方がいいっすよ」と言う本質的意味合いではないのである。


それでは私なりにマーケティングを捉え直すとどういうことになるのか。

マーケティングとは、市場に対して金銭を伴った流動的社会活動において、その効率や影響を、いかに最適化、最大化するかという方法論的思想のことである。
中央から発せられた計画や指示や理念が、いかに末端の人間の意思決定に影響し、社会全体の活動において、最大効率、最小コストを狙えるのかという方法論である。

だから、ニンテンドーDSがどれくらいどこの地域で売れるのか、と言うことに対して、マーケティングが応用できる。
また、教会への人員的加入をどう進めていけばいいのか、あるいは布教のために誰を何人どこに配置すればいいか、と言う点にも応用できる。
営利を伴わない公的機関の行動も、これで影響効率を最大限に、コストを最小化することができる。

私が述べた定義が無ければ、上述の3つの理論は適切に具象化できない。

ここで応用問題を出そう。2010年サウジアラビアでコトラーは現地少年より、「マーケティングを平和に応用できないか」と問われたのだそうである。
それでは上記の辞書の定義から「じゃあどうやってマーケティングを平和に応用するのか」を考えてみて頂きたい。
私が想像するに、ある面ではうまくいくが、ある面ではうまくいかない。定義が抽象的、かつ、部分的過ぎるからだ。
明らかに辞書の説明内容では、現実問題に対処するための本質的説明が不足している。

ここで私の定義を使ってみる。私個人としては、私なりの回答としてうまくいくように思っている。

その答えを書いてみる。
「ソマリアで動いているのは、「商業活動や経済活動など、平和的な社会活動よりも、戦争をしたり、あるいは簒奪をした方がトクな社会である」と、社会を構成している個々人が認識・判断しているからである。この認識を「商業活動の方がよりトクである」と思わせるような理念・計画あるいは宣伝や認識の情宣を行えれば社会が転換する」と言うことになる。


組織の内向きの最大効率化がドラッカーに代表されるManagementであり、外向きの社会影響の最大効率化が、マーケティングであるのだろう、と言うのが、私の今の認識である。
そしてコトラーはそれに言及しているようには思えない。
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トランプ米大統領、「嵐の前の静けさ」 と謎めいた発言

2017-10-07 09:38:09 | 海外・国内政治情報等

トランプ米大統領、「嵐の前の静けさ」 と謎めいた発言
2017年10月6日 21:30
http://www.afpbb.com/articles/-/3145839

【10月6日 AFP】米国のドナルド・トランプ(Donald Trump)大統領は首都ワシントン(Washington D.C.)のホワイトハウス(White House)で5日、軍幹部らとの会合後の夕食会の冒頭、集まった記者らに「嵐の前の静けさ」と謎めいた言葉を発した。

 米CNNによると、会合を終えたトランプ大統領は軍幹部やメラニア(Melania Trump)夫人らとともに写真撮影に応じていた際に「君たち、これが何を示しているかわかるか?嵐の前の静けさかもしれない」と発言した。

 記者らは発言の意図を尋ねるとともに、イランやイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」のことを示唆しているのかと質問した。

 それに対しトランプ大統領は「われわれはここに世界最高の軍人たちを招いている、これだけは言える」と答え、再び意図を尋ねられると「じきにわかる」と述べた。(c)AFP


はー本当つっかえ

何で場を揺さぶるような発言をしまくるんだっていうね。
名前がトランプのクセして、自分がどういうレベルのカードをどのタイミングで切るのかと言うのを、どうして場にいる他の参加者に教えるんだよ、と。
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ノーベル文学賞 カズオ・イシグロ氏受賞

2017-10-07 04:22:26 | 報道
雑感。

1.ノーベル賞にカズオ・イシグロ氏が受賞した。
2.この人の存在自体全然知らなかった。まあともかくもおめでとうございます。
3.日系イギリス人とのことであるが、普通におめでとうございます、ぐらいの感じである。
  これが何人であろうが反応は変わらない。ボブ・ディラン受賞の時と同じくらいである。
  元々日本人だからと言って、我が事のように喜ぶのは難しい。

  他人の栄誉を喜ぶと言うのは2つ意味があるように思われる。
  まず第一義にその人を称揚することで、社会における精神的な支えを示そうとしている点で、挫けそう担った時にそういう人がいてくれれば本当にありがたい。それを分かっている周囲が今後も支える意味で称揚する。
  第二義はあまり考えたくないのだが、二つ目の意味として、「僕は芸能人の友達の友達で~」とか本人的には大したことがないのに自己同一の認識で、偉そうな気分に浸ると言うことだ。日本ではこういう見方は敬遠・忌避され、公に表明するのは一般的ではないが、しかしほんの僅かにそういう心情が見え隠れする。

4.カズオ・イシグロ氏が精神的困難な状況にも関わらず、よくがんばったね、こちらも陰ながら応援するよ、と言うことであれば、別に本当に喜んだりして構わない。我が身のことのように喜ぶとは言っても、その本当の心根は、その頑張った人への主体への社会的賞賛である。

5.それでなければ、普通の距離で祝辞を述べるべきだと思う。

6.今は若干その距離を踏み外している。そもそもが西側の倫理観点から見て人類の遺産になるような考え方を表明した人に贈られるのだから、国家同士でコンペをするような捉え方をするというのがそもそものナンセンスだ。世界のどこであろうが、優れた考え方を示した、それが同じ人類であるならば、どこの国籍に属していようが関係はないではないのか。「ウチの国家は賞をいくつ受賞した」と言うことに一喜一憂するのは、政治家と官僚だけがそうすればいいのであり、我々は受賞した人の考えを謙虚に学べばいいだけのことである。

7.最近、朝の情報バラエティ番組「とくダネ! 」で、上記と同趣旨の発言をしているが、私も同路線だ。

8.そもそもが他の人間が受賞しているのであって、一般人である当人たちが受賞しているわけではない。
  ビートたけしが銀獅子を受賞したからと言って、他の日本人映画監督達が、「ああ、たけしさんが受賞したから日本人は誇らしいなあ」などと思うのか? 実際は真逆だろう。「くっそー、あいつなんかが受賞しやがって、見てろ、俺は俺の方が上だというのを俺の作品で証明してやる」と対抗心を燃やすはずだ。他人のことを喜ぶのは、他人を支える姿勢が健全で美しいからやっているのであって、他人の栄誉を単純に自己同一認識を起こして自分のことのように誇らしく思うのは非常に不健全で汚い社会様式である。
  柔道マンガの「柔道部物語」では、「私はスティービーワンダー君と誕生日が一緒なんだがね」と言うモブ役の男が出て来るが、これは完全にギャグであり、小男の小さい正確を揶揄の意味で表現しているお笑いのシーンがあるのだが、これと似た滑稽さだ。
  勿論、長崎市は礼を失さないようにお祝いを贈っていいと思うが、そこから踏み越えるのは節度が足りないのでやらない方がいい。

9.今まで支えなかったクセして、今になって喜んでいると言うのは、どこから湧いてきたんだと言うような感覚だ。
  言うなれば、宝くじに当たったり、あるいは努力して有名人になったら、どこからともなく遠い親戚が現れるという無作法にも不躾な社会現象が発生するのに似る。今あるこの現象について、それをわざわざ踏襲する必要もない。
  日本人なら適度な距離を保って、礼節を持つべきではないか。

10.と言うわけで、私と「とくダネ! 」の小倉さんの意見は同意見なのだが、フジに一個だけ物申したいことがある。
  そういうセリフを日本国内向けに言うのであれば、そういうことを常日頃やって自己同一認識ばかりやっている国が隣にあるが、そのお隣の国が「朝鮮系の人間がフランスの大臣になった(実は養子縁組(捨て子)でフランスに渡ったのであり、大臣になった本人は朝鮮への属意識を明確に否定)」だとか「ノーベル賞にちょっとだけ寄与した」だとか言い出した時に、きちんと「それは違う」と、報道機関の立場からきっぱり言えよと言うことである。

<追記>


イシグロ氏「日本と日本人に非常に感謝」
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20171006/k10011169421000.html?utm_int=news-new_contents_list-items_007

ノーベル文学賞の受賞が決まったカズオ・イシグロ氏は、日本時間の午前1時にロンドン市内で記者会見しました。 この中でイシグロ氏は、「ノーベル文学賞を受賞していない世界の偉大な作家たちに申し訳ない気持ちも感じますが、受賞できることはこの上ない名誉です」と喜びを語りました。

そして、日本出身であることについて、「自分をイギリスの作家や日本の作家と意識したことはありません。作家は一人孤独に作品に向き合うものだからです。 もちろん私は日本からもイギリスからも影響を受けてきましたから、自分自身を国際的な作家と考えたいです」と述べました。

また、日本へのメッセージとして、「日本の読者の皆さん、とりわけ日本の社会にはありがとうと伝えたいです。私がどのように書いて世界をどう見るかは、日本の文化の影響を受けていると思うからです。 日本と日本人に非常に感謝しています」と語りました。

そのうえで、「川端康成さんや大江健三郎さんに続く作家になれることを喜ばしく思います。ノーベル賞といえば村上春樹さんの名前が浮かび、申し訳ない気持ちになります」と述べました。


最後の一文の煽りっぷりよ。これが煽りだったら間違いなく生粋のイギリス人に育ってるわ。
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