そうか、なるほど、と自分の中で納得したのは、自然数とπである。
考察の上では、数理と言うよりも認識論的な哲理的アクセスに近いが、自然数が「人間が本能上、自然に行う『数を数えだす』行為の上での分割の尺度」ならば、1とΠの関係は「互いに相容れることのない測定の基準を無理やり同列で比較した人間側の勝手な分析」であったのだ。
と言うことに気づいたのでメモ。
追記:
上記は私のメモなだけであったのだが、これを読まれている人がいれば、上記だけならもう本当にちんぷんかんぷんだと思うので補足する。
分かりやすく書くと次のようになる。
直線「おい、円周、お前はπとか言う3.14159265358979・・・とかわけわからん数字でしか測れない数を使ってんじゃねーぞ、もっと分かりやすく、3とか4とかにしろよ。ざけてんのかてめー」
円周「いや、お前の言い分こそおかしい。俺はただ単に、一つの点から等距離に線を引いて円にしているだけだ。それで完結した真理であって、俺にとってこそ、これが1なんだ。区別と分割の尺度が1なんだ。俺から見ればお前もわけわからん数字になっていておかしい。」
と言うことで直線と円周は自然数比でいけば、πがなぜ無理数になるかというと「自然数」と言う人間側が勝手に決めた分割の尺度で測定しているからそうなるのであって、1とπは数理の上では、測定や認識の尺度が違うだけなのであって、実は親和性の高い親戚同士なのではないか、と言うことなのである。
”無理数”と言う自然数観点からの有比であるか否かと言うことではなく、1とπと言う完結しながらも、数学上、相互保管する存在としてとらえた方が良いのではないのか。
「3.14159265358979・・・」と言う「わけの分からない数字」と言うのは自然数観点から見た、人間側の傲慢な測定の結果なのである。円周には円周の言い分があり、自己完結した真理がある。
それを思考の補助線を使いながら、互いに相互補完する存在であるとみなした方が良いのではないのだろうか。
考察の上では、数理と言うよりも認識論的な哲理的アクセスに近いが、自然数が「人間が本能上、自然に行う『数を数えだす』行為の上での分割の尺度」ならば、1とΠの関係は「互いに相容れることのない測定の基準を無理やり同列で比較した人間側の勝手な分析」であったのだ。
と言うことに気づいたのでメモ。
追記:
上記は私のメモなだけであったのだが、これを読まれている人がいれば、上記だけならもう本当にちんぷんかんぷんだと思うので補足する。
分かりやすく書くと次のようになる。
直線「おい、円周、お前はπとか言う3.14159265358979・・・とかわけわからん数字でしか測れない数を使ってんじゃねーぞ、もっと分かりやすく、3とか4とかにしろよ。ざけてんのかてめー」
円周「いや、お前の言い分こそおかしい。俺はただ単に、一つの点から等距離に線を引いて円にしているだけだ。それで完結した真理であって、俺にとってこそ、これが1なんだ。区別と分割の尺度が1なんだ。俺から見ればお前もわけわからん数字になっていておかしい。」
と言うことで直線と円周は自然数比でいけば、πがなぜ無理数になるかというと「自然数」と言う人間側が勝手に決めた分割の尺度で測定しているからそうなるのであって、1とπは数理の上では、測定や認識の尺度が違うだけなのであって、実は親和性の高い親戚同士なのではないか、と言うことなのである。
”無理数”と言う自然数観点からの有比であるか否かと言うことではなく、1とπと言う完結しながらも、数学上、相互保管する存在としてとらえた方が良いのではないのか。
「3.14159265358979・・・」と言う「わけの分からない数字」と言うのは自然数観点から見た、人間側の傲慢な測定の結果なのである。円周には円周の言い分があり、自己完結した真理がある。
それを思考の補助線を使いながら、互いに相互補完する存在であるとみなした方が良いのではないのだろうか。