とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

メモ:数理系の分割の尺度たる自然数と円周率π(パイ)

2017-10-29 23:47:36 | 哲学・学術・教育
そうか、なるほど、と自分の中で納得したのは、自然数とπである。

考察の上では、数理と言うよりも認識論的な哲理的アクセスに近いが、自然数が「人間が本能上、自然に行う『数を数えだす』行為の上での分割の尺度」ならば、1とΠの関係は「互いに相容れることのない測定の基準を無理やり同列で比較した人間側の勝手な分析」であったのだ。

と言うことに気づいたのでメモ。



追記:

上記は私のメモなだけであったのだが、これを読まれている人がいれば、上記だけならもう本当にちんぷんかんぷんだと思うので補足する。
分かりやすく書くと次のようになる。

直線「おい、円周、お前はπとか言う3.14159265358979・・・とかわけわからん数字でしか測れない数を使ってんじゃねーぞ、もっと分かりやすく、3とか4とかにしろよ。ざけてんのかてめー」

円周「いや、お前の言い分こそおかしい。俺はただ単に、一つの点から等距離に線を引いて円にしているだけだ。それで完結した真理であって、俺にとってこそ、これが1なんだ。区別と分割の尺度が1なんだ。俺から見ればお前もわけわからん数字になっていておかしい。」

と言うことで直線と円周は自然数比でいけば、πがなぜ無理数になるかというと「自然数」と言う人間側が勝手に決めた分割の尺度で測定しているからそうなるのであって、1とπは数理の上では、測定や認識の尺度が違うだけなのであって、実は親和性の高い親戚同士なのではないか、と言うことなのである。

”無理数”と言う自然数観点からの有比であるか否かと言うことではなく、1とπと言う完結しながらも、数学上、相互保管する存在としてとらえた方が良いのではないのか。

「3.14159265358979・・・」と言う「わけの分からない数字」と言うのは自然数観点から見た、人間側の傲慢な測定の結果なのである。円周には円周の言い分があり、自己完結した真理がある。

それを思考の補助線を使いながら、互いに相互補完する存在であるとみなした方が良いのではないのだろうか。
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1+1がなぜ2になるかの公理系について・・・分からん

2017-10-29 22:11:34 | 哲学・学術・教育
1+1がなぜ2になるかの公理系について・・・分からん。


と言うのも、以前紹介した

1+1=2が分からなくてパニックになる話 → 解説します - とめどもないことをつらつらと
http://blog.goo.ne.jp/booter/e/c33de4ae2bd233ac4fc6ee0501e0f4e9


【2ch引用】1+1が分からない件についてと、親御さんの子供に対する期待与件について - とめどもないことをつらつらと
http://blog.goo.ne.jp/booter/e/ce89adfb64e7389af928a2d760780b89


アプリオリという語義に見る、人間の認識能力の低さ、及び物理と数学と度量衡 - とめどもないことをつらつらと
http://blog.goo.ne.jp/booter/e/80962bad4818a79e1a36adbe607f89f6


の中では、「1は人がものを数えると言う行為で使用する、人間側で勝手に決めた自然な認識の尺度の一番最小単位であって、その最小単位がもう一つくっつくと2になる、と言う人間側で勝手に取り決めたルール」と言う形で説明していたのだが、これは自然数の公理に書いてあるだろうとか思ってペアノの公理とか読んだのだが、さっぱり分からん&これじゃない感が強い。

いや、うちらが知りたいのは、なんで「1+1=2」になるかの根本ルールがどうやって生成されたか、どうやって数学内で規定されて、どういう扱いを受けているかなのですよ。

何か枝葉末節の表面的な技を見せられているような気がして、根っこの方には行ってないように思うんですよね。

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サムスン・LG、テレビの「焼き付き」戦争回避

2017-10-29 15:57:24 | 海外・国内政治情報等

サムスン・LG、テレビの「焼き付き」戦争回避
2017年10月27日 8時31分
http://news.livedoor.com/article/detail/13807006/

 サムスン電子がLG電子の主力製品である有機発光ダイオード(OLED)テレビにいわゆる「バーンイン(burn-in)現象」が見られると攻撃したことで起きた世界1、2位のテレビメーカーによるプライドの争いが収拾局面に入った。バーンイン現象とは長時間同じ画面を表示するとテレビ画面に残像が生じることを指す。

 一時はサムスン電子がユーチューブやウェブサイトで攻撃をエスカレートさせたが、双方が攻防を自粛することを決め、沈静化に向かうことになった。

 サムスン電子は今年8月、ユーチューブに自社製品のQLED(量子ドット発光ダイオード)テレビとLG電子のOLEDテレビを比較する残像テストの動画を掲載し、OLEDテレビには残像が生じると指摘した。この動画は全世界で1120万回再生された。さらいに、今月23日にはサムスン電子のウェブサイトに液晶テレビとOLEDテレビのバーンイン現象を比較した実験結果を掲載した。

■LG、対抗を自粛

 LGグループと財界によると、LGグループは24、25の両日、サムスン電子による批判への対応策を協議した結果、「(同じ方式で)ライバル企業の製品と技術を中傷しない」との結論を下したもようだ。最近韓国製洗濯機に対する米政府の輸入制限措置発動など経営環境に不確実性が増す中、韓国企業同士が感情的に対立することは両社にとって好ましくないとの判断に立った。

 2日間にわたる協議では、子会社LGのハ・ヒョンフェ社長をはじめ、LG電子、LGディスプレーの幹部らが「戦線拡大自粛」に同意したとされる。特に2014年にサムスン電子とLG電子の間で起きた「洗濯機戦争」のような事態を繰り返すべきではないとの点で認識が一致したという。

 14年9月、サムスン電子はドイツのベルリンで開かれた家電見本市IFAで、LG電子の趙成珍(チョ・ソンジン)副会長一行が故意にサムスン電子の洗濯機を破損したとして検察に告訴し、2年にわたる訴訟を演じた。LG幹部は「当時の紛争は国民を大きく失望させ、海外メディアにも皮肉られた。現在のサムスンの行動は『品質と顧客サービスの向上に力を入れよう』とする当時の合意の趣旨にも反する」と述べた。

 LG電子の対抗自粛決定は、OLEDテレビに対する自信も背景にあるとみられる。LG電子は同日、7?9月期にテレビ部門がOLEDテレビの好調を受け、四半期ベースで過去最高となる4580億ウォン(約462億円)の営業利益を上げたと発表した。同社関係者は「テレビ部門の営業利益率は業界平均の2倍を上回る9.9%を記録した」と話した。

■サムスンも攻撃スローダウン

 サムスン電子も今後、バーンイン現象に対する批判を自粛する方針を内部で固めたとされる。バーンイン現象の問題点を十分に消費者に周知でき、市場でも効果が表れていると判断したためだ。ライバルのLG電子と対立ばかり続けることがサムスン電子のイメージにも影響を与えかねないという意見もあったもようだ。サムスン電子もLG電子と同様、テレビの品質と業績争いには自信を持っている。20日にはメディア向けの説明会で、海外の市場調査会社であるGfK・NPDのデータを引用し、4?6月期に価格2500ドル以上の高級テレビ市場でサムスン電子がシェア38%で圧倒的トップに立ったことを明らかにした。

 サムスン電子関係者は「バーンイン現象に関する動画、文章、シェア関連資料は、消費者の選択に役立つ情報を提供したものだ。市場でもバーンイン現象に対する警戒心が高まっており、追加対応は自粛する方針だ」と述べた。



いくつか個人的私見。

1.まずこの焼き付き問題は既に20年前から分かっている既知の問題であり、それが大衆に周知される速度が不思議なほど遅かった。

2.「相手企業製品は焼付きを起こしている」合戦については、朝鮮特有の文化でもあるが、アメリカの文化でもある。
  個人的な私見としては、朝鮮地域における社会文化的特色として、「自分に否がある場合、その否を隠すために、その否そのものの内容をもって、相手を責め立てる」と言うものがあるように思われる。
  自分が何かを盗んだ場合、盗まれた相手が詰め寄ってきたら「あんたが私のものを先に盗んだ」と言う形だ。
  中国と朝鮮は社会を構成したり、あるいは社会決定をしたりする場合、「発生事実」と「決定事実」の内、後者のみを注目する傾向がある。
  発生事実とは、どこそこの自動車が何時何分のこの場所で事故を起こしました、と言うのが発生事実になる。
  翻って、決定事実とは、だから損害賠償はこのくらいね、と言う決定された事実が決定事実だ。
  無論発生事実も検査しないことはないのだが、司法においては、圧倒的に社会事情や心象に軸足が置かれるのが、中国、韓国の特性だと言えよう。中国の場合、司法決定の文脈において、共産党が、と言う文言が入れば、発生事実がどうであれ決定事実の方を優先するし、韓国においては日本が悪いと言う文言が入れば、圧倒的に決定事実を優先する。
  日本においてもそれは同様で、検察が検挙した場合、どのような裁判であろうとも99%以上が有罪となる(一応言っておくが、日本は西側諸国の一員で、民主主義国家だ)。ただ、日本の場合は司法は独立の様相を若干呈しているので、中国、韓国と比較すればまだましなのかもしれない。

  一般的な西側の司法で法理を使用して、状況を読み解く場面では、ちらばった一つ一つの部品を拾い上げ、整理し、全体としてイデアに通底する判決へと組み立て直すことを行う。誰の立場にもよらない、十全な社会としての一般解を判決として提出するのだ。
  但し、中国と韓国においては、まず国家を構成するビッグ・ストーリーがあり、それにそった判決を出さなければいけないと言う点で、実際の司法が機能していない。このストーリーありきの判決は大なり小なりで使用される。

  大なりは国家ストーリー、つまりイデオロギーのことであるが、小なりになると、韓国は相手のアラを探して責め立てるというのを通常の攻撃手段にしているようだ。しかも社会公平的に見た欠点や罪ではなく、どうも、自分のかかえている欠点や罪の同ジャンルで攻めているのではないのか、と思わざるをえないようなシーンが、個人的に見た感じであると、そういうものが多いように思われる。

  ストーリーありきの判決を左右するのは、アメリカでも同様で、弁護士をつければそれが人為的に判決を左右することができる、と言う事例が最たるものだ。但し、ここで言うビッグストーリーはイデオロギーではなく、個人主義に帰結する、自己弁護のものである。

3.韓国国内同士で争わせると、鎮火するらしい。

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速読による読書の効用と一般的な弊害  速読でおそらくは知識が身につかない

2017-10-29 12:10:21 | 雑感
私が個人的に思うに、速読と言うものは、私自身にとって良くないものだと思っている。
そろ理由を挙げていく。

基本的に読書は有益であるものと私自身は思っているが、しかしそれではなぜ速読がいけないのだろうか。

読書の何がいいのかというと、国家産業社会の上では、字に慣れれば、文書による意思疎通が優れるだとか、新聞を読める人間が増えれば、それだけ社会構成の底上げに貢献するなど、そういう実用的な意味合いがあるのだが、それにとどまってはいけない。
それは事務処理をさばけると言う意味合いだけで有益なのだ。それ以上の意味がない。

それ以上の意味合いと言うならば、例えば、小説などを読んで、代理経験を積むことによって、人間の判断を重層的に構成することができたり、あるいは素晴らしい意志を感ずることによって、個人の努力や根性などの精神性を培うことができ、あるいは他者の考えを読むことによって、ある程度まで、自分の思考の補助をすることができることによる。

言わば、自分の精神性を理性によってかたづくる時、自分にマッチした知識としての武器や防具、生活するための道具を揃えて、自分の人生における判断材料を揃えることに有意であると言うことである。

単に知識を積み上げるだけなのではダメで、将来的な危機に対して、自分はどう判断すべきか、あるいは過去事例として、先人はどう判断していたのか、と言う修養的、素養的な知識の積み上げや知体系の構築が、人間の成長として必要になるのだ。

速読の話に戻るが、おそらく、速読では、知識の積み上げはできるが、知体系の構築ができない。
読書をして有用なのは、知識の積み上げだけではなく、自身の内中にある知体系の構築こそが一番のキモである。
それであるのにも関わらず、「速読で知識の積み上げだけしました」と言うのは、せっかく修行したのに、耐久力がついただけで、拳の繰り出し方が分からないと言う武道のようなものではないか(無論耐久力は絶対的に必要であるが、それ以上に行こうとなると自身の模索が必要になるかと思われる)。

そうした武器・防具や道具を、いざと言う時にスマートに取り出せるようにして、自身の知識の倉庫の中に整理しておいておけば、急な戦闘にもある程度まで耐えられる。が、整理もせずに、ただ乱読・多読のみの速読で知識を積み上げても、膨大な知識の倉庫から早急に引き出すことは困難だ。

そこには、武器を手に入れたが、倉庫の中にはどう置いておくべきか、どの武器の隣においておくべきか、あるいはそれを置く棚はどう作るべきか、棚にはどういうインデックスを貼っておくべきか、剣の隣には薬草も置いておくべきかなどなど、煩雑で大変面倒な作業があるが、しかしそれがあってこそ、知識は有用に活用できる形となる。

書籍を読んで一文一文にインスピレーションを受けてしまい、そこから思考が派生して「あれはどうだっただろうか? これはどうだっただろうか? 」と延々ととめどもない思考が無限に広がってしまい、中々読むことが進まないのは、知識倉庫の整理が思考の中で行われているのだ。それは決して無駄なことではない。

時間と体力と環境が許せば、知識探訪の永遠の旅に出ることも試してみるのもよろしかろう。
しかしそれもすぎれば、人生にとって有害な毒物ともなってしまうことを覚えておくことも寛容だ。

だが、じゃあそれでは、知識の探訪を自己内部で行うことは全くの無駄であるのか、と言うとそれもまた違う。
基本的にそうした営為は世間では有益なものとはみなされない。
しかし、限界があるとは言え、人間としてはある程度まではやるべきことであろう。
それが人間を人間たらしめる知の営為であるからだ。
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「生きがい」とは日本固有の概念か? 

2017-10-29 10:02:05 | 文章・日本語・言葉
結論から言ってしまえば答えはノー。
少なくとも英語にはその意味があるし、通じる。

まずはこちらから。


【海外の反応】 パンドラの憂鬱 海外「その発想はなかった!」 国際機関が伝える日本人独自の概念に外国人が感銘
http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-2475.html

「イキガイという日本の概念は、幸せな人生を送るための秘訣である。
 大まかに訳せば『人生の目的』となるだろうか。
 イキガイとは、趣味と得意な物事が結合したものであり、
 朝あなたがベッドから出る原動力となるものだ。

 しかし、どうやってイキガイを見つけたらいいのだろうか?
 まず、課された仕事など何かに取り組んでいる際に、
 飲食を忘れるほど夢中になるのはどんな瞬間なのかを知るといいだろう。

 それはもしかしたら音楽かもしれないし、料理や執筆かもしれない。
 何かに一心不乱になったら、イキガイを見つけたサインである。
 そうしたら、その一心不乱になれるタスクを、日常にもっと組み込むのだ。
 特に、今の仕事に満足出来ていない人にとって有益なことだろう。
 あなたのイキガイは、何だろうか?」


と言うことであろうが、これは別に日本特有の概念、あるいは日本以外に欠如しているものではない。


エミリー・エスファハニ・スミス: 幸せを目指すだけが人生じゃない | TED Talk | TED.com
https://www.ted.com/talks/emily_esfahani_smith_there_s_more_to_life_than_being_happy/transcript?language=ja#t-91200

It's a lack of something else, a lack of having meaning in life.
(他の何かが 欠けているからなのです 生きがいを持つことが 欠けているのです)


「having meaning in life.」(生きがい)とされている通り、人生の意味や目的、レゾンデートルの消失に対する事故目的の探索、社会の中での自己役割の探索と安寧と言う概念やテーマは、洋の東西と時代を問わず議論されてきたことである。

人生の意義 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%AE%E6%84%8F%E7%BE%A9



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