とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

「失われた20年」の語義的集団認識

2019-03-23 23:56:53 | 文章・日本語・言葉
よくバブル崩壊から昨今までの不景気具合を「失われた20年」あるいは「失われた30年」と呼称する。
この言葉の背後に存在する認識とは何か。

私が考えるに、この言葉をよくよく考えると、現状の日本社会に不足するものは何かを怜悧に観測・計算・分析をせずに、ただ漫然と「失った」と認識しているだけの、惰性の認識ではないのかと思うのだ。
この言葉の裏には、「本当は日本の真なる実力によって経済成長を行うことにより、それらは我々日本人が得るべき経済の姿があったはずだが、何らかのアクシデントや不可抗力によって『失われてしまった』」のだという認識がある。

これほど無責任で、構造理解を進めず、そのばその場の雰囲気やら感覚での対処療法で考える言葉も珍しい。と言うよりはこういう風に考えたり、あるいは何も考えずに他人の言葉や思考を受け入れてしまうのは日本人の悪癖である。

本来であれば、社会や経済が後退したという事象には、かならずの原因があるのだ。
それは産業構造の変化に対し、先駆的な投資を行えなかったり、経営の問題であったり・・・
先日、経団連会長の部屋にやっとPCが置かれ、ネットができるようになったという報道があったが、これは最たるものではないか。

私的な余談だが、今日、役所に行って手続きを行った時に、文書が紙で出てきたことと、手続きの料金が印紙購入であったりと、全然進歩していない。重い文書であればこれでいいが、軽めの手続きであれば、手続き、文書受領、決済などが全てネットでできることが理想だ。
なぜそれをしていないのだろう。

話を戻す。
ちなみにこの「失われた20年」あるいは「失われた30年」であるが、不況に突入してから10年ほどは「失われた10年」などと呼称していた。つまりは「今は失ったけれども、これからは良くなるだろう」と思う社会基底における認識が、何らの社会改革も行われないまま、人々の間に通底していたのである。
それが覆り、次第に20年と言うようになり、30年と言うようになった。今後はそれを分析し、社会構造的な問題を改善、あるいは改革していかなければ、それは40年になる可能性は当然としてある。

一番ビックリしたのが予測モデルの一つとして、今後の10〜20年において平均年収が150〜200万円になっているという試算があるとのことだ(文藝春秋4月特別号 P122)。

そして未来の日本人は思うのだ。「『失われた』などと、分析や対策もせず何を漫然としたことを思っているのだ、全てにおいて改革や進取りの気概もなく凡愚のままに日常を過ごしてきた日本人は優秀であるという素質の片鱗でさえ見えない」と。
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