「世界の先住民族・サハラ以南アフリカ」という本にある福井勝義氏の文章をご紹介します。
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(引用ここから)
地球上でもっとも古い戦争の痕跡は、1万2000年前のスーダン北部におけるジュベル・サハベ遺跡に見いだされる。
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Wikipedia「戦争」より
12000-10000年前頃(後期旧石器時代末)のナイル川上流にあるジェベル=サハバ117遺跡は墓地遺跡であるが、幼児から老人までの58体の遺体が埋葬されている。
これらのうちの24体の頭・胸・背・腹のそばに、116個もの石器(細石器)が残っていた。
また骨に突き刺さった状況の石器も多い。
この遺跡は農耕社会出現前の食料採集民の戦争の確実な例とされている。
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1万2000年前といえば、サハラが最も乾燥化した時代、つまり「アテール文化後期の超乾燥期」であった。
その後、サハラは湿潤期を、そして、完新期の大乾燥期、新石器時代の湿潤期などをむかえ、現代の乾燥期になる。
サハラ砂漠の境界は、このように気候変動と対応して、数百キロの幅でアフリカ南北に変化してきたのである。
それによって、人類を含む生き物は、移動を繰り返してきた。
新石器時代になると、アフリカ大陸においてさまざまな遺跡が発掘されている。
とりわけサハラ砂漠では、おびただしい岩壁画が発見された。
たとえば5000年前にさかのぼるタッシリ・ナジェールの岩壁画は、当時の「アフリカ牧畜民」の生業生活を浮き彫りにしている。
(引用ここまで)
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参考文献として、ジェフリー・パリンダ―氏の「アフリカ神話」から、アフリカの壁画と地図を引用させていただきます。
下の壁画は、福井氏の著書にあるタッシリ・ナジェールの壁画ではなく、ジンバブエのムコト洞窟に見られるものであるということです。
同書より、南方アフリカの地図
(福井氏著書の引用ここから)
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この姿は、そのまま現代のサハラ以南における牧畜民につながっているのでは、と思わせる。
牛やヤギなどの家畜や、小麦や鍬をはじめとする農牧文化の導入は、西アジアとの交流が古くからあったことを物語っている。
やがて古代ギリシャや古代ローマなどの古代地中海世界との関係が深まり、地中海に面したアフリカ大陸は、大きな影響を受けることになる。
ヨーロッパから見れば、北アフリカは地中海世界に属しているが、サハラ砂漠を超えた世界は、長い間「暗黒大陸」であった。
紀元前後になると、サハラ地域は乾燥化が進み、ラクダが導入され、砂漠交易を担っていくことになる。
サハラ砂漠をはさんでアフリカは、南北に次第に分化していくことになった。
エジプトはローマ帝国の支配下に、スーダン北部ではメロ王朝が独立していく。
相互に拮抗しながら、エチオピア北部においてはアクスム帝国が誕生し、アラビア半島との関係を密にしていく。
エジプトやエチオピアは、キリスト教を取り入れていくものの、紀元7世紀におけるイスラムの勃興によって、北アフリカ、やがてエチオピアから東アフリカ沿岸地域は大きな変容をとげることになる。
ところで北アフリカにおいて古くから住んでいる代表的な民族に、「ベルベル」族や「ヌビア」族がいる。
言語的にはアフロ・アジア大語族に属している「ベルベル」の仲間たちは、スーダン北東部におけるベジャや、北東アフリカのエチオピアや、ソマリアからケニア、タンザニアにかけて住んでいるクシ系の人たちである。
一方、ナイル・サハラ大語族に属している「ヌビア」の仲間たちは、スーダンのナイル川流域や、ヌバ高地からエチオピアのオモ川流域にかけて住んでいる。
彼らはスルマ系の人たちであるが、今では分断されてしまった広範な分布からすると、かなり古くからの先住民であったことがうかがわれる。
「ナイル・サハラ大語族」というのは、もともとナイル川流域とサハラ砂漠地域に広く分布していたところに由来する名称である。
ここで「仲間」と呼んでいるのは、「言語的に近縁な集団」という意味であり、お互いの面識などほとんどない。
地理的に隣り合って、言語的に聞き取れるほど近い集団であっても、すさまじく敵対しあっていることがある。
古くからサハラ以南に広く住んできたのは、言語的にはコイサン語族に属している人たちである。
クリック音で共通している彼らは、狩猟採集を営んできた。
具体的にはタンザニアのハツァ、南部アフリカにおけるブッシュマンと呼ばれる人々などである。
今では、ほんのわずかな人口である。
かつてコイサン語族の人々が住んでいた地域に移動してきた集団が「バンツー」と呼ばれる人たちである。
サハラ以南の、いわゆる「ブラック・アフリカ」の大地は、このニジェール・コンゴ語族の人たちでほとんど占められている。
その言語数は1300にも上り、アフリカ全体の71パーセントを占めている。
地球上どこの地域でも同じように、独立した言語と方言の区別は大変難しい。
その基準は「我々」意識と結びついており、それも政治や歴史的状況と深く絡み合っているからである。
ただ「我々X」を自称する集団には、人数的に数百人から数千人という人たちもいる。
人口数万人レベルの「民族」になると、アフリカではかなり多くなる。
周囲に数十万、数百万レベルの民族がいようとも、彼らは今も〝健在″である。
たとえばウガンダ北東部のイク族やコエグ族は「消滅の危機」に瀕しているはずなのに、「我々」意識の誇りを失うことはない。
しかし「わたしはコエグ語が話せるのよ」と言う老人に出会うくらい、母語を話せる人たちは、近年とみに少なくなってきている。
一度の襲撃で数百人規模の殺戮を繰り返してきた民族からすれば、とっくの昔に滅ぼされていても、と思うことがある。
ところが、近隣民族との間に育まれた共存のメカニズムのもとに、それぞれの存在を認め合ってきたのである。
そうした民族学的な視点から「先住民」をとらえていくことが大切である。
「サハラ以南のアフリカ」の特徴は、大きく3点ある。
1つは、何より人類の発祥地であるということである。
地球の先住民なのである。
第2点は、長い間「奴隷の生地」として扱われてきたことである。
これには欧米とアフリカという図式だけではなく、アフリカ大陸内の民族関係が大きくかかわっていた。
エチオピアではイタリアに占領される1935年まで奴隷が存在しており、奴隷交易で富を築いた地方の豪族は少なくなかったのである。
第3点は、アフリカ大陸はすべて、一度は植民地化された、ということである。
植民地支配のシステムは、宗祖国によって異なっているものの、他の大陸に比較すれば、基本的に地域に根付いた民族社会の特性を生かしてきたと言えよう。
今日、アフリカは「新植民地主義」「新奴隷主義」にさらされている、とも言われているが、誇り高く、したたかに生きていこうとしている人々の姿があることもまた事実である。
(引用ここまで)
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・写真(下)はブログ内関連記事「ベルベル人の祭りが復活」(2013年)の記事の写真です。リンク先本文もぜひご一読ください。)
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