昨秋に行ってきた「ラスコー展」のすばらしさを、ことばに置き換えたくて、参考資料として「洞窟の中の心」という本のご紹介を続けさせていただいたいます。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。
同書の中の、アフリカ原住民・サン族(ブッシュマンと呼ばれていました)の岩絵について書かれたところの続きです。
サン族の岩絵に描かれているものは、人類に普遍的な変性意識によるもので、それゆえ、それは2万年前の後期旧石器時代の洞窟壁画ともほとんど同じものであると、述べられています。
*****
(引用ここから)
サン族はみな、宗教的な基層を共有している。
この基層の核心には、霊界と偉大なるトランスの踊り、シャーマンの活動とをつなぎあわせる関連性が存在する。
このトランス状態によって得られる啓示は、彼らの社会生活のすべてがそこで把握されるという点において、最も重要なものである。
私は、こうした基層となるレベルでは、普遍的な人間の神経システムの働きが、もっとも有用な情報伝達の媒体になると主張したい。
サン族の宗教は、‶多層的な宇宙の存在”を巡る信念に基づいて作り上げられている。
世界中のシャーマニズムを信仰する民族と同じように、サン族も自分たちが生きている世界の表層を超えた「地下の領域」と「天上の領域」とが存在すると信じている。
私達は、意識変容状態について、実験を行った。
「渦巻き」ないしは「トンネル」の中を、通り抜ける感覚について説明したが、その時被験者は「強度にみちた意識のスペクトル」を移行し、深い意識状態にある「ステージ3」へ入ってゆく。
トンネルを潜り抜ける経験は、夢の中や、死の間際の経験としても起きる。
しばしばトンネルの出口では、まばゆい光が差し込んでくる。
まわりを取り巻かれた渦の傍らに、図像的なイメージが最初に現れる。
大地の中を通り抜けて行くようにして、地下の領域へ旅することを、世界中のこれほど多くの民族が信じている理由がここにある。
こうした考え方は、人類に普遍的である「意識変容状態」に起源をもつが、社会的なコミュニケーションを通じて文化の一部になるため、「強度に満ちた意識の軌道」の極点まで行き着く経験をしたことの無い人たちでも、その信念を受け入れている。
これらの経験は、人間の「脳」と「神経システム」が神経学的に構築され、「意識変容状態」の中でそれらが電気化学的に作動することから生じる結果であることを留意すべきだ。
多層的な宇宙と、雨乞いを行うシャーマンたちが、雨の動物を下から上へと移動させる方法で、その宇宙は統合される。
これらの動物たちは、人間の神経システムに配線された「意識変容状態」によって引き起こされる感覚に関係している。
さて南部アフリカのサン族の住処には、深さのある鍾乳洞はほとんど存在しない。
わずかに存在する洞窟も、サン族によって利用されてきたようには見えない。
一方で、岩石彫刻は、中央の大地の開けた平原で見つかることが多い。
岩絵と彫刻の最も興味深い違いは、彫刻家は岩絵の画家に比べて、はるかに「ステージ1」の幾何学的な光輝く神的なイメージにより強い関心を抱いていたように思われる。
岩絵画家たちは、「内在光学現象」を探求する時、彼らはそうした現法を図像的なイメージに組み入れる傾向にあった。
このことは、彼らが「ステージ3」の段階における「内在光学パターン」の残像を描いていたということを示唆している。
それでは、サン族の人々は「内在光学的な現象」をどのように理解し、解釈していたのか?
一つは「変性意識状態」が、視覚のみならず、あらゆる感覚に幻覚を生じさせることである。
共通して見られる聴覚経験は、ブーンという音や低いうなり声のような音を聞くというものだ。
アマゾン盆地のシャーマンたちは、そのうなり声をカエルやコオロギ、セミの鳴き声と解釈した。
これを、風や滴り落ちる水、あるいは雨音と解釈する民族もある。
南部アフリカのサン族は、こうした聴覚経験と同時に生じる「内在光学現象」のチラチラ光る舟型の幻覚を結びつけ、自分たちはミツバチが巣の上を自ら飛び回っているのを見聞きしているのだと信じていた。
待ち伏せする狩人の下にアンテロープの群れを導く力を持つとされたシャーマンにとって、彼らの「意識変性状態」が同時に引き起こす、明減する弧のイメージと、持続的なうなり音は、
おそらく目の前で疾走するアンテロープの光り輝く足をまざまざと目撃し、そのひずめが大地を叩く音をはっきりと聞くという、情動的な力を持つ体験として喚起されたのだろう。
狩りをするシャーマンたちにとって、これこそ彼らが精霊の世界に祈願したことに他ならず、その世界では彼らは意のままにアンテロープの動きを操った。
この図像では、外側の縁の部分に5つの白いジグザグが描かれた赤と白の舟ある。
この絵において、サン族のシャーマン=芸術家は明減する弧をジグザグとして表わす西洋の実験者たちが明らかにした表象にごく近いイメージを創り出している。
2つの「半人半獣」の像が、内側から現れ出てきており、これは岩の深い裂け目から現れ出てきたイメージを想起させる。
一方は白い点で覆われており、その一部が体の輪郭からはみだしている。
「半人半獣像」の背中の中からは、「ハエ払い棒」が突き出ていて、これもまた、実際に日常生活で見られるものよりはるかに本数が多い。
不可視の領域への消失と、動物への変身は、深いトランス状態に導く渦の中に入っていくことにつながりを持つ。
19世紀のサン族の神話では、あるシャーマンは、3度地中に潜り、いずれも違った場所から地上に出た。
3度目の地下世界の旅の後で、彼は大きな雄のエランド(ヘラ鹿)に変身して地上に現れた。
絵の描き手の中には、舟形の「内在光学現象」の弧の内側にある目に見えない領域を、精霊界への入り口であり、変身の門であるととらえた者もいた。
この様にして、不可視の領域は、「渦巻き」と並行関係にあった。
芸術と宇宙、そして霊的な経験が再び一体と化す。
サン族は、「意識変容状態」の抽象的な経験を、自分たちが生きている世界の物質的な次元に融合させた。
最も驚くべきことは、おそらくこうした融合がお互いに遠く隔たった岩のシェルターで見られるという事実だ。
まったく同一の光の線が確認されるのである。
シャーマンたちは、脱身体的な旅のネットワークを構成し、そしてこのネットワークは遠く隔たった共同体を束ねたし、人々の生活の場所にはっきりと現れていたのだ。
岩の表面が、「こちらの世界」と「異界」という、2つの領域の蝕知可能な境界面として意味があるとしたら、そこに塗られた絵具はどういう意味を持ったのだろうか?
そしてどのように絵具は製造され、岩絵の作成とそれを見る行為はどう関係していたのだろうか?
わたしはサン族にとって、絵具は岩の上面を溶解することができ、向こう側にある異界のイメージが入って来られるようにするという点において、特別な力を持つ物であると示唆した。
絵具の製造が、イメージの生産から観賞までの、複雑な儀礼上の連鎖の重要な一部をなすとしても、驚くにはあたらない。
(引用ここまで)
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非常に込み入った文章で、抜粋するのが困難なのですが、著者は、サン族の岩絵を解釈するにあたって、実験室で心理学的な実験を行ない、その結果とすり合わせて、理解しようとしています。
サン族の描いた岩絵が、現代の実験室においても確認された「意識変容状態」を描いているものであることを指摘しようとしています。
これはとても重大なことだと思いますので、角度を変えて、改めて考えたいと思います。
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② ところで、終末予言の「その時」に、ご興味をお持ちでしょうか。
「神示」では『辛酉はよき日、よき年ぞ』(下つ巻・第30帖)とあり、次の辛酉は2041年になります。そして次に、『四ツン這ひになりて着る物もなく、獣となりて、這ひ廻る人と、空飛ぶやうな人と、二つにハッキリ分かりて来るぞ』(富士の巻・第19帖)とあります。
上記の2点につきまして、「ヒトラーの予言」にも近接する年代や類似する事象の表現があるようですし、「シリウスファイルのオコットのメッセージ」でも近接する年代や類似の表現が認められるようです。
(この2例はネットで閲覧できますが、著作権が一々面倒ですし、ウィルス感染問題もありますので、リンクは割愛させていただきます)。
ここで、神示・ヒトラー・オコットの予言の「その時」の年代は、2041年の数年前から2041年までということになり、20年くらい先の話ですが、随分と気の長い話となります。
ただし、『天の異変 気付けと申してあろが』(夜明けの巻・第3帖)と有りますように、前兆現象としての天変地異は益々激化して来るように感じられます。
また、オコットのメッセージの類推解釈から、マヤの2012年の後から「変換の仕組み」が始まっており、中程からは「転換の仕組み」が始まるものと想像しますから、のんびりと20年先を待つわけでも無さそうに思われます。
★ どう思われますか。
コメントをどうもありがとうございます。
当ブログですと、「アセンション」というカテゴリーに、岡本天明や、オコツトや、マヤのことを考えたものを載せています。
「岡本天明の予言と、ミロクの世」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/5552e3c1e4c5394092585def83a50ac4
「半田弘宣氏「2013:人類が神を見る日」・・冥王星からの訪問者」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/dffbb95b345535d07602044ed260d03f
「アダマの「レムリアの真実」(1)・・アトランティスとの闘いとその後」
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/791c9661d65d733306dc5710f55485b2
「バーバラ・マーシニアックの語る世紀末とマヤ(1)
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/ac92e650daa458309514eb56eb139ae3
あと、船井幸雄さんと飛鳥昭雄さんの対談も、終末までに起きることを語っていたと思います。
他にもたくさんあるんですが、リンクを記しきれません。
終末の時については、わたしもよく考えます。
何年に終わる、ということはわかりませんが。
ただ、いつ来るかいつ来るか、とあまり思いすぎると、「早く来い」という念になって、自分に跳ね返ってくるように思います。
「その時」に備えて、自分の身支度をしておくことは、大切だと思います。
でも、選ばれようと思ってよいのかどうかは、わたしにはまだ分かりません。
芥川龍之介の「蜘蛛の糸」みたいに、いざという時に他人を押しのけたりすると、良い結果をもたらさないとは思います。
「人類の新しいステージ」という展望を持てるよう努力することは、わたしも試みたいと思っています。