始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

巨石遺跡ストーンヘンジは誰がつくったと考えられてきたか・・ケルトという源流

2009-08-04 | その他先住民族
ストーンヘンジは誰が作ったと考えられてきたのだろうか、という話を続けます。

ストーンヘンジは誰が作ったのか?について書かれたものではありませんが、
ストーンヘンジのあるイギリスを含むアルプス以北の民族についての最初の歴史書の記録は、ローマ人カエサルの「ガリア戦記」だということです。

カエサルが生きていた頃、ローマ帝国は、地中海を中心とした大国家を作りつつありましたから、当時の歴史観からは、アルプス以北の広大に広がる世界は、ひどく野蛮な人々の住むおそろしい土地、と考えられていました。

大雑把に言えば、その“野蛮な人々”が、カエサルが「ガリア人」として描いた人々と言えるのでしょう。


このことについて、大雑把ではなく述べている「図説ドルイド」という本がありますので、抜粋しながら引用します。

同書では、「ガリア」という語と「ケルト」という語が、ほとんど同じものとして、しかし微妙に違うものとして重複するように現れます。

wikipediaによると、次のような関係になります。


         *****


wikipedia「ケルト人」より

ケルト人(Celt, Kelt)は中央アジアの草原から馬と車輪付きの乗り物(戦車、馬車)を持ってヨーロッパに渡来したインド・ヨーロッパ語族ケルト語派の民族である。

古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていたが、「ケルト人」と「ガリア人」は必ずしも同義ではなく、ガリア地域に居住してガリア語またはゴール語を話した人々のみが「ガリア人」なのだとも考えられる。

ブリテン諸島のアイルランド、スコットランド、ウェールズ、コーンウォル、コーンウォルから移住したブルターニュのブルトン人などにその民族と言語が現存している。

現在のケルトという言葉は言語・文化の区分を示すための近現代になってから作られた用語であり、古代~中世において右図で表されている地域の住民が「ケルト人」として一体的な民族意識を持っていたとは考えられていない。

そのため歴史学などでは「ケルト人(Celts)」という言葉は使わず、「ケルト系(Celtic)」という言葉を便宜的に使っている。


         *****



著者は、wikipediaの言う限定的な意味合いで「ケルト人」という言葉を使っていると思われますが、

ミランダ・J・グリーン著「図説ドルイド」より引用します。


         *****


「ケルト世界」の広がりを決定しようとする試みは、すべて以下の3つの範疇に属する証拠に頼らなければならない。

しかもこの3つはどれも不完全で、時にあいまいであり、その利用には慎重を期さなければならない。

古代ギリシア・ローマ世界の証言(ガリア戦記など)、考古学、ならびに言語による初期の証拠〈神話物語〉を総合的に判断すれば、ケルト的文化と伝統を持つ世界は紀元前3世紀には、アイルランドからハンガリー(東西)、スコットランドからイタリア北部(南北)にまで広がっていたようである。


古代ギリシア・ローマ世界の観察者たちは「ケルト人」を、アルプス北方の広大な地域に住む人たちだと述べている。

だが、ここでの「ケルト人」ということばは要注意である。

多くの著述家たちは「狭義のケルト人」についてではなく、“ガリーないしガラタエ一般”(ガリアという言葉の語源になった民族)について語っているからだ。

カエサルは「ケルト人」のことをガリアの一部の地域に住む部族だと述べ、ガリア人すべてを「ケルト人」とはよばず、むろんイギリスの原住民ブリトン人を「ケルト人」とはよんでいない。

ただし彼はブリテン島南東部に「ガリア人」と似た生活習慣をもつ人々がいることは認めている。

古代ギリシア・ローマ世界の著述家たちが用いた「ケルト人」という言葉の正確さの程度も、非常に幅があるのだ。


「ヨーロッパに「ケルト語」とよばれる言葉を話していた人々がいた」という初期の証拠は非常に乏しい。

ローマ以前の時代の北部ヨーロッパは、文字を持たなかったからである。

古代ギリシア・ローマ世界の著述家たちによる記録、そして言語学的証拠、考古学的資料、これらすべては「ケルト世界」を描く有力な材料ではある。


だが「ケルト世界」とはなんであろう?

「ケルト世界」の拡大のある部分は、実際の「ケルト人」の移住の結果ではなく、その思想や習俗の波及の結果だったと考えざるを得ない。

では、ローマによる彼らの居住地の占領中と、その後では、「ケルト世界」はどうなったであろう?

ローマの影響は明らかに「ケルト文化」に大きな変化をもたらした。

だが、旧来の伝統がすっかりなくなることはなかった。

むしろ、力強くてみごとな雑種ともいうべき“ローマ風ケルト文化”の花が開いたのである。


5世紀後半、ローマ帝国の中央集権的システムが崩壊すると、「ケルト文化」は大陸の西端とブリテン島北部、アイルランドを除いて消え失せたように見えた。

これら以外の地域ではどこでも、古い「ケルト世界」はサクソン族やフランク族など新興文化によって壊滅させられた。

しかし西方の「ケルト世界」(アイルランド・スコットランド・ウェールズ、コーンウォール、マン島、ブルターニュ)では、ケルト語とケルト文化は生き残って、その後も繁栄した。

ウェールズとアイルランドは魅力あふれる民間伝承神話を作り出した。

また“ケルト的キリスト教”はケルト芸術の新たな開花を促した。

石造りのケルト十字と彩色写本にその最高の表現をみることができる。

              (引用ここまで)


            *****


わたしは、この“石造りのケルト十字架”と似た性質をもつものとして、ストーンヘンジはヨーロッパの人々の意識に刻印されているのではないかと思います。


縄文遺跡を日本の原点として考えると、邪馬台国の祖型と感じることもできれば、邪馬台国以外の文化の足跡を発見することもできる、というような意味合いで、ストーンヘンジはヨーロッパの人々の意識の源泉でもあり、また異物でもあるのではないかと思います。

ローマ帝国から「ガリア」とよばれ(たものに近く)、今は「ケルト」とよばれる文化は、ヨーロッパの人々の血筋の中に含まれているもので、合わさったり分かれたりを繰り返してできたヨーロッパ文明の一つの切り口ではないかと思います。


長くなるので、続きは次回に書きます。



wikiケルト十字より

ケルト十字(ケルトじゅうじ)はラテン十字と十字の交差部分を囲む環からなるシンボルである。

ケルト十字の起源はキリスト教以前にまでさかのぼるが、後にケルト系キリスト教の特徴的なシンボルとなった。

ケルト美術の主要な一部ともなっている。この意匠はまた、アイルランド十字やアイオナ十字とも呼ばれる。


関連記事

画面右上の検索コーナーで、ブログ内検索にして
「ストーンヘンジ」で9件
「ケルト」で11件
「ドルイド」で9件
あります。(重複していますが)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日蝕(日食)の島・悪石島の... | トップ | ストーンヘンジの夏至祭り・... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

その他先住民族」カテゴリの最新記事