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始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

地震を予知し全員避難した・・スマトラ沖地震と海の部族モーケン族

2009-07-17 | その他先住民族
先日の新聞に、スマトラ沖地震のとき、地震が発生する20分も前に津波の発生を予知した部族がいたという話が載っていました。

集落の老若男女1200人全員が高台に避難して無事だったという、タイのモーケン族の人々のことです。
以下転載してみます。

      *****


「スマトラ沖地震 大津波・・先住民、伝承した知恵」

          地震学者・島村英紀
       2009・6・25 朝日新聞



2004年12月26日に起きたスマトラ沖地震。
直後におきた大津波がインド洋沿岸各地を襲い、被害が拡大した

地震と津波で犠牲となった人は22万人を超えた。

タイの観光地プーケット島では多くの観光客も犠牲となったが、島の南端で生活する先住民族モーケン族は、その時一人の死者も出さなかった。

いち早く集落の全員が、近くの高台に避難したからだった。

わたしは5月12日、現地であった国際会議「障害のある人たちの災害への備え」に招かれ、津波をテーマに基調講演をおこなった。

主催したDAISYコンソーシアムは障害のある人や特有の言語を使っている先住民族の人たちにも理解できる無料のデジタルシステムを普及させる目的をもつ。

モーケン族は有名リゾートのプーケット島やランカウイ島があるアンダマン海の沿岸各地に住み、主に漁業を営む。

タイ、インドネシア、ミャンマーの沿岸に最初に住みついた海洋民族と言われる。


地震が起きたのは現地時間の午前8時前。

モーケン族の人たちは、大津波が襲って来る20分ほど前に海の異変を知った。

海洋民族にとっての潮の満ち干は頭に精密に入っているが、それ以上に潮が引いたことに気づいたのである。


“先祖からの言い伝え通り、津波が襲ってくる。”

そう直感した人たちが、ただちに245戸の集落全員を村の高台に避難させた。

約1200人のうち、障害がある人が20人、うち全盲の人が2人いたという。

地震学者の知識では、津波の初動は、引き潮とは限らない。
いきなり満潮として襲ってくる津波もあるし、場合によっては第二波以降の方が大きいことも多い。

とはいえ、同じ場所で何百年と見ていれば、同じような津波の初動に出食わすことは不思議ではない。

モーケンの人たちはこの経験を伝承していたのであろう。


モーケン族の暮らしは貧しい。
彼らの住んでいる土地は自分たちのものではなく、いわば不法占拠している形だ。

タイでは近年までモーケン族には土地所有や義務教育が許されていなかったことが影響している。

水は雨水と井戸水を使うが、井戸水は煮沸しないと飲み水には使えない。

貧しさと医療の不足から、津波から避難できたのに、二人の人が地震後に亡くなったという。
モーケンの人たちも、世界各地の先住民族と同じような課題を抱えているのである。


            *****


記事の筆者は、この民族の暮らしは貧しいけれど、しかし自分たちが教えようと思っていた災害時広報システムが、じつはすでに彼ら先住民族の中には存在し、機能している、と述べているのではないかと思います。

彼ら先住民は大津波発生時、障害者も、全盲の人も、一人も見捨てることなく全員を安全な地に導いたというのです。

科学者たちが教えようとした“緊急避難システム”は、すでに先住民族の社会ではみごとに体現されていた、というわけです。

種族としての生存本能として、先住民族の意識には途方もない知識が内蔵されているように思われます。

災害時にはどうしたらいいか?

先住民族の知恵から学ぶことは多いのではないかと思うこのごろです。


写真は記事と無関係の太平洋。


Wikiモーケン族より

モーケン族(Moken)とは、ほぼ一年中海上で過ごす海洋民族。
別名「海のジプシー」。

ただし「海のジプシー」という呼び名は東南アジアのいくつかの民族集団の総称であり、モーケン族のみを意味するものではない。

オーストロネシア語族に属するモーケン語の他、タイ語やミャンマー語を使用する。

アンダマン海、タイ王国、ミャンマー、メルギー諸島の近海に暮らしている。

ミャンマーとタイの政府はモーケン族を文化的に同化させようと試みてきたが、その成果は限られたものである。

1990年の報告によると、ミャンマーの軍事政権は一部のモーケン族を陸地に強制移住させたという。

主に、カバンと呼ばれる家船(えぶね)に住んでいて、見知らぬものと出会うことを恐れている。

しかし最近はミャンマー政府の政策により、海岸で定住生活をさせられている者もある。

また、陸上での狩猟にも長けている。

ナマコを燻したものを売って現金収入を得て船の燃料を購入するなど、資本主義社会と無関係ではない生活をしている。

一方で、その資本主義社会からやってくる商業船団によって魚介類を根こそぎもっていかれてしまうなど、生活が苦しくなってきている。

海を強く意識しているため、いくつかの地域のモーケン族は2004年12月のスマトラ島沖地震の際に津波の前兆をつかんでいた。

しかし、タイ・パンガー県のタプタワンなど沿岸部の村々では住宅やカバンに対する深刻な打撃に苦しめられた。
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“台湾と、ケルト系マン島における、消滅言語復興のこころみ”

2009-06-26 | その他先住民族
 

世界中で2500もの言語が消滅の危機にある、というユネスコのデータを見ましたが、消滅危機言語の復活を試みる動きもあるようです。

下の記事は台湾原住民とケルト系原住民の言語復活の動きです。

読売新聞4月10日の記事です。


        *****

「台湾の言語消滅民族、復活への興味」
          女子美術大学教授 原聖


台湾では1997年の憲法改正によって、多元的文化を尊重し、先住民の言語文化を積極的に擁護・推進することが明記された。

コミュニティが維持され、言語も保存されている民族が、公的に認定されるようになったのだ。

当初は9民族だったが、2000年以降、次々と認定が増え、現在14民族に達している。

認定されると、様々な特典が付与され、それが民族文化の保護と振興につながっているのである。

わたしはこうした先住民の言語復興の状況を学ぶため、昨年の11月から3月まで台湾に滞在したが、今年になって興味深い動きが始まった。

“すでにコミュニティが失われ、言語も消滅している民族”の認定である。


2月24日、台湾西部の平野部に居住する先住民の認定に関する公聴会が、日本の内閣に相当する所で初めて行われた。

ユネスコは「国際母語の日」である2月21日にあわせて、「世界の“危機言語”の最新データ」を公表したが、台湾では8言語が消滅したとされた。

実は、その大半がこの平地の先住民なのである。

たとえば、台南県平野部のシラヤ人。

彼らは認定に最も積極的で、すでに2005年に県独自で民族的地位を承認し、言語の解説書も昨年12月に出版された。

文化的復興活動が進もうとしているのである。



これと関連して、わたしが思い起こすのは、イギリスとアイルランドに挟まれたマン島のケルト系言語、マン語である。

この言語は、今回のユネスコの「危機言語データ」で、“消滅言語”の一つとされた。

1974年に最後の話者が死んだことになっているのである。

ところが、復興運動がこの時期に始まり、2001年にはマン語を教育言語として用いる小学校が開設された。

わたしは半年前にこの学校を訪ね、実際にマン語の授業を見学してきた。

マン語の教育運動家たちは、このユネスコのデータが復活の現実に反すると抗議を行った。


台湾でもまさにこうした復興が始まろうとしているのは、きわめて興味深い。

 
       *****


写真は参考
上・台湾地図
中・マン島地図
下・マン島の国旗(ケルトの太陽紋)


wiki台湾原住民より

台湾原住民(たいわんげんじゅうみん)は、台湾に17世紀頃漢民族が移民してくる以前から居住していた先住民族の呼称。

民主進歩党政権になってから、原住民族の地位向上が推進され、2005年1月「原住民族基本法」が制定され、国営の原住民族テレビも2005年7月1日に正式に開局するなどしている。

さらに現在、民族自治区の設立にかかわる「原住民族自治区法」案の審議が進められている。

台湾では現在、平地原住民と山地原住民に分けられており、両者の変化はこの10年は小さく、山地原住民が52.9%である。

日本占領期間に山地原住民は高砂族(たかさごぞく)と呼ばれた。

太平洋戦争中に日本軍は原住民を高砂義勇隊として戦闘に投入し多くの戦死者を出した。

戦後、日本政府は台湾人を戦争被害の補償対象から除外し、現在でも多くの未払給与があり、一部の人が弔慰金を受け取ったのみである。

このことに対して原住民の人々による抗議活動があるが、日本と台湾との国交がないため補償協議は未だに行われていない。


wiki新港文書より・シラヤ語

新港文書(しんこうぶんしょ)とは別称を「新港文」とも言い、現在の台湾台南一帯の平埔族の間で伝わる土地売買及び租借に冠する契約文書である。

民間では「番仔契」とも称されている。

この文書で使用されている言語はローマ字で表記されたシラヤ語(新港語)であり、漢文とローマ字が対訳として記載されているものも存在している。

現存している「新港文書」は約140種であり、平埔族の文化や当時の生活を知る上で貴重な資料となっているが、現在死語と化した新港語であるため、「新港文書」を解読できる研究者が非常に少ないという問題が発生している。



Wikiマン島より

マン島は、グレートブリテン島とアイルランドに囲まれたアイリッシュ海の中央に位置する淡路島ほどの小さな島。

公用語は英語とマン島語。

マン島語は20世紀初頭、最後の日常的な話者が亡くなったが、1970年代以降、言語復権運動から現在は約1200人のマン島語識者がいる。

イギリスからの独立意識の高いマン島では、英語に次ぐ公用語として位置づけられ、国民にはマン島語による教育の機会も与えられている。

また2005年にはマン島語のみを教授言語とする初等教育の学校ができた。

イングランド法のベースとなった独自の法律を持ち、立法権を持つ立法議会と下院、行政権を持つ政府がある。

ティンワルドは世界最古の議会で、現在でも7月に青空議会が開かれている。

法案は英国女王またはその代理である総督によって裁可される。


wikiケルト人より

「島のケルト」は存在するか

遺伝子研究によって飛躍的な進歩を遂げた現代の考古学は「島のケルト」と称されていた人々が、ガリア北部や沿岸部のどの部族からも遠い遺伝子を持つ事、そしてむしろイベリア人からの影響が存在している事をつきとめた。

これは少なくとも彼ら「島のケルト」に「大陸のケルト」との混血は見られない(大規模な移民は行われていない)という事実を示している。


マン島の旗


写真参照。

イギリス王室の属領であるマン島の旗は、赤い地の中央に、マン島のエンブレムである三脚巴(トリスケリオン、triskelion)をあしらったものである。

マン島の三脚巴紋は、ヨーロッパにおける巴紋の一種で、鎧で覆われひざと足首を直角に曲げた三本の脚が、太ももの付け根の部分で接合した形になっている。

旗は、表裏両面とも足首の指す方向が時計回りになるように作られる。


三脚巴はケルト人が使った太陽を象徴する紋章であり、ミケーネやリュキアなど古代地中海の文明でも用いられている。

またシチリアの旗も、メドゥーサの首を中心に三本の脚をあしらった三脚巴である。

イギリスの商船旗レッド・エンサインに三脚巴をあしらったものがマン島の商船旗となっている。


wikiケルト人より

当初の宗教は自然崇拝の多神教であり、ドルイドと呼ばれる神官がそれを司っていた。

初期のドルイドは、祭祀のみでなく、政治や司法などにも関わっていた。

彼らは、その教えを文字にする事は正しくないと考え、口承で伝えたので、全てを暗記するには二十年もかかった者もいた、といわれている。

それ以外の記録の為には、ギリシア文字を借用していた。

後にギリシア語やラテン語を参照にして、ケルト人独自のオガム文字が生まれた。

しかし後世に、ケルト人がキリスト教化すると、これはラテン文字に取って代わられた。

キリスト教化したあとも、ケルト人独特の文化はまったく消滅したわけではない。

現代でもウェールズやスコットランドやアイルランドには、イングランドとは異なる独自の文化がいくらか残っている。

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“世界2500言語消滅危機、「日本は8語対象」・・北海道の公立高で初のアイヌ授業”

2009-06-23 | その他先住民族
2月21日は「国際母語デー」で、ユネスコの少数言語・消滅危機言語についてのデータが公表されました。

     *****


Asahi.com 2009年2月20日
http://www.asahi.com/national/update/0220/TKY200902200176.html

「世界2500言語消滅危機、「日本は8語対象」」

  
 世界で約2500の言語が消滅の危機にさらされているとの調査結果を、国連教育科学文化機関(ユネスコ、本部パリ)が19日発表した。

日本では、アイヌ語が最も危険な状態にある言語と分類されたほか、八丈島や南西諸島の各方言も独立の言語と見なされ、計8言語がリストに加えられた。

 調査は、全世界で6千前後あるといわれる言語を調査。

538言語が最も危険な「極めて深刻」に分類された。

続いて「重大な危険」が502語、「危険」が632語、「脆弱(ぜいじゃく)」が607語だった。

 また、1950年以降消滅した言語が219語にのぼった。

最近では08年、米アラスカ州でイヤック語が、最後の話者の死亡で途絶えた。

 日本では、アイヌ語について話し手が15人とされ、「極めて深刻」と評価された。

財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構(札幌市)は「アイヌ語を日常的に使う人はほとんどいない」としている。

 このほか沖縄県の八重山語、与那国語が「重大な危険」に、沖縄語、国頭(くにがみ)語、宮古語、鹿児島県・奄美諸島の奄美語、東京都・八丈島などの八丈語が「危険」と分類された。

ユネスコの担当者は「これらの言語が日本で方言として扱われているのは認識しているが、国際的な基準だと独立の言語と扱うのが妥当と考えた」と話した。

 ユネスコは96年と01年にも危機にさらされている言語調査を実施。

今回は30人以上の言語学者を動員して全世界を包括的にカバーする例のない規模の調査となった。

目的について、ユネスコは「言語は常に変化する。その変化の実態を知るため」と説明。今後継続的に調査を続けるという。

 ユネスコのフランソワーズ・リビエール事務局長補は

「言語消滅の原因には、次世代に伝える意思を失うという心理的要素が大きい。

自信を持って少数言語を話せるよう条件づくりに努めたい」と話している。


 崎山理・国立民族学博物館名誉教授(言語学)の話 

方言と言語の区別は明確ではなく、政治的に決まってくる部分もある。

私は話し手が固有の文化を持っていれば、独立した言語とするべきだと思う。

琉球諸島では、かつてはそれぞれの島の言葉は大きく異なっていたが、交通が盛んになるにつれて元の形が失われている。

単一民族神話も手伝って、日本で話されている言語は一つだけと思われがちだが、実は多様性があることを知ってほしい。
     

 西岡敏・沖縄国際大准教授(琉球方言学)の話 

沖縄のほとんどの言語は危機にひんしている。

言語を文化遺産として認識し、保全していくことは重要だ。

ただ、沖縄では村ごとに言葉が違うと言われる。

今回のような大きな枠組みでくくることが正しいのか、そこで漏れたもっと少数派の方言をどうするか、など考えなければならない点もあるだろう。
     
    
       *****

wiki「国際母語デー」より

国際母語デー(International Mother Language Day)は、国際デーの一つ。毎年2月21日。

国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が1999年11月17日に制定した。
言語と文化の多様性、多言語の使用、そしてそれぞれの母語を尊重することを推進することを目的とする。

1952年のこの日、当時はパキスタンの一部だったバングラデシュのダッカで、ベンガル語を公用語として認めるように求めるデモ隊に警官隊が発砲し、4人の死者が出たことに因むものである。

バングラデシュでは、独立運動の中の重要な事件の一つとしてこの日を「言語運動記念日」としていた。


wiki「八丈方言」より

八丈方言(はちじょうほうげん)とは、東京都伊豆諸島に属する八丈島や青ヶ島で使用されている日本語の方言。

八丈島とその北の島との間には黒潮が流れており、古来海洋交通の難所であったため、本土との交流が少なく古代東国方言の名残を残しているとされる。
2009年、ユネスコにより消滅危機言語とされた。

用言の終止形と連体形の区別があり(本土方言ではほとんど区別がなくなっている)、特に「行こ時」「高け山」のように特殊な語形(万葉集の東歌にもある)が残る。

係り結び(連体形・已然形結び)も残る。

また否定の助動詞「にす」(「ず」は古くはこの形であったといわれる)に由来する形など、文献に残るよりもさらに古い段階の語形を留めている点で特異である。



         *****


また、北海道の公立高校で、今年から初めてアイヌ文化に関する授業が行われることになったという記事がありました。


         *****


Mainichi.jp「教育の森」   http://mainichi.jp/life/edu/mori/news/20090424ddlk01100105000c.html

「北海道・釧路明輝高・自由選択科目にアイヌ文化、幅広く」
          毎日新聞 2009年4月24日 地方版


◇協会支部長らを講師に
 
先住民族、アイヌの歴史や文化などを総合的に学ぶ授業が4月から、釧路明輝高校(加藤和美校長、生徒数559人)で始まった。

公立高校のカリキュラムにアイヌ関係が取り入れられたのは初めて。

北海道アイヌ協会の関係者ら外部講師がアイヌの自然観や伝統料理、楽器、衣装など幅広い分野で1年間授業し、アイヌ民族を正しく知る取り組みを進める。

 □■奥深いあいさつ

 「『イランカラプテ』『イワンケヤ』など、アイヌのあいさつにはいろいろあります」。

民族衣装を着た講師、北海道アイヌ協会釧路支部の秋辺得平支部長が話しかけると、2、3年の生徒計15人が興味深そうに耳を傾けた。

17日から始まった釧路明輝高校の自由選択科目「アイヌ文化」の授業だ。

外部講師7人が週1回、それぞれの担当に分かれて授業する。

 初回のテーマはアイヌ語でのあいさつ。

「こんにちは」「こんばんは」といった日本語の定型のあいさつにはないアイヌ語独特の表現がある。

秋辺さんは「イランカラプテは『あなたの心にそっと触れさせてください』、イワンケヤは『お元気ですか』という意味で、相手を気遣いながら、アイヌはあいさつをかわします」と話した。

 授業は好評で、生徒は「あいさつ一つとっても意味が深いことをよく理解できた」、「アイヌ民族のことを少しでも知りたいと思って授業を選択しましたが、今日は興味深く聞きました」と話す。

秋辺さんは「日本にはアイヌもおり、多様な民族が暮らす国であることを伝えたい。

自分はいったい何者であるかを知り、さまざまな民族が共生できる社会の大切さを知ってもらいたい」と強調する。

 □■進学の動機付けに

 同校は07年春、釧路北、釧路西、釧路星園の3校が統合して開校した。

釧路北高が阿寒湖での宿泊学習でアイヌ舞踊や木彫り体験を行っていた実績があり、郷土の歴史を知る面からも、アイヌ文化を授業の一つに取り入れた。

 アイヌ文化は第2外国語や実用英語、倫理などとともに自由選択科目に含まれ、2年生から生徒が自分の希望に応じて選択できる。

 教務部長の皆添英二教諭は「この授業で専門性を磨き、大学でさらにアイヌを学びたいという進学の動機付けや、ホテルに就職して客にアイヌ文化を説明する基礎にしてほしい」と狙いを話す。

 □■学習拡大の機会

 アイヌの歴史は小学3、4年の社会の「地域の学習」、中学校の歴史的分野で取り上げられている。

小中学校の総合的な学習の時間で取り組む学校もある。

しかし、高校になると、学習する機会はない。

 財団法人「アイヌ文化振興・研究推進機構」の小中学生向け副読本編集委員会の阿部一司委員長(道アイヌ協会副理事長)は「釧路明輝高の取り組みはすばらしい。高校でアイヌを学ぶ機会が少ない現状は残念で、協会として働きを強めていきたい」と話している。

            *****

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古代、黒潮にのって太平洋を渡った舟はあったのだろうか?

2009-03-26 | その他先住民族
Amazing Totem poles


前回の続きです。

星野道夫氏はアジアとアメリカはどのようにつながっていたのだろうと考えながら、アラスカからシベリアへと旅をしています。


*****


気の遠くなるような大氷原を見下ろしていると、もう一つのアラスカの地図が僕の頭の中に広がった。

それは最後の氷河期、つまり今から1万5000年前の、ベーリング海の草原・ベーリンジアがユーラシアと北アメリカとをつないでいたころの風景である。

この干上がったベーリング海の平原をわたり、モンゴロイドはアジアからアラスカにやってきた。

しかしそれから数千年もの間彼らは厚い氷壁に阻まれてアラスカから先に進むことができなかった。

が、1万2000年ほど前、温暖化とともに、大西洋側の氷床と太平洋側の氷床が縮小し、行く手を覆っていた氷壁に、“無氷回廊”と呼ばれる狭い道が現れる。

モンゴロイドはその回廊を通って北アメリカに広がっていった。
そしてわたしたちの目の前に広がる大氷原はそのなごりなのである。

ぼくはこの氷原のかなたにあったであろう氷壁にはさまれた道をゆっくりと南下してゆくモンゴロイドの旅が目に見えるような気がした。

       (星野道夫「森と氷河と鯨」より)

    
*****


星川淳が翻訳した「一万年の旅路」という本があります。

この本は、このベーリング地帯を通ってモンゴロイドの人々が長い年月をかけてアメリカ大陸まで移動してきた民族の思い出を述べたものです。

ポーラ・アンダーウッドという北米インディアン・イロコイ族の女性が一族の歴史として父親から口承で受け継いだ話を書いたものです。

この移動のルートは定説となっていますが、星野氏は、このルートの他にもルートがあったのではないかと問うのです。

なぜなら、トーテム・ポールで有名な太平洋岸沿いのクリンギット・ハイダ族の居住地は、氷河にさえぎられて内陸からは辿りつけないからです。
彼の文章を続けます。


*****


けれども、(北米西海岸に)トーテムポールの文化を築き上げたクリンギット族、ハイダ族はどこからやって来たのだろう。

彼らは“無氷回廊”からは辿りつくことができない北米西海岸線に住みついた。

今だって隔絶されているが、当時はもっと壮大な氷床によって、全くその道を絶たれていたはずだ。

以前ボブがもらした言葉がずっとひっかかっていた。

「おれには日本人の地が混じっているかもしれない。
そんなことを想像させる伝説もあるんだよ。

昔々海の方から人々が流されてきてプリンス・オブ・ウェルズ島にたどりついた。

その人々は“なにかとても古い生き物”という意味の名で呼ばれ、今のある家系の遠い祖先だと言われている。。」


ワタリガラスとオオカミが中心を成すクリンギット・インディアンの世界で、その家系はオオカミ族のもっとも古くて重要な家系だという。

多くの古老たちは、その家系の祖先の、海からやってきた異人たちがこの海岸線に初めて住みついた人々だとしている。

つまり、内陸部から移動してきたインディアン達より、異人達はこの土地に先に辿りついていたというのだ。

もしそうならば、この異人たちとは誰なのか?
そしていったいいつの時代のことなのだろうか?

口承伝説によると、海から流れ着いた異人は、ある霊的な力を持つ姉妹に率いられた二つのグループだったという。

そして姉はクリンギット族の、妹はハイダ族の祖先となり、人々に丸木の使い方などを教えたという。

この伝説は海洋インディアンにアジアの血が流れている可能性に現実味を帯びさせ、短い時間の中でなぜ彼らがこのような高度の文化を築き上げたのか、その訳をぼんやりと示唆していないだろうか。

太古の昔から、北太平洋をめぐる海流、黒潮はまるでその出口を求めるかのようにぐるぐると回り続けている。

日本の東沖を北上しながら本流は黒潮となって南アラスカ沿いを辿り、まるで弧(こ)を描くようにブリティッシュ・コロンビアに南下した後、東のハワイの方向へ向かう流れは、さらに赤道へと南下し、そのままグアム、台湾へと進みやがて北上しながら再び日本の東沖を通り過ぎてゆくのである。


クリンギット・インディアンの古老エスターは、ぼくが来るのを待っていたかのように、一冊の本を持ち出し、あらかじめ開いてあったページの写真を指しながら、長い間抱きつづけてきた疑問を問いただすかのように尋ねてきた。

「この人々はいったい誰なのか?」と。

それは日本のアイヌの人たちの写真だった。

ハイイログマのクラン(家系)に属するエスターは、なぜ同じようなクマ信仰を持つ人々が、はるかなアジアの世界に存在しているのかという不思議を感じたのかもしれない。

「古くからの言い伝えでは、わたしたちハイイログマのクランは大洪水の時、山を超えて川を下りながら海岸線に辿り着いたらしい。

そのとき、氷河の下をくぐりぬけてきたという。」

という言い伝えもエスターは語ってくれた。

ぼくは森と氷河におおわれた南東アラスカのインディアンの世界をはなれ、北へ向かって旅をしようと思った。

それぞれの民族がどんな思いで自然を見つめ、どんな祈りを持っていたのか。

言い換えれば、なぜ平原インディアンであるアサバスカインディアンやエスキモーまでもが、同じワタリガラスの伝説を持っているのかが、ずっと頭の中から離れなかった。

その偶然性の背後に、ある遥かな物語を感じずにいられないのである。

      (星野道夫著「森と氷河と鯨」より)


   *****


氷河期の人々の移動については、以下のような発見もあり、星野氏もその最新情報を採り入れています。

星野氏はその旅の途上で亡くなってしまいましたが、映画監督の龍村氏はその旅を引き継ぎ、続けます。
それについては次の記事に書きます。



HP「大航海時代」ベーリング海峡移動説

http://www.wonder-okinawa.jp/024/japanese/daikokai/beeringu/index.html

これまで、南米アメリカ大陸の先住民、すなわちインディオの祖先である東北アジアのモンゴロイド集団は、氷河期の最盛期から終末期にかけて陸地になっていたベーリング海峡を歩いて渡り、新天地へ移動したと考えられてきた。

ところが、1980年代に入り、各分野からこの説に異を唱える研究者が出てきている。

たとえば、アジア原産の寄生虫、『鉤虫』が約3,500年前の南米インディオのミイラから検出された。

この寄生虫は寒さには極端に弱く、排泄物を経由して広がっていくため寄生している人間が摂氏5度以下の環境で二年以上生活を続けると死滅してしまう。

要するに、氷河期に凍って、徒歩で移動できるようになったベーリング海峡を何年もかけてモンゴロイドが渡っていったとすれば、この鉤虫に限っても死滅するのが当然と考えられる。

厳寒のベーリング海峡を越えて南米大陸に移動した集団とは別 に、『鉤虫』を体内に宿したまま温暖な太平洋の大海原を渡り、南米へ移動したモンゴロイド集団の存在が明らかにされたのである。

また、血液の成分の分析もすすみ、過去の航海技術の高さが証明されるのとあいまって、モンゴロイドの移動ルートの見直しは今日的な学問テーマとなっている。


「チリの住居跡、南北アメリカで最古と判明」AFPBBNews
http://www.afpbb.com/article/environment-science-it/science-technology/2390190/2920081
5月13日 AFP】

チリ南部のモンテベルデ(Monte Verde)の住居跡は1万4000年前のものであり、南北アメリカでは最も古い居住跡であることが確認されたとの論文が、9日の米科学誌「サイエンス(Science)」に発表された。

 1976年に発見されたモンテベルデの住居跡は、サンティアゴ(Santiago)から南に800キロの泥炭湿原にある。

これまでの発掘で、居住民が食料にしていたとみられる海草9種類が確認されているが、今回、放射性炭素年代測定によってこれらの海草が1万3980-1万4220年前のものであることが判明した。

 これにより、モンテベルデの住居跡には、これまでに知られている南北アメリカで最古の居住地よりも1000年以上も前に人が住んでいたことが立証されたとしている。

 研究者らは、同住居跡の年代が明らかになったことで、「人類は1万6000年以上前に、当時、陸地だったベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸に移動した」とする一般的な仮説も裏付けられるとしている。(c)AFP



Amazon.com「1万年の旅路」(ポーラ・アンダーウッド著星川淳訳)より

イロコイ族の系譜をひく女性が未来の世代へ贈る
一万年間語り継がれたモンゴロイドの大いなる旅路

アメリカ大陸に住む、インディアンとも呼ばれるネイティブ・アメリカンの人々は、その昔ベーリング海峡が陸続きたっだころベーリング陸橋をわたり、アジア大陸へ渡ってきたモンゴロイドの子孫だという説が定着しつつある。

「一万年の旅路」は、ネイティブアメリカンのイロコイ族に伝わる口承史であり、物語ははるか一万年以上も前、一族が長らく定住していたアジアの地を旅立つ所から始まる。

彼らがベーリング陸橋を超え北米大陸にわたり、五大湖のほとりに永住の地を見つけるまでの出来事が緻密に描写され、定説を裏付ける証言となっている。

イロコイ族の系譜をひく著者ポーラ・アンダーウッドは、この遺産を継承し、それを次世代に引き継ぐ責任を自ら負い、ネイティブ・アメリカンの知恵を人類共通の財産とするべく英訳出版に踏み切った。


ガイアシンフォニー3番公式HP
http://www.gaiasymphony.com/co_guide3.html
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“ものがたり”の底力・・古代ワタリガラスはどこへ旅をしたのだろう?

2009-03-22 | その他先住民族

前回の続きです。

映画「ガイアシンフォニー3番」の中で印象的だった登場人物の一人は星野氏の友人ボブ・サムというアラスカ先住民族・クリンギット族の人でした。

彼はワタリガラス族の一人で、地味な風貌ながら、地の底から出るような深い声で語る人でした。

彼がどのような物語を語るのか、星野氏の「森と氷河と鯨・・ワタリガラスの伝説を求めて」から紹介してみます。


  
    *****

クイーンシャーロット島で野営をしたあの夜、ボブ・サムは突然焚き火の前でワタリガラスの神話を語りだした。

物静かなボブが別人のようにストーリーテラーへと変化してゆく様を見つめながら、物語の持つ力とは、それを語る人間の内なる世界観に深く関わっているのだと思った。

難解な知識なのではない、日々の暮らしの中での何でもない出来事に対する視線である。

なぜならば、ボブはいつも目に見えぬものをじっと見ているような気がするからだ。

そしてクイーンシャーロット島という土地が秘めたスピリチュアルな力も、あの男が語るワタリガラスの神話に不思議な命を与えていた。

ボブは静まりかえった森を背景に、一気に話していった。



「今から話すことは私たちにとってとても大切な物語だ。
だからしっかりと聞くのだ。

魂のことを語るのを、決してためらってはならない。

ずっと昔の話だ。
どのように私たちが魂を得たか。

ワタリガラスがこの世界を作ったときに生き物たちはまだ魂を持っていなかった。

人々は森の中に座り、どうしていいのかわからなかった。
木は成長せず、動物たちも魚たちもじっと動くことはなかったのだ。

ワタリガラスが浜辺を歩いていると、海の中から大きな火の玉が上がってきた。

ワタリガラスはじっとみつめていた。
すると、一人の若者が浜辺のむこうからやってきた。

彼の嘴は素晴らしく長く、それは一羽の鷹だった。
鷹は実に早く飛ぶ。

「力を貸してくれ。」

通り過ぎてゆく鷹にワタリガラスは聞いた。
あの火の玉が消えぬうちに、その炎を手に入れなければならなかった。

「力を貸してくれ。」
三度目にワタリガラスが聞いた時、鷹はやっと振り向いた。

「何をしたらいいの?」

「あの炎を取ってきてほしいのだ。」

「どうやって?」

ワタリガラスは森の中から一本の枝を運んでくると、それを鷹の自慢の嘴に結びつけた。

「あの火の玉に近づいたなら、頭を傾けて枝の先を炎の中に突っ込むのだ。」

若者は地上を離れ、ワタリガラスに言われたとおりに炎を手に入れると、ものすごい速さで飛び続けた。

炎がくちばしを焼き、すでに顔まで迫って来て、若者はその熱さに泣き叫んでいたのだ。

ワタリガラスは言った。

「人々のために苦しむのだ。この世を救うために、炎を持ち続け持ち帰るのだ。」

やがて若者の顔は、炎に包まれ始めたが、ついに戻って来ると、その炎を、地上へ、崖へ、川の中へ投げ入れた。

その時、すべての動物たち、鳥たち、魚たちは魂を得て動き出し、森の木々も伸びていった。


それが、私がお前たちに残したい物語だ。

木も、岩も、 風も、あらゆるものが魂を持って、私たちを見つめている。
そのことを忘れるな。

これから時代が大きく変わってゆくだろう。
だが、森だけは守ってゆかなければならない。

森は私たちにあらゆることを教えてくれるからだ。
わたしがこの世を去る日がもうすぐやってくる。

だからしっかり聞いておくのだ。
これは私たちにとって、とてもとても大切な物語なのだから。」

     (星野道夫著「森と氷河と鯨」より)

    
      *****

ワタリガラスを主役とした創造神話は、北米、エスキモー、北ユーラシアに広がっていて、日本でワタリガラスが飛来するのは北海道です。

アイヌの神話には、「太陽を引っ張り出したカラス」という話があります。

昔カラスは、太陽が隠れてしまって困っていた神様のために太陽をくわえて引っ張り出してあげました。

そのために全身が太陽で焼け焦げて黒くなってしまったけれど、今でも神様に感謝されているのです、というお話です。

太陽(火の玉)とカラスの結びつきが、アラスカの神話と共通しています。


長野在住の自然探究家C.W.ニコルさんも、星野氏と大変よく似た魂の経歴をもっておられます。

HBC放送HPの記事から転載します。

    *****


「あれはおまえの”魂の兄弟”、守護霊だ。」
とイヌイットの老人は言った。
北極、アフリカをはじめ世界の先住民を訪ねて歩いたニコル氏。そのきっかけを作ったともいうべき貴重な体験談。


 物心がついたときからカラスの一族はいつも身近な生き物だった。

だが、彼らが自分の人生にとっていかに大きな存在かを知ったのは、今を去る一九五九年、カナダ北極地方へ二度目の遠征に出かけた折だった。

 その日、私はイヌイットの老狩人と二人、カヤックでアザラシ漁に出ていた。

点々と流氷の漂う海は波一つなく、穏やかだった。

すると、陸のほうから飛んできたワタリガラスが一羽、私たちの頭上で三度輪を描くや、鈴の音を思わせる澄んだ声を響かせたのだ。

これには思わず、目を丸くした。それまで、カーカーという耳障りな鳴き声しか知らなかったからだ。

イヌイットの老人は空を仰ぐと、そのカラスを指差して言った。

「あれはチュルガック、おまえの魂の兄弟、"守護霊"だ。あのカラスは、おまえにそれを教えに来たのだ」

 これから先、カラスと名のつくものを傷つけたり食べたりすることは決してしてはならん、と老人は言ったものだ。

空を舞う者、枝先で羽を休める者、餌をついばむ者、彼らの姿には常に気を配り、カラスたちが何を見つめ、どんな話をしているのか、その声に耳を傾けろ、と。

もしもカラスのいない土地に暮らしたりすれば、私の魂は力を失い、必ずや病を得て、生命すら落としかねない――との忠告も受けた。(後略)

       *****


また、和歌山県の熊野神社や古事記に見られる「ヤタガラス」は“日本版ワタリガラス”ではないか?という説もあります。

ボブ・サム氏はワタリガラスの神話を語るために、何回か日本に招かれて、各地を訪ねています。
そしてアラスカと日本の古代のつながりを確認したと言います。
それについては次の記事に書きたいと思います。

ベーリング海峡を超えて、アラスカ、エスキモーと日本はかつて密接なつながりがあったのではないか?という亡き星野氏、龍村監督、ボブ・サム氏の共通の思いを辿る旅が、映画製作が終わってからも続いてゆくのでした。



参考サイト

HBC放送HP C.W.ニコル「オオガラスの物語」
 ボブ・サムの声のリンクが有ります。
http://www.hbc.co.jp/nicol/raven/karasu1.html

同・「なぜ今ワタリガラスか?」
http://www.hbc.co.jp/nicol/raven/syuzai1.html

同・鎌田東二「ヤタガラスはワタリガラスか?」
http://www.hbc.jp/nicol/raven/shinwa1.html

HP「無限空間」インディアン伝承・ワタリガラスの神話
http://www5b.biglobe.ne.jp/~moonover/2goukan/ohter/watari/index.htm


写真は星野氏撮影・朽ち果てたワタリガラスのトーテムポール

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エスキモー(イヌイット)の人々はどこからやってきたのだろうか?

2009-03-05 | その他先住民族
Inuit Musical Tribute



前回取り上げた「地球空洞説」の著者は、北極に住むエスキモーたちの祖先は西半球最古の民族ではないかと考えています。

そして最も古いエスキモーの祖先は北極の空洞内部を出入りしている人々だったのではないかという仮説をも提唱しています。

「地球空洞説」から載せてみます。

     

            *****


エスキモーは、祖先はどこから来たかと尋ねられると、決まって北方を指す。

エスキモーの伝説には、非常に美しい北方の楽園の地の話もある。
イギリスの王さまがエスキモーに地底の楽園に連れていかれたという民話もある。
アイルランド人も北のかなたに美しい国があり、その国はいつも明るく、夏のような気候だという伝説をもっている。
スカンジナビアの伝説は、北の果てにある不思議の国について物語る。
アイスランド人はエスキモーをトロールと呼んでいる。これは古代人が超自然的なものを指して呼んだ名である。
エスキモーという言葉はラテン語で書かれるときは「ピグマイ」と訳された。これは神秘的な背の低い人々という意味である。

北の果てには世にも不思議な人々が住んでいるという伝説がヨーロッパ全土に広まっているのである。

人類学者も、エスキモーには北米インディアンと共通する何らの人種的特徴も認められないとしており、彼らはかつて西半球に住んでいた最古の民族のなごりではないかと考えている。

(レイモンド・バーナード著「地球空洞説」より要約)



            *****


エスキモーの由来を調べていたら、昨年発表されたエスキモー(イヌイット)のDNA研究の記事がありましたので紹介します。

それによると、4000年前北極圏に住んでいた人々は、DNA上近隣の北米インディアンとは人種的に異なり、また現在のエスキモーの人種とも異なるということが明らかになったようです。

エスキモーたちは巨人伝説をもっており、巨人との関わりの記憶があるということですから、もしかしたら、著者の仮説のように、エスキモーの祖先は北極の空洞から出入りしている地底の巨人たちと何らかの関わりがあったのかもしれません。

でも、巨人伝説は北欧神話に広く見られるものですから、北極の地底人との関係が証明されたわけではありませんが。。

むしろ北欧神話の主人公たる巨人達の方が、より大きなテーマだと思われますが、ここでは「地球空洞説」にそってエスキモーに注目します。

以下に、ナショナル・ジェオグラフィックとAsahi.comの記事を転載します。

    
            *****


「グリーンランドの古代エスキモーはアジアから来た?」
James Owen
for National Geographic News
May 29, 2008

 アメリカ大陸初のエスキモーは、従来考えられていたようなネイティブアメリカンの子孫ではなく、直接アジアから移動してきたという新説が発表された。

 この説を発表したのはコペンハーゲン大学古代遺伝学研究所のトム・ギルバート氏率いる研究チーム。

グリーンランド北西部の永久凍土から発見されたヒトの毛髪をDNA分析した結果、明らかになったという。毛髪は4000年ほど前の男性のもので、これは古代人の完全なミトコンドリアゲノムを採取できた初めての例だ。

 また驚くべきことに、この最初のエスキモーは現在グリーンランドに住むイヌイットの祖先でもないという。

DNA分析の結果、グリーンランドで発見された古代エスキモーとその一族はシベリアから来たことが明らかになった。

「古代エスキモーはアラスカからグリーンランドにかけてくまなく存在していたが、にわかに姿を消し、別の集団が移動してきた」とギルバート氏は述べる。

 グリーンランド最古のエスキモーとサカク文化の関連性を示唆する考古学研究もある。

4500年前のグリーンランドに生まれたサカク文化と1000年前に生まれたチューレ文化を比較すると、使われていた道具に大きな差異が見られるからだ。

 ギルバート氏のチームによれば、古代エスキモーは寒冷化によって滅んだという。「当時は非常に厳しい自然環境にあったことが明らかになっており、そのため人口が減少していき、ついには壊滅したと考えられる。現在のイヌイットの先祖は、その後登場したまったく別の新しい入植者だ」とギルバート氏は述べている。

http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=1240463&expand
     
    
          ・・・・・


「極北、イヌイット以前に「巨人」いた・毛髪で伝説裏付け」asahi.com20080602


極北地域に最初に移住した人種は、現代のイヌイット(エスキモー)などと異なることがわかった。

コペンハーゲン大などの研究チームがグリーンランドの遺跡から見つかった毛髪のDNAを調べた。イヌイットの間には大昔、先に住んでいた巨人を祖先が追い出したとの伝説があり、これと符合する。

米科学誌サイエンス(電子版)に発表した。

<グリーンランドやアラスカの極北地域には約4千年前までには東アジアから人類が移住していたことが確認されている。

これまでは極北に住んだ最初の人類がイヌイットの祖先だと考えられてきたが、現代のイヌイットにつながる、鯨を食べる文化が起こったのは約千年前で、矛盾があった。

 研究チームは、グリーンランドの約3千年前の居住地跡から見つかった凍結した人の毛髪から母方の祖先をたどれるミトコンドリアDNAを調べた。

その結果、遺伝子は現代のイヌイットやアメリカ先住民とは異なり、シベリアやベーリング海峡の周辺の住民と似通っていた。

 イヌイットの間には「極北地域にはツニートと呼ばれる心の優しい巨人が住んでいた。だが我々の祖先を見たら、目から血を流して逃げた」という伝説がある。

国立民族学博物館の岸上伸啓教授は「アジアからの移住が数回起こり、先住民を駆逐することで文化ががらりと変わったのではないか」と話している。(香取啓介)>
http://i.asahi.com/topics/TKY200806020260.html
    

             *****


wikiツニートより

ツニートは、イヌイットに伝承される伝説の巨人。
「極北地域にはツニートと呼ばれる心の優しい巨人が住んでいたが、我々(イヌイット)の祖先を見たら、目から血を流して逃げた」という言い伝えがある。


wiki巨人 (伝説の生物)より
巨人(きょじん、英 ジャイアント(giant)、ジャイガント
(gigant))は、様々な神話や伝説、ファンタジーに登場する伝説の生物の一種で、長身・巨体の神や人間あるいは人型の生物、亜人間のことである。

英語のジャイアント・ジャイアンツは、ギリシャ神話のギガス(ギガンテス)に由来する。また、ティタン(タイタン)など、明らかに神である場合は巨神と書く事もある。

乱暴で、人を食べたりすることになっている場合が多いが、賢く友好的だったり、超古代の生き残りになっていることもある。

ティタンの様に古い時代に世界を支配していたが、後の時代の神に地底に追いやられたものや、キュクロプスのように元々鍛冶神として信仰され、後に下級神(怪物、妖怪)化されたとのではないかと指摘されるものもあり、おそらく多くの巨人は古い時代の神の信仰が残ったものともいわれている。

北欧神話の巨人についても同様の仮説が19世紀末アクセル・オルリックによって提示されたが、ジョルジュ・デュメジルは「ゲルマニアにおいてもカフカスにおいてもまたヨーロッパのいかなる所であれ、『巨人崇拝』なるものはけっして存在しなかった」(『デュメジル・コレクション4』p. 150)としてこれを否定している。


wiki北欧神話
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%AC%A7%E7%A5%9E%E8%A9%B1


wikiエスキモーより

エスキモー (Eskimo) は、北極圏のシベリア極東部・アラスカ・カナダ北部・グリーンランドに至るまでのツンドラ地帯に住む先住民族の総称である。

雪や氷で造ったイグルー等に居住し、魚や海獣を捕って生計をたて、カヤックやイヌぞりによる移動生活をおくっていた。

伝統的なエスキモーでは、食生活は狩猟によって得た生肉が中心であった。獲物は漁を中心とするエスキモーはアザラシ・クジラ等、また陸での猟をするエスキモーはカリブー(トナカイ)などである。生肉の他は、ツンドラの原野に自生するコケモモの実などを食することもあるが、農業は不適な土地なので穀類を食べることはなかった。

なお、エスキモーとは単一の民族を指す言葉ではなく、大きくはアラスカ北部以東に住むイヌイット(Innuit)系(東部集団)とアラスカ中部以西のユピク(Yupik)系(西部集団)に分けられる。なおグリーンランドでは、カラーリットと呼ばれている。
総人口約9万人のうちグリーンランド人住民が最も多く、4万1,000人。アラスカ3万2,000人。カナダ1万2,000人。シベリア1,200人を数える。

カナダでは1970年代ごろから「エスキモー」を差別用語と位置づけ、彼ら自身の言葉で「人々」を意味する「イヌイット」が代わりに使用されている。
カナダでの動きを受け、日本のマスコミ・出版界でも「エスキモー」は差別用語であるとの認識が広がり、「イヌイット」に置き換えられるようになった。
しかし、アラスカにおいては「エスキモー」は公的な用語として使われており、使用を避けるべき差別用語とはされていない。本人達が「エスキモー」と自称している場合は置き換えない。
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レヴィ・ストロースが100歳に

2009-02-12 | その他先住民族
先日新聞を見て、フランスの文化人類学者クロード・レヴィ・ストロース氏がご健在で昨年11月に100歳になられたと知り、思わずうれしくなりました。

大学なんてやめてやる、と息巻いていた私でしたが、この人の著作はすばらしかった。。
この人の本を読めるなら、勉強したいと心底思いました。

「野生の思考」への敬意と熱意と謙虚さを教わったと思っています。

当時流行っていた、既成文化を打破したいというカウンターカルチャーの底堅いバックボーンであり、日本人では北沢方邦(まさくに)さんなど、切れ味よくかっこ良いと思って何度も読み返したものです。

奇しくもその北沢方邦さんは1971年、日本で最初にホピの地に行かれた方で、わたしにとっては、カウンターカルチャーとアメリカ・インディアンはより一層ワンセットになって刷り込まれたのだと回想します。

もう30年近く読んでいないことになりますが、今読み返したらどんな気持ちがするだろうかと、もう一度読む日が楽しみでたまりません。



新聞のレヴィ・ストロースに関する書評欄から少し転載します。


      *****



「人間を理解しようと思うならば、まずは遠くから見つめなければならない」というルソーの至言に導かれ、アマゾンの密林に暮らす先住民族の調査を始めたのは1935年。

以来、婚姻、トーテム信仰、神話と続く膨大かつ壮大な研究を支えたのは「人間科学の究極目標は人間を構築することではなく、分解することにある」という信念だった。

人間の意識の深層で働く思考のコード(構造)を解析しようとする彼の姿勢は人間の自由意思の力をうたい上げた旧友サルトルとの対立を決定的にし、「反人間主義」と糾弾された。

しかし普遍的な「構造」の抽出を通してレヴィ・ストロースが打ち出したのは、先住民族を偏見なく眺める視座であり、西洋近代を相対化し、人類の文化の多様性を尊重する世界観に他ならない。

初期の論考集である本書は普遍主義と文化相対主義の対立をみごとに昇華しながらそうした器の大きい「人間主義」を説いている。

文化の差異を尊重するどころか、むしろ恐れ排する思いに駆られがちな現代世界にあって、私たちは半世紀以上前に示された著者の卓見に少しでも近づくことができただろうか。

「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」。世界は人間の存在や知性など介せずとも、自ら考え、歩み続けていく。

真の人間主義とは、こうした厳粛なる諦念と自戒からしか生まれ得ないのではないか。

著作をひも解くたびに引き込まれる崇高で美しい、誰にも模倣できない全く異質な知の次元。そんな不思議な感覚に私を包み込んでくれる思想家は彼しかいない。これまでも、そして、きっとこれからも。

1月11日読売新聞 渡辺靖・書評レヴィ・ストロース「人種と歴史・復刻版」


     *****


AFPbbNewsレヴィ・ストロース100歳に
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2543895/3565325



Wikiレヴィ・ストロース
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A3%EF%BC%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B9
クロード・ギュスタヴ・レヴィ=ストロース(Claude Gustave Lévi-Strauss, 1908年11月28日 - )はフランスの社会人類学者、思想家である。コレージュ・ド・フランスの社会人類学講座を1984年まで担当し、アメリカ先住民の神話研究を中心に研究を行った。アカデミー・フランセーズ会員。

専門分野である人類学、神話学における評価もさることながら、一般的な意味における構造主義の祖とされ、彼の影響を受けた人類学以外の一連の研究者たち、ジャック・ラカン、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ルイ・アルチュセールらとともに、1960年代から1980年代にかけて、現代思想としての構造主義を担った中心人物のひとりとしてよく知られている。

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「バスク十字」と「カギ十字(卍)」・・ヨーロッパ先住民族の十字マーク

2009-01-15 | その他先住民族
前回の続きです。

エハン・デラヴィ著「太陽の暗号」によると、フルカネリの分析について別の研究者ジェイ・ウェイドナーが検証を続けました。


*****


ジェイ・ウェイドナーはフルカネリの残した暗号を、何年間もかけて解明した。

その一つの手がかりは、ペルーに関する研究である。

16世紀の初めにペルーのインカ帝国を征服したスペイン人のフランシスコ・ピアロと共にペルーに辿り着いたフェリッペ・グアマン・ポマ・デ・アヤラによって書かれた記録書には「インカのシンボル」というタイトルで、太陽、月、星、そして洞窟のスケッチが描かれていた。

おまけに洞窟のイメージにはAという文字が浮き彫りになっていた。
すべて「アンダイの十字架」の台座の四つのシンボルと同じものである。

さらに「アンダイの十字架」とペルーの共通点を探ってみると、驚くべき事実が浮かび上がってきた。

アンダイの十字架のあるフランス・バスク地方の民族は、他のヨーロッパの白色人種とは全く人種が異なっていたのである。

背は小柄で、どちらかというと浅黒い肌の色をしているバスク民族をDNA鑑定したところ、彼らともっとも近いDNAをもつ人種はペルーのケチュワ族であることが判明した。

つまり、彼らはペルーからバスク地方に移り住んだと考えられる。
ウェイドナーは追及の手を緩めなかった。

アンダイの十字架に彫られていた「生命はただ一つの場所に逃れる」というフルカネリが解釈した場所がどこであるかを突き止めたのだ。

ウェイドナーによると、そのラテン語には「クスコの洞窟」という意味が込められているという。

さらにラテン語の上には二つのXが彫られている。
これはもちろん、数字の20を意味する。
そう、タロットカードのナンバー20、つまり最後の審判をあらわしていたのだ。

たしかにわたしも、ペルーを訪れた際、クスコの周辺にとても古い巨大な洞窟システムが地下深く眠っていることに気付いた。

ここが最後の審判の時に、世界で唯一被害に遭わないと予言された場所なのだろうか。


*****


ウェイドナーによると、バスク地方の民はヨーロッパ起源ではないということになります。

一般的には、ヨーロッパ起源ではないというよりは、ヨーロッパが成立する以前からの先住民族だと考えられているようです。

バスク地方に住む人々は旧来からヨーロッパの最も古い民であり、ヨーロッパの中の異質な民であるとされ、独立運動もはげしく行われてきました。

Wiki「バスク語」と「バスク人」には次のようにあります。


*****


言語学上の位置付け

居住地の周りをロマンス語の言語に囲まれているにもかかわらず、バスク語は世界のどの言語とも異なる極めて独特な言語である。
語源が注目される単語として「ナイフ」「天井」等がある。

イベリア半島では正体不明の非印欧語族の痕跡も見つかっている事から、そのため、インド・ヨーロッパ語族言語を話す民族がヨーロッパに入ってくる以前から話されていた、氷河時代の先住民族の言語ではとも考えられている。

日本語との親族関係も指摘された事があるが支持されてはいない。

後述の能格の存在から、カルトヴェリ語族に分類されることもあったが、現在は比較言語学上、孤立した言語に分類される。



バスク人

バスク人は、系統不明の民族で、イベリア半島のバスク地方に分布する。

文脈により以下の定義を有す。
• バスク民族に帰属すると考えている人。
• バスク語を母語とする人。

古代の時点でローマから自治を許され、中世から近世にはバスク人の王(アリスタ)の末裔達がイベリアの並み居る王家を継承するなど権勢を誇った。

現在最も有力な仮説とされているのは、イベリア半島における現生人類の第一居住民とされるイベリア人(イベリア語)集団がローマ化されないままに現在のバスク地方に残り、彼らの話していた言語が語彙的に周辺のオック語やカスティーリャ語などの影響を受けたのではないかという説である。

バスク人は85%がRh-型の血液である。

このことから、バスク人はヨーロッパで最も古い種族ではないかと推測されている。

頭蓋骨の人種的特徴や、孤立した言語、また地域的なことからクロマニョン人の唯一の末裔とする説を唱えた研究者もいたが、現在はやや懐疑的である。
バスク人とヨーロッパ系民族は混血しており、クロマニョン人の血はバスク人以外にも流れていると考えられていることも理由である。



*****


バスク地方には、ピカソの絵で有名なゲルニカという町があります。

この町は、第二次大戦前、スペインの右派フランコ政権とそれに加担するドイツのナチス、イタリアにより攻撃を受け、甚大な被害を受けました。

この攻撃は、一都市の無差別爆撃という新しい戦法を用いたものでした。

当時台頭してきたナチスがゲルニカを攻撃目標に定めたのは、バスク民族という“非アーリア人”が格好の標的になったためではないでしょうか?

ちなみに、バスクのシンボルはバスク十字(ラウブル)というカギ十字(卍)で、これはガトーバスクという名物菓子に描かれたり、スカートやリネンに刺しゅうされたりしておみやげにもたくさんあるようです。

カギ十字は氷河期からの血統をもつバスク民族の古来からの伝統的文様であり、今でも生活の中に溶け込んでいる文様なのですから、ナチスのカギ十字などひよっこのようなものでしょう。

それなのに、非アーリア民族としてナチスの攻撃を受けなければならないとは、歴史とは皮肉なものだと思います。

このバスク地方に関して、ヒットラーはとても関心をよせていたようで、エハン・デラヴィ氏の「太陽の暗号」には、彼が「アンダイの十字架」を見にきたことが書かれています。


*****


アンダイの塔は、正方形の台座の上に立つモニュメントの、さらに一番上に十字架が載っている。
ヨーロッパに行けばどこにでもありそうな、めずらしくもなんともない塔である。

しかし、アドルフ・ヒットラーが権力の頂点を極めていた時、彼はわざわざアンダイの塔があるスペインとフランスの国境の接したバスク地方にまで足を運び、その塔に彫られているシンボルを見にきたと言われているほど、非常に重要な意味が隠されている塔だという。

ヒットラーがオカルトや秘密結社に強い関心を示していたことは、多くの人が知るところだが、彼はその塔を自分自身の目で確かめるために
小さなその村に出向いていったのである。


*****

バスク十字は、十字という文様の大変古い形を示しているのではないかと考えます。

キリスト教の現れる前から十字の文様はあり、ナチスの現れる前からヨーロッパにカギ十字(卍)の文様があったということは、人間の精神史を考える上でも、興味深く思われます。

十字架はキリスト教のものであり、カギ十字(卍)はナチスでいまわしいもの、という常識から自由になることも意味あることかもしれません。



写真はwiki「バスク人」より“バスク国のシンボル・ラウブル”
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