英国では「ドルイド」の復権、復元はどのようになされたのか?ということについて、
17,18世紀イギリスで行われた、イギリス王室とヘブライ語との関連付けについて、見てみます。
時間があいてしまいましたが、ストーンヘンジについての記事です。
「ケルトの宗教ドルイディズム」から抜粋して引用しますが、
イギリスのネイティブ探しと言ってよいと思われます。
文中の「キンブリ族」については、「図説ドルイド」には以下のように書かれていますが、一般的には“正体不明の古代ヨーロッパの一民族”と考えられているようです。
*****
(引用ここから)
ゲルマン族の一部族であるキンブリー族は厳密にはケルト人ではない。
しかし首狩り、人身御供、聖なる大がまの利用などの祭儀に関しては、ケルト人と同じ習慣を持っていた。
カエサル、ストラボン、タキトゥスは皆、ゲルマン族の女祭司について記し、その主な役割は占いであり、予言の多くは戦争に係るものだったと述べている。
(引用ここまで)
*****
イギリスの原住民は、どこからやってきたどのような民族なのでしょう。
島国ですから、いずれの海かから渡ってきたのだと思いますが。。
それは北方民族なのでしょうか。
ケルト人なのでしょうか。
それ以外の民族なのでしょうか。
以下、「ケルトの宗教ドルイディズム」より引用します。
*****
(引用ここから)
英国では「ドルイド」の復権、復元はどのようになされたのか?
ここでもまた王や国家のヘブライ直系の主張は展開されているが、フランスの主張とは微妙な違いを見せている。
それは再び「ゴメル」という根拠である。
すなわちヤペテの子であるゴメル族は、「ゴメリ」と呼ばれるが、この名称の音韻はギリシア人の記録にある古代ヨーロッパの民族「キンブリ」と類音であり、またキンブリと同義の「キンメリ」と「キムリ」(ウェールズ人・ウェールズ語)が類音であると考えられた。
このことから、ウェールズ語はヘブライ語であったという説や、サクソン人の祖先である「キンブリ」族の言語こそアダムとイブによって話されていたヘブライ語だった、という説が唱えられたのであった。
「キンブリ」とは放浪の民で、海峡から森林地帯まで広範囲に居住し、ケルト人と隣接して活動していた北方民族である。
ストラボンの「地理誌」では、ケルト人と同様、奇妙な習慣をいとなむ蛮族として描かれている。
なおギリシア人は「キンブリ」族のことを「キンメリオイ」と呼んだ。
このような古典文献に記載された幻の民族を召喚して、それをノアの孫の名前と類比し、そこから英国のヘブライ的聖書的正当性を導きだしているのである。
“ゴメルの言語であるヘブライ語を話していたウェールズ人はヨーロッパで最も古い民族である。”という説が創造されたのである。
このことによって、英国王はヨーロッパ史の「最古」を保有していることが証明されるのだ。
聖書的言語起源論からケルト人の「古さ」を立証する以上の考え方は17,18世紀の英国考古学、歴史学における起源問題に枠組みを与えることになるのである。
(引用ここまで)
*****
写真は“ブリタニアに到着したキムリ人”(「ブリテンのキムリ人」の挿絵 1857年)
「ケルトの宗教ドルイディズム」より
WIKI「キンブリ・テウトニ戦争」より
キンブリ・テウトニ戦争とは、紀元前2世紀の終わり(紀元前113年-101年)に民族系統不明のキンブリ人、ゲルマン系の民族であるテウトニ人が、共和政ローマの本拠地であるイタリア半島へ侵攻したことによって起きた戦争である。
TGEパウエル著「ケルト人の世界」より
紀元前113年、アルプス山脈東部にあったケルト人の王国が北方からの侵入者と闘うのを支援するためにローマは派兵したが、敗れてしまった。
この侵入者はキンブリー族という名で知られる。
彼らはケルト人の地を漂泊した。
とかくするうちにチュートン族と呼ばれる人々が彼らに合流したが、このチュートン族は不確かながら北方を原郷土とする人々であり、二つの合体した勢力はローマ軍を破った。
彼らがいかなる民族であるかを軽々に推断すべきではない。
知られている彼らの指導者の名はすべて純粋にケルト的であり、チュートンという名称は「人々」を意味するケルト語のラテン形である。
関連記事
画面右上の検索スペースで、ブログ内検索にして
「ノア」8件
「ストーンヘンジ」11件
「ケルト」9件
「ドルイド」9件
など、あります。(重複していますが)
17,18世紀イギリスで行われた、イギリス王室とヘブライ語との関連付けについて、見てみます。
時間があいてしまいましたが、ストーンヘンジについての記事です。
「ケルトの宗教ドルイディズム」から抜粋して引用しますが、
イギリスのネイティブ探しと言ってよいと思われます。
文中の「キンブリ族」については、「図説ドルイド」には以下のように書かれていますが、一般的には“正体不明の古代ヨーロッパの一民族”と考えられているようです。
*****
(引用ここから)
ゲルマン族の一部族であるキンブリー族は厳密にはケルト人ではない。
しかし首狩り、人身御供、聖なる大がまの利用などの祭儀に関しては、ケルト人と同じ習慣を持っていた。
カエサル、ストラボン、タキトゥスは皆、ゲルマン族の女祭司について記し、その主な役割は占いであり、予言の多くは戦争に係るものだったと述べている。
(引用ここまで)
*****
イギリスの原住民は、どこからやってきたどのような民族なのでしょう。
島国ですから、いずれの海かから渡ってきたのだと思いますが。。
それは北方民族なのでしょうか。
ケルト人なのでしょうか。
それ以外の民族なのでしょうか。
以下、「ケルトの宗教ドルイディズム」より引用します。
*****
(引用ここから)
英国では「ドルイド」の復権、復元はどのようになされたのか?
ここでもまた王や国家のヘブライ直系の主張は展開されているが、フランスの主張とは微妙な違いを見せている。
それは再び「ゴメル」という根拠である。
すなわちヤペテの子であるゴメル族は、「ゴメリ」と呼ばれるが、この名称の音韻はギリシア人の記録にある古代ヨーロッパの民族「キンブリ」と類音であり、またキンブリと同義の「キンメリ」と「キムリ」(ウェールズ人・ウェールズ語)が類音であると考えられた。
このことから、ウェールズ語はヘブライ語であったという説や、サクソン人の祖先である「キンブリ」族の言語こそアダムとイブによって話されていたヘブライ語だった、という説が唱えられたのであった。
「キンブリ」とは放浪の民で、海峡から森林地帯まで広範囲に居住し、ケルト人と隣接して活動していた北方民族である。
ストラボンの「地理誌」では、ケルト人と同様、奇妙な習慣をいとなむ蛮族として描かれている。
なおギリシア人は「キンブリ」族のことを「キンメリオイ」と呼んだ。
このような古典文献に記載された幻の民族を召喚して、それをノアの孫の名前と類比し、そこから英国のヘブライ的聖書的正当性を導きだしているのである。
“ゴメルの言語であるヘブライ語を話していたウェールズ人はヨーロッパで最も古い民族である。”という説が創造されたのである。
このことによって、英国王はヨーロッパ史の「最古」を保有していることが証明されるのだ。
聖書的言語起源論からケルト人の「古さ」を立証する以上の考え方は17,18世紀の英国考古学、歴史学における起源問題に枠組みを与えることになるのである。
(引用ここまで)
*****
写真は“ブリタニアに到着したキムリ人”(「ブリテンのキムリ人」の挿絵 1857年)
「ケルトの宗教ドルイディズム」より
WIKI「キンブリ・テウトニ戦争」より
キンブリ・テウトニ戦争とは、紀元前2世紀の終わり(紀元前113年-101年)に民族系統不明のキンブリ人、ゲルマン系の民族であるテウトニ人が、共和政ローマの本拠地であるイタリア半島へ侵攻したことによって起きた戦争である。
TGEパウエル著「ケルト人の世界」より
紀元前113年、アルプス山脈東部にあったケルト人の王国が北方からの侵入者と闘うのを支援するためにローマは派兵したが、敗れてしまった。
この侵入者はキンブリー族という名で知られる。
彼らはケルト人の地を漂泊した。
とかくするうちにチュートン族と呼ばれる人々が彼らに合流したが、このチュートン族は不確かながら北方を原郷土とする人々であり、二つの合体した勢力はローマ軍を破った。
彼らがいかなる民族であるかを軽々に推断すべきではない。
知られている彼らの指導者の名はすべて純粋にケルト的であり、チュートンという名称は「人々」を意味するケルト語のラテン形である。
関連記事
画面右上の検索スペースで、ブログ内検索にして
「ノア」8件
「ストーンヘンジ」11件
「ケルト」9件
「ドルイド」9件
など、あります。(重複していますが)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます