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始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

愛されているという感覚・・キャンディーズのスーちゃん

2011-04-24 | 心理学と日々の想い
「元キャンディーズ・田中好子さん、死去」(デイリースポーツオンライン 2011.04.22)
http://www.daily.co.jp/gossip/article/2011/04/22/0003986716.shtml


元「キャンディーズ」のスーちゃんが亡くなったという報道を聞いて、思わずテレビを見入ってしまった。

「キャンディーズ」の女の子三人組は、ほんとにかわいらしかった。

同時代の「ピンクレディー」ととても対照的で、「ピンクレディー」は“ふつうの女の子”であることを拒否しているスタンスが特徴的だった。

けれど、「キャンディーズ」の3人は、テレビ局に仕事に来る前は、家で家族と朝ごはんを食べてきたに違いない、というような気がする、「普通のおんなのこ」らしさがとてもあった。

わたしの時代だと、「キャンディーズのランちゃんとミキちゃんとスーちゃんの誰が一番すき?」というのが、女の子同士でも、軽い挨拶とか自己紹介のときに使えることばで、わたしはスーちゃんが好きだったのだった。


ラストコンサートを「わたしたちは幸せでした!」という言葉で閉じた「キャンディーズ」は、今でもわたしの心に幸せななにかをもたらす。


彼女の言葉として、
「わたしは日本のたくさんの方に愛していただいた。だから最後も(内密にではなく)、みなさんに送っていただきたい」と言っていた、と書いてあったのを見て、

「いいわよ、もちろん。わたしも送らせてほしい。」と心でつぶやいた。

「たくさんの方に愛された」、と自分で言うというのは、甘えやおごりか、というと、わたしはそうではないと考える。


実際、生きていくということは、たくさんの人の情けを受け、見守られ、迷惑をかけても許してもらい、いろんなことを教えてもらい、育てていただく、ということだと思う。

たとえ何才になろうとも。

そういうことに、彼女は敏感だったのではないかと思った。

太陽の光なしに生きていくことができないように、人は愛なしに生きていくことはできない。
たくさん愛される人もいるし、わずかな愛の場合もあると思う。

たくさん愛されても、まだ不満な人もたくさんいる。

どれほどの愛であろうとも、「わたしは充分に愛された」と思えるかどうかに、人の幸不幸はかかっているのではないかと思う。

そして、「幸せな女の子」について考えることは、自分もまた「充分幸せな女の子だった(にちがいない)」のだ、ということを確認することでもあるのだろう。


追記

その後、25日に葬儀が行われ、スーちゃんの遺言テープが公開され、死後は地震被災で亡くなった方たちのお役にたちたいという遺志が残された。

ランちゃんは、もう少ししたら私も行くから、それまで少しだけ待っていてね。
と言っていた。

ミキちゃんは、天国にいけるのは、かみさまにお許しをいただいたから。
だから、新しい命を、大切に、生きていってね。
わたしはまだお許しをいただいていないから、これからの一日一日を一生懸命に誠実に生きます。
そして、いつか天国でまたいっしょに歌いましょうね。
と言っていた。

さいごにスーちゃんの遺言テープに、息苦しそうな声のスーちゃんの声があった。

震災で無くなった方たちを思うと胸がはりさけそうです。
死んだら、被災してなくなった方たちを慰めるのがわたしの仕事だとおもいます。

と言っていた。


〈スーちゃんの遺言テープ〉全文

          ・・・

こんにちは、田中好子です。

今日は、三月二十九日、東日本大震災から二週間経ちました。

被災された皆様の事を思うと、心が破裂する様な、破裂する様に痛み、只々、亡くなられた方々のご冥福をお祈りするばかりです。

私も一生懸命、病気と闘って来ましたが、もしかすると負けてしまうかも知れません。

でも、その時は必ず、天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。

それが私の努めと思っています。

今日、お集まり頂いている皆様にお礼を伝えたくて、このテープを託します。

キャンディーズでデビューして以来、本当に長い間お世話になりました。

幸せな、幸せな人生でした。心の底から感謝してます。

特に、ラン(伊藤蘭)さん、ミキ(藤村美樹)さんありがとう。二人が大好きでした。

映画にもっと出たかった。テレビでもっと演じたかった。もっともっと女優を続けたかった。

お礼の言葉をいつ迄も、いつ迄も皆様に伝えたいのですが、息苦しくなって来ました。

いつの日か、義妹、夏目雅子の様に支えて下さった皆様に社会に少しでも恩返しが出来る様に復活したいと思ってます。

カズ(夫・一雄)さん、宜しくね。

その日迄、さようなら。

           ・・・

スーちゃんの物語は、これからも続くようだ。
天国でも、たくさんいいお仕事してくださいね。。
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胸が さける・・・肉体はたましい

2011-03-30 | 心理学と日々の想い
この短文はしばらく前に書いたのですが、直後に東日本大震災が起き、自分のあばら骨の一本ごときで、ものを言う時ではないと思いました。

しかし、これも一つの鎮魂のことだまになればと願い、投稿することにしました。

東日本大震災で被災された多くの方々のご冥福とご回復を、心からお祈り申し上げます。





父が亡くなってしばらくたちました。

疲れからか、咳がでて、病院の抗生物質を続けて飲んでも治らなくて、困っていました。

咳をすると、あばら骨が痛くて、痛くて咳ができないくらいになったので、病院でレントゲンを撮ってもらったら、あばら骨にひびが入っていました。

「悲しみで胸が裂ける、、」ということばが心によぎりました。

あぁ、わたしの骨は、悲しみで切り裂けたんだ。。

心が感じるのと同じように、肉体にも心があるって、本当だなあ、とつくづく思いました。

肉体の神秘を思いました。


父の肉体は消滅したけれど、それもどうだか、あやしいものだと思います。

消滅するわけがない、という、いわく言い難い感じがあります。


色即是空、空即是色。

答えは2500年も前から、はっきりしている。

肉体はたましいなのだ。
だから、たましいは物質でもあるのだ。。

そういう思いが、つのります。
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原発事故は人災なのだろうか?

2011-03-24 | 心理学と日々の想い

老人ホームにいる母は、あまり言葉を発しない。

でも、ときどき、きっちりとしたことも言う。

しかし、のどの筋肉の力が落ちているのだろう、言葉を発する機会は極端に少ない。

そして、ゆっくりと、うなずく。

なにかを話す代わりに、うなずく。

問いへの答えではなく、うなずく。


イエス、と言っているのだと解釈するけれど、イエスより重い思いなのだと思う。

ノーを含んだイエスであり、わたしはお釈迦様を前にしているような気持ちになる。


原発事故は、人災なのだろうか?

それとも神の怒りなのだろうか?

母に聞いたら、なんと答えるだろうかと考える。


「人災よ。
わたしはずっと反対してきた。」
と言うかもしれない。

あるいは、

「人間が傲慢だから、神様が怒っていらっしゃるのよ。」
と言うかもしれない。


しかし、なにも言わないかもしれない、とも考える。

ただ、じっと前を見て、うなずく、母の顔を思う。


原発のような、人間の手に負えないものを、なぜ、人間は、作ってしまったのだろう?

人間の内にある、暗い巨大な破壊衝動が、それを作らせたのだろうか?

それとも、人間を超えた巨大な力が、人間とその生存環境を破壊するようなプログラムを、人間に内蔵したのだろうか?


悪の根源は、いったいどこにあるのだろう?。。

無音の答えが、答えなのだろうか?

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「己のルーツに誇りをもて」・NHKの番組がよかった・・縄文のうるしの赤

2010-09-10 | 心理学と日々の想い
この間、NHKのテレビをふと見たら、若いケーキ職人の人生談をやっていました。
思わず引き込まれて、メモしました。備忘録です。

こういう番組って、終生憶えていたりしますね。

NHK番組HP「心の遺伝子」
http://www.nhk.or.jp/idenshi/special/index.html


世界的なケーキ職人辻口さんは、北陸・石川県の和菓子職人の父の家に生まれました。

小学生のとき、はじめてショートケーキを食べて、あまりの美味にお皿までなめてしまう。

それからは、暇さえあれば思いついた洋菓子のデッサン画を描き、ケーキ工房のここが資材置き場、ここが作業台、、と紙に書いては過ごしていたという。

ところが父親が和菓子の店の事業に失敗、家を出て行方知れずになってしまう。

彼の父親がわりのように彼に助言し続けてくれたのが、高校時代のクラスの担任の先生だった。


クラスの担任の先生とは、神社の宮司でうるしの研究家でもある四柳嘉章さんという方。

辻口さんはその先生が「自分にとってのすべてを持っている気がする」と感じる。

ケーキ職人になることに決めた辻口さんはしかし、下働きからなかなか抜け出せない。

先生は
「なんでもかんでも聞けばいいというものではない。
ことばで伝えられないものは目で技を盗め。」とアドバイスしてくれた。

辻口さんは、評判のいいよそのお店の出すゴミ箱からもコツを知ろうとする。

そこまで努力をしたが、彼に職人として出資してくれる人はみつからなかった。


「何かが足りない。。」と悩む辻口さんが思い出すのは、高校時代に先生が“卒業のはなむけ”に下さった言葉だった。

それは「おのれのルーツに誇りを持て」ということば。

先生は石川に伝わる“うるし”の美に魅せられており、辻口さんにも度々アドバイスを与えた。

「うるしはかつて、海外の美術愛好家に“jAPAN”と呼ばれた。

“JAPAN”と呼ばれた漆器の歴史を、日本人が誇りを持てるものとしたい。
うるしの技には日本人の9000年の歴史がある。」と語る。


フランスに修業に渡った辻口さんは、フランスの菓子文化の質の高さに圧倒される。
しかし先生はアドバイスする。

「おいしいお菓子なら、誰でも出来る。

日本に生まれ、和菓子職人であることを貫け。
それが最終的には「菓子道」となる。」と言う。

「能登のこの山には、この山にしか咲かないつつじがある。

お前は何を見ているんだ。

お前だけが見られるもの、感じられるものがそこに隠されている。

フランスだなんて言っている場合じゃない。」
と言う。


辻口さんはフランスの下宿先に戻り、ケーキの台を置ける広い平板がないので、石造りのトイレの床を磨き込んで、そこでケーキを作る。

彼にしか感じられない日本人の感性の奥の奥をみつめて。

彼は先生に連れられて行った美術館で見た、日本人にしか出せないうるしの赤色に魅せられていた。

彼のコンクールの出品作は、うるしの赤を基調とした、はっとするのほどの美しい作品となった。
参加者が思わず感嘆するほどに。


辻口さんは入賞して、世界的な評価を高めてゆく。


ある日辻口さんの元に、消息不明だったお父さんが入院しているという知らせが届く。

彼はお見舞いに自作のケーキを持っていく。

彼の作ったケーキを食べて、お父さんは一言、「美味い」と泣いた。


お父さんとの葛藤を振り返って、辻口さんは

「一家を見捨てた父であるが、自分に菓子職人としてのルーツを与えてくれた父でもある。

自分の腕で乗り越えていくしかない、と区切りがついた。」と言う。

「いろいろあったが、最終的には父を許したんです。

この生に生んでくれた人であり、いろんな旅をさせてくれたのではないかと思う。

自分は、自分の店を持てたじゃないか。

父を許そう。」 と辻口さんは思う。

先生は言う。

「職人は文化を理解して作品を作るのだ。
哲学美学のバックグラウンドがないと出来ない。
能登には、宝がいっぱいある。」

辻口さんは語る。

「“己れを知ること”が、世界に発信する唯一のツールだと知った。

日本人のもつ奥ゆかしさ。極端にシンプルなこと。
内に秘める情熱。。」


いまや日本を代表するケーキ職人となった彼は、故郷能登にアートとお菓子の複合美術館を建てる。

つぶれた家業の和菓子屋も再建した。

辻口さんは言う。

「いろんな人たちがいるから、今の自分がいる。
だから、原点に帰るのは必然的なこと」と。


印象深い番組でした。

自分の原点。
本当の自分。

本気の人はすごいですね。

番組名の「心の遺伝子」とは、大切なことを教えてくれた人とのつながりをさすのだそうです。





wikipedia「辻口博啓」より

経歴

和菓子屋「紅屋(べにや)」の長男として生まれ、元々は実家を継ぐつもりだったが、小学3年の時に招かれた友人の誕生日会で生まれて初めてショートケーキを食べ、そのおいしさに感動し、洋菓子職人を志すようになった(実家は18歳の時に倒産)。

•石川県立中島高等学校卒業後、東京都内のフランス菓子店に住み込みで修行。

•1990年、史上最年少の23歳で「全国洋菓子技術コンクール」優勝。その後、多くの国内大会で優勝し「コンクール荒らし」と呼ばれる]。

•1997年、フランスの「コンクール・シャルル・プルースト」で銀賞。

•1997年パティシエのワールドカップと呼ばれる「クープ・ド・モンド・ドゥ・ラ・パティスリー」のあめ細工部門で優勝。

フランスのセット市にあるMOF(フランスの国家最優秀職人章)の称号を持つ洋菓子店「パティスリー・ベルタン」で修行を重ねる。

•1998年3月、東京・自由が丘に「モンサンクレール」をオープン。

•1999年2月12日放送のフジテレビ『料理の鉄人』に出演。イタリアンの鉄人・神戸勝彦をバナナ対決で破り、パティシエとして初めて勝利した。その後、ロールケーキ専門店、コンフィチュール専門店などを次々に開店。

•2004年、二子玉川の百貨店内に「和楽紅屋」オープンし実家の紅屋の再建が叶う。

•2006年、石川県の和倉温泉で「辻口博啓美術館 ル ミュゼ ドゥ アッシュ」を開館した。

•2008年にスイーツとライフスタイルをテーマとしたWebマガジン「SUPER SWEETS」(スーパースイーツ)を発起人としてスタートさせた。

•2008年9月20日、石川県金沢市の石川県立美術館内に「ル ミュゼ ドゥ アッシュ KANAZAWA」をオープン。

•2009年6月インターネットで学べる「SUPER SWEETS SCHOOL」を開講


辻口美術館HP
http://www.kagaya.co.jp/le_musee_de_h/contents/wakuraConcept.html



縄文時代のうるしについての産経新聞の記事

http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/071220/acd0712200803002-n1.htm

「日本を探す・縄文(3)神聖視された漆の赤 」

2007.12.20 08:03

 その皿は、太古の鮮やかな赤い色をとどめていた。

 青森県の三内丸山(さんないまるやま)遺跡からは、縄文時代の人々の生活ぶりをしのばせるさまざまな生活や祭祀(さいし)に使われたとみられる道具が見つかっている。

なかでも印象的なのが漆(うるし)製品だ。

 漆器の技術については、これまではウルシノキとともに大陸から伝えられたという説が有力だった。

しかし、9000年前の北海道の縄文遺跡から漆器が発見され、さらには日本各地の縄文遺跡から下地処理や重ね塗りなど技術的にも優れた漆製品が次々と発見されたことから、“渡来説”に疑問も出始めた。

代わりに浮上してきたのは、この伝統技術が、縄文の森からもたらされ、それが現代まで途切れることなく受け継がれてきた-という説である。

 青森県三内丸山遺跡対策室の岡田康博室長は「日本にも原料をとるウルシノキが自生していて、中国大陸と同時代、日本で独自に漆技術が発生したという説も最近では有力になってきた」と話す。


 漆塗りの技術は儀式用の器から始まった。
佐藤さんはそう考える。

「神に祈りを捧げるとき、素焼きの土器だと液体が漏(も)ってしまう。

縄文人は祈りが神により多く届くようにするにはどうしたらいいか考え、樹液を塗ることを発見したのでは」と話す。

 サクラやマツの樹液にも防水効果はあるが、佐藤さんは「秋、このあたりで最初に色づくのがウルシノキです。見つけやすかったでしょうし、その樹液は油分が高く耐水効果が長続きすることが使っているうちにわかり、土器から木製品へと広がっていったのでしょう」と指摘する。

 ウルシノキの樹液に含まれる成分は、人によってはアレルギー反応を引き起こす。

触るとかぶれるウルシに不思議な力が宿ると縄文人が考えたとしてもおかしくない。

そして赤い色は古来生命力を象徴した。

漆が儀礼と結びついていたという話には説得力がある。

 縄文時代の日本海には黒曜石やヒスイの交易ルートがあったといわれ、漆器も日本海側の縄文遺跡から数多く見つかっている。

「日本海交易ルート」を通じて、鮮やかな赤い器の技術をやりとりした縄文の人々の姿が浮かんでくる。

 津軽塗を手に取ってみる。
縄文の森と日本海の潮風の香りが立ちのぼった。

  

四柳嘉章

漆器文化研究者。1946年、石川県に生まれる。國學院大學史学科卒業。
漆器文化財科学研究所所長、美麻奈比古神社宮司。
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「ごみ屋敷」にて・・なにも捨てない、という立場

2010-05-25 | 心理学と日々の想い
ここ数カ月、ふつうの“そうじ嫌い”というようなレベルではない、本格的な「ごみ屋敷(ごみ部屋)」のお家のお掃除をさせていただくご縁があり、私も「ごみ屋敷」を作ろうと思えば作れるのではないか、と思うほどになりました。

言うまでもなく、わたしも掃除嫌いです。 (あ、普通レベルの、ですが)


ごみに関して新たに体験的に思うことは、ごみは意外にあたたかいということです。

ごみというのは、“ごみ”という名前をつけられた“もの”のことだ、ということも発見しました。


ごみとは何か、ごみでないものとはなにか。。

大変興味深いテーマです。。


おそらく、“ごみ”と呼ばれるものには、“無用の長物”としての、ちょっとした愛きょうのような気配があり、それがあたたかみを感じさせるのではないか、と思ったりしています。

また、“埋もれるほどのごみ”に埋もれると、、空気が遮断され、実際なかなかあたたかいのです。。


ごみの山の上に登ったり降りたりしながら、一面のごみを眺めながら働いたのですが、実に、文明社会のただ中で、文明社会を明暗を逆にして写したような光景に遭遇し、結構楽しかったのです。



それにしても、ごみに埋もれながら、ごみを片づけようと努力するのは、大変な思考力の転換を要するものでした。


ものは放っておくと腐敗する、さらにはそれが乾燥し、さらさらの粒になってしまう。。

ごみに埋もれていると、そうした有機物の長い長い営みが省みられ、生き物が生きてゆくために日々排出し続けている、想像を絶するほどの“もの”の量と力に圧倒されました。


そういう“ものがごみになってゆく”長い長い自然の流れに気づかされながら、それとは異なる“有用・無用”の基準を用いて、“要る、要らない”を、どんどんテキパキと判断しなければ、ものを片づけることはできない。。

その判断に立ちかえることが、時に、大変苦痛に思えてなりませんでした。


人間、本来無一物、という考えもありますが、
だとしたら、なにも捨てないことも、結局同じことではないか?という気がしてなりませんでした。


どんなに身綺麗に暮らしているとしても、日々の生活とは、作ることと捨てることの繰り返し。。

あっさりとはゴミ一つすてない、という決意を持つ人生もまた、あっぱれではないかと思えてきました。

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やっと大きくなって、よかったなぁ・・・家族と心理療法

2010-01-07 | 心理学と日々の想い
お正月は親戚や親や兄弟や、いろいろな人とのかかわりがありました。

わたしの実家はいろいろと厄介なしがらみがある家なので、こどもの時どころか、今に至るまで、実家に関しては、心に針がつきささるような苦しみを覚えずにいられないのですが、

それでも、わたしもいい年になったので、さすがに苦しみの質は少しは変わってきたかもしれないと思いつつ、お正月をすごしました。

若い時はただ苦しみから逃れたくて、家族から自由になることだけを望んでいたのでした。

ついに一人のアパートに脱出した20才のとき、どんなに空が青く見えたことでしょうか!

その頃、エンカウンター系のグループ療法を受ける機会を得、体験してみました。

そのグループ療法というのは、自己啓発セミナーと内容的には類似しているかもしれない心理療法的な部分もあると、わたしは思うのですが、とにかく自由の味を深く味わえたことには心底感激しました。

わたしはわたしの心が血を流して悲しみ、理不尽な人生への怒りに燃えていることを初めて見ることができました。

そして、自分の中をクリアにできた時に初めて、他者のまなざしが自分の内側まで到達することができるのだということが分かりました。

これは大変深い体験でした。


それで何年か、家族から離れて、家族と自分の問題はクリアになったと考えて、生活することができました。

しがらみのない生活は、まるで竜宮城を訪れたような、軽快で純粋な自由の王国の心地よさで、わたしははじめて人生の幸せを手にしたと思いました。

それから、また思うところがあって、もう一度問題の家族のいちばん痛い所に接近してみようと思い立ち、家族という名で与えられたわたしの難題を、もう一度解いてみようと思い立ちました。


そうこうするうちに2、30年たってしまいました。

そんなわたし、お母さんとしての人生をおくる日々。

問題を拡大再生産しているかもしれない自分って、どうなんだ?と、思いつつ、いちおうお正月を仕切っている自分。

気がつけば、命からがら脱出した実家の、年老いた両親のお正月の準備に奔走している自分もいます。


わたしの人生の難問は解決したのかといえば、微妙で、なにせ相手がある話なので、やっぱり大変だったりします。

それでも、幼い時や若い時には、どうしようもなく強く思えた相手が、今ではそうでもなく感じられるのは、自分がある程度の時間生きてきた証であろうかと思います。

問題は解決していると言えば言えるし、むしろ解決しないことの味わいを味わっているのかもしれません。

昔はただ巻き込まれ、被害者だと思い込んでいた自分が、今では描かれている人生模様のあり方を、自分の思いで多少形を変えることができるようになったというのは、やはり感無量です。


お正月の数日の濃密な人間模様は、かつて幼かったわたしが生きた空間がふたたびよみがえったような思いにとらわれ、家族という謎について改めて考える機会となりました。

そしてまた、その家族であることそのものの傷を癒す手法としてかつて受けた、エンカウンター的グループ療法で体験した“時”の濃密さを思い起こす時でもありました。



wikipedia「エンカウンターグループ」より

エンカウンターグループは、カール・ロジャースが開発したカウンセリングの方法。

構成的エンカウンター(予め課題が用意されたもの)と非構成的エンカウンター(予め課題が用意されていないもの)に大別される。


非構成的(ベーシック)エンカウンター

クライエント中心療法の理論を健常者グループに当てはめ発展させたもの。

グループで感じた事を思うままに本音で話し合っていく。

ファシリテーター(グループをまとめる役)によって進行する。

ファシリテーター役はよく訓練された専門家でなければならない。

集団心理療法のひとつとして扱われるが、参加者によってはエンカウンターに参加した経験そのものがトラウマになってしまう場合もある。

構成的(グループ)エンカウンター

リーダー(ファシリテーターに当たる)から与えられた課題をグループで行う「エクササイズ」とエクササイズ後にグループ内でそれぞれ感じたこと、考えたことを互いに言い合う「シェアリング」で構成される。

教育活動として行われることも多い。

たいていの場合、エクササイズに入る前に自己紹介を兼ねたゲームなどが行われる。

グループのメンバー間の緊張をほぐし、その後のエクササイズを円滑に進めるためである。

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「レモン哀歌(高村光太郎)」への哀歌

2009-05-07 | 心理学と日々の想い
 
 
 高村光太郎作 「レモン哀歌」

    
    *****


そんなにもあなたはレモンを待ってゐた

かなしく白くあかるい死の床で

わたしの手からとった一つのレモンを

あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ

トパアズいろの香気が立つ

その数滴の天のものなるレモンの汁は

ぱつとあなたの意識を正常にした

あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ

わたしの手を握るあなたの力の健康さよ

あなたの咽喉に嵐はあるが

かういふ命の瀬戸ぎはに

智恵子はもとの智恵子となり

生涯の愛を一瞬にかたむけた

それからひと時

昔山頂でしたやうな深呼吸を一つして

あなたの機関はそれなり止まった

写真の前に挿した桜の花かげに

すずしく光るレモンを今日も置かう

    高村光太郎「レモン哀歌」



     *****


死というものにおよそ無縁な高校生のころ、学校の国語の授業でこの高村光太郎の「レモン哀歌」を聞いたことを思い出します。


それは午後の授業で、その授業のあとは、みんな机を教室の後ろに下げて、掃除の準備をしなければなりませんでした。

ところが、ある机の列がある男子生徒が机につっぷしているので、その移動が止まってしまいました。

なんだよ、早くしろよと、みんなが言ったのだけれど、その男子は動きませんでした。

じっと見ると、かれが泣いているということがみんなわかりました。

みんな、それで、そのまま教室を出て行きました。

わたしはみんなといっしょにその光景を風景のように通り過ぎたことをおぼえています。

国語の担当の先生は大変上手な先生でしたけれど、それでも、わたしは泣くことはありませんでした。

どうしてこの人はこんなところで泣いているんだろうという、不思議な気持ちばかりでした。


そしてそれからだいぶたって、ある瞬間、「ああ、そうか、、わたしは、人を愛するということも、愛されるということも、なにもかもわかっていなかったのだ、、。」
とやっと気づいた瞬間のことだけが今も思い起こされます。

そこから人生がやっと始まったのだと、今では思い起こされます。


智恵子のように、あなたと呼ばれて大切にされることがどれほど稀有なことなのか、わからなかったし、そのために不安でもあった時代を思い出します。

机に泣き伏していた男子は、本当の恋をしていたのだと、当時半分分かったようなことがやっともう少しわかったように感じられたのでした。


無限の未知数をはらんだ青春の時を、もう一度味わいたいような、、。

レモンの香気はもう似合わないのかもしれないような、、。


光太郎と智恵子の物語は清冽で、レモンの香りはいつまでたってもみずみずしいので、こんな詩を読むと、生きていることが切なくて、今頃になって泣いてしまいます。


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佐藤初女さんのおむすび

2008-12-10 | 心理学と日々の想い
先日、「ガイアシンフォニー第二番」をはじめて見る機会を得ました。
1992年に「ガイアシンフォニー第一番」が発表されて、この第二番は1995年の作品です。
あぁ、これが90年代なんだなぁと、時代の重みを感じながら見ました。

ガイアシンフォニー公式HP「第二番について」
動画に初女さんも登場されています。
http://www.gaiasymphony.com/co_guide2.html

登場人物(HPより)
1 ジャック・マイヨール(素もぐり105メートル記録保持者、イルカの友)フランス
2 14世ダライ・ラマ法王(チベット仏教最高指導者、東洋の叡智)チベット
3 佐藤初女(日本のすてきなおばあちゃん、日本の女性の生活の中の叡智)日本
4 フランク・ドレイク(天文学者、宇宙生物学者、地球外知的生命探査計画の父)アメリカ



90年代、わたしはこどもをうんだり育てたりしていて、外の世界と自分をわざと遮断してすごしていました。
ある時ふと「アネモネ」という雑誌を手にして、びっくりしました。

そこには、おばあさんがむすんだおむすびを、若い人たちがものすごく感動的な面持ちで食べている講習会の記事とか、イルカと泳いだり話したりするイベントのお知らせがたくさんあったりして、なんのことだろうと思ったことを憶えています。

それで、そこに出ていた佐藤初女さんという人のことや、イルカの何たるかを少し知ったものの、そのままにしていました。
時代精神とすっかり離れて生活していましたが、それはそれで満ち足りていたのです。
今こうしてこういう映画を見ると、なるほどこれらのことが当時熱心に探求されていたのだということが分かりました。

料理をする初女さんのお姿をはじめて見ました。
この方はもう長いこと、ご自宅を開放して、心が疲れた方たちがいつ訪ずれてもやさしく迎え入れて、心をこめた食事を出して、話を聞くということを続けていらっしゃるそうです。

山で採った山菜や果実のお料理のおいしいこと、、手作りの梅干しの入ったおむすびを食べて、自殺を思いとどまった人、生きる気力がわいて元気になった人、、彼女の元には引きも切らずに悩める人々がやってきて、彼女はおむすびをむすび続けている、そういう世界が紹介されていました。

大きな大きなおむすびは、手水をつけずに手のひらの温かさで塩をまぶして握るようです。
そうっと握るのがこつなのだそうです。
お米が息ができるように。。

小学館HP「初女さんの母の心はすべてに」ご本人のお話の声が聞けます。
http://www.web-edu.jp/hatsume/index.html
「月刊波動」HP・神の波動を感じて生きる 森のイスキア佐藤初女
http://www5c.biglobe.ne.jp/~izanami/kaminohado/008sathohatusne.html



初女さんは今86才。
大変なご高齢ですが今も全国に出向き、おむすびのむすび方とお話の講習会を続けていらっしゃるようです。

できることなら、このようなご高齢の方をあちこちお呼びせずとも、なんとか“良きおむすび”がむすべる身でありたいと切に思いました。
そのためには自分になにが足りないのか、そのことを考えていたいと思います。

おむすびを食べる側から、おむすびをむすぶ側に移ることが魂の成長なのでしょう。
人は誰でもいつでも、なにものかによって与えられる魂の食べ物を食べ続けているにちがいない、と思う日々です。
われらに日々の糧を与えたまえ、という祈りは魂の願いでもあるのでしょう。






写真はCD「ガイアシンフォニー2番」ジャケットから、冬の「森のイスキア」。
おむすびは筆者作なので、粗漏です。^^;


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小さな声を聞いていたい・・・むつまじく在るためには。。

2008-11-23 | 心理学と日々の想い
祝婚歌 吉野弘

  二人が睦まじくいるためには
  愚かでいるほうがいい
  立派すぎないほうがいい
  立派すぎることは
  長持ちしないことだと気付いているほうがいい

  完璧をめざさないほうがいい
  完璧なんて不自然なことだと
  うそぶいているほうがいい

  二人のうちどちらかが
  ふざけているほうがいい
  ずっこけているほうがいい

  互いに非難することがあっても
  非難できる資格が自分にあったかどうか
  あとで疑わしくなるほうがいい

  正しいことを言うときは
  少しひかえめにするほうがいい
  正しいことを言うときは
  相手を傷つけやすいものだと
  気付いているほうがいい

  立派でありたいとか
  正しくありたいとかいう
  無理な緊張には
  色目を使わず
  ゆったり ゆたかに
  光を浴びているほうがいい

  健康で 風に吹かれながら
  生きていることのなつかしさに
  ふと胸が熱くなる
  そんな日があってもいい

  そして
  なぜ胸が熱くなるのか
  黙っていても
  二人にはわかるのであってほしい




先日知り合いの家におじゃましたら、この詩の小さな額が飾ってあった。

そういえば20年前、わたしが結婚するときに、おばからこの詩をいただいたことを思い出した。

おばが、結婚祝いにと、この詩を巻紙に書き付けて、届けてくれたのだった。

「これは平和の民のお守りなの。」と言って、ホピインディアンのターコイズのペンダントと腕輪も添えてくれた。

たんすにしまっていた巻紙は、いつのまにかどこかにいってしまったけれど、正座をして、家宝か秘伝の書でも手渡すようにおごそかに手渡していただいたその巻紙の筆跡は、忘れられない。

結婚おめでとう、と言って、たたみに手をついて、礼をされた。

たいていの親戚は、わたしというよりわたしの横の父母におめでとうと言っているように感じられたのだが、そのおばはちょっと違っていたということだ。

でも、何にむかっての礼なのか、その時はまだわたしは全然わからなかった。

今ならわたしも少しはわかる。
まわりのすべてに対して、礼をすることが生きる作法だと。



北海道のG8サミットが終わった。

NGOサイドを応援していたわたしは、いろいろなことを考えてすごした。

世界経済の勝ち組を自認する国々の、そのまた勝ち組を自認する政治家たち。
あいかわらずのメディア。
いまひとつ伝わってこないNGOサイド。

無力感というのではないけれど、現実世界にこれでもかと誇示されあう諸力のすさまじさに食傷したというか、言葉をなくしてすごした。

アイヌの生きる土地、北海道は、アイヌモシリ、人間のすむ静かな大地と呼ばれてきた。

大地の上には、大きな声もあれば、小さな声もある。

書き文字をもたない文化は、小さな声の文化だろう。

小さな声で語られる、静かな大地が、今もそこにある。

小さな声を小さな声のまま、聞く人であれればと願う。

空想でも、思い入れでも、正義感でも、偽善でもなく、語られているものをありのままに聞く者でありたい、と願っている。

小さな声で語ることができる人であれればどんなにいいだろうかと思っている。

(7月記す)
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シュタイナーにおける8の字の型の曲線・・水・農業・からだ

2008-11-21 | 心理学と日々の想い
"HIBIKInoMURA Introduction"





シュタイナー教育をしている北海道の「ひびきの村」という所の紹介用動画があったので、載せてみます。
雰囲気が伝えられれば、と思います。
ひびきの村HP
http://www.hibikinomura.org/hibiki/hibiki.htm

動画の中で、水が8の字の型の曲線(レムニスカート)で流れる水路、というものが紹介されていましたが、形のもつ力がとても信奉されているので、水がそのような形に動くことで水のエーテル体がもっている力を強めることができるように、そのような形に動くように水路が作られています。

同じくシュタイナーの提唱した有機農法「バイオダイナミック農法」で、8の字の型の曲線に混ぜた有機肥料の水溶水を、8の字を描いて空中に散布しているところも動画に出てきます。


Wiki「シュタイナーの農業」より
        ↓
シュタイナーは有機農業のような地球次元だけでなく、天体の動きなど宇宙との関係に基づいた「農業歴」にしたがって、種まきや収穫などを行うという自然と調和した農業、「バイオダイナミック農法」(ビオダイナミック、ビオディナミとも、BIO-DYNAMIC)を提唱した。
ヨーロッパを初め世界各国で研究・実践されている。シュタイナーの農業理念に基づいて設立されたドイツ最古の認証機関であるデメター(demeter)は有機農法の連盟の中でも代表的な団体であり、厳格な検査によって、バイオダイナミック農法の商標の認証を行っている。日本では1985年に千葉県(現在は熊本県)の農場で「ぽっこわぱ耕文舎」が日本で初めて「バイオダイナミック農法」を始めた。

バイオダイナミック農法HP・有機肥料の作り方が詳細に書かれています
http://www.hibikinomura.org/farm/bio-dynamic/500/2005.html



この8の字を、オイリュトミーで美しく踊っている動画がありましたので、載せてみます。
鬼気迫るような真剣さで、宇宙の美が探究されているように思います。

http://jp.youtube.com/watch?v=f2t2rVmT25I&feature=related

http://jp.youtube.com/watch?v=_HgqeqgHoIU&NR=1
宇宙と響きあう人間というテーマが、シュタイナーの世界全体を貫いていると言えると思いますが、メビウスの環をえがく8の字の型の曲線は、無限運動であり、右回りと左回りの連続体であり、表と裏がねじれて出会うところであり、永遠と今についてたくさんのことを語りかけてくるように思われます。

シュタイナー学校の授業・・フォルメンとオイリュトミー
http://steiner.blume4.net/steiner4.html

8の字の形の動きというと、30年ほど前「メビウス身体気流法」という体の動かし方を習ったことを思い出しました。

けっこう流行っていて、今でいえばチベット体操くらいの人気を誇っていたように記憶しています。
手を横に8の字に振り続けるものだったと記憶しています。

このような所作も、おそらく古今東西の叡智につながるものなのではないでしょうか。


メビウス身体気流法HP・メビウスの動きの動画あります
http://homepage2.nifty.com/moebius/index.html
http://homepage2.nifty.com/moebius/r_tour_5.html



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シュタイナー学校の「七頭舞」と、オイリュトミー

2008-11-15 | 心理学と日々の想い
Eurythmy and Waldorf Education - excerpt from Eurythmy DVD


シュタイナー学校のオイリュトミーの練習    



先日のお祭りで初めて見た岩手の神楽舞を調べていたら、東京にあるシュタイナー学校「東京賢治の学校」がヨーロッパで七頭舞の公演を行っていたことを知った。

東京賢治の学校の「中野七頭舞」スイス公演 のyoutube動画
       ↓
http://jp.youtube.com/watch?v=0FJCTqx-e4g


シュタイナーには淡いあこがれがあったのだけれど、現実の子育てを“シュタイナー的“にするのは、あきらめた経験がある。

とても浮世離れしているので。^^;

でもそれはパラドックスで、シュタイナー教育は、この世(浮世)のあらゆる害から子どものたましいを守り、大切に大切に導き育てるための“現実的な”理論なのだとは思っていた。

そのように時間をかけて守りはぐくんでこそ、子どものたましいは本当にこの世(浮世)に足をつけて立つことができる。

そのように本当に子どものたましいがこの世(浮世)に堅固な足場を固めることにこそ、教育のすべてのエネルギーを費やすべきなのだ、と言われているのだとは思っていた。

ですが、我が家は“浮世”とのかかわりで手いっぱいだったもので、結局およそシュタイナーとはなんのかかわりもなく、浮世のただ中で生活して今に至っている。

そんな我が家でありわたしなのだけれど、このように本当にシュタイナー学校を作りあげた方たちがおられることを思うと、自分がしなかった子育て、もう一つの子育て、としてのシュタイナー教育というものを、黙々と実践し続けてきた方たちに思いを新たにした。

シュタイナー教育はヨーロッパ語で展開されている、いかにかして、宇宙とまじわり、響きあいたいという、たましいの源泉の動きの一つと言えるのではないかと思っている。



東京賢治の学校
http://www.tokyokenji-steiner.jp/index.html

wikiシュタイナー教育
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC%E6%95%99%E8%82%B2

wikiオイリュトミー
オイリュトミー(Eurythmy)とは、ドイツの哲学者・ルドルフ・シュタイナーによって提唱された身体表現の一つ。
意識と身体のギャップを埋め、言葉または音楽の力を動きに変換し、内臓(ミクロコスモス)を動かすエネルギー、惑星(マクロコスモス)を動かすエネルギーを関連付ける。また、言葉または音楽の持つエネルギーを身体表現によって具象化する。言葉のオイリュトミーと音楽のオイリュトミーは全く別物として扱われ、両方の要素を持つもの、たとえば声楽曲によるオイリュトミーは存在しない。 ギリシア語のευ(eu:美しい)、ρυθμός(rythmos:リズム)から名付けられた。
舞踏芸術の一種としての芸術オイリュトミー、教育の課程としての教育オイリュトミー、療育的な観点から行われる治療オイリュトミーなどがある。
日本には、多くのオイリュトミストがいる。舞踏家・笠井叡も、その流布に携わった1人である


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ふつうのこと・・ふつうの唄を聞ける暮らしへの雑感

2008-10-08 | 心理学と日々の想い



山根麻以さんの「ふつうの唄」、いいですね。

老人ホームに暮らす母の歯茎がやせて、入れ歯がうまく合わなくなってきた。
口の中の入れ歯がうまくはまらないというのは、想像の外やっかいなことのようで、
口をあけると歯が落ちてくるので、食べることも話すこともすっかり難儀になってしまったようだ。

だんだん口数が少なくなって、姿はまた少し小さくなった。

吸飲み(すいのみ)で牛乳を飲ませてあげながら、あぁお母さんは赤ちゃんになっちゃったんだ、、と思った。

飲み込みが困難なので、生まれたての赤ちゃんの方がずっと上手だ。

かつてお母さんの乳房からお乳を飲んだであろう自分を思った。

十数年前わたしの乳房からお乳を飲んだわたしの子ども達のことも思った。

母とわたしとこどもたちと、まだ見ぬ彼らのこどもたちと。。

たくさんの顔が流れるように現れて消えていった。

だれかの子どもになり、だれかの親になり、年老いて、土にかえり、、それからまた、
その土の上に生まれて、だれかに育てられ、だれかを育てて、土にかえる。。

わたしが今生きているのは、そんな生なんだ、と改めてもう一度思い直した。



先日新聞に上のお子様を亡くされた小学生のお母さんの投書があった。

「娘が亡くなってから、小学校は苦手な場所だった。
痛々しい娘の姿を思い出してしまうから。
息子の入学式。意を決して出席した。
平常心でいられるのか、自分のことが心配だった。
けれど息子の姿がとてもまぶしく輝いて見えた。
娘が泣いてしまった入学式をもう一度やり直している気がした。
娘はきっと、弟を見守ってくれている。
自分がもっともっとやりたかったことを、弟とここで一緒に経験していくんだ。
あこがれの給食、体育、運動会。。
そう思えて、息子に、その存在に心から感謝した。
息子の後ろ姿のとなりに、娘の笑顔が見えた気がした。」
       
        A新聞・生活欄投書より


あこがれの給食、体育、運動会、、というところで、何回読んでも泣いてしまった。

子育ては、日常の連続。

生命に添って生きるという約束。

今日の次には明日が追いかけてくる。
キャンセルも、延期もできない。
生命の流れとリズムが、すべてに優先する。

妊娠を知った瞬間、はじめてわたしは、わたしの体が自分だけのものではないという
ことに気がついた。

体の中で、別の生命と取り結んでしまったエニシ、、その不思議のループを味わうのが、
わたしにとっての子育てかと思う。

学校教育これでいいのか、給食に冷凍食品出していいのか、一番を競う運動会反対
、町にあふれる危険をどうする、子供たちの心は荒れ果てているじゃないか、、、

文句はいくらでもつけられるだろう。

でもただ生きているだけで、どれほど面白いか、
世界がどれほど不思議に満ちているか、
たくさんのものたちに守られて、なにかとひきかえに、今の自分がある、

そういう感じをぬぐいきれない。

ふつうの日々のなかに流れる、豊かさと実り、
大切にしないでどうする?
と、自問した。
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「賢治の学校」の映画をみた

2008-10-01 | 心理学と日々の想い

宮沢賢治の人間観を教育理念として、シュタイナー学校を運営している
東京賢治の学校」という学校が東京・立川にある。

その学校が、“宮沢賢治の教え子たちが語る賢治”というテーマで
DVD11巻を作った。

その中の一本の上映会があったので行ってみた。


東京賢治の学校HP
http://www.tokyokenji-steiner.jp/
カフェオハナHP
http://www.cafe-ohana.com/



賢治は花巻農学校を辞するときにこんな詩を書き残したという。

「この四ヶ年が
 わたくしにどんなに楽しかったか
 わたくしは毎日を
 鳥のやうに教室でうたってくらした
 誓って言ふが
 わたくしはこの仕事で
 疲れをおぼえたことはない」


そんな賢治の思い出を、老人たちがつぎつぎに語っていく。

賢治が花巻農学校で教師をしていたのは
1921年から4年4ヶ月間だった。
当時ローティーンだった生徒たちは撮影当時80代、
現在はご存命の方はおられないという。


      ・・・


「(先生とふたりで川で舟に乗ったとき)
 ちょうど静かな水面にねえ、日が照っているでしょ。
そうして先生も、とっても気持ちがよかったんでしょう。
川の真ん中あたりに行ったときにね、どこにしまってあったんだか、
りんごを出して水の中に入れたんだね。
そうしたところがねえ、トポンとりんごが落ちるでしょう。
日が照るでしょう。
水の中に入ったときのりんごの輝きがね、
ちょうどプリズムで見るように、色が分かれる感じでね。
それを何回も繰り返すんですよ。上げたり下げたり。
はあっ、きれいだ!という、その声がね、
全部同じ声じゃないんだ、喜び方がね。

言葉にあらわせないですよ、あの喜ぶ姿というのは。
本当に、童心というか、天真爛漫といいますかね。
ただただその世界にとけこんでいるもんだから。」

あっけにとられる少年に、賢治は
「泳がねすか?」
と誘いかける。

少年が断ると、賢治はひとりでさっさと泳ぎだす。。

      
      ・・・


そんな映像が2時間続いた。

DVD製作者であり、学校代表の鳥山敏子さんは、
この場面を著書で分析している。

「Tさんがそう話すのを見て、わたしはあっ、この人は
この時先生にまいってしまったんだな、と思った。
なにしろTさんはこれまで会ったことのないおとなに会ってしまったのだから。

賢治のその喜びの姿を見たとき、少年のなかに“大事件”が起きたのだ。
なぜ“大事件”ということばを使うかというと、
「生徒のなかに大事件が起きないような授業は授業ではない」という
以前宮城教育大にいらした林竹二先生のことばが
強くわたしのからだに残っているからである。

人間として生きていくうえで本当に必要なこと、
からだやこころが本質的に求めているもの、
人間の欲や勘定を越えたもの、
それはものすごくたくさん人間のからだのなかにしまいこまれている。

「宇宙の星のかけら」である人間として、わたしたちのからだのなかには
計り知れないなにかがある。
その何かのなかのひとつが賢治の振る舞いを見た瞬間、
T少年のなかで火花を放ったように感じられた。」
    
  鳥山敏子「賢治の学校・・宇宙のこころを感じて生きる」


鳥山氏は30年間の公立校での教員生活に限界を感じ、
1995年自分の願う教育を実践できる学校を
「賢治の学校」として設立した。

鳥山氏にとって、宮沢賢治は、理想の大人であり、理想の教師なのである。
シュタイナー教育なのだけれど、ちょっと一味和風の、
いわばよく咀嚼された“和製シュタイナー教育”のようである。

教育理念は、賢治の次のようなことばに要約されるという。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない
 自我の意識は個人から集団、社会、宇宙としだいに進化する
 この方向は古い聖者の踏みまた教えた道ではないか
 新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
 正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識して
 これに応じて行くことである
 われらは世界のまことの幸福を索ねよう
 求道すでに道である」
      
         「農民芸術概論綱要」


東京賢治の学校は今高校生まで170人の生徒が在籍している。

わたしは母親なので、こどもを育てる中でいろいろなことを
考えたり学 んだりという経験をさせてもらっているのだけれど、
子どもになにをどのように伝えるか、
どうしたら子どもは幸せになるのだろうか、
子どもの人生への親の責任とは、
また子どもを生んだことへの社会に対する責任(しつけ)とは、
といった種々の問題は、本当にむずかしい問題だと思う。

日々至らない自分を反省するばかりである。

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フィンドホーンのダンス

2008-10-01 | 心理学と日々の想い

先日オハナカフェにて、フィンドホーンの集いに参加させていただいた。

数年前、雑誌アネモネではじめてフィンドホーンという所を知ったときは、
心底驚いた。

イギリスの一人の大人しい女性(アイリーン・五児の母)が、
神様のガイダンスを受け取りはじめることになり、
霊的つながりがあると思われるピーター・キャディ氏とかけおちをして、
日々を祈りと労働にささげることになり、
何もない荒地を一大スピリチュアルコミュニティにつくりあげる、、
というニューエイジの伝説的なできごとは、とても興味深く、心踊った。

フィンドホーンHP
http://www.findhorn.org/workshops/japanese/japanese_home.php
オハナカフェHP
http://www.ohanacafe.jp/img/top.img/new_top/left-main02.gif


わたしはフィンドホーンで行われている「セイクリッドダンス」というダンスを
踊ってみたかったので、夢がかなって嬉しかった。



一番印象的だったダンスを図解してみた。

1、二重になって、手をつなぎ、外側の円の人は右回りに、内側の円の  人は左回りに16ステップ歩く。

2、反対回りに16ステップ歩く。(写真1)

3、中心にむかって4歩歩き、次に4歩しりぞく。

4、外円の人が、手をつないだまま、8ステップで内円に入る。
  こうすると、二重の手の輪が、ひものように交差する。(写真2)

5、そのまま右回りに、次は左回りに16ステップ歩く。

6、手をつないだまま、外円の人が内円から手をはずして、後ろに戻る。



2番は、4のところで次のように踊る。


4、外円の人が中心に向かって8ステップ歩く。
  その時、つないだ手を上にあげて、内円の人の輪の上に、もう一つの輪を作る。

5、外円の人が後ろに8ステップで退く。
  その時、内円、外円両方とも、つないだ手をはなし、外円の人は手を上から下に下ろす。(写真3)



   ・・・・・・  
 
手をつないで円になるのは、とても気持ちがよかった。
簡単な動きで、幾何学的な形のエネルギーが作りだされるようで
空間が開かれ、大きな花が生まれたようだった。

花が開くとき、ハートも開くのが感じられた。


会のはじめと終わりに引いたわたしのエンジェルカードは、
「サポート」と「ラブ」だった。

「サポート」を引いたとき、「サポートされる」のかな?ラッキー~。
と思ったのだが、ファシリテーターのまりりーなさんは、「シェアね。」
とおっしゃったのが印象的だった。

そうか、、助けてもらうのではなくて、助け合う、ということなのか、
と考えなおした。


ダンスの他にも、いろいろなゲームなどして、楽しかった。
ゲームは、頭で判断しないで瞬間瞬間を味わう練習なのだろうと思った。
頭の重さをわきによけると、ただ人と共にあることに
シンプルな喜びを感じている、こどものような自分を見出すのだった。

フィンドホーンへの思いは尽きない。。

ハートの喜びを分かち合うひと時をすごさせていただき、
ほんとうにありがとうございました。
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ヴォイスヒーラー渡辺満喜子さんの声

2008-10-01 | 心理学と日々の想い

わたしはひねくれ者なのだろう、、“癒し”ということばになかなかなじめない。
いやし、と聞くとおもわず、いやしいを連想してしまうほど、違和感を感じてしまう。

それは、“癒し”などというものでは決してわたしは満たされることがないであろう、
というほどの、大量の虚無と絶望を、くもの糸のように、
わたしの意識が吐き出し続けているからであろうと分析する。

哀れんでもらわなくて結構。
そんなことはこの世の習いよっ、と息巻くわたしがつねにいる。

そしてわたしは大いなる満足を夢想する。。

そんな愚かなわたしであるが、ヴォイスヒーラー渡邊満喜子さんの声は、いいなあと心底思う。

その声はまるでりりしい大木のように、天と地のあいだをつなぐ声なのだ。

曲のタイトルはこんな感じで。

1、声は天から降り立つ
2、声は大地の息吹となる
3、声は人の心で目覚める
4、声は心を解き放つ
5、声は歌うために立ち上がる
    CD「The Birth of Voice」より

渡邊満喜子HP
http://homepage2.nifty.com/VoiceHealingHarmony/
紹介HP
http://www.mammo.tv/interview/archives/no162.html


この人の歌声は、夫の赴任先のメキシコに滞在中に、土地の息吹にふれることで目覚めはじめ、
帰国後は、野口整体をしているはずみに、溢れはじめた。


「(野口整体の)意識を超えた身体的な動き」のなかで、意識を通さない「声」があらわれる人がたまにいるようで、
私はある日、活元が起こっている最中に勝手に胸郭の両側がうごきだして、
澄んだ美しいソプラノの声をあげた。(略)

初めての「活元」が身体を去ったあと、夢のなかにいるような定まらぬ心地で家路についた。
12月の透明な冷たい空気のなかを運ばれていく自分の身体は、
未知の財宝を隠す手付かずの大地のようであった。

「私とは、いったい誰か?」いぶかしげに自分を見つめるまなざしが生まれ、
初めて異性の愛にめぐりあった少女のように、不思議なときめきがあふれていた。」
      
 渡邊満喜子「聖なる癒しの歌」P,94



そうした内側の感覚と外側の自然から来る感覚は、メキシコに滞在しているあいだ、
常に感じられていたようで、それは、生きとし生けるものとの間に交わされる、深い愛情体験だったという。


「夕方、ひとりで台所に立って、窓から入ってくるかすかな風のなかにいたときのことである。
わたしはおぼろげながら自分がなにかを待っているのを知った。
ふしぎな実感だった。そしてまもなく、それがやってきた。
最初は頬をなぶっていた夕べの微風とほとんど変わらないものだった。
しかしすぐに深い懐かしさが突き上げてきた。
ひんやりとした霊気のなかで、誰かの優しい手が私にふれていると思った。

(略)

優しい不思議な手のひらが触れて癒してくれているのは、
緊張にこわばった私の心であり、身体だった。
不思議な恍惚感が潮のように引くと、今度はせきを切ったように涙があふれてきた。
「おまえはなぜこんなところまで来てしまったのか」
と繰り返し何かが私に問うていた。
「どこから道をまちがえたのだろう」しきりに問い返す自分がいた。
       
 同著p、45


彼女は、生きとし生けるものとたくさんの愛情をかわしながらも、
なお生きることへの恐れを感じる自分を感じて、
なぜそんなにもみずからの「自然」を抑圧してしまったのだろう、
それはなぜかと考えている。

そしてこのように考える。


「自然を飼いならし、自然を従わせることによって多くの生産様式を獲得してきた私たちの文明が、
その底に自然に生きる愛しい者たちを殺戮してきた記憶をもっているなら、
私たちという存在そのものの奥深くにも「殺戮された自然という名の愛しい自分」が
隠されているにちがいない。
私たちが「自我の領域でとらえることのできない自分」に強くひかれながら、
同時に深い抵抗と恐怖を感ずるのはそのためではないだろうか。」
        
同著P,267




これを原罪というならば、わたしは原罪を膝にのせ、
腹をくくって生きてみたい。

また、原罪によって傷を負ったままになっている、むき出しの野生と、
その魂であるならば、わたしはそれらと共に生きてみたい。

ヴォイスヒーラー渡邊さんの声はすばらしい。
だからこそ、安易に“癒されることを求めるのではなく、
なにが人を苦しめ、なにが人を癒すのだろうか、
どのような在り方が芯から人を満たすのだろうかと、
思いをはせつづけたいと思うのだ。
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