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始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

春分の夜の蝶

2008-10-01 | 心理学と日々の想い



春分の夜は、母の老人ホームに行ってすごした。

いつもは遅くても夕食の準備までには帰宅するのだけれど、
母はいつも、「ここは夜になるとこわいのよ」と言って引き止めたがっていたので、
祝日のこの日は、夕食の準備をはやばやとすませて夕方老人ホームに向かった。

母はこのごろ少し幻覚が出るようで、
夜中に大きな蝶が飛んでくると言って、
おびえたりベッドから下りようとすると、寮母さんから聞いていた。

夜の闇のなかで、母がどんな気持ちでいるのだろうと思った。

蝶は古来、死者の魂の使いと言われているという。

母を訪れるその蝶は、どこから来て、なにを告げようとしているのだろう。

ずいぶん前に新聞で読んで、切り抜いていた石牟礼道子さんの随筆を読み返したくなった。



               *****



              (引用ここから)


   「自分と出会う 石牟礼道子 「ふたりのわたし」」 

                      朝日新聞 1994年12月27日 


いくつばかりだったろう。

母はサフラン畑の手入れをしていて、わたしはその脇に寝かされ、空ゆく雲に見とれていた。

黄金色の霧がときどき目の上を流れた。

蜜を含んだ椿の花粉だったかもしれない。

おおきな椿の木のある丘の上だった。

刻々と変わってゆく空の様相、
その光の彩と影の動きの壮大なこと。

一生を通して、
幾度この時の雲の記憶がわたしを呼び戻したことだろう。(略)


このような年齢のときは、言葉より思念の方が先に育つのであろうか。

というのもその時わたしは

“もう一人の自分”が雲の彩といっしょにやって来て、
地面の上のわたしと入れ替わるのを感じたのである。


それは漠とした悲しみを伴った、
長い旅への出発に似ていた。

母はそばにいたが、天涯孤独な小さな自分を脱け出して、
その魂のようなのがゆく後ろ姿。

どこへそれはゆくのだろう。

彼方の世界にはここらあたりとそっくりなおおきな椿や畑があり、
父母や近所の人たちがいるかもしれない。

けれどもなぜだか少しずつ違うひとみの色をして、

どきどきするような懐かしいことが、
そこにはあるのではないか。

向こうのわたしは、こちらのわたしとまるで似ていて、

心もそっくりで、

今も同じことを考えているのではないか。

わたしはもうひとりの自分とあいたくて切なかった。(略)


こういうわけで天の運行というものは、

人の心の深層をも呼び起こしてゆくものだと、
このごろまた思うことである。

以来わたしは15,6の頃までこの丘にゆき、
夕暮れの雲を見るのが大そう懐かしかった。


陽の落ちてゆくさきは天草島で、

わたしが幼時に眺めて天の神が来て座するのだと信じ込んでいた大岩は、
25年くらい前にダイナマイトを仕かけられて割られ、

そこらには市営住宅が建ち並んでいる。


隣の畑の境木だったあの大椿は切り倒されて、

まわりを囲んでいた椎の林や柏林も今はない。


そして興味深いことに、

わたしの中ではいまだに二人の自分が出たり入ったりしていて、
迷い子になりながらも住み分けをやっているのに気づかされる。


どうやらこれは、
近代的な自我の分裂などとは違うもののようである。

子供心に思っていた彼方とは、
たぶん前世のことではなかったか。

この世にやっては来たものの、
ちゃんと生まれていなかったのかもしれない。

ただそちらの方に、雲の光があるもので、
わたしの二人旅は終わらない。

   
               (引用ここまで)

 
                *****


死者たちのすむ彼岸のくには明るい世界で、
ひとびとがかつてやってきた処であり、また帰ってゆくふるさとだ、

という東洋に昔からある思いは
なんと安らかな、おだやかな思いであろうか。

闇のなかで母のまわりを飛び交うという、おおきな黒い蝶に、
わたしは親愛のきもちを感じた。

きっとその蝶は、いつだって飛んでいるにちがいないと思うのだ。

ただ、エンジン全開で運転している時には、うまく焦点があわない、
たましいの記憶ではないだろうか。

午後9時老人ホームを出るまで、その夜そこには蝶はやってこなかった。



wikipedia「石牟礼道子」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%89%9F%E7%A4%BC%E9%81%93%E5%AD%90
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「ア コース イン ミラクルス」を聞きかじって

2008-10-01 | 心理学と日々の想い
 


  あなたは知っている

愛し合う関係がどのようなものか
その記憶は私たちのなかに埋もれている
それがどれほど神聖で
やさしさに満ちあふれ
天国のくちづけで祝福されたものか
また、その愛はすべての人に可能だということも


私たちだれのなかにもその場所はある
だれもがすべてを憶えていて、知っている場所
今はかすかなささやきになってしまったかもしれないけれど
静かに耳を傾ければ
それは今でも聞こえる

愛の名において席巻する狂気
機能不全のパターンや分離、そして怖れ
そうしたことすべての根底に
この古代の叡智は横たわる

私たちは戦いのためにここにいるのではない
聖なる地を地獄にするために地球にいるのではない
お互いを愛しあい、ともに地球で天国を体験するために
私たちは今この時、ここにいる

「聖なる愛を求めて(「奇跡についてのコース」にもとづく愛の実践編)」ジョーン・ガトゥーソ著 大内博訳 まえがきより




「ア コース イン ミラクルス(奇跡についてのコース)」は名前しか知らなかったのだが、受講生であった著者の本書は、そのとてもわかりやすい解説書となっているようだ。

心理学的な洞察とアプローチによって、神秘主義的な境地に到達することが試みられているようで、それが真理であるかどうかは、一人ひとりが判断しなければいけないことであるけれど、心理学的な飢餓感を洞察によって解消することで、「むさぼる愛」、「比べる愛」から、「与える愛」「個我をこえた愛」(聖なる愛)に、自分の愛を発展させることで、あたらしい世界観を拓こうとする試みは、時代の要請にかなっていると思う。

「コース イン ミラクルス」HP
http://www.acim.org/Image/Home/acimlogo_and_words.gif (日本語テキストは来年発刊予定)



「私たちの世界は、なんの意味もないことや重要でもないことで、あっという間にいっぱいになってしまいます。
私たちの考えは本末転倒もよいところで、まるで私たちは狂気と貧欲と憎悪のブラックホールに吸い込まれてしまったようです。

そういう状態にあっても、私たちの内なるスピリットは目を覚ますように、喜びに目覚めるようにと呼びかけています。

私たちがめざすゴールは、毎日毎日の生命の営みのなかに喜びを見出すことであり、いたるところで奇跡を体験することです。」P.118



「あなたの兄弟、姉妹を自分自身として愛する、それがスピリチュアルな現実です。

「聖なる関係」においては、まず自分自身を本当に愛することを学び、それからパートナーを自分と同じように愛することを学びます。
これこそ祝福された行為です。

私たちがこの地球に存在して、それぞれの人生を歩んでいる理由は、お互いを愛するためです。「聖なる関係」は、そこに到達するためのひとつの道なのです。

わたしたちの魂はそれを知っていて、身体をもった「親愛なる魂」との出会いを準備してくれたのです。
それなのに、わたしたちがその計画をぶちこわしにして時間がかかっているというのが実状です。

わたしたちのちっぽけな計画は放棄して、神様が準備してくださっている壮大な計画を受け入れてください。
神様が通れるように、道を譲ればよいのです。

すばらしく、かつ簡単なお祈りを紹介しましょう。
「わたしは道をゆずり、大いなる存在に導いてもらいます」。」P225




「コース イン ミラクルス」は、キリスト意識からのメッセージであるという。
フィンドホーンが、キリスト教と一線を画しているのに比べて、これは、キリスト教文化の中の、ネイティブマインドと言えるだろうか?
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