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わたしはひねくれ者なのだろう、、“癒し”ということばになかなかなじめない。
いやし、と聞くとおもわず、いやしいを連想してしまうほど、違和感を感じてしまう。
それは、“癒し”などというものでは決してわたしは満たされることがないであろう、
というほどの、大量の虚無と絶望を、くもの糸のように、
わたしの意識が吐き出し続けているからであろうと分析する。
哀れんでもらわなくて結構。
そんなことはこの世の習いよっ、と息巻くわたしがつねにいる。
そしてわたしは大いなる満足を夢想する。。
そんな愚かなわたしであるが、ヴォイスヒーラー渡邊満喜子さんの声は、いいなあと心底思う。
その声はまるでりりしい大木のように、天と地のあいだをつなぐ声なのだ。
曲のタイトルはこんな感じで。
1、声は天から降り立つ
2、声は大地の息吹となる
3、声は人の心で目覚める
4、声は心を解き放つ
5、声は歌うために立ち上がる
CD「The Birth of Voice」より
渡邊満喜子HP
http://homepage2.nifty.com/VoiceHealingHarmony/
紹介HP
http://www.mammo.tv/interview/archives/no162.html
この人の歌声は、夫の赴任先のメキシコに滞在中に、土地の息吹にふれることで目覚めはじめ、
帰国後は、野口整体をしているはずみに、溢れはじめた。
「(野口整体の)意識を超えた身体的な動き」のなかで、意識を通さない「声」があらわれる人がたまにいるようで、
私はある日、活元が起こっている最中に勝手に胸郭の両側がうごきだして、
澄んだ美しいソプラノの声をあげた。(略)
初めての「活元」が身体を去ったあと、夢のなかにいるような定まらぬ心地で家路についた。
12月の透明な冷たい空気のなかを運ばれていく自分の身体は、
未知の財宝を隠す手付かずの大地のようであった。
「私とは、いったい誰か?」いぶかしげに自分を見つめるまなざしが生まれ、
初めて異性の愛にめぐりあった少女のように、不思議なときめきがあふれていた。」
渡邊満喜子「聖なる癒しの歌」P,94
そうした内側の感覚と外側の自然から来る感覚は、メキシコに滞在しているあいだ、
常に感じられていたようで、それは、生きとし生けるものとの間に交わされる、深い愛情体験だったという。
「夕方、ひとりで台所に立って、窓から入ってくるかすかな風のなかにいたときのことである。
わたしはおぼろげながら自分がなにかを待っているのを知った。
ふしぎな実感だった。そしてまもなく、それがやってきた。
最初は頬をなぶっていた夕べの微風とほとんど変わらないものだった。
しかしすぐに深い懐かしさが突き上げてきた。
ひんやりとした霊気のなかで、誰かの優しい手が私にふれていると思った。
(略)
優しい不思議な手のひらが触れて癒してくれているのは、
緊張にこわばった私の心であり、身体だった。
不思議な恍惚感が潮のように引くと、今度はせきを切ったように涙があふれてきた。
「おまえはなぜこんなところまで来てしまったのか」
と繰り返し何かが私に問うていた。
「どこから道をまちがえたのだろう」しきりに問い返す自分がいた。
同著p、45
彼女は、生きとし生けるものとたくさんの愛情をかわしながらも、
なお生きることへの恐れを感じる自分を感じて、
なぜそんなにもみずからの「自然」を抑圧してしまったのだろう、
それはなぜかと考えている。
そしてこのように考える。
「自然を飼いならし、自然を従わせることによって多くの生産様式を獲得してきた私たちの文明が、
その底に自然に生きる愛しい者たちを殺戮してきた記憶をもっているなら、
私たちという存在そのものの奥深くにも「殺戮された自然という名の愛しい自分」が
隠されているにちがいない。
私たちが「自我の領域でとらえることのできない自分」に強くひかれながら、
同時に深い抵抗と恐怖を感ずるのはそのためではないだろうか。」
同著P,267
これを原罪というならば、わたしは原罪を膝にのせ、
腹をくくって生きてみたい。
また、原罪によって傷を負ったままになっている、むき出しの野生と、
その魂であるならば、わたしはそれらと共に生きてみたい。
ヴォイスヒーラー渡邊さんの声はすばらしい。
だからこそ、安易に“癒されることを求めるのではなく、
なにが人を苦しめ、なにが人を癒すのだろうか、
どのような在り方が芯から人を満たすのだろうかと、
思いをはせつづけたいと思うのだ。
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