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始まりに向かって

ホピ・インディアンの思想を中心に、宗教・心理・超心理・民俗・精神世界あれこれ探索しています。ご訪問ありがとうございます。

畑正憲の「ヨーシヨシヨシ」・・動物抱きしめ心の交流

2013-12-30 | 心理学と日々の想い



今年最後の投稿になりました。

何にしようかと思ったのですが、畑正憲さんの記事のご紹介にしようと思いました。

畑氏は、麻雀に、ものすごくお強いのだそうです。

その、勘の良さについて、30年近く前に、どこかで読みました。

その文章を探しているのですが、まだみつかりません。

読んだ時の記憶によれば、畑氏は、麻雀と動物との交流とを同じ次元で語っておられました。

私の理解する表現で言うならば、右脳的な直観力が強い方であると思いました。

くわしいことは後日、調べまして、投稿したいと思います。


本年は、お付き合い下さり、ありがとうございました。

どうぞ、よいお年をお迎えください。



                 ・・・・


「畑正憲のヨーシヨシヨシ・・動物抱きしめ心の交流」読売新聞2013年7月14日


動物たちと衣食住を共にする「動物王国」の建設で知られる。

愛称はもちろん「ムツゴロウ」。

動物に接する時が印象的だ。

ヨーシヨシヨシと声をかけ、抱きしめる。

それはどんな猛獣だろうと変わらない、たとえヒグマであってもライオンであっても。


その原体験は満州開拓団の村で育った小学生時代に遡る。

医師だった父がオオカミと犬の雑種を拾ってきた。

「タロといって真っ黒で水かきもあって、近所の犬なんかは相手にしない、とても強い犬でした」。

なつかせようと、母親が赤ん坊をあやす要領で「ヨシヨシ」とやってみた。

「しかし遠くを見てね、全く相手にしてくれない。

おやじの姿が現れるとパッと駆け寄って行ってしまう。

気持ちがむずがゆかった」。

ありとあらゆる動物に憧れ、追い求める根底にあるのは、”ほろ苦い思い出”なのかもしれない。


心を通い合わせることができたと感じたのは、執筆活動を始めた1970年代の始めに、ヒグマ「どんべえ」と北海道の無人島で暮らした時のこと。

「この子の親になるにはどうしたらいいか」。

24時間、徹底して子どもとして接する生活を3年続けた。

どんべえは抵抗し、初めは生傷が絶えなかった。

しかし最後の方で「オッオッオッ」と独特の鳴き声で後追いするようになった。

「僕が現れないと鳴き続ける。母親になれたと思った」と振り返る。




1980年から2001年に放送されてブームとなったフジテレビ系の動物情報番組「ムツゴロウとゆかいな仲間たち」。

ロケでは世界中の動物たちと出会った。

時には恋愛関係に発展したと感じたことも。

「象に「お前、好きだよ」と信号を送り続けたら、乗ってこられてね。でも体重はかけない。

ここまできたかと感動しました」と恍惚の表情を浮かべる。

「好きになられちゃったことがたくさんありました。

オンエアできなかったマル秘映像がいっぱいあるんですよ。ふふふ。」



犬と共にドッグフードを食べ、象と汚物混じりの水辺で遊ぶ。

誰にも真似できないムツゴロウ流交流術は、どこを目指しているのか?


「ぼくはね、絶対的に動物側に立つ人間でありたいと思っているんですよ。

やっぱり彼らは言葉で意思表示できないから」。


人間の赤ん坊も同じという。

「動物との付き合い方を教えてくれた存在ですし、人間が端的に現れるのが赤ん坊ですからね」。

街中で赤ん坊をみかけると、やはり「ヨーシヨシヨシ」と構わずにいられない。

動物への人並外れた無償の愛。

その「動物」には人間も含まれているのだ。


                 ・・・・・

HP「ムツゴロウ動物王国」


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「蛇を統御する・・ホピ族の「蛇とカモシカの祭り(3)

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ブログを始めて5周年・・これからもどうぞよろしくお願いいたします

2013-10-01 | 心理学と日々の想い



今日、10月1日で、このブログは5周年を迎えました。

昔から、文字に携わる仕事をしてきたので、読んだり書いたりするのは苦にならないのですが、継続するのはやはり気力と体力を要するものだと感じています。

書きたいことに、手が追いつかないし、きちんと仕上げたいという思いがあるので、書くのが苦痛な時もあります。

私がこのブログを書いているのは、いったいどういう動機からかと言うと、バラバラな記事に見えても、実は全体を通じて、全人類的な精神像を刻んでみたいという望みがあるのだと思います。

なので、「ブログ内検索」で、突拍子もない単語で、全く違うカテゴリーの記事がつながったりすると、私としては密かな喜びを感じたりしています。

また本来、トンデモ系の話も大好きなので、そちら方面も、これから鋭意書き進めてみたいと思っております。

どうかこれからも、いろいろな方に、お気が向かれた時に読みにいらしていただけますよう、祈念しております。

微力ではございますが、力のかぎり継続してゆきたく、精進してまいりたいと思っております。

今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

Veera拝

(写真はマチュピチュの風景・インカ文明展のパンフレットより)



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自殺は許されるべき選択肢・・ウィリアム・レーネンは語る

2013-07-25 | 心理学と日々の想い



サイキックチャネラーのウィリアム・レーネンさんと、作家の吉本ばななさんの対談&レーネンさんの語りの二部構成になっている「超スピリチャル次元・ドリームタイムからのさとし」という本を読んでみました。

お二人には長い交流があり、対談は面白かったです。

でも、ちょっととりとめがないので、レーネンさんのこの一文だけをご紹介することにします。


            *****

   
           (引用ここから)

「自殺・・他の選択肢よりも良い悪いではなく、その原因をみつめることが重要」


過去60年間で、自殺率は高まっています。

先進国に近づけば近づくほど、自殺率も高まっています。

多くの人は、自殺をすることは、魂に対する罪であると考えます。

これはもう一度、考えなおす時期だと思います。

自殺をしても、その魂が地獄、暗闇に行くわけではないのです。

自殺とは、人が行う選択の一つであって、他の選択肢よりも良い、悪いということはありません。

スピリットワールドに行けば、魂は平等に扱われるのです。


魂が、次の転生に準備ができれば、前の人生での死がどんなものであったかは関係ないのです。

人が困難な状況を経る時、状況にどう対処するのかの選択枝は、一つ以上あるのです。

自殺は、すべての人間に開かれた多くの選択肢の一つなのです。


自殺をした人に対して、多くの人はネガティブな判断をします。

人が選択したことを、ポジティブ、ネガティブと決める権利は誰にもありません。

自殺にまで至った状況を見つめることが重要なのです。

自殺へ至る原因はしばしば家族による支配、または良い、悪いという家族による判断、社会的状況によるものなのです。

多くの親は、子供たちの教育に期待を持ちます。

特定の希望にフィットする子供であることを希望します。

でも、学歴やキャリアとは関係のない理由で生まれる子供もいます。

子供にとって適切ではないパターンを強制されると、子供は精神的に病んでいきます。

子供はそれぞれに異なるのです。

子供の個を無視し、あまりにもプッシュしすぎると、子供はさまざまな逃避をするようになります。

現在、みずがめ座の時代には、過去に機能してきたやり方からシフトしなければならないのです。


病気になり、治療法がない時があります。

よくなるという希望がなく、長い間苦しむのではなく、新しいカルマを作らずに、人生を終了することがあるのです。

病気の人は、機嫌が悪くなるか、落ち込むか、怒り、そのエネルギーを自分の人生にいる人たちに向けるのです。

このようなネガティブな感情を表現すると、これが自分と、愛する人たちへのカルマになるのです。

病気の人が自殺をする場合、威厳と優雅さを持って、これは許されるべきことなのです。

人が、自身のこの人生への魂の意図に従って生きていないと思う場合、ネガティブな行動、または自殺を選択します。


家族や友人が、人生で選択することを好きになる必要はありませんが、選択する権利を認めてあげなくてはならないのです。

自殺をしない人はたくさんいますが、その代わりにネガティブなことをして生きることを選択しています。

ネガティブに生きることを選択すると、自殺をするよりもカルマをもっと創造します。

多くの人は自殺をすることを恐れているので、緩慢に死を招くことを選択しています。

現実逃避のために飼食、喫煙をすることも緩慢な自殺です。

アルコール、ドラッグの依存症者は、人生に不満があります。

人生に変化を起こすのではなく、ゆっくりとした自殺を選択しているのです。


考え方を変えるサポートを、私たちはする必要があります。

人を平等に扱い、人の選択に邪魔をしないことを学ぶ必要があるのです。

自殺を止めたいのであれば、まずはこの世界をすべての人にとって、個を許される安全な場所にしなくてはなりません。

親は、古い子育て法は終わり、新しい方法が必要であることを理解しなくてはならないのです。


             (引用ここまで)


              *****


>自殺とは、人が行う選択の一つであって、他の選択肢よりも良い、悪いということはありません。
スピリットワールドに行けば、魂は平等に扱われるのです。

>人が選択したことを、ポジティブ、ネガティブと決める権利は誰にもありません。


最近、判断するということに躊躇を感じることがあり、こんな文章が目にとまりました。

なにが良くて、なにが悪いか、ほんとうに人それぞれで、人のことはその人に任せるしかないのだろうかと思うことがあります。

ユングの言葉に、「おそらく無意識は意識を推し進めようとしているのだ」というような言葉があったと思います。

意識は無意識の大海に浮かぶ小舟のようなもので、無意識は全体として、意識を良い方向、進化する方向、より冴えた意識にするような作用をもっているのだろうと思います。

世界は無意識でできている。

全体に対する信頼さえあれば、意識は恐れることなく生きてゆくことができるのではないかと思います。


>自殺を止めたいのであれば、まずはこの世界をすべての人にとって、個を許される安全な場所にしなくてはなりません。

個を許される安全な場所、、まさにそれが大切なのだと思います。

二人で四畳半に暮らしたことがありますが、さすがにきつかったことを思い出します。

人にはある程度の、その人のためのスペースが必要なのだろうと思います。

物理的な空間のみならず、心のスペースも、その人がゆったりと息を吸って大丈夫だと思える安全なスペースが確保されなければいけないのだと思います。

その心のスペース探しが人生の楽しみでもあると思いますが、苦しいんだ、楽しくない、という場合はどうするか、というのが問題です。

その場合には自殺も一つの選択肢としてOKだ、というのが、この著者の述べているところです。

著者と吉本ばななさんは、タイトルにもある「ドリームタイム」という意識空間の友人であるようで、そのような意識空間においては、生きていることも死んでいることも大差ないようです。

行き詰った時には、ちょっと思い出してみようかな、という言葉でした。



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歌よ、平和につながって・・俵万智さん(朝日新聞)

2013-05-01 | 心理学と日々の想い


朝日新聞(2013年2月1日)より

「歌よ、平和につながって・・俵万智さん」


             *****

           (引用ここから)


東日本大震災の後、仙台にいた小学三年生の息子を連れ、沖縄まで逃げました。

以来、石垣島で2人暮らしを続けています。

「東北を見捨てるの?」などとツイッターで非難され、落ち込みました。


「子を連れて、西へ西へと逃げてゆく おろかな母と言うならば言え」

昨年の三月11日に出した短歌集に収めた歌です。

母親として動き、その思いを紡いだつもりです。


あの日が来るまで何も考えていなかった自分に気づきました。

いったん核の事故が起きれば、故郷が奪われ、生まれてくる命にまで影響を及ぼす。

原発ゼロへ、新たなエネルギーの開発に向け、生活レベルを落としても向かうべきです。


沖縄の人は先祖をすごく敬う。

今自分がいるのは、何百年前の先祖がいたからだ、と。

だから何百年先の子孫のことも考えられる。

今の日本の政治家に最も欠けた発想ではないでしょうか?


8月の6日9日15日。

何度その日が巡ってきても核兵器廃絶の訴えは現実に届かず、世界で紛争は絶えません。


しかし人間には創造力があります。

戦争は始めた人ではなく、一番弱い人、特に子供たちを傷つけ、未来を奪う。

小さい頃、母が読んでくれた岩崎ちひろさんの絵本でそれを学びました。


わたしは短歌をつくる上で、当たり前の日常の中にささやかな幸せを発見していきたい。

そこに幸せを感じられるのは、土台に平和があるからこそ。

歌が平和につながればと願っています。


             (引用ここまで)



               *****


少し前の新聞に載っていた小さな記事です。

私はこういった記事を見ると、切り抜いて、しまっています。

俵万智さんが淡々とおっしゃっておられることは、シンプルで、分かりやすく、これ以上の解説や分析の要らない、、おそらく、これ以上の解説や分析を拒んでおられる、一人の女性の魂の核心の存在を感じます。

私の知り合いの方でも、俵さんのように、すばやく子供をつれて西へ西へと、さらには、遠く海外へと、居所を移していらっしゃる方々がたくさんいらっしゃいます。

なんにもしないで、東京近郊にぼんやりと住み続けている自分は気が狂っているのだ(正気の沙汰ではない)、ということは、私は、分かっているのです。

でも、行動に移すにはエネルギーがいるし、それに必要な天の導きも無ければ、現実に動くというようなことはできないでしょう。

私のまわりの、たくさんの方々の、今、現実に行われている「民族の大移動」を、なんと表現すればいいのか、言葉がみつかりませんけれど、それは、ほんとうに、そのようにするべきことなのだと、私は思っています。

でも、そういった動きを、女性性のなんとかとか、といった、ある種、聞き飽きたような言葉で括りたくないという気持ちがあり、この記事は、そのまんまに、お届けしたいと思います。

命を張って、子どもたちを連れて、故郷を後にされている、すべての女性の皆様に、愛と敬意を込めて。。



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読んでくださって、本当にありがとうございます。

2013-02-03 | 心理学と日々の想い
こんばんは。

いつも読みに来てくださり、ほんとうにありがとうございます。

もし、こういうことに関する記事を書いたらどうだ、というご意見ご希望がございましたら、どうかお気軽にコメント欄、メッセージ欄などにお書き込みくださいませ。

対応できないこともございますが、できるだけご希望に添いたいと思っております。

今現在格闘しております古代アンデス文明って、ほんとに難しいんですよ。。

古代エジプト文明でなんとか、言語化することができるかもしれませんが、文字のない文明のことを文字にするということは、非常に難しいことだと思っております。

無理、、なのかな、、と思うことも度々です。。
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少年と死刑・光市母子殺人事件(4)・・更生を期待できるか?

2012-03-05 | 心理学と日々の想い
光市母子殺人事件に関して2月28日の朝日新聞に、「ニュースを読み解くウェブサイト「webronza」から」という小さな記事がありました。

桐蔭横浜大学法学部教授 河合幹雄氏の文章で、以下のようにありました。

この方はユング心理学者の河合隼雄氏の御子息のようですが、この事件は自殺した自分の母親への少年の無意識の力が強く働いており、情状酌量の余地があるということを指摘している文章だと思います。


       *****


     (引用ここから)

「死刑確定で終わらぬ光市事件」

報道された事件と、記録で見る事件とが、これほど大きく異なる事件はない。

報道機関は光市事件で、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理憲章委員会からの厳しい批判を受け、あおる報道はやめたが、正しい情報提供はできていない。

少年の原体験は、自殺した母親の死体の脇に自分が一人ぼっちで取り残されたことであったろう。

殺してしまった母親の脇に取り残された赤ん坊によって、原体験を再現してしまった。

その赤ん坊は「自分」だったはずである。

裁判の事実認定で、発覚を防ぐために赤ん坊を殺したというのは、死刑という結論に無理に持っていくための後付けの理屈のように思える。


最高裁は、世論調査を見て、少年の刑事罰は軽くするという司法界の常識が世間では全く受容されていないと解釈し

国民を啓蒙するのではなく、「世論」に追随したように見える。

治安の悪化や、少年犯罪の凶悪化といった誤った印象を国民に与えて、厳罰化世論を形成させた報道機関は、それを是正する義務がある。

「安全と水はタダ」の70年代に比べ、現在は殺人事件が半分以下に減少しているのに、死刑判決が急増したことを大きく取り上げるべきだ。

被害者遺族の気持ちや死刑について、あまりにも単純化された言説が多すぎる。

更生が期待できないというが、死刑囚こそ反省の必要がある。

現場ではそう信じられ、努力している。


悪人も救われる、生まれ変わる、といった死生観もある。

死刑執行で終わりではない。

少なくともこの少年の死刑執行は、全国の死刑囚の中で一番最後になされるべきだと考える。


          (引用ここまで)


         *****


弁護団が判決に申し立てをしたという記事がありました。

誰もが被害者になる危険があるのですから、社会に危害を加える人間には厳罰を処すべきだというのも正論だと思います。

被害者の立場からすれば、犯人をどんなにしたところで、失った大切な人は帰らない、その罪は万死に値する、という考えは当然です。

しかし、不運な成育歴には情状酌量の余地があるという気がします。

少年法を厳罰化するべきかという問題は、まだ議論の余地があるのではないかと思います。



         *****


「大月被告が判決訂正申し立て」


 1999年4月の光市母子殺害事件で、殺人と女性暴行致死、窃盗の罪に問われた元少年の大月(旧姓福田)孝行被告(30)の弁護団は1日、

差し戻し控訴審の死刑判決を支持し、上告を棄却した2月20日の差し戻し上告審判決の訂正を申し立てた。

棄却されれば死刑が確定する。

 弁護団によると、申立書では「(裁判官1人の)反対意見があるまま、死刑を適用したことは著しく正義に反する」と主張。

さらに「死刑を回避する特に酌量すべき事情に関する判断の記載を欠いている」などとした。

今後、補充書も提出する予定という。

 訂正の申し立ては最高裁判決に誤りがあるとして行う最後の不服申し立て手段だが、量刑が覆ったケースはない。

大月被告は犯行時18歳と30日。

犯行時少年の死刑が確定すれば、83年に最高裁が示した死刑適用基準(永山基準)以降4例目、殺害被害者が2人の事件では初となる。


        *****
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少年と死刑・光市母子殺人事件(3)・・つぐなうとは?

2012-03-03 | 心理学と日々の想い
18才の少年(当時)による犯行に死刑の判決が出た光市母子殺人事件について考えています。

朝日新聞の連載記事の続きです。



                ******

 
    (引用ここから)

朝日新聞2012・2・23

「光事件が問いかけたもの(中) 弁護士の法廷闘争に一石」

  

弁護団が「真相」として主張したのは、精神的に未熟だった被告が被害女性に母のイメージを重ね、偶発的に事件が起きたとする「母体回帰ストーリー」だった。

甘えを受けいれてほしいと抱きついたことが事の発端だったとしたが、検察側は荒唐無稽だと反発した。

葛野尋之一橋大教授(刑事法)は「社会の共感を得られなくても、法廷では自由に主張出来ることによって、刑事裁判の公正さは保たれる」という。

「うそをそそのかすのは許されないが、誠実に被告の言い分を聞いて伝えることが弁護人の責任だ。

多数者が納得する主張しか許されないのでは「裁判」とはいえない。」


         (引用ここまで)


           *****


25日の同連載記事には以下のようにありました。


         *****


       (引用ここから)


朝日新聞2012・2・25
「終結・光市事件が問いかけたもの(下)少年の償い 処罰か更生か」


少年犯罪の厳罰化傾向は続いている。

少年法が改正されたのは2000年。

16歳以上の少年の重大事件は原則として刑事裁判にかけられることになった。

2007年には少年院に送ることができることができる年齢が14才以上からおおむね12才に引き下げられた。


厳罰化の流れに違和感を唱える人達もいる。

大谷恭子弁護士は

「少年犯罪は社会の鏡。少年をしっかり育てられなかった社会が責任の一端を担うべきなのに、

個人の責任として切り捨てる現在の流れはおかしい」と言う。


少年事件を数多く手がけてきた多田元弁弁護士は

「少年は立ち直れる。更生を見守り、償いの気持ちを求めたいという遺族もいる。

だが厳罰化の中で、少年を更生よりも罰することの方が優先されるようになり、

重大事件を起こした少年ほど虐待などの問題を抱えていることが多いのに、

家庭裁判所が情熱を失って、立ち直りを支援する機能が低くなった」と指摘する。


犯行時18才1カ月だった元少年に死刑を科すことの是非が争われている光市事件。

「やり直すチャンスを与えるか、命をもって償わせるのか、どちらが正義か悩んだ。答えはないと思う。

判決をきっかけに、この国が死刑を存置していることを今一度みなさんに考えてもらいたい。」

20日の最高裁判決後の記者会見で、被害者遺族本村さんは、そう投げかけた。

 
           (引用ここまで・終)

 
             *****


>多数者が納得する主張しか許されないのでは「裁判」とはいえない。」

これは実に大切な指摘ではないかと思います。


命をもって償わせる。。

子どもにそれができるのでしょうか。


少年法を厳罰化するということは、「子どもは小さな大人」だという考えなのでしょう。

子どもは「小さな大人」なのか、それとも、子どもは大人とは違うものなのか。

つぐなうことが決してできない罪をおかしてしまう子どもに、
つぐないの意味を教えることが大人のしごとであり、社会のしごとであろうと思うのですが。、


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少年と死刑・光市母子殺人事件(2)・・育つものと育てるもの

2012-03-01 | 心理学と日々の想い
「光市母子殺害:少年の死刑廃止「検討を求める」日弁連会長」

 日本弁護士連合会の宇都宮健児会長は

「少年事件の特性を考慮しておらず誠に遺憾だ。

政府に対して改めて犯行時少年に対する死刑を廃止するための抜本的な検討を求める」
とする声明を出した。

毎日新聞 2012年2月20日 
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20120221k0000m040075000c.html




朝日新聞に、光市母子殺人事件に関する連載記事が載っていました。


           *****


       (引用ここから)


「終結・光事件が問いかけたもの(上) 少年の心と死刑 見解相違」
朝日新聞2012・2・22


光市の母子殺害事件の発生から13年。

20日の最高裁判決は犯行時18歳1カ月だった被告を死刑とした。

だが関与した4人の裁判官のうち1人が反対を唱えた。

全員一致でない最高裁の死刑判断は57年ぶりだ。

「精神的成熟度が18歳を相当程度下回っていると認められる場合、死刑を回避する事情があるといえる。

死刑とした二審判決を排しなければ著しく正義に反する。」

反対意見を述べたのは弁護士出身の宮川光治裁判官。

少年の罪と罰の在り方について持論を説き、3人の裁判官に異を唱えた。


弁護側は、「母親の自殺に直面したことで被告の精神的な成長は12才程度で止まった」
という専門家の意見を裁判所に伝えていた。

宮川裁判官はその意見を踏まえて

「人は人との関係の中でしか成長しない。人間的成熟が12才程度で停滞しているのであれば、そのまま拘置所で8,9年過ごしたとして、反省・悔悟する力は生まれない」

被告は14年近く拘置所などの独房室で過ごした。

かつて接見した記者に、「自分の考えが必ずしも正しくないということを教えてくれるのは、本だ」と話したことがある。

普段は拘置所職員を除き、話をするのは弁護士とわずかな支援者。

それ以外に別の考え方を知るのは拘置所で借りたり支援者が差し入れたりする本ぐらいだ。


「拘置所では人間的に成長させる体制やプログラムが全くない。

罪の重さを感じるためにも裁判中から成長させるためのプログラムを組んでもらいたい。」

被告の弁護士の一人はそう言った。


宮川裁判官は、少年への死刑を禁じた国連の「北京規則」にも言及した。

「死刑は、少年が行ったどのような犯罪に対してもこれを科してはならない」

とするこの規則に法的拘束力はないが、1985年に国連総会で採択され、日本も賛成している。

「日本は実現に向けて努力するべきであり、死刑をできるだけ回避する方向で少年法を適用しなければならない」

だが他の三人の裁判官の同意は得られなかった。


「犯行時少年で、更生の可能性も無いとは言えないことを考慮しても、事件はあまりにも重大で、死刑を認めざるを得ない」というのが多数意見の結論だった。

国連人権団体「アムネスティ・インタ―ナショナル」によると1990年から昨年までに死刑になった18歳未満の少年は、世界で9ヶ国、87人。

国際的非難を受けて減る傾向にあるという。

米国では2005年、連邦最高裁が犯行時に18歳未満だった少年の死刑を違憲とする判断を出し、2003年を最後に執行はない。

今回の判決は、統計が残る1966年以降、犯行時の年齢が最も若い被告の死刑を確定させるものとなる。


登沢俊雄・国学院大名誉教授(少年法)は「北京規則に従えば、20歳未満に死刑を適用できないように少年法を改正すべきだ。

だが少年犯罪への厳しい批判が高まる中で、矛盾した状態が続いている」と話す。


                 (引用ここまで)


                   ******


「少年犯罪厳罰化 私はこう考える」という本で著者、佐藤幹夫氏は、少年法について以下のように述べています。


                  *****

     
              (引用ここから)


「逆送少年の刑事裁判について」

東京・板橋の15才少年の両親殺害事件に懲役14年の実刑判決がでた(2006年12月1日)裁判。


少年法は、実はなかなか分かりにくい法律である。

一つは少年をどう更生させるかという、教育と福祉を柱とした教育法的側面であり、
もう一つは、責任と刑事罰を柱とした刑事法的な側面である。

(略)

板橋のケースにおいても、弁護側は被告少年に必要なのは刑罰ではなく「育て直し」だと訴えた。

少年審判の理念に全面的に立って、争ったわけである。


それに対して東京地裁は、その一切を斥けた。

二つの殺害行為は強い殺意にもとづく計画的なものであり、その様態も冷酷かつ残忍、悪質きわまりない。

虐待やそれに類する不適切な養育を受けていたと認めることはできない。

従って、被告少年が両親につのらせていた憎しみや不満ははなはだ身勝手なものである。

被告人の性格、資質には大きな問題がある。

刑事処分における個別的、教育的処遇には限界があるが、それを考慮しても刑事処分をもって臨むのが相当であるーー


ーーこれが裁判所の判断だった。


情状の酌量となる背景事情をすべてしりぞけ、責任をすべて被告個人に帰し、

被害の甚大さを強調していく論理構成は、検察官が重罰を訴えるにあたって採る、まず常套のものだと言ってよい。


ここでの判決は、かぎりなくそれに近い構成となっている。

言ってみれば、この判決は、少年の教育や更生よりも、社会の処罰感情が優先されなくてはならないことをはっきりと打ち出した判決である。

ここには、少年法を貫いてきた理念はもはや見られず、成人の裁判以上に応報的な視座と論理で示された判決だったという点が大きな特徴である。



          (引用ここまで)


           *****


今回の光市の母子殺人事件に対する判決も、同じ観点から出された判決であると思われますが、子育てに苦労しているわたしとしては、この少年の両親や社会の力不足を思うことも忘れてはいけないと思われてなりません。


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少年と死刑・・光市母子殺人事件(1)

2012-02-28 | 心理学と日々の想い

光市母子殺人事件の被告に、死刑判決がおりたことをテレビで知り、ここのところ、ずっとそのことが心を離れません。

犯行当時18才と1カ月だったという被告は、公開された写真は大変幼く、いったいなぜそんなことを?という気持と、罪と罰という厳粛な思いに思わず息をのみました。


下の朝日新聞の記事は、2010年に切り抜いていたものです。

はじめて死刑場が公開された時の記事です。


          *****

           (引用ここから)


「厳粛、死刑の現場」
            2010・8月28日朝日新聞

           

入り口に清めの塩が盛られ、お香のにおいが立ち込める。

東京拘置所(東京都葛飾区)の刑場は厳粛な雰囲気に包まれていた。

2006年12月以降17人の死刑が執行された場所。

報道機関の記者として初めて入り、死刑主の最後を辿ろうとした。

木目調の壁に藤色のじゅうたん。

思っていたより執行室は明るかった。

じゅうたんの中央には赤い正方形。

ガーゼで目隠しされた死刑囚の首にロープがかけられ、立たされる「踏み板 」の場所を示す枠だ。

枠のそばから直径20センチほどの大きな金属の輪が床から壁を伝うように4つ取り付けられていた。

ロープは公開されなかったが執行の際は直径3センチ、長さ約11メートルのロープが4つの輪を通して天井の滑車にかけられるという。

空調の静かな音だけが聞こえる執行室。

だが踏み板が開いて死刑囚が下の部屋に落ちる時は大きな音が響くと説明を受けた。

「死刑囚がまさに命を絶つ極めて厳粛な場所だ」として階下の部屋への立ち入りは許されなかった。

ただ検察官ら立会人が執行を見届ける「立会室」からはコンクリートの床の薄暗い部屋が見えた。

かすかな消毒液の匂いが、湧きあがる。

踏み板の真下には格子の蓋で覆われた排水溝が口を開け、生と死の境を感じさせた。

死刑囚が執行室の隣にある「前室」で拘置所長から執行を告げられてからこの部屋に入るまでわずか数分だという。

法務省幹部によると執行当日の朝、多くの死刑囚は日々を過ごしている「房」から出される際にた
だならぬ雰囲気で執行を察知するのだという。

短い間に自分の身の起こることをどこまで理解出来るのだろうか。

死刑囚が刑場に入ってまず連れてこられる「教誨室」には、大きな棚が据え付けられた仏壇があった。

親鸞と蓮如の像。

移動式で死刑囚の宗派によっては神棚や十字架に変わるのだという。

ここで死刑囚は、宗教者の「教誨師」と向き合っていすに座り、茶を飲んだりまんじゅうなどの「供物」を食べたりできる。

教誨室を出て、約10メートルの無機質な廊下をまっすぐ進むと「前室」に辿りつく。

真正面には金色の仏像が見守る。

執行室との間にある青いカーテンは死刑囚が目隠しをされるまで、執行室を見せないように閉ざされているという。

踏み板には、刑務官が数人がかりで運ぶ。

執行直前で抵抗しても実力行使で立たせるのだという。

執行室の奥にある薄暗いボタン室からは、3人の刑務官が「1番」「2番」「3番」と書かれたボタンを前で、幹部職員の指示を待つ。

指示があれば、一斉にスイッチを押す。

そのうちどれかが、踏み板を開くスイッチだ。

執行する刑務官の精神的な負担は相当なものだろう。

「手が震えるほどの緊張感の中、執行されるのは許されない罪を犯した者だ、社会正義のためにやらないと、と自分に言い聞かせている。」

刑場公開を前に法務省幹部は「現場から寄せられた男性職員の声を読み上げた。

           ・・・


限定的な公開、疑問

諸沢英道・常盤大教授(被害者学)の話

裁判員制度で死刑に関わることになった市民が考える材料にしたいと言うが、比較的新しくきれいな東京拘置所の刑場をメディアに限定的に見せることで、どこまでその目的が果たせるのか疑問だ。

本来、刑事施設は国民に対しガラス張りにすべきもので、むしろ希望する市民には普段から刑場を公開すればよい。

ただ、死刑について議論すること自体は良いことだ。

犯罪被害者には逮捕から裁判、刑罰までの過程を知らせることが世界的な流れになっている。

死刑の執行に被害者遺族が立ちあうことも今後検討の対象になるだろう。


                ・・・


          (引用ここまで)


             *****




この記事も同じテーマです。


           *****



産経新聞 2010年8月27日


東京拘置所の刑場を初公開 「踏み板」部屋、刑務官の踏み板開くボタン部屋…

http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/100827/trl1008271107002-n1.htm


法務省は27日午前、東京拘置所(東京都葛飾区小菅)の刑場を報道機関に公開した。

千葉景子法相の指示によるもので、国会議員の視察などを除いて、
刑場が公開されるのは極めて異例で、法務省が把握している限り、報道機関への公開は初めて。

千葉法相は刑場の公開をはじめ、死刑についての情報開示を進めた上で、

「死刑制度の存廃も含めた国民的な議論」を呼びかけている。

この日、公開されたのは、東京拘置所内にある2階構造の刑場で、
上階部分の立ち入りが認められた。死刑囚が首に縄をかけられた状態で立つ 「踏み板(刑壇(けいだん))」のある部屋のほか、

死刑囚が教誨(きょうかい)師と面会する部屋や、刑務官が踏み板を開くボタンを押す部屋、

検察官らが立ち会って、
執行を見届けるためのスペースなどが公開された。

一方、死刑囚の死亡を確認する下階の部分への立ち入りは認められなかった。

これについて、法務省は「遺体を扱う厳粛な場所」などと非公開の理由を説明。

また、実際に踏み板が開かれることはなく、死刑囚の首にかける縄も備え付けられていなかった。

千葉法相は先月、1年ぶりとなる死刑執行に法相として初めて立ち会った上で、

死刑制度の存廃を含めた在り方を検討する勉強会の設置と、
報道機関に向けた刑場の公開の方針を明らかにしていた。



         
        *****


平和な生活を一瞬にして奪われた被害者のご一家のお悲しみは察するにあまりありますが、

ご遺族がおっしゃっておられた「事件が起きた瞬間から、勝者はどこにもいない。」という言葉はたいへん深く、

それでも法の裁きがあるとしたら、それはなにをもたらすものなのか、改めて考えに沈んでいます。
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利他的遺伝子・・「自分」と「自分達」は、どう違うのだろうか?

2011-12-31 | 心理学と日々の想い
大みそかになりました。

今年最後の投稿になりました。

読んでくださる方、本当にありがとうございます。

どうかよいお年をお迎えくださいますようお祈り申し上げます。





生物学者・柳澤嘉一郎さんの「利他的遺伝子」という本を読んでみました。

「利己的遺伝子」という言葉が流行ったことがありましたが、柳澤さんは、遺伝子レベルの現象をふまえた上で、あえて個体として「利他的」であろうではないか、という提言をしているのだと思います。

当たり前と言えば、当たり前のことなのですが。。

でも、「利他的遺伝子」という言葉は、いい言葉だと感じました。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


       *****


       (引用ここから)


動物が群れて暮らすようになると、群の中で生きるための生き残りの術が必要となって来た。

それは群の仲間への気遣いや協力、援助などの「利他」的な行動である。

それは群の秩序を維持するためだけでなく、群の中でその個体が生き抜き、繁殖の相手を探し、子孫を増やすためにも有利であったから、そうした個体はより多くの子どもを残すことができて、世代を重ねるごとに子孫を増やしてきた。

一方「利己」を優先し、自分勝手で群の秩序を乱すような個体は、群を追われたり、あるいは群に残っても、交配のパートナーが得られずに、子孫を増やすことが出来ずに、その数を減らしてきたことだろう。

そして「利他」性は、長い間に動物の持つもう一つの本能として遺伝子に刻まれて、群をつくる動物たちの間に定着してきたと考えられる。


では、この「利他」性の遺伝子はどこから来たのだろうか。

その起源、由来は何だろうか。


考えられるのは、「利他」的な本能の遺伝子よりずっと古くから動物達の間に存在していた、母性本能の遺伝子に起因する可能性だ。

私たちが今ここに、こうして存在しているのは、祖先達がその子ども達を養い育てて来てくれたからである。

子どもの養育は自分以外の生命を育み守ることだから、それは当然、「利他」的な行動で、魚のような産卵しっぱなしのものは別として、多くの動物、特に哺乳類では、母性本能として身にしみついている。


「利他」的な遺伝子が進化的に古い母性本能の遺伝子から生じてきたとの考えは、決して不自然ではない。

母性愛の遺伝子はそれ自身、「利他」的な遺伝子でもある。

ただ両者の違いは「利他」性の遺伝子の方が母性愛の遺伝子よりもその行為の対象が広いというだけだ。


では「利他」性の遺伝子はどのようにして母性愛の遺伝子から生じてきたのだろうか。


それはおそらく、母性愛に関わる遺伝子群の中の一つが、自己複製の時に重複してコピーされ、その行為の対象を自分の子供だけでなく、より広く他者へと向ける働きの遺伝子へと突然変異したのだろう。

単一の変異遺伝子の出現が、その個体の行動を大きく変えることはバソプレシン・ホルモンの例からも理解することが出来よう。

こうして生じた「利他」的な遺伝子は、長い進化の間に突然変異によって多数生じ、それらが増えて、現在の私たちの「利他」的な行動がコントロールされているのだろう。

「利他」的な行動は、「利己」的な行動を抑え、それに拮抗して働いており、「利己」性と「利他」性は一見相反しているように見える。

しかしそれは表裏一体で、種の存続、個体の生存には共に必要な本能行動として、一部の動物の間に広く存在しているのである。


“社会には「利己」的な行動ばかりで「利他」的な行動が見られない”とこぼすが、正直、ヒトほど他者に協調し、協力したり援助したりする種は他には見当たらない。

人と他の動物との最も大きな違いは「利他」性にあると言ってもいい。


このように人の高い「利他」性は、その強い社会性と脳の高度な発達の二つに主に起因している。

では、社会と脳がさらに発達すれば「利他」性もさらに高くなるだろうか、と問われれば、大いに疑問だ。

それはむしろこれからの社会の在り方と教育の仕方に大きく依っている。


子ども達の行動はすべて、遺伝と環境(教育)の掛け算的な結果から生じてくる。

掛け算というのは、その一方が欠ければ結果は何も生じてこないということである。

子どもがどんなに優れた知能や深い思いやりをもって生まれてきても、教える環境が劣悪なら、よい結果は決して期待出来ない。

すべての知識と同じように、社会のルール、道徳や倫理もまた、年長者が教えて初めて、年少者は知ることになる。

もしこの教育がしっかりとなされないならば、社会はまともに存続しないだろう。


かつて地球は無限に広い空間であった。

そこにはゆとりも資源も十分にあって、小さな共同体や個人の欲望や希望はすべて受け入れてくれるものと思われていた。


だが今は、地球は宇宙の小さな一惑星で、その空間も資源も限られていることを誰もが知っている。

近代科学の進歩、特に情報通信機器や交通機関の著しい発展は世界をすっかり狭小にしてしまった。


人々は、地球そのものをも一つの社会として捉えるようになっている。

地球の資源、資財が有限であることは事実である。


この事実を前にして、今なすべき大切なことは、資源、資材の獲得競争ではなく、人々の意識を変えることである。

物へのこだわりを捨てて、物の獲得に費やすエネルギーを精神面へと向かわせることだ。


「利己」から「利他」へと生き方を変えることだ。

そうすれば、地球社会の資源はより長く維持され、資財も公正に分配されて、人類全体がより豊かに穏やかにより長く存続していくことだろう。


私たちは日頃、「利己」的な本能をむき出しにしていても、その心底には、「利他」的な本能をしっかりと持っている。

何か事があれば、それは一気に表面に噴き出してくる。

そのことは災害時の人々の助け合いを見れば分かる。

だが日頃は、それは心底に沈積したままで、潜在している。

私たちはこの「利他」心を日常の生活の中でも、もっと顕在化させたいと願う。


人は「利他」によって心の満足を得る。

「利己」でなく、「利他」で満足が得られるのは、おそらく、共に本能であっても、「利他」の方が「利己」よりも進歩的に新しく、発達した脳の働きが強く作用しているからであろう。

よい生き方とは「利己」と「利他」のバランスを適切に持って生きることである。

よき社会とは、「利己」と「利他」のバランスが適切に保たれている社会である。

地球社会を持続可能なよき社会とするのは、私たち一人一人の、よき「利他」と「利己」のバランスの維持に依存している。


            (引用ここまで)


              *****


道徳の教科書のようなことが書いてありますが、考える材料としては、いろいろなテーマを含んでいるのではないかと思います。

母性本能というものが、人間の優しさの根源の部分にある、という説は、仕事をしたり、子どもを産んだりしてきた自分としては難しいテーマだと感じます。

ただ、心の広さというものは大層魅力的なもので、そういうものは様々な場面で、様々な人から教えられたことが思い出されます。

男性には男性の魅力がありますし、老若男女、どんな人にも高貴な魂、清らかな魂を感じることは多々あることです。


人類の最初の生活は共同生活だったはずで、人類にとって「共同体」というものは最も根源的なものではないかとも思えます。

共同生活においては、利己主義であって有利なことは少ないはずで、捕獲された一匹の魚をそこにいる人々で分け合うのは生きるために必要なことであっただろうと思われます。

ですから、社会主義の実験をはじめ、常に「共同体」というものが理想として目指されてきたのだと思います。

どれほどの挫折を繰り返しても、人類が到達すべきものは、“今の社会とは何かが違う「共同体」に違いない”という直感が、人類を次の世界へと導いているのではないかと思います。



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今は惑星の危機・・脱原発の展望とトランスパーソナル心理学(4・終)

2011-12-08 | 心理学と日々の想い
1987年に出版され2004年に加筆された、吉福伸逸氏の「トランスパーソナルとはなにか」をご紹介させていただいています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


       *****

        (引用ここから)


キリスト教的な文化圏というものは、危機意識が高まりやすい。

それに対して仏教的な文化圏というのは、そういうことは一切構わずというところがあって、その点すごいよさはあると思うんです。

危機意識の大半は、ほとんどプロジェクション=投影で、局所的な自己の問題の外への対象化にすぎませんからね。

ところが、現状はそうではない。

今の世界は、昔とは違う。

根本的な違いがある。

本当に、危機があると思うんです。

人類だけでなく、惑星の危機だから、それに目をつぶることや、仏教であっても方便や逃げ口上があるとは思わない。


問い そういう「核」や「エコシステム」の危機は、過去の仏教的な感性――つまり直感的に、永遠に無常なる時が流れて行く、というような感性――を抱いている限り、感じるのは難しいですね?

仏教的な感性ではなくて、歴史に一つの段階があり、危機があり、その危機を乗り越えなかったら崩壊していくという、そういう歴史感覚がないと、ちょっと駄目なんじゃないかという感じがするんですが?


その辺は難しいと思います。

ヨーロッパでは、マルクス主義の無効化という感じが出て来ても、あとを一生懸命それなりにがんばっているという感じがするんですね。

フランス現代思想であったり、ドイツの「緑の党」であったり。

アメリカがトランスパーソナルとニューサイエンス。

それに対応するだけのものが、日本には残念ながらあまりなくて、まだそれを輸入しているという状況だと思います。

だから今言ったものに対応できる日本独特のものは、やはり仏教だということになってくる。

ですから、もし日本がなにか貢献するのであれば、日本のローカルな気配を取り除き、本質的な部分に関して、グローバルな翻訳のされ方をされた仏教であるというふうに理解してもらった方がいいと思うんです。


 問い  トランスパーソナル心理学にはどのような課題が残っていますか?


心理学には、ある種の動的なダイナミズムがなかなか入っていきにくいんです。

人間は生きているわけですから、人間の心というものは、その時その時、瞬間瞬間、自己組織化している。

そのため、自己の精神内と精神外の見分けさえ付けにくい。

特定の意識状態では、あるプロセスが当人の自己の内側でおこっているのか外側で起こっているのか分からなくなることさえある。

そのインターフェイスはきわめて曖昧なものであって、実際に個の内部と外部を精神的な意味で区分けすることがどこまで可能かということに関しても疑問がある。

要するに、一般に人間の心は、常に流動的でダイナミックに動いている。

しかし心理学では、どうもなぜか生き生きとしたダイナミックな部分が抜け落ちて行く。

それをどう組み込んでいくかというのが、これからの心理学の大きな課題だと思います。

一人の個人の心の内面と、心の外面ともいうべき“対象世界”との間の、切っても切り離せない相互作用のようなものに、もっと本格的に取り組んでいくような、幅の広い人間の有機体全体のモデルを作らなければいけない。

有機体というのは、環境と切っても切り離せない関係にありますから、一人の人間の唯一真実の自己というのは、「人間+社会+環境」からなる全サイバネティック効果と言うことですから、

そのへんを全面的に取り入れて考えていかなければいけないのではないかという気がします。

    (引用ここまで・終わり)


       *****


今の世界は、本当の危機状態にある、という認識。

それに対応するために、日本人は未だ独自の対応策を出していない。

西洋の翻訳ものでない、日本独自の対応策があるに違いない。

ローカル性を取り払った仏教思想は、日本が世界に提案しうる有意義な思想ではないだろうか。


吉福氏はそのように語っておられます。

次回からは、以上のことを、前にご紹介した中沢新一氏の「日本の大転換」と突き合わせて、検討してみたいと思っています。



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滅びるかどうかは人類の実力・・脱原発の展望とトランスパーソナル心理学(3)

2011-12-04 | 心理学と日々の想い
1987年に書かれた吉福伸逸氏の「トランスパーソナルとはなにか」をご紹介させていただいています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

「現代」への問題意識の、早い段階での表現ではないかと思います。


       *****

     (引用ここから)


 問い そうすると結局必然的にニューエイジ思想、トランスパーソナルはエコロジーとかなり接点をもっているわけですね?


切っても切り離せないんじゃないですか。

そうした危機意識が自己の内面を目ざめさせるきっかけになるわけですし、単純に言って、目が自分の意識の内面に向かっていくと危機が見えてくるということがあると思いますから。


 問い しかし中には「エコロジーイデオロギー」に凝り固まった感じのエコロジストがいますね?

だから、それが問題なんです。

ただ単に地球上に存在している外側のエコロジーの崩壊に対処療法的に対応していこうとするエコロジストと、70年代から出てきたディープエコロジー=深層生態学と呼ばれる分野とは、また違うと思うんです。

要するに“内面の危機としての生態系の危機”という捉え方を強く押さえていく必要がある。


 問い それにしても、運動の眼先の効率問題として考えるとディープエコロジーやトランスパーソナルというのは、それをやったらどうなるというものではないですね?


そのことに関して僕が思うのは、人事を尽くして待つしかないということです。

個々人が目ざめていって、自分自身でできるだけのことをして、それで全く手に負えないとしたら、それは人類が「種」として背負った一つのカルマとして、その時点で正面から取り組んでいく他ない。

一人一人の個人がやれることをきちんと全部やった上でその危機が起こったとしたら、それは「種」が背負ってしまったある種の“蓄積”が表へ出て来ていることだと認識して、起こった時に対応するしかないと思うんです。
もう手におえないかもしれないけれどね。


 問い “カルマ”と言わないで、“滅びるかどうかは人類の実力の問題だ”と言ってもいいでしょうか?


いいでしょうね。
そこですごく大切なのは、“敵を作る”という物事の捉え方ではだめだということでしょうね。

敵を作ると実際になにかの運動をしているというか、戦っているという実感が出てきますが、それは実際には自分の内面にある不安の投影なんです。
そういう行動の充実感ではなく、違った形の充実感を作らなくてはならないということです。


 問い トランスパーソナルに関わっている人間の認識からいうと、トランスパーソナルという思想はポストモダンの旗手たりうるんだと言っているのですね?


それは当然、そうだと思います。

人類のこれから進むべき道はこの方向だと言ってるんだから。

「核」と「環境」の危機が重大問題だと。

しかもその「核」と「環境」の危機の問題は、実は個人の内面の危機とまったく同質のものだと。

基本的には個人の内面の危機と、世界の危機の問題は全く同じ事なんだと。

根元にあるのはそういった認識で、そのために、敵・味方を立てて相手を倒すことは不可能なんだ、と。
あなた自身の事なんだから、と。


要するに、たとえば“使用済みの原子炉”をどうするか?というと、現在のところ、安全なわけでもなんでもないわけですよ。

たとえば、これから何十年、何百年後に、人類が存在しているとして、その時に文献が全部失われていてしまって、それが何であるか分からなくて、掘り起こして開ける可能性だって考えられるわけですね。

そういうことを考えて行くと、まったく自然に還元することができないものをいくつも作りだしているということは、人類がどの方向に向かっているかは明確ですよね。

そういうものを作った時点で、この方向への雪崩現象は始まっているんじゃないかという気がしますけれどね。
だから、 無視しようとすれば、目をつむることしかできないですよね。


「理性」の限界と危険を認識しているのであれば、それを超えるような実作業をしていくしかないという気がします。


      (引用ここまで)


      *****


wikipedia「トランスパーソナル」より

トランスパーソナル心理学とは、1960年代に展開しはじめた心理学の新しい潮流で、行動主義心理学、精神分析、人間性心理学に続く第四の心理学。
人間性心理学における自己超越の概念をさらに発展させたとされる。
人間の究極的な目的とは、自己を越えた何ものかに統合されると考え、そのための精神統合の手法を開発した。


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新しい世界観を提示できるか?・・トランスパーソナル心理学と脱原発の展望(2)

2011-11-30 | 心理学と日々の想い
吉福伸逸氏の「トランスパーソナルとはなにか」を読んでみました。

1987年に出版され、2004年に加筆版が出ているものです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

ここに書かれている事は24年前に書かれているのですが、なかなか洞察力があると思います。

もしかして、24年間、時代はほとんど進歩していなかったのか?と、不思議な気持ちになります。


      *****


      (引用ここから)



狩猟採取時代に存在していた自己の在り方のようなものは、人間がそこから抜け出して、工業化社会に入ったとしても、個々人のなかに強く残っている。

その時に感じていた、地球とのふれあいの実感のようなものは、個人個人のなかに全部組み込まれていて、形こそ違え、当時と全く同じ気持ちが残っているという感覚があると思うんです。

で、人間の中にはそういうさまざまな段階を経て、体験していたことが組み込まれているから、そのへんのことを全面的に活用していきながら、

同時にそれを超えて行くような方向にもっていかなければならないというのが、ニューサイエンスのサークルのなかにある共通な理解なわけです。


ニューサイエンスのサークルの中での共通認識では、「エコロジカルな危機」と「核」の問題、それと「イスラム」の問題に象徴されるような「異文化間のコミュニケーション」のような問題が大きいのではないでしょうか。


やはりどうしても西洋型の文明が支配的になっていますから、その弊害がいっぱい出てきていると思うんです。


現代というものを見ているときに、徹底的に西洋文明が地球上を支配しているという見方から、今はだいぶ変わってきているでしょう?

そうではなくて、“同時並列的に様々な文明があるんだ”ということが認識されてきてますね。

ニューサイエンスの人達はそういう問題を強く意識しているんだと思います。

西洋文明の持っている、“ある極限的な状況”が、いま顕著に出て来ているんだという捉え方ですね。


特にトランスパーソナル心理学の出現の根底には、現在我々が抱えている「地球の危機」というのが「個の中に内在している危機感」に対応しているという共通の認識があると思うんです。

自己の存立に関して、社会の存立もそうですけれど、 自分自身の内面を探っていくにつれて、「エコロジー」であるとか「核」の問題であるとか、全地球上を覆っている危機と同じような危機状態が自分の内面にもあることが、十分に認識されてくるという事実があります。


それと「(人類という)種」に埋め込まれている危機感です。

「種」が経て来たさまざまな危機状態が、人間の内面に無意識内に埋め込まれている。


1960年時代からこういった流れができてきた理由はそれしかないと思うんです。

個人の感受性の高まり。

感受性が高まって行けば行くほど、危機的な状況というものは、早めに見えてきますから、その辺だと思うんです。


「創造的知性」という言葉がありますね。

ニューエイジの中では、「神」と同じくらいの意味で使われているんだけれど、基本的には自分の使命や、グローバルな視点に基づいて、いかに生産的でありうるかということだと思うんですよ。

それも物をつくるという生産性ではなくて、在り方としていかにクリエイティブでありうるかということで、そこに目が向いているから、単なる批判に留まることに意義を見出さない人が多い。


それは危機意識があるからなんです。

危機意識が強いということは、なんとかしようとする衝動があるということですね。

で、少しでも自分にできる部分があれば、それをしていこう、という気持ちが強まっているということだと思うんです。


そして、では「この現状をどうするんだ?」、ということだと思うんですね。


いくら権力を批判したとしても、現実の社会を見た限りにおいては、あきらかに企業や国家、あるいは政治力によって、社会が牛耳られていて、その論理によって武器が生産されているわけですね。

さらに環境の汚染も同じ論理によって行われてしまっている。

その在り方をなんとか変えていかない限り、どういうことをしてもなんともならないわけですから。


「構造的な力をもっている部分」が納得できるような「新しい世界観」を提示していくしかないということだと思うんです。

それが新たな世界観としてトランスパーソナルが出てきた原点じゃないかと思うんです。


いくら否定したとしても、自分の根っこには、ある種の神話をもっているという気がします。

そうした暗黙の神話が、「自分がなぜ今ここにいるのか?」という疑問に答えるべき材料を提供しているということですね。

ですから、いまでは「神」である必要は全然ないし、科学的な「ビッグバンの神話」である必要もないが、我々が一種のロマンとして、「自己の存在を納得できるような神話」がほしいということだと思うんです。
過渡的なものかも知れませんが。


         (引用ここまで・続く)


             *****



>現代というものを見ているときに、徹底的に西洋文明が地球上を支配しているという見方から、今はだいぶ変わってきているでしょう?

>そうではなくて、同時並列的に様々な文明があるんだということが認識されてきてますね。

>ニューサイエンスの人達はそういう問題を強く意識しているんだと思います。

>西洋文明の持っている、ある極限的な状況が、いま顕著に出て来ているんだという捉え方ですね。



私たちが恩恵を享受している「西洋文明」を相対視してながめる視点がすでにあり、「ではこの西洋文明をどうするのか?」というテーマが前面に出ているのだと思います。

そして、その方策としては、以下のように述べられます。


>いくら権力を批判したとしても、現実の社会を見た限りにおいては、あきらかに企業や国家、あるいは政治力によって、社会が牛耳られていて、その論理によって武器が生産されているわけですね。

>さらに環境の汚染も同じ論理によって行われてしまっている。

>その在り方をなんとか変えていかない限り、どういうことをしてもなんともならないわけですから。

>構造的な力をもっている部分が納得できるような「新しい世界観」を提示していくしかないということだと思うんです。


現代文明の終焉と、来たるべき未来への潮流。

その二つがセットになって、今自分はなにをするべきかを問われていたのが、かつてのカウンターカルチャーの時代であったのだと思います。

その終末観と、未来志向は、どこに辿り着いたのでしょうか?

そして、「今」という時代は、どのような「終末」を体感し、どのような「未来」を描いているのでしょうか?



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トランスパーソナル心理学と脱原発の展望(1)・・合理主義を超えてビジョンを描く

2011-11-27 | 心理学と日々の想い
先月、かつてのカウンターカルチャーの先導役であった吉福伸逸氏の講演会に行ってきました。

テーマは「3・11後の日本と世界」というものでした。

 日本トランスパーソナル学会HP
  http://transpersonal.jp/

吉福氏が日本に紹介したトランスパーソナル心理学について述べている対談集「トランスパーソナルとはなにか」のご紹介をしたいと思います。

この本は1987年に出版され、2004年に加筆・再販されたものです。

カウンターカルチャーは現代文明へのアンチテーゼですから、当然「反原発」「脱原発」を標榜しています。



      *****


    (引用ここから)


「トランスパーソナル」という概念が出てきた最初の要因は、西欧社会における行きすぎた個人主義の行き詰まりと見て差し支えないであろう。

個人主義の行き詰まりは、自分さえよければよい、という自己本位の風潮を産み、未来的展望はおろか、しかるべき伝統さえ共有しない社会を産み出してきた。

エコロジーの危機、核の問題、戦争、飢饉飢餓、性差別や人種差別など、人類が抱えている大きな問題の大半はこうした個々人の、“自分さえよければよい”という、ちょっとした心理作用に源を発するものである。

現在、人類が享受している先端的テクノロジーの恩恵は、近代西洋に始まる理性や科学に依拠するところが多いといわれる。

しかし、物質文明の成功に眼を奪われて現代社会から失われてしまった、“人間に必須の事項”があると思われる。


「トランスパーソナル」という概念が支援しているのは、我々人類が成長の過程で体験し、身につけてきた、ともすれば忘れ去られがちなーー神話的な認識や、共同体的認識などのーー人間的諸要素の再確認と、来たるべき人類の在り方である。

人間が単に理性的な存在に還元できないことは、自らを振り返れば、どなたも実感できることでしょう。

理性もまた人間によって使われるべきものであり、それに振り回されては悲惨な結果を招くだけである。

トランスパーソナル心理学が、近代的な個の境界を乗り越える可能性を、合理的・理性的様式を内に含みつつ、さらにそれを超えて行くような認識様式に見出しているのはそのためである。



トランスパーソナル心理学の基本的なメッセージは、「人間は自我を超えて成長をしていく可能性を持っている」ということです。

これまで人類の経験として語られてきた、“人間に内在する可能性”に注目し、様々な意識状態を連続的な意識の延長線の中に位置づけようとしてきました。

トランスパーソナル心理学ではフロイトやユングを始め、さまざまな西洋心理学の学派の人間学に加えて、これまで西洋や東洋の思想の中で語られてきた人間観を組み込み、

どうしたら人間の持っている可能性とか、心理学的な幅のようなものをできるだけ広範な形で取り込んだ人間観を提示できるかということを考えた訳です。

ですから西洋的な世界観・人間観とヒンズー教や仏教、道教などのアジア的な世界観・人間観、世界の先住民における神話的な世界観・人間観などの統合を目指してきました。


トランスパーソナル心理学の理論家の一人ケン・ウィルバーの動向について触れていきます。

1990年代以降、ウィルバーは個人の進化のダイナミズムを発達論的に語った理論を、人類の進化をはじめ、あらゆる社会的、文化的次元における進化にあてはめていこうとしています。

彼の基本的な問題意識が個人の発達から人類の文化・文明の発達・進化へと移ったという風に見えるかも知れませんが、彼の最大のテーマはまったく変わっていません。

それは「進化とは何か」という事です。

ウィルバーがなぜ「進化」をテーマにしているかと言うと、彼は「なぜ我々はここにいるのか、その存在意義は何か、我々はどこに向かっているのか?」という根本的な疑問に取り組んでいるからです。

ウィルバーの観点からすると、進化にはダイナミズムがあって、その原点には〝進化に向かう引きの力“があるということになります。

進化の極みからの“引きの力”があって、我々の進化のプロセスを通して向かっていく。

その視点に基づいて、ウィルバーは人間の内面を論じ、人類の歴史・文明を論じ、さらには物質的次元を語っている。

これから社会をいかに変革していくかについて、ウィルバーがどのようなビジョンを持っているかと言うと、彼もやはり、ロマンティストとしての理想主義者を批判しながらも、同時に理想主義的な側面を持っているので、人類が進化の行くべき方向に向かって、もっとも自然な形で進むべきだという気持ちを持っていると思います。

しかし我々の中には、「進化」というものは人類がどのように手を出そうともコントロールすることはできないという共通の考えがあることも事実です。

現代の社会では経済原理が優先されていますので、言論の世界でも現実的な面が強調されて、理想的な側面がどんどんそぎ落とされています。

日本の社会の中でも、多くの人々が現実に張り付いていて、パースペクティブを失い、ビジョンが欠落しています。

文化的土壌がフラットランドになっていて、なかなかこれはというビジョンが生まれてこない。

しかし今必要とされているのはかつての宗教者が語ったり、60年代に出てきた極端に理想主義的なものではなく、現実味を帯びた実現可能なビジョンだと思います。

これまで生まれては消えていった無数のビジョンの中から、どうやって本当に現実化していく可能性のあるビジョンに辿り着くことができるのか。

これから人類はどうなっていくのか、社会や文化、文明はどうなって行くのかという、未来的な展望につながるようなダイナミックな理論が必要とされているのです。

ユートピアのような夢物語ではない、実現可能なビジョンが必要とされているのです。


     (引用ここまで・続く)


            *****



>これから人類はどうなっていくのか、社会や文化、文明はどうなって行くのかという、未来的な展望につながるようなダイナ ミックな理論が必要とされているのです。


という言葉が、当時の世情を感じさせるように感じました。

当時感じられた、われわれの文明には未来はない、という感覚がよみがえってくるように感じました。

生き延びるためには、新たな決意が必要だ、という若々しい感性も思い出しました。




wikipedia「トランスパーソナル心理学」より

トランスパーソナル心理学とは、1960年代に展開しはじめた心理学の新しい潮流で、行動主義心理学、精神分析、人間性心理学に続く第四の心理学。

人間性心理学における自己超越の概念をさらに発展させたとされる。

人間の究極的な目的とは、自己を越えた何ものかに統合されると考え、そのための精神統合の手法を開発した。

発展の歴史

ウィリアム・ジェームズ、ジークムント・フロイト、オットー・ランク、カール・グスタフ・ユング、アブラハム・マズロー、ロベルト・アサジオリは、この領域の時代を形作る主要な人たちである。

最初の「トランスパーソナル」という言葉は、ウィリアム・ジェームズが1905-6年ハーバード大学の授業の準備のために用意したノートに見られる。

この新しい学問領域を確立する有力な動機になったものは、アブラハム・マズローの至高体験に関するすでに出版されていた発表であった。

マズローの研究は、1960年代の「人間性回復運動」から育ってきたものであり、「トランスパーソナル」という言葉が、「人間性回復運動」の中で、次第に、区別されるものとして認識されるようになっていった。



wikipedia「人間性回復運動」より

人間性回復運動、または、ヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントとは、1960年代のアメリカ合衆国、それも主として心理学分野において生じたムーブメント。

「幸福」「創造性」「自己実現」の主体である人間の「人間性」や「人間の潜在能力」を、回復・発展させることを旨とする。

行動主義心理学に対する反省や、実存主義の影響などを、背景として挙げることができる。

心理学の「第三勢力」と俗に呼ばれる人間性心理学と連動したムーブメントであり、「第四勢力」としてのトランスパーソナル心理学へとつながる背景ともなる。また、自己啓発セミナーのルーツの1つとしても知られている。



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食べることが終わる時

2011-07-02 | 心理学と日々の想い

老人ホームの母ですが、、

毎日がんばってごはんを食べているのですが、体重が36キロになってしまって、食事のかたちが変更になりました。

ここのところ、食べ物をミキサーにかけて、形がないジャムみたいにしたものを食べていました。

それでも、食事に一時間以上かかっていました。

飲み込むのが、大変なんです。

先月あたりから、食事の量が少なくなり、コップ1杯のミロみたいな飲み物がつくようになりました。

その飲み物が、栄養のメインになると、説明を受けました。

かつて、自宅で暮らしていた父にも、ときどき、なにかそれに似た飲み物を訪問看護の人が置いていってくれたことがありましたので、わたしもちょっと飲んでみたことがあります。

カルピスの原液くらいの濃度で、重力でのど元を落ちていくのがわかりました。

美味しいものではなかったです。

経管栄養として、チューブで直接胃に流してもよい、とラベルに書いてありました。


こどもだったら、哺乳瓶のミルクから、少しずつ、違ったものを食べさせていく、離乳食の時期があったことを思い出しました。

すりおろしたりんごとか、ジャガイモを煮て、スープでのばしたり、毎日いろいろ作ったなあ、と思い出しました。

そして、あっという間に、何でも食べられるようになったんだなぁ、、と今でもおどろきの気持ちと共に思い出します。

やがて、小さな白い歯が生えてきて、うれしかったことも。。


父や母は、それと逆の順番で、たべものの形が変わってきているんだと思うと、胸がいっぱいになります。



食べ物については、思うところはたくさんありますが、歯というものが生えている生物にとっては、“歯で食いちぎる”ということは、非常に基本的な大切な動作なのではないかと思います。

虫歯で歯が一本痛いだけでも、噛むのが面倒になり、そうすると、食べることも面倒になってしまいます。


ここから先は、妄想めいてきますけれど、、ブログの特殊性ということでご容赦いただきたいのですが、、


日本のミイラは、死んでからまわりの人が防腐処置をほどこして作るエジプト型のミイラではなくて、自力でなったミイラが何十体かあると聞きます。

その場合は、自分で、穴を掘り、その中に入り、食を断ち、座って読経をしたままの姿でミイラになるのが成功した形のようです。

失敗した形とは、座った形が崩れたり、土に押しつぶされてしまって、どこにいったかわからなくなってしまったりしたもののようです。

形を保つために、あらかじめ自分で、防腐剤である漆を少し飲むようです。

なかなか大したものではないかと思いますが、それほど奇をてらったものだとは私は思っていません。


年老いた人というものは、それだけで、なんとも言えない威厳に満ちているように、私は思います。

老人病院も、何箇所か行ったことがありますが、その静謐さは尋常ではなく、わたしには一種の聖地に感じられます。


親鸞は、遺言で、

「それがし 閉眼せば 賀茂川に入れて うほ(魚)に与ふべし」と言ったのでしたか。。

自分が食べることを終える、“いつかその時”のことを考えるのは、生き物としては当然のことであろうと思います。






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