日本人は、表立っての宗教批判はしない
(まぁ、陰では色々言っているが…)
それがイスラムであれ、キリストであれ、だ
ましてや、それがオウムのような人殺しの
カルト集団なら、悪口に対する報復が恐いし
もしかしたら祟られ、バチが当たるかもしれないと
思うと気持ち悪い。だから口をつぐむ
正に触らぬ神に祟りなし、だ
だが、“表立って”批判をしないのは
本当は、批判の判断基準を持たないからではないだろうか
なにせ日本では「イワシの頭も信心」という考えが
社会でまかり通っている。つまり「信じるのは
何でも同じ」という発想が、根強く日本人の
思想の底辺にこびり付いている風土で
イワシだけではなく「便所」の神様までいる
また、それが歌になってヒットなんかしている
(この便所の神様の話を、以前、欧米の
友人にしたことがある。と、彼の爆笑は止まらなかった
おそらく、「ビッチ(糞)」と「ゴット(神)」という
全く正反対のものが結びついたせいだろう)
だから、寺の奥に鎮座する祭壇に男根を
象った木彫りがあったとしても、多くの人は
疑わずに手を合わせ、ムニャムニャと祈るのだ
男根ではなく、大根だったとしても全く同じ行動をとるだろう
(なにせ、獣の“キツネ”さえ拝んでしまうのだから
大根なんて朝飯前だ。なんなら虫でもいいのだ)
それだけ、祈る対象に無頓着、無関心なのだ
拝む対象が「なんでもいい」思想は
心にこびり付き、誰もが疑おうともしない
それどころか「日本の文化」として
しみじみ有難がっていたりする者もいる
その故か、宗教(思想)の正邪・高低・浅深について
学者でさえも真正面から取り組まなかった
否、むしろ基準の設定を否定した
それをすると、それで食っている宗教屋から
死に物狂いの猛反発がくるからだ
「俺達の教えが原始宗教とは何事か!」
「あいつのとこより何故俺達のが低いのだ!」
「神様のバチが当たるぞ!」等など…
命が幾つあっても足りない程の迫害に見舞われる
そうして判断の基準を作らなかったから
本来ならば、多くの人が持つべき基準がない
だが、本当にそれでいいのだろうか
判断基準がないから、オウムのような邪教に染まったり
「実は教祖は釈迦の生まれかわり」等と言う典型的カルトや
「神世界」のような詐欺集団に騙されるのではないだろうか
さて、そもそも拝む・祈るという行為は
仏教においては「帰妙」するという意味だ
簡単に言うと「(拝む対象に)同化する」
「高い人格の偉大なブッダのようになろう」とする
そしてまた「(対象に)感謝」するという作業だ
その理屈から言うと、前述の例では
「糞と同化したい」「男根に感謝する」
「キツネになりたい」ということになる
拝んだら「ご利益」があると説くのは後づけの邪説だ
そんなものは、ブッダが説いた法のどこにも記録は無い
百歩譲って、仮にあったとしても
「イワシ」や「男根」や「キツネ」が
果たして本当に願いを叶えるか?
イワシは自分の“魚人生”を変えられるか?
芸をしないキツネが、何故に芸の神様なのか?
何の根拠も無い。理論も無い。文献も無い
ましてや実証もない。完全なる原始宗教のそれだ
話にならない
さて、ここまで書いて
次は日本の葬式屋的宗教事情を分析し
バッタバッタと論破したい気分だが
今回の目的はそれではない
今、世界を不幸の底に落としている
宗教の原理主義者のことだ
先月末、アフガニスタンでのこと
8歳の少女が、警察にカバンを
運んでいたところ、それが突然爆発して
少女が亡くなってしまった
実は、武装勢力タリバンが彼女に爆弾入りのカバンを渡し
警察まで持っていくように指示したものだった
途中で爆弾は暴発し、少女の命を奪ってしまった
アフガンでは1日平均、2人の子供が
戦闘の犠牲となっているという
その武装勢力のバックグラウンドにあるのが
イスラム教の中の過激派といわれる原理主義だ
またパキスタンでは、イスラム過激派組織が
8歳の少女を誘拐し、彼女に自爆ベストを着用させ
検問所に行くよう指示したという
たまたま、そのベストが大きく、彼女は
それを脱ぎ捨て逃げたので助かったが…
パキスタンでは、誘拐などして集めた
350~400人の子供を、訓練キャンプで
自爆の特訓を受けさせているという報道もあった
まさに狂気集団と言うしかない
彼らの信奉する宗教の目的は一体何なのだろう
覇権か? それとも平和か?
そして何を最も大切な事としているのだろう
宗教の戒律や権威か?
それとも信者の幸福か?
そして、彼らの信奉するものは
果たして宗教に値するのか?
米国の心理学者ミハイ・チクセントミハイ博士は
「宗教のより大切な役割は、人々の内なる力を
高揚させていくところにある」と述べている
また、「日常生活のなかでの信仰実践と
よりよい人間社会を建設していく努力を
続けていくことこそ、本来の宗教の使命である」と
英国の宗教社会学者ブライアン・ウィルソン博士は語っている
つまり宗教は、教団を権威付けるために
厳しい戒律を幾重にも作り、信者を奴隷
のように伏させ、時には「殉教」を強要
することではないのだ
宗教は信者の上に君臨する権威ではなく
信者の幸福のために存在するものなのだ
本来のイスラムで教える「聖戦(ジハード)」は
異教徒を無差別に殺すことではなく
自らが持つ強欲で邪な心との戦いを指すのだ
「自己との戦い。それがジハードです」とは
米国に住むイスラム教徒で、僕の友人の言葉だ
だから、子供を騙し、誘拐し、自爆を強要する
過激派は、完全に宗教から逸脱している
彼らは、決して許されざる単なるテロ集団だ
宗教は、後付で利用しているに過ぎない
キリスト原理主義も同じことが言える
過激派が絶対に襲ってこないだろう
米国の中心地で、マスコミを前にして
イスラムの聖典を焼き捨てた牧師などは
タリバンと同次元の卑劣で臆病なキツネだ
その彼のバックボーンは、神が7日間で
全ての生物やアダムとイブを創ったというのを
本気で信じ、恐竜と人間が同居していたと説く
この世は神と悪魔(=異教徒)の戦いの世界と説く
まさに荒唐無稽な教えだが、もっと悪いのは
宗教が上で信者はそれに従う子羊という考え方だ
全ては神が決めたことで、イスラムのジハードのように
「自分を変える努力をする」という思想も無い
実に低レベルな原始宗教だ
その信者には、ブッシュ元大統領を始め
米国を動かしている実力者が多くいる
だから、米国はいつも戦争を繰り返しているのだ
彼らの思想は完全に間違っている
これら原理主義者が、世の中を
おかしなものにしているのだ
…と、ここまで書くと
僕は両方の原理主義者から
命を狙われることになるので
この話はなかったことにしようと思う
タハハハ…
(ダメじゃん)