「へンくつ日記」

日常や社会全般の時事。
そして個人的思考のアレコレを
笑える話に…なるべく

「健全な精神は、健全な肉体に宿る」んじゃなかったの?

2013年06月23日 16時38分47秒 | Weblog
          柔道の創設者 嘉納 治五郎


「健全な精神は、健全な肉体に宿る」

誰が言い始めたのか、そんな言葉(の口車?)に乗って
子供たちは進んで(あるいは嫌々)スポーツに勤しんできた
その、スポーツに打ち込んできた元子供たちの代表格が
ここにきて、“不健全な精神”を露呈し始めている

少し前だと、スポーツでは最大のNGである
八百長に手を染めた力士たち
何度も金メダルに輝いた柔道界の星の強姦事件
そしてまた、同じ柔道界のセクハラ・パワハラ
更に理事たちの不正金銭問題…と、およそ健全
な世界とは正反対の事件が続出している

なんだい。あれかい? アレだけ健全な肉体を
作るために体を極限まで苛め、汗してきた子供
時代・青年時代は、無駄だったのかい?
それとも、健全な肉体を作るのに至らなかったのかい?

金メダルまで取る体力と技能をもってしても
「健全な肉体」を作れず、結果として「健全
な精神が宿らなかった」のなら、運動は健全
な精神を育てるのは無意味といわれても仕方が無い

汗臭い運動なんかせず、TVゲームに夢中に
なっていたほうが、断然クールだ、なんて
意見も否定できなくなる

(そもそも僕は格闘の世界の人をあまり信じていない
彼らの底辺には「ごっつぁん体質」があり、タニマチ
に依存するのが当たり前で、金と酒と女に汚い人を、
あまりにも多く見てきたからだ)


そんな世間の風潮に慌てて、各界は色々と規制
を作り始めるのが今までの例
「アレしちゃいけない。コレしちゃいけない」と…
しかし、その規制も世間に対する表向きの
「私たちやってます」姿勢を見せるだけの
ものだから、結局、「本気じゃないだろ」と
甘い奴らがカビ菌のように、いつの間にか
幅を利かせ、黒い汚れは染み広がっていく

だから、底の浅い格言もどきを掲げるのは止めにして
実質的な言葉をモットーとしていくべきなのだ

例えば「健全な精神は、健全な精神であろうとする心に宿る」とか
「健全な心こそが健全な社会を作る」などだ

こんなことを書いていたら、我が母校が創立された際に
男子寮も建てられた。その寮の「規律」を寮生たちが
色々と考え、数多い規律を創立者にお見せしたら
創立者が「多いね。一つにしたらどう?“紳士たれ”と…」
の逸話を思い出した 
そうなのだ。それこそが最も大切なモットーなのだ

「紳士たれ」
その言葉を、スポーツ界、政界、経済界、法曹界
その他、あらゆる社会のモットーにすべきなのだ
嘘臭く底の浅いモットーは、もういらない
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ヒーロー

2013年06月10日 09時14分05秒 | Weblog
 
ハリウッド映画に登場する“ヒーロー”は、市民に
悪の手が襲い掛かると突然現れ、その超人的なパワー
(大体が肉体的暴力や凄い破壊力のある武器)で悪人を倒し
屈服させ、時には殺してしまう。すると、映画の中の市民は
「正義が行われた」と、ヒーローに喝采を送り、それを観た
映画の観客はカタルシス(スキッとする心理的浄化作用)に酔う

(ま、そういう文化・思想があるので、主に欧米では
自分たちと仲が悪い国…。ハッキリ言えばキリスト教
否定国の指導者はたいていが“極悪人”で、その悪者を
武力でやっつけることに違和感は無く、むしろ「正しい
こと」と捉えるのだ。反対に、非キリスト教国では、キ
リスト教圏の人々、特に政治の指導者は極悪人で、彼ら
を殺すことは「正義」なのだ。しかし、僕からすれば
キリスト教もイスラム教も、ともに同じ一神教という
起源を共にするユダヤ系宗教。つまり同族、親戚関係と思うのだが…)


ともかく、ヒーローは「市民の命を救ったり」、
「弱い者を助ける」ことでヒーローたらしめている

さて…。今回、僕が問題にしたいのは、ハリウッド映画のような
またはユダヤ系宗教国全般に蔓延する“最終的には、暴力で物事
を解決することが当然”ということの是非ではなく、ヒーローに
「助けられる側」“その他大勢・エキストラ”の人たちのことだ

映画の中では、自分や家族が危機に陥ると「ヒーローが助けに来
てくれる」ことを、市民は“哀れな子羊”のように切望する。そ
して、ヒーローが現れると歓喜の涙を流し、危機を逃れたことに
感謝する。そして、これはあくまで映画の中だけだが、“二度と”
危機は訪れないから、観客も「良かった、よかった」と胸を撫で下ろすのだ

“哀れな子羊”は永遠に「守られる側」で、決してヒーローには
なれないし、なるつもりもない。“ヒーローに依存した人生”と
言っても過言ではないだろう

こういったヒーロー依存姿勢は、映画などの空想の世界だけではなく
現実の生活にも蔓延しているようだ。ハリウッド映画の影響か、それ
ともユダヤ系宗教や原始的な現世諦め宗教のせいか、病気、人間関係
経済問題、そして死などの人生の危機に際し、多くの“子羊”は、
「自分を助けてくれるヒーロー」の登場を信じている。「ヒーロー」
を「神」と書き換えてもいいかもしれない
“奇跡的に”、そんなヒーローが現れることもあるかもしれないが
大抵は、否、殆ど「現れない」。ヒーローが現れる確率は「隕石が
頭に当たって死ぬ」より低いのだ
(つまり、未だかつて無い…ということだ)

ヒーローが現れず、絶望と不幸に泣く“子羊”は、必然的に現実から
逃避し、死後の世界に希望を見出そうとする
(それこそ、不幸のスパイラルなのだが、そこに付けこむ詐欺師や
エセ宗教屋の、なんと多いことか… )

現実に生きる多くの人々の不幸の源は、実はここにあるのかもしれない



望まれてこの世に生まれ、健康や知性、そして容姿にも恵まれ
家庭環境や金銭的に不自由なく、人間同士の摩擦も全くなく
生涯、穏やかに笑って生きられたら、それに越したことは無い
だが、現実は正反対だ。過酷な障害物が幾つも立ちはだかっている
仮に、何不自由なく生きられたとしても、最期には必ず「死」が
待っている。その「死」さえ、穏やかに迎えられるだろうか?

「私は死を穏やかに迎えられる」と答えられるとしたら
その人は「多くの人々の幸せに尽くし、本当に素晴らし
く生きた」人か、もしくは「腹黒い大嘘つき」の人に違いない
実際「最高に充実した人生を歩んでいる者には、死さえ歓喜
なのだ」とは、西洋の哲人の言葉だ

ともかく、殆どの人にとって「死」は恐ろしく、避けたい不幸のはずだ
そんな“恐怖”が最期に待っている人生に対して、どんなヒーローが
必要だろう。永遠に死から守ってくれるヒーローか? 
果たして“死を逃してくれるヒーロー”がいるだろうか。そんな「道理
に合わない」ことが、現実にあるだろうか。現実にない荒唐無稽を切望
するのは、道理にかなった正しい生き方だろうか

結局、ヒーロー依存人生は、
「道理に合わない生き方故の不幸」な人生と言えないだろうか

もう一度言うが、現実に生きる多くの人々の不幸の源は
実はここにあるのかもしれない



さて…、居もしない(もしくは決して現れない)ヒーローの出現を
期待して生きるより、確実に不幸にならない方法がある。それは
自らが“ヒーロー”になることだ。もしくは、ヒーロー側の人間になることだ

この“ヒーロー”を、“神”or“仏”=“偉大な人”に変えてもいい
こう書くと「神になる?」「自分が仏だ?」「自分は偉大な人間だ?」
と捉え「胡散臭い紛い物」と感じる人も多いと思うが、僕が言うそれは
「私は釈迦(またはキリスト)の生まれ変わりだ」などとほざくペテン師
とは全く違う
“仏”や“神”の定義が違うのだ。僕の言う“神や仏”は、
逆に“ヒーロー”に置き換えられる


ユダヤ系宗教の信奉者には申し訳ないが、“偉大なる神”が
いるのか居ないのかは不明だ。なにせ、今まで「私がそうです」
とは名乗り出た者はいないからだ
(詐欺師や心の病の人で、そう言う人はたまに居るが…)
だが、キリストやマホメットや釈迦は実在した。彼らは不幸な
人々のために、説法を通して救っていこうとした。だが、彼ら
は敵対する勢力からの妨害にあう。釈迦でさえ数々の迫害に遭い
命まで狙われた。キリストなどは布教を快く思わない既成宗教集団に
十字架に磔にされ殺害されてもいる。それでも彼ら(弟子たちも含め)
は説を曲げず、民を救う言論戦を止めなかった
後に彼らは“神”と崇められ“仏”と賞賛された。人々の為に身を
犠牲にして戦う、真の“ヒーロー”だ

そんなヒーローになれば、または彼らに賛同し、心と行動を一にすれば
俗に言う「不幸」とは無縁の人生を送れるはずだ。なにせ、人々の不幸
を取り除く為に戦う人生だからだ。そんな大きな使命の下では、自分の
悩み・不幸など小さなものだ

「別格な人たちを持ち出しても、現実的ではない」
そう思う人も多いかもしれない。しかし、だ。過去に生きたキリストや
釈迦は、“宙に浮いた”天女のような格好で説法をしていたか?

答えは、否だ

喉の渇きや空腹に苦しみながらも、説法のために歩きに歩いたのだ
足は血豆だらけだったろうし、服は破け、太陽に焼かれ赤銅色だった
に違いない。ある時は食中毒に苦しみ、全身は蚊に刺され、迫害にも
遭遇した。言ってみればボロボロの庶民そのものだ
それでも彼らは行動を止めなかった。気高い誇りと使命感に溢れ
弱音など決して吐かなかった
激しい風雨や極寒、飢饉や疫病、敵対者からの迫害や弟子の死
裏切り…様々なことに遭遇しながらも行動を、“生きる”ことを止めなかった
だから、彼らは「宗派」を越えて、神として仏として尊敬されるのだ

庶民には…崇高な心根と行動の人が数多く居る。自らの課題を
乗り越えようと奮闘し、その間の凄まじい人生の嵐にもへこた
れず乗り越え、その経験を人のために活かし、人を励ます生き
方は、キリストや釈迦からも尊敬を受けるに違いない。スケール
の違いこそあれ、その心根と行動が彼らと同じであるならば
格も同格のはずだ。つまり「神」であり「仏」なのだ
真のヒーローなのだ

昔、某有名作家が「アメニモ負ケズ…」と書いたが
過酷な人生の嵐に負けず、どんな険しい山もグッと
奥歯を噛み締めて登り、苦悩する友のために汗する
常に人格の高みを目指し、どんな苦難も“自分”で
勝ち超えていく。そんな人がヒーローであり、他人
依存という甘えの無いヒーローにとって、不幸に泣く
人生とは無縁に違いないのだ

さて、ここまで読んで しんどい生き方だが
自らヒーローの人生を目指すか
それでも助けられる側にいるか
選ぶのは自分自身だ
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猪木の次ぎは“フナッシー”&“くまもん”か!?

2013年06月04日 17時04分56秒 | Weblog
 
アントニオ猪木が 再び 参院選に立候補するんだと
参院1期の任期中に脱税問題なんかもあったりして
公職に就くのは大いに疑問と思われ
95年の再選では落選
その後は、「ダーッのおじさん」として
マスコミに重宝されていたんだけど
何を勘違いしてか、また出るんだと

それも…維新から
会見には石原慎太郎も出るんだと
でも“フナッシー”と“くまもん”は出ないんだと

もう、さ
あの、さ
いっそのこと
AKB48のメンバーの
何人かに出て貰ったら?
もしくは、全国のゆるキャラに…
そしたら圧勝かもよ
なにせ「渡る世間はバカばかり」だもの…

ね、橋下さん (^^)



さてと、そんなことに関係なく
僕は現実と戦い、勝っていくのだ
着々と、実証を示していくのだ

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