「へンくつ日記」

日常や社会全般の時事。
そして個人的思考のアレコレを
笑える話に…なるべく

13世紀 蒙古にまで渡り布教した修道士たち

2017年02月26日 13時41分50秒 | Weblog
マルコ・ポーロが商売のためモンゴルを訪れる 
その、ずっと以前に ローマ司教や
フランス王の命を受け
イタリヤから蒙古(欧米では地獄の住人・
タルタル人と呼ばれていた)に
布教のため訪れた修道士たちがいた
13世紀の話
教義の高低浅深は別にして
その命がけの布教活動こそが
キリスト教を世界宗教にした
大いなる原動力だったのだ

彼らの「報告書」は、実に面白い
いい本に出会った



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皇帝フリードリッヒⅡ世の生涯 読了

2017年02月24日 16時43分09秒 | Weblog
実に壮大なドラマを見るような人生だ
欧州では「世界の驚異」と言うだけで
「彼」のことと判るのだという
キリスト教の暗部も垣間見え
実に面白い本だった



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お前ら、よく聞け 我々は核備蓄を増強する!

2017年02月24日 11時59分06秒 | Weblog
「自らの信念を持つ人間は、
それに反することは死んでもやれない
それでもやれば〝恥〟になるからだ
反対に、一貫した考えを持たないで
生きてきた人間は、〝恥〟を感ずる
必要もないから、なんであろうとやれる」
(塩野七生)


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佐渡へ行ってきた

2017年02月22日 14時30分11秒 | Weblog
佐渡では最も寒いと言われている2月
風が強く、本当に寒かった
宿は鉄筋造りのホテルなのだが
夜中にビュービュー風が啼いているのが聞こえた
翌朝、窓を見ると白い荒涼とした風景が広がっていた




頑丈な現代建築の部屋の中でも寒いのに
中世の藁葺き屋根の、それも隙間のある
薄い板壁の家なら、どんなに寒かったろうか…


しみじみと中世を偲ぶ





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コンスタンティヌスの寄進状

2017年02月18日 15時01分30秒 | Weblog

ローマ帝国を再統一したことで知られる
名君・コンスタンティヌス大帝(在位:306年~ 337年)は、
国として初めてキリスト教を認めたことでも知られる。
当時、各地にいた司教は対等の立場だったが、
大帝が「ローマの司教は彼らの上に立つべき」と言ったことで、
ローマの司教は「ローマ教皇」と呼ばれることになったのだ。
それ以後、ローマの司教は千年以上にわたり最高指導者として
信者の尊敬を集めることになる。 つまり、政治の最高権力者が
宗教の権威づけを始めたのだ。
逆に言うと、政治家の思惑に宗教界が従ったということでもある。

 さて、そのコンスタンティヌス大帝が、帝国を再統一した直後に、
ローマの司教(ローマ教皇)に「帝国の西半分を譲る」と宣言し、
「寄進状」を書いて与えた。それから間もなく大帝は病死する。
まだ活気あふれる壮年だったのだが…。
 一方、ローマ司教は「寄進状」を根拠に、11世紀頃から
イギリスやフランス、そしてドイツ、イタリヤの領主から
税金を取り立て始める。更に市民から収入の「10分の1」を
税として取り立てた。
それが数百年も続く。ずいぶんと豪華に暮らせたことだろうし、
権力も増大した。それを、各領主は快くは思っていなかったようだ。
13世紀、神聖ローマ皇帝フリードリッヒⅡ世の法王への敵対を
応援する各地の王の存在などを見ても、それが判る。
皆、しぶしぶ税を払っていたのだ。
 税金を取り立て始めた11世紀の当時から「寄進状」の真贋は
噂されていたが確証はない。
それを詮索するのは、宗教上のタブーとまで思っていたようだ。

 だが、1440年。ナポリの王宮に使えていた若き学者が
「寄進状」の言語を探究し始める。
そして遂に〝判った〟のだ。「寄進状」に使われていた言語は、
11世紀頃に使われていたラテン語だということが。
つまり、コンスタンティヌス大帝が書いたものではない、
真っ赤な偽物だったのだ。
 その偽物を根拠に、ローマ教皇は金と尊敬を集めていた。
偽物と判明した直後から、
人々は宗教の奴隷から、そして重税から解放された。
(今も奴隷みたいな人は結構いるが…)

 「寄進状」が本物とまだ信じられていた13世紀に、
前述のフリードリッヒⅡ世はローマ教皇に対して「モーゼや
キリストをはじめとする預言者なるものは、大ペテン師。
それを盾に偉そうにしている教皇はアホだ。それに、
マリアは処女で懐妊したというが、道理から外れている。
信じられる訳がない」と言い放ったとか…。
結局、皇帝はキリスト教を破門になるが(それも3度も)、
とてつもなく度胸がある人だったようだ。
今の時代でもなかなか言えないことを…。(王様の耳はロバの耳!)

 因みに、十数年前にローマ教皇が、イスラムを殺しまくった
十字軍や、偽の「寄進状」や、その他諸々のことを
「ゴメンね~。悪かったよぉ~」と謝っている。

 ともかく、「当たり前」に疑問を持つことは大事だ。
特に、根拠のないことの上に立つ宗教には要注意だ。
 人間の祖先は一組の男女じゃない。海は真っ二つには割れない。
ノアの箱船の事実はない
拝んだら、死んだら極楽に行けるなんてことは嘘(どうやって証明する?)。
だから壺を買え、金を出せは詐欺。「私はキリストの生まれ変わり」なんて奴は、
精神がイカレてるか詐欺師。霊魂はない。守護霊も水子もない。
この世は神が創ったのではなく、あのビルも、あの工場も、あの飛行機も、
あの車も、全て〝人間〟が造ったのだ。
だから人間は、想像上の神にかしずくのではなく、人間を尊敬し人間を大事にする
思想を持つべきなのだ。宗教が上、信者が下という宗教は、全て邪教だ!

 …と、近所のオジサンが言っていた。
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暗雲

2017年02月16日 16時02分14秒 | Weblog

嫌な、そして恐ろしい報道が続く
「今年はヤバイことが起きそうだ」
とは、友人たちの一致した予感

何事もなければいいが…
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出家

2017年02月12日 15時48分59秒 | Weblog

 最近、若い人に人気のある女優が〝職業〟である役者を辞めて「出家」、
つまり宗教活動に入るという報道が流れた。
 そもそも「出家」とは仏教用語で、「普通の家庭生活を捨て、世俗を離れ、
戒律を保ち、修行一筋に専念する」ことを言うらしい。「普通の生活」とは、
仕事をしたり趣味を持ったり、恋愛し結婚し、子供を設けて育児し、
友人や近隣と交流し、社会のために役立つ何か(例えば近所の掃除をしたり、
消防団に参加したり、町内会の世話をしたり、被災地でボランティアをしたり、
友人の悩みを聞いたり)をしたり、税金を納め、選挙で政治に参加し、
自身の向上の為に勉強を重ねたり、そして信仰を持ち清い人生を目指す
(特に欧米や中近東、南アジアでは)ことを言うのだが、そういう「普通の生活」と違う
「出家生活」とは、どういうものなのだろう。
 なるほど、「普通の生活」には、宗教界が定める「戒律」はない。しかし、
人に迷惑をかけてはいけないとか、嘘をついてはいけないとか、法律以前の
いわゆる〝戒律〟は普通の生活にも多くあり、普通の人々は当たり前のように
それを守って生きている。つまり、在家なりの〝戒〟を持っているのだ。
 戒律という視点から、特に日本の仏教界を見ると、殆どの坊さんは破戒僧だ。
なぜなら多くが妻帯している。つまり性行為をしているのだ。
 仏教には僧侶が当然保たなければならない十の戒があり、殺すな、盗むな、
性行為をするな、嘘を言うな、酒を飲むな、おしゃれをするな、娯楽を楽しむな、
フカフカの布団で寝るな、昼から翌朝まで食べるな、財産を作るな、というものがある。
高い位の僧侶には、更に百戒、五百戒というのがあるが(ユダヤ教並だ)、
それを守っている坊さんがいれば見てみたいものだ。そんな戒を保つ僧侶には、
他人にあげないことを条件に私の全財産をあげてもいい。(最も、それを受け取った時点で破戒だが…)
 
 さて、世俗を離れ出家し〝修行〟するというが、厳しい世俗を離れて、
どんな修行ができるというのか。世俗こそが「現実」であり、その厳しい現実の中で
戦い生きていくことのほうが、遙かに人間として成長でき〝修行〟になると思うがどうだろう。
実際、今まで私が関わった〝修行を重ねたという出家者〟は、強欲で酒好き、嘘くさて女好き、
煩悩の塊のような輩ばかりだった。その彼らがやってきた〝修行〟とは、オウムのような
カルト教のそれと変わらないものだ。暗くて狭い穴の中で何ヶ月も過ごしたからといって何になろう。
地球を何周分も山を歩いたからといって何になろう。彼らの最も尊敬する本尊たる釈尊は、
死ぬギリギリまでの断食の末「何の役にも立たないこと」と言って止めたではないか。
絶食や体力の限界に挑戦することで仏に近づけるなら。一流のアスリートは、皆「菩薩」だ。
最も菩薩は、婦女暴行をしたり、闇の賭け事をしたり、蓄財に執着はしないはずだが…。
 
 釈尊は自らが仏として自覚した時から、現実社会の中で暮らす人々の苦悩と
真っ正面から対峙し、同苦し、「正しい人として生きる」ことを説き、
「市井の人々を尊敬し生きる」ことを説き、「あなたたちこそ尊極の人」なのだと説いた。
その中で多くの人が蘇生していった。その「振る舞い」こそが〝仏の姿そのもの〟なのだ。
逆説的に言うと、人々の幸せの為に厳しい現実社会と格闘していく中で、やがて心の中に
釈尊と同じ〝仏〟を見いだすことが出来る。これが修行であると釈尊は言っているのだ。
釈尊の説く〝仏〟とは、知性の人であり理性の人であり慈悲の人だ。そして何より現実と戦う人だ。
その「目標」を間違えれば、どんなことも無意味だ。

僧は俗より出て俗よりも俗なり

 「出家」した全ての人の十年後、二十年後、そして最期を見てみたい。
果たして、「目標」を達成しているのかを…。
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ガイウス・ユリウス・カエサル曰く

2017年02月11日 14時35分56秒 | Weblog
人間は誰でも 
現実の全てが見えている訳ではない
多くの人は 見たいと欲している現実しか
見ていないのである…




トランプさん
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